指揮官たちの特攻2

2010/02/09 18:21

一人息子の関大尉を特攻で失ってからというもの、サカエさんはまるで魂の抜け殻のようになってしまったという。それに追い討ちをかけるように、一時はやれ軍神だの軍神の母だのと持ち上げた世間も、敗戦以降は掌を返し、サカエさんは文字通り石もて追われる目に遭っている。そのために大家から「即刻立ち退き」を告げられ、とうとう3年近く他人の家の物置部屋にかくまってもらうことになった。

その後、縁者を介して、彼女は小さな谷間の、城山氏によれば余りに空の狭い、中学校も併設した小学校の小使いの職を得ることになった。しかし、それもわずか5年ほどのことである。サカエさんは、高血圧を悪化させていたらしく雑貨屋の軒先で倒れそのまま亡くなった。

おそらく、その小学校での最晩年は彼女にとって無邪気な子供たちと共に過ごせる悲しみの中にもしばしの安息の得られる眩しいような日々であったに違いない、と思いたい。

中津留大尉もまた結婚したばかりであった。彼は、最後の特攻指揮官としてばかりか、宇垣纏航空艦隊司令長官を同乗させての出撃であった。この辺の事情は割愛するが、要は、城山氏も直截に書いておられるわけではないが、飛行機を操縦できない宇垣司令官の自殺に付き合わされたのである。なぜなら、宇垣司令官は、カリフォルニア放送を聞ける立場にあり、終戦が近いことを最もよく知る立場にあったからである。

城山氏は、中都留の遺児鈴子さんを育てた達雄の父明さんが「宇垣さんが一人で責任をとってくれていたらなぁ」との感慨を漏らしたことについて次のように書かれている。
「・・・神風特攻を始めた大西中将や最後の陸軍大臣阿南惟幾大将などが見事な割腹自殺を遂げたことと思い比べるようにして」

ともかく、宇垣が中津留の一番機に乗ることになったため偵察員は不要となり降ろされるはずが、遠藤秋章(あきちか)飛曹長が降りることを拒んだため、宇垣が後部座席に股を拡げて座り、その前の床に遠藤飛曹長が膝を突いて飛ぶことになった。

この中都留隊は11機。当初、宇垣は5機と命じていたのだが、誰も引き下がらなかったため、中都留は特攻の効果ということも勘案し11機としたらしい。
彼らが飛び立ったのは夕刻である。そしてその後、各機各様の動きがあったが、大分の司令部に連絡が入ったのはほぼ二時間半後であった。宇垣からの指令で、かねて彼が用意させていた決別電を指揮下の各部隊に発信せよとのものであった。その決別電とは以下の通り。

「過去半歳ニ亘ル麾下各隊勇士ノ奮戦ニ拘ラズ、驕敵ヲ撃砕皇国護持ノ大任ヲ果スコト能ワザリシハ本職不敏ノ致ス所ナリ」から始まり、「部下隊員ノ桜花ト散リシ沖縄ニ進攻皇国武人ノ本領ヲ発揮驕敵米艦ニ突入撃沈ス」

そして、これから一時間半後の20時25分に「トラトラトラ」が打電される。
この戦果が如何なものであったか。それは、究極的には日本を不名誉から救うものであったことだけは間違いない。最後の最後の、おそらく中都留大尉の判断が皇国を救ったのである。
その目撃者であった予備学生飯井(いい)敏雄少尉の話によると、沖縄本島、本部(もとぶ)半島の北約30キロにある伊平屋(いへや)島に突入したことが分かっている。この飯井少尉は、それ以前に近くの水域で突入しこの島に泳ぎ着き、島民に紛れ込んで難民収容所で暮らしていたとのこと。
城山氏はこの島へも訪れ飯井氏から取材をされている。
それによると、この島へは2機が突入している。当夜は前泊の米軍キャンプではパーティが行われており、もう戦争は終わったと灯を明々と付けビヤパーティの真っ最中であった。その賑やかな音楽や騒ぎ声が山ひとつ隔てた島民の隔離地まで聞こえていたという。そんな中、突然、爆音が迫ったかと思うと、その前泊方向から大爆発音がし、大きな炎の柱が立ち上った。
何事かと思っていると、さらに近くで、もう一度、大爆発音。そしてまた、炎の柱。夜空を明るくしていた米軍キャンプの灯が消え、あわただしく人や車の動く気配。だが、島民には何が起こったかもわからぬまま、夏の夜は明けた。

飯井少尉は翌早朝、給食関係の作業で前泊に来た。そして、小さな岬の上に見おぼえのある海軍機の残骸が引っかかっているのに眼をみはった。尾翼に残った01という数字から七○一航空隊の彗星と分かった。その手前の砂浜でジープが動き出したが、飯井は再び眼を見はった。砂浜に三人の搭乗員の遺体があり、その足首にロープをかけ、無造作に曳きずりはじめた。
飯井はその帰途、いま一機の突入現場も眼にしている。そちらは米軍キャンプの真上を通り越す形で、その先に広がる水田に突っ込んでいた。すでに片づけられたらしく遺体は見当たらなかったという。

以下は、城山氏の推察であるが、わたしは氏の見方に大きな間違いはないと考えている。
「大分からの機中、宇垣と中都留との間に伝声管を通して、どんな会話があったのか、わからない。
ただ、敵機も敵艦船の姿も全くないことから、中都留は疑問を感じ、その結果、戦争が終わり、『積極的攻撃中止』命令が出ていたことを知る。
同時に宇垣も考え直し、キャンプ突入をやめさせたとの推理もあるが、そうであれば、危険を冒してまで接近する必要はない。
二人の間で話がつかぬまま、あるいは、長官命令に逆らうことになろうとも、その長官が勅命に反いている以上、中都留は長官のいうがままにはなれない。
そのとき、天地の暗闇の中で、ただ一ヶ所、煌々と灯のついた泊地が見えてきた。泊地は、中都留隊の第四の攻撃目標であり、宇垣は突入を命ずる。
もはや議論の余裕は無く、中都留は突入電を打たせ、突入すると見せて、寸前、左へ旋回する。
突入を知らせる長音符がふつうより長かったという司令部通信室の証言が、それを裏付ける。
編隊での高等飛行で中都留に鍛え上げられてきた部下は、指揮官機の意図を瞬間に読み取り、もはや方向を変える余裕も無いまま、機を引き起こし、キャンプの先へ――というのが、現地に立っての私の推理である。」

以上、大部分を引用で埋めてしまったが、執筆にあたっての城山氏の姿勢は一貫しているように思われる。それはもちろん単なる反戦思想などではない。特攻隊賛美などでももちろんない。巨大な渦の中に巻き込まれてしまった人々の不幸を氏は書かれているのである。それは、かつて氏自身もその渦の中に巻き込まれていたからである。
この本は、あの大戦時における日本人群像の、当時の人々の、わけても軍人の、心理、そして行動について、決して特殊ではない一部分を切り取って見せてくれたものといえるかも知れない。

特攻というのは、まったく理不尽な戦法とさえいえぬものである。僅か二十歳前後の多くの有能な若者たちがこれによって死んでいった。
宇佐航空隊に近い中津の筑紫亭という建物には、床柱、鴨居に無数の刀傷がのこるという。これを見て、城山氏は、白刃をかざして斬りつける特攻隊員たちの声が、聞こえてくるように感じたという。その城山氏の耳に聞こえたのは若くして死なねばならなかった彼らの苦悶と嘆きの声である。

しかし、やはりわたしは、彼らの心情の中にきらきらとした美しいものを感じずにはいられない。その嘆きと苦悶の奥にある、文字通り死を賭した彼らが訴えてくるものにこそ、耳を傾けたいと思うのである。