大難戦を担い得る者

2010/01/06 16:08
 
本日(1月6日)付産経新聞の「元気のでる歴史人物講座」から

 両国の命運を決した日露戦争の真の決勝戦は旅順攻囲戦であった。ロシアは旅順に難攻不落の要塞を構え4万8千の兵力と600門以上の火砲を備えていた。だが参謀本部は敵戦力を1万5千、200門と誤断した。
 乃木希典大将の率いる第3軍の兵力は5万(後に6万4千)、火砲三百数十門である。要塞攻撃においては攻者は守者の最低3倍の兵力を要する。第3軍の戦力は全く話にならず、惨敗以外にあり得ぬ寡少な戦力であった。それゆえ第1回、第2回総攻撃は敗北した。
 ところが実情を知らぬ国民は乃木の統率が拙劣だとして2400通もの非難の手紙を乃木の手元に送った。山県有朋参謀総長もついに乃木更迭を決意したが、明治天皇は「乃木を代えたら乃木は生きておらぬぞ」と却下された。
 天皇は陸軍将帥中、誰よりも乃木を深く認められていた。乃木がかくも苦戦する以上、ほかの誰がやっても難しい。この大難戦を担い得る者は乃木しかいないと思われた。乃木は天皇の御信任に感泣感奮、子息を戦死させる激しい戦いのすえ、ついに旅順を落とした。それは千番に一番ともいうべき奇跡の勝利であった。
 絶対に落ちぬと信じた旅順の陥落が敵総帥クロトパキンの心を強く打ち、彼は乃木を鬼神、悪魔のごとく恐れた。それが最後の戦い奉天会戦の勝利を導く要因となった。乃木希典こそ日露陸戦最大の貢献者であり、東郷平八郎とともに救国の国民的英雄であった。乃木愚将論は歴史の真実を歪曲する暴論である」(日本政策研究センター 主任研究員 岡田幹彦)

 乃木将軍は、明治大帝大喪の日、礼砲を合図に夫人とともに殉死を遂げた。わたしは誰が何と言おうと、上の岡田氏の言われるとおり英雄中の英雄であると思う。

  爾霊山嶮豈難攀
  男子功名期克艱
  鐵血覆山山形改
  萬人斉仰爾霊山

1月8日追記

爾霊山とは、乃木大将の創作になる203高地の当て字である。この漢詩は203高地における壮絶な戦いを詠ったものである。乃木大将は、この戦いで二人の子息を戦死させている。その心痛のほどやいかほどであったかと、落涙を禁じえない。
乃木大将を愚将と呼んだのは司馬遼太郎が初めてということではなかろうが、坂の上の雲の評判とともに乃木愚将説が広まったことは間違いない。しかし、その司馬でさえこの詩を非常に高く評価している。 

爾霊山いかに険しかろうとも攀じ登られぬはずがない
男たるものの功名心がついにその艱難に打克つに違いない
銃弾の鉄と兵の血が山を覆い形を変えてしまうほどであれば
万人皆一様に汝の霊廟として爾霊山を仰ぎ見るであろう


http://d.hatena.ne.jp/maroon_lance/20090815/1250299587
2014.1.8 これを貼る