Oよ!日本は立憲君主国なるぞ

2010/01/03 09:56


苟も天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ。(伊藤博文

本日付産経新聞、「次代への名言」の言葉である。

途中を割愛するが、「発言に軽さがうかがえる現政権とは対照的に、伊藤の皇室への畏敬は深い。
こんな逸話もある。あるとき、伊藤は宮廷に首相辞任を上申した。
静かに聴いていた明治帝だったが、開口一番、
『待て。卿(伊藤のこと)は辞職で事済み、気も楽になるであろう。朕には辞職ということなきぞ』 
多弁で知られた伊藤だったが、ことばを失い、大汗をかいて平伏したまましばらく動けなかったという」

日本は立憲君主国である。このことは戦前も戦後も変わらない。しかるにこのことを弁えぬ愚か者が民主党の最高実力者として君臨している。上の伊藤博文の姿とこの愚か者(名も力もない民草からもこう罵られるほどの)の態度とを比べて、はたして日本国民はどちらに共感と尊敬を覚えるであろうか。

日本は現行憲法によって、衆愚政治へと突き進み、とうとう袋小路へと迷い込んだ。それが今の民主党政権の姿である。

憲法は、民主主義を謳い、国民に等しく国政に参加する権利を与えた。何にしろ、税金や徴兵などではない、権利というものを与えられて、これを非難する国民は稀有であろう。
しかし、わたしたち国民は自惚れてはいけない。わたしたちは一体どれほど国政や経済や福祉や防衛について知っているであろうか。はっきり言ってしまえば、わたしたちは選良などではない愚かな大衆の一人にすぎない。

チャーチルは、共産主義よりはずっとましだが、民主主義にしても次善策に過ぎないことをよく知っていた。愚かな民が多数決で物事を決めるなどということは、一つ間違えれば国家の命運を危うくすることになりかねない。
実際、昨年行われた選挙の結果がまさにこれだったとのだと後世に語り継がれかねない状況にいまこの国はある。しかし、このことにさえまだ気付かぬ者が大多数を占めているのだ。

わたしは、大権を君主におくことがベストな政治体制であると主張しているわけではない。天皇陛下に上奏する臣に不明な者がいると、やはり国家の行く末を危うくしてしまうことは民主主義となんら変わりはない。
要は、国民が真に聡明になり、代表者を目利きしなければいけないということである。そういう意味では、民主党政権は、国民をばかにする政権である。国民を侮蔑するのみならず、日教組の力を借り日本国民を総白痴化することにより政権を維持しようと企む政権なのである。

わたしは、「関東大震災」について日記に書いたが、同じ作家でも、あの震災を芥川龍之介のようにテロと捉えるか菊池寛のように流言飛語と捉えるか、くっきりと二者に分かれることを知った。
芥川は、時代というものに対する鋭敏な眼を持っていた。一方菊池寛は、三猿を決め込んだのか、それとも本当に鈍感だったのか、あれがテロとは信じなかった。
芥川や井伏鱒二などが自ら自警団にも加わる一方で、民本主義の学者である吉野作蔵は、あれを流言飛語に動揺した日本人による朝鮮人の大虐殺であったと公言した。
しかし、真実は、皇太子(昭和天皇)の婚礼に照準を合わせ、周到に準備していた暗殺計画が誰も予期せぬあの大地震発生を好機として前倒しされたものだったのである。共産主義者に扇動された不逞朝鮮人たちによる一大テロ事件であり、これにより多くの無辜の日本人が大虐殺されたのである。

しかし、あの大参事のときに政治がとった判断は、流言飛語(実は真相報道)の禁止であり、自警団の解散であった。まだお若く、摂政となったばかりであった皇太子の御身を護持するために五島新平をはじめとする東郷内閣が取った苦衷の策であったには違いないが、これもまたこの国に大いなる後顧の憂いを残してしまったことは否めまい。

蛇足を承知で言えば、伊藤博文もまた安重根という男の、まったく勘違いとしか言いようがない(伊藤は日韓併合に慎重であった)動機から暗殺されてしまった。伊藤が死ななかったなら、あるいはあのようなテロ事件もおきず、日韓の姿もまた大きく違ったであろうと思われるが、歴史はいくら嘆いても元には戻らない。