災害は抜けた為政者の下にやってくる3

日本のことを外国の方に聞くと、大抵このような答えが返ってくる。 


曰く、日本は非常によくオーガナイズされた国である。


これをわたしなりに翻訳するなら、電車は時刻ぴったりに到着するし、ゴミはペットボトル、缶、紙、プラスチックと実によく分類して処理されている。街は清潔でゴミ一つ落ちていない。まぁ、だいたいこういう風なことを言っているのであろう。

 

上は、言うなれば治の状態のときのことである。そして、治は民衆の、わたしたち日本人大衆のいわゆる民度というものの高さを示す物差しである。治は偏に大衆一人一人の意識の高さによって維持されているのである。


ところが、時刻ぴったりに到着する電車も台風によって、あるいは大雪によって大いに乱れる。これは天災だから仕方のない面も確かにある。しかし、このような天災を事前に予想したり防止したり、復旧を速やかに行ったりするシステムを構築したり運用するのは大衆ではない。これは行政の仕事である。
よくオーガナイズされたわが国であるが、ひとたび災害が起きたときに、この行政の仕事がうまくいっていなくて、わたしたちがひどい目に遭わされたことがこれまでにいったいどのくらいあったであろう。
わたしは戦後生まれだが、その最たる例が先の大戦であろう。これは、そのときの日本人大衆が醸し出す空気によるものであったという者もいるが、それにしても政治の大きな過ちによるものであったことは疑いえない。この過ちのせいで一億の国民全員が大きな苦しみを味合わされた。多くの軍人が飢えて死に、無辜の民が焼夷弾に焼かれ、原爆に曝され死んでいった。あれから75年も経とうというのにその傷跡、後遺症は未だに癒されてはいない。

昨年、千葉は二度も大きな台風に襲われた。その台風による大被害が生じている最中に自宅のことが気になって公用車で帰宅していた(と言われる)千葉県知事のことをさんざん悪様に記したが、この知事のこの度の武漢を発祥の地とするコロナウィルス肺炎の対応、パフォーマンスを見ていると、改めてああやはりこのお方はまともな政治のできる素質をもったお人ではない、という思いを強くする。
何かトヨタの新型車のような名前のついたウィルスによる肺炎に付いて言えば、わたしが買っていた、のか単なる買い被りだったのか安倍総理の情けなさも浮き彫りになってきた。
先に習近平、そしてオリンピックが控えているということがあるからであろうが、もっと迅速に中国との人的交流を遮断し、今回の疾病に対する指定を行うべきであった。そして何よりもNSCを開くべきだった。
いったい、総理にはちゃんとした情報は上がっていたのだろうか。ちゃんとした情報を上げるべき組織の機能はきちんと果たされていたのであろうか。


希望的観測で言えば、恐らく今回のこの病気はバイオテロによるものではない。兵器として使用されたものでもない。
しかしである。もしもこれがテロであったとしたら。あるいは、戦争を目的として始まったものだとしたら、わが国政府は迅速に、いや電光石火の速さでしかるべき対策を打てたであろうか、対策とは、たとえば中国が行ったような都市の閉鎖である。交通機関の停止、学校の休止、アミューズメントパークやコンサート等の営業禁止措置である。
今回の安倍総理の、いやわが国政府の余りにのろい対応を見ていると、とてもじゃないがこのような事態には対処できないであろうと思うのである。
これは、為政者のせいというよりは、わが国の国家安全保障システムの欠陥、あるいは欠如によるものと考えるべきであろうとは思う。


わが国が、国家存亡の危機に全身全霊を傾けて死に物狂いで対応した例は一度、いや二度だけある。それは、いわゆる元寇のときであった。このときに日本を救ったのは決して神風ではなかった。確かな情報があり、備えがあり、そして国を守るという気概が武士たちにあったからである。

自力と他力

2018/01/29 20:19


考えてみよう。ビルゲイツのような、あるいはジェフベゾスのような、超超兆万長者になるのは自力によるものだったのであろうか?
逆に、どこかの駅の通路にダンボールでねぐらを拵えているホームレスになるのもまた自力(とは言わないであろうが・・・)によるものだったのであろうか?

わたしは、負け惜しみを言うわけではないが、自分が「何者かになる」のは自力ではありえないと考える。何者か、というのは超金持ちでも良いし超有名人でも、ホームレスでも同じことである。

仏教の思想を深く知るわけではないが、この世に自力などというものはありえない、はずである。すべてはただの現象でしかなく、現象はただ万物が互いに干渉しあうことによって生じる。

つまり、すべては運命であり、わたしたちは肉体と運命をもらって生まれてきたのである。肉体と運命を授けてくれたのは両親と言っているのではない。なぜなら、その両親にもまた両親はいるからである。

両親の両親、そのまた両親と延々と辿れば、いずれはサルになり、さらにはバクテリアにさえ行き着くであろう。

そうすると、わたしを産んだのは結局はこの宇宙そのものということになるはずである。宇宙は、その開闢のときから「わたし」を孕んでいたのである。

ニーチェのいう「運命愛」とは、実にこのような、わたしたちの自力ではどうしようのない運命を愛おしめということなのではないだろうか。

ニーチェがお釈迦様の天上天下唯我独尊という言葉を知っていたかどうかは知らない。しかし、わたしには、彼がその真の意味を理解していたことは間違いないと思われる。

 

シュレ猫と釈迦の掌

2018/01/26 10:52


既に書いたことだが、時間、あるいは運命というものの不思議についてである。

10光年先からSOSが地球に届いたとする。届いた時点でそれは10年前の情報である。つまりすでに手遅れで、地球人は10光年も先もの宇宙人を助けることはできない。

そこで思うのは、この10光年を大きく縮尺して紙に書いてみればどうだろう。10光年を10センチメートルにする。もちろん星の大きさは数学的な点に等しくなってしまうであろう。いや、もっと小さくしてしまっても良い。どうせ思考実験に過ぎないのだから・・・。たとえば1mm、あるいは1μmとしよう。

わたしは何を実験しようとしているのか? こういうことである。つまり、10光年先のことは、わたしたちは、すでに起きている、と考える。わたしたちの頭はそのような考え方をするようにできているからである。
しかし、である。わたしたちはまた、10光年離れた星で今起きていることが知り得ない、ということもまた理解している。
これは時空の仕組みであるから仕方がない、と。

それでは、これをミクロの世界の話にしてみればどうだろう。上で10光年を1μmに縮尺してみるのだ。
もちろん、時間の単位は変わってくるが、たとえ距離が1μmであろうと、「こと」はすでに起こってしまっているのである。にもかかわらず、わたしたちにはすでに起きてしまっていることが分からない、ということではないのだろうか。

わたしはこれをシュレディンガーの猫の話と同じことだと考える。つまり、ラジウムからアルファ線が出るか、出ないかはすでに決定してしまっている、のであるが、わたしたちにはそれを知る術がない、ということである。

わたしがよく喩に使う円周率のPiと同じことである。延々と無限に続く数字は、「最初から最後?」まで決まってしまっているはずである。しかし、わたしたちにはたった今分かったその数字の一つ先は、やはり知る術がないのである。

 

西部邁さんを悼む

2018/01/21 18:28


思想家の西部邁さんが亡くなった。入水されたのだという。

何年か前に愛する奥様を亡くされている。そのことを本にもされた。ご自身もがんに侵されていたという。

それにしても、改めて思われるのは、人間というものの「か弱さ」である。あれほど強固なる思想、哲学を持った人であっても、やはり孤独には耐えられなかった、のであろう。

ニーチェは運命愛を説いた。西部邁さんも、結局は自らの運命を愛すべく自死を選んだのであろう。ご冥福を祈りたい。

 

運命愛

2018/01/21 18:21


運命愛というのは、これはよく分かる。

なにしろ、人は肉体と運命を貰って生まれてきたのだ。
自分の肉体を愛するのと同じように、当然に自分の運命を愛するより他にはない。
自らの運命を愛する。しかし、これほど恐ろしい言葉もない、であろう。なぜなら、この言葉の底には永劫回帰の思想が流れているからである。

 

奔訳 白牙 50

2017/12/17 19:34


そして、グレイビーバーがキッチェを自由にする日がやってきた。彼は、彼女がもう逃げ出すことはあるまい、と決断を下したのである。白牙は母親が解放されるのを見ると嬉しくてしようがなかった。彼は浮き浮きした気分で母と共にキャンプの中を歩き回った。彼が母親と共にいるうちはリップリップもしかるべき距離を置いた。白牙の方は敵意むき出しで彼に近寄ったが、リップリップの方は知らん顔をしていた。彼も馬鹿ではなかったから、必ずいつか仕返しをしてやるつもりで彼がひとりになるのを待っていたのである。

それからしばらくしたある日、キッチェと白牙は森の端までふらふらと迷い込んだ。彼が母親をリードしてそこまで行ったのだが、彼女がふとそこで突然立ち止まってしまったのを見ると、彼はさらに遠くまで彼女を誘い込もうとした。あの川の流れ、あの古巣、静かな森が彼を呼んでおり、彼はそこに彼女を連れて行きたかったのだ。彼は何歩か飛び跳ねてみせ、すぐにまた止まっては後ろを振り向いた。
彼女は動こうとしなかった。彼は請うような低いなき声を上げ、遊びに誘うように藪の中に駆けこんだかと思うとそこからすぐにまた飛び出して来たりした。彼は彼女の元に駆け寄るとその顔を舐め、そしてまた走り出した。しかし彼女は微動だにしない。彼は立ち止まって彼女をじっと見ていたが、彼女が項を翻しじっとキャンプの方を見詰めるのを認めると、躍起さや切望という彼の中にあって行動にも露わになっていた気持ちがだんだんと萎えていくのが分かった。

森の中の開けたところで、何かが彼を呼んでいた。彼の母親も確かにそれを聞いていた。しかし彼女にはそれとは別のもっと大きな声も聞こえていたのである。、それは火の、そして人間の呼ぶ声であり、数ある獣の中でも狼だけが、いや狼と野生の犬だけが、兄弟同士である彼らだけに聞こえる呼び声だったのである。

キッチェは踵を返すとゆっくりとキャンプに向かって走り始めた。棒切れという物理的な束縛よりも強い絆が彼女とキャンプとの間にはあった。目には見えないオカルトのような力を人間の神は握っていて、決して彼女を離しはしないのだ。白牙は樺の木陰に座り込むと微かな悲しげな声を上げた。

 

 

奔訳 白牙49

2017/12/03 21:31

彼は自らを養っていかねばならず、その点において実にうまくやってのけたが、それはインディアンの女たちにとっては疫病神であることを意味した。彼はこっそりとキャンプに忍び込むと巧みに、今どこで何が起きているかを眼と耳で敏感に察知し、その情報によって論理的に執拗な迫害者を避ける方法を考えた。

ある早朝のこと、彼はそうして初めて迫害者に大きな復讐を遂げることに成功したのである。キッチェが狼の群れと一緒だったとき、彼女は男たち二人のキャンプから犬たちをうまく誘いだし餌食にしてしまったことがあったが、白牙のやり方もそれに少し似ていて、リップリップをキッチェの復讐の牙の元にうまく誘い出したのである。
リップリップが自分を追いかけてくるように白牙は多くのティピーの間を走り回ったりティピーを入ったり抜けたりした。彼は走りに長けており同じサイズのどの仔犬たちよりも、そしてリップリップよりも速かった。しかし彼は、全速では逃げなかった。追手がもう一跳びで追いつけるというスピードを維持しているのだった。
リップリップは、自分のイジメ相手にもう一跳びで襲い掛かれるという状況に興奮してしまって、注意力と場所の感覚を忘れてしまっていた。そして彼がはっと自分の居場所に気付いたときにはすでに遅かりしであった。
あるティピーを全速力で回り込んだ後、彼は思い切りブレーキをかけたが、そこには棒切れにつながれたキッチェがいた。彼は驚愕のあまり一つ鳴き声を漏らしたが、それが合図であったかのように彼女が懲らしめの顎を強く閉じた。彼女は棒切れによって繋がれていたが、そう簡単には逃がしてもらえなかった。彼女は彼を横倒しにしてしまったので、彼の脚は地に着かず、その間彼女の鋭い牙に何度も何度も苛まれた。

最後には何とか転がるようにして彼女から逃げおおせることができたが、彼は身も心も傷ついてしまって、みっともなくも泳ぐようにして歩かざるを得なかった。彼女に噛みつかれ傷ついたあちこちの体毛が藪のように立っている。彼はようやく立ち上がると、そこで口を開けて長い悲しみの籠った仔犬らしい泣き声を上げた。しかし、このような状況においても彼は完全には許してもらえなかった。
そんな中、白牙は彼に襲い掛かると後足に牙を沈めた。もはやリップリップに闘う気力はなく彼は恥ずかしげもなく逃げ出したが、かつての被害者は後をしつこく追いかけてきて彼が自分のティピーに逃げ込むまで追い打ちをかけたのである。飼い主の女が彼を助けようと出てきたときには、白牙はまさに怒れる悪魔と化していたのだが、流石に次々と飛んでくる石礫には堪らずとうとう追い払われてしまったのであった。