スターファイター

2010/04/07 23:08

櫻田淳氏の「政治は二流の仕事」との言にブーストされこれを書く。

もう15年以上も前のことだろうか、「ライトスタッフ」という映画を見た。これを見て、あまりに感動したので、「イェーガー」というサンケイ出版からの本を買って読んだ。

イェーガーとは、ライトスタッフにも出てくる伝説の男である。映画では、その役をサム・シェパードが演じている。

その本の帯には、「彼こそ『ライト・スタッフ』『トップガンをしのぐ最後の英雄イェーガー究極の自伝」とある。そして、そのカバーの裏には「1947年10月14日、アメリカ、カリフォルニアのミューローク飛行場――コックピットのパイロットは、目のまえのマッハ計の針が振り切れるのを見た。そのパイロットこそ、『音の壁』を破り人類史上だれよりも速く飛んだ男、数々の苦難をのりこえ人類を宇宙への夢に導いた男、チャック・イェーガーその人であった・・・」とある。

その一部を抜粋しよう。

1947年8月29日

・・・この冷気では、生命がけのフライトになりそうである。午前七時、渦巻き、立ち昇る蒸気の中でX-1に燃料が供給されるところを見守り、オレンジ色の胴体下部から結氷していくのを見た。不気味な光景だった。わたしは、600ガロンのLOX(液体酸素)と水/アルコールを機上に積んでいくのだ。点火スイッチを入れた瞬間、まかり間違えば物凄い爆発を起こして、機体もろともバラバラになって5、6ヶ所の郡にまたがって破片、肉片が散乱することにもなりかねない。だが、万事うまくいけば、このけものは1分間に1トンの燃料を飲み干してしまう。(略)

・・・わたしは、危険をことごとく新しい挑戦の一部として受け入れる。危険はそれなりの領域をともなってあらわれるのだ。だからわたしは、X-1機について、その各系統について学べる限りのことを学び、地上滑走と滑空飛行で本機の操縦を訓練し、起こりうべき偶発事故にそなえて計画を練る。やがて、自分に不利な条件が次第に味方のように思えてくる。

チャック・イェーガーは、ロッキードF104スターファイターの試験飛行も行っている。
それによると、

ロッキードF104は、初のマッハ2の戦闘機で、上昇中に音速を突破した初の機でもあった。わたしは、1954年、米空軍向けの本機を飛行テストした。本機は、ひどい機首上げ(ピッチアップ)を起こすという問題を抱えていた。(略)航空宇宙研パイロット学校が擁していた特殊なロケット駆動のF-104も、同じようなピッチアップの問題を抱えていた。1963年、高高度における無重力訓練に使用する目的でロッキードは、これの3機をわれわれに引き渡した。(略)
1963年12月12日の午前中に、機を操縦し、高度10万8000フィートまで上昇した。(略)

この後、イェーガーはフラットスピン(水平きりもみ)に陥る。このとき搭乗していたF-104は、ジェット推進ではなくロケットによる推進力も兼ね備えたものだった。
その機体が過酸化水素とジェット燃料との混合気を燃焼させるロケットに点火したとき、速度は優にマッハ2を越えていた。七十度の急角度で上昇を続け、高度6万フィートに達していたが、希薄な大気中の酸素欠乏によりアフターバーナーが消えた。
イェーガーにとっては予想されたことだった。彼は、高度4万フィート辺りで浅い角度の降下に入るつもりでいた。そして空気流により再度エンジンを始動させるつもりだった。
機体が10万4千フィートに達し、長い弧を描ききって水平飛行に移ろうとした。迎え角が28度になったとき、ピッチアップが起きた。
イェーガーは機首に装備した2基の小型反動制御装置(ロケット・スラスター)を使って、機首を押し下げた。ところがスラスターが効かない。
機首は高く持ち上がったまま、ついに水平きりもみ(フラットスピン)に陥った。

機体は14回のフラットスピンを繰り返し、イェーガーはその13回目に脱出した。

この事故でイェーガーは大やけどを負っている。脱出の際には火薬を使用する。その火薬による推進力で座席ごとパイロットを空中に吹き飛ばすのである。
イェーガーは、運悪く今度は火薬による座席の切り離しがうまくいかず、炎の付いた座席が顔面に直撃するという災難に見舞われたのである。

宇宙服のようなフルフェイスのヘルメットのフェイスプレートを弾き飛ばされ、そこから炎がヘルメットの周りの気密ゴムに燃え移った。彼は窒息しそうになったため、手袋をした手を顔の前に開いた穴から差し入れた。たちまち、炎は手袋に燃え移った。
彼は、そこで純度の高い酸素がヘルメットの中に充満していることに気が付く。彼はバイザーを押し上げ、酸素を遮断した。

イェーガーはハイウェイ6号から1マイルほどの砂漠に着地した。そこに青年が現れた。彼は、イェーガーがパラシュートで降下するのを見て、小型トラックを駐めて手助けに来てくれたのだった。
青年はイェーガーを見て顔をそむける。イェーガーの顔は、焼け焦げた肉の塊になっていた。

さて、イェーガーは、映画ライトスタッフでも主役的な役割を果たしているが、映画の中でも彼の時代は既に終わり新しい宇宙開発時代の到来を告げるファンファーレを鳴らしている。
それは、ケネディが宣言(下記英文)した人類を月に送るという壮大な計画、すなわちアポロ計画の推進であった。
宇宙開発において、アメリカはソ連の後塵を拝していた。既にソ連ガガーリンによる有人宇宙飛行を成功させていたが、このことがケネディアポロ計画を決断させたのである。
アポロ計画は1961年から1972年まで計17回行われ、アポロ11号により1969年7月20日ついに人類初の月面着陸に成功している。この後も計画は続行しアポロ計画を通じて計5回の月面着陸に成功し計画を終了した。

First, I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth. No single space project in this period will be more impressive to mankind, or more important in the long-range exploration of space; and none will be so difficult or expensive to accomplish.

アメリカは、アポロ計画以前には地球周回軌道に衛星を乗せることにさえ出来ないでいた。しかし、ケネディが宣言したとおり、莫大な予算を使い困難を乗り越え、60年代最後の年に、最も輝かしく、また宇宙開発の歴史において最も重要な1ページを飾ることが出来たのである。

1972年を最後にアポロ計画は終了したが、その成果には計り知れないものがあった。アメリカの航空宇宙産業は飛躍的な発展を遂げ、防衛技術においては全く他国の追随を許さないレベルにある。
次期主力支援戦闘機として一度は名前の上がったラプターF-22ににしても、その恐るべき性能ゆえに中国などは台湾への輸出を許さない。日本などは機密漏洩の恐れから輸出してもらえないという情けない有様だ。

いづれにしろ、アメリカの航空宇宙産業は、イェーガーのような底の厚い人材に支えられ、目を見張るような発展を遂げてきたのである。

それに比べ、わが日本は、敗戦により航空産業を潰されてしまったとはいえ、戦後65年を経ようというのに一向に浮揚する気配がない。

辛うじて最近になって三菱がMRJを開発して販売に乗り出したくらいで、他には瞠目すべきものがないのはなぜなのか。

                                            このつづきはまた