端午の節句に寄す

2010/05/05 13:41

今日はこどもの日。わたしたち大人にはもう二度と手にすることのできないその黄金のような日々をこどもたちが元気に過ごしてくれることを祈りたい。

しかし、無念というか現実は必ずしも幸福なこどもたちばかりではない。今日の産経新聞に再び加地伸行氏の「子虐待の原因は家族崩壊にあり」とのコラムが掲載されている。再びと言うのは、以前にも氏は、同じ産経新聞の古典個展の中で昨今の児童虐待について述べておられるからだ。

「――あまりの悲惨、あまりの哀れさ――この子たちがどれほど苦しかったであろうかと思うと、胸の張り裂ける思いであった。
私ども老夫婦は、家の仏壇にこの子たちの紙?(しぼう:紙位牌)を立て、涙ながらに供養をした。真言宗信者の作法に従い、般若心経一巻、光明真言をはじめとして諸真言を誦し奉った・・・」

今回の記事は正論に掲載されている。内容的には、前回書かれたものと余り大きな違いはなく、これらの事件を特殊個別なものとすべきではない、というところに主眼が置かれている。

つまり氏は、幼児、児童に対する虐待が繰り返し起こる原因が、タイトルの通り家族の崩壊にあるとし、さらにそれが日本国憲法によって齎された急激な個人主義によるものだとされている。
急激というのは、明治以来、日本は欧米的な個人主義をどう日本的家族主義と融合させるかに苦しんできた。つまり、個人主義をまったく否定してきたわけではなく、それを如何に日本の社会に適合させるかをずっと考えてきていたのだ。ところが、敗戦によって、否応もなく憲法にこの個人主義が取り入れられた。具体的には、憲法第24条「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」し、のことである。

氏は、この条文は自律・自立・自己責任に基づく個人主義を前提として始めて成り立つとし、欧米人のような唯一最高絶対の神を戴くものであれば、それを抑止力、つまり個人主義が単なる利己主義に陥ることを防ぐ力とし得るが、日本のような伝統的、自然法(道徳・慣行)的家族主義の国においては、実定法(憲法など)のみでは抑止力には成り得ないとされている。

「その結果、『婚姻は、両性2人の快楽のため』いや、「己の快楽のため」の家族となり、親や子の存在価値は低くなっていった。個人主義の前提の実現なき憲法第24条の成れの果てである。こうした状況の中で老親や子への虐待が生まれてきているのである」
「さらに、東北アジアでは、人間としての道を保持させる抑止力として、各家は自己の祖先を置いたのである。祖先が許さぬ―この抑止力がわれわれの道徳心を培い、祖先の下にその家族・一族が団結してきたのだ。祖先祭祀がその家の宗教となり血縁者の絆となり、祖先から続く生命の連続を静かに、そして確かに体得してきたのである。
死によって己の個体(肉体)は消滅するが、己の生命体(遺伝子)は子孫一族に受け継がれ残ってゆく。また精神的には、「祖先となる己」を子孫一族が祭祀をしてくれ、彼らの思い出の中に生き、忘れられることはない」
(中略)
「しかし、戦後教育では上のようなことは教えてこなかった。このため、日本では宗教もそこから生まれる道徳も教育されてこなかった。第一、日教組は道徳教育の全否定ではないか。今や祖先祭祀も墓も家族主義的家庭の絆も細りつつある。この亡国的状況の中で、子の虐待死や老親の放棄が生まれているのだ」

氏は、このような状況に対処するには、長期的には地道ながらやはり道徳教育・宗教教育に文部科学省が本気で取り組むべきだとされている。また、中・短期的には、子を虐待死させる親は人間の屑であり厳罰を法制化すべきだ。抵抗できない乳幼少児童の殺人罪を別に設けよと書かれている。

また、氏は、この中・短期的な取り組みとして「この法制化運動をしている「ひまわり署名プロジェクト」(産経新聞4月5日付大阪夕刊)の会員にわたしはなった。その広がりに可能な限り協力したしたい、としてこのプロジェクトを紹介している。
今日はこどもの日。この祝日を迎えられず旅立った薄幸の子たちの鎮魂に、謹んで本稿を捧ぐ」と結ばれている。

下記はそのURLである。

http://www.shomei.tv/project-1084.html