「空気」の研究、「水=通常性」の研究について

2010/05/05 20:46

ようやく、この本を読み終えた。いや、目を通した。この分厚い思想のどのくらいの深さにまで思弁が届いたかも知れないのに、もうこのようなものを書く気になっているわたしとは実に軽薄短兵急な男である。

この本の著者、山本七平氏はイザヤペンダサンとしても知られる。この名義での著作としては「日本人とユダヤ人」が夙に有名である。これは、いざ、ペンを出さんのもじりらしいが、このようないかにもユダヤ人名を思わせる人を食ったような筆名からしても、なかなか一筋縄ではいかない文章を書く人物であることは想像に難くない。

さて、この「空気」の研究だが、保守を自認するわたしには少々痛い本であった。もちろん、氏が、政治的にニュートラルな立場を意識して執筆されたことを疑うつもりはない。
氏は、空気の研究、あるいは水=通常性の研究と銘打ちながら、実は日本的臨在感というものについて書かれているのである。氏はそれを、日本人にとって空気や水のように最も親しく近しい存在でありながら、場合によってはわれわれに最も危険な事態を齎しかねないものとして捉えられている。

この本のキーワードはいくつかある。空気。水。臨在感。そして、孔子の次の言葉である。
「葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾(わ)が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証す。孔子曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り」

もちろん、ここで氏の言う空気とは、KY(空気読めない)の空気のことである。

余談だが、現代のイギリスではあまりにシェークスピアの言葉が人口に膾炙してしまったために、中には、シェークスピアの時代にもこういう言い回しがあったのかと、誤解する向きもあるという。あるいは、このKYという言葉も、元を辿ればこの本に行き着くのかもしれない。

しかし、このような「空気」は、日本に限らず、キリスト教圏にもまたイスラム教圏、仏教圏にも当然にあるに違いない。
だが、この本で取り上げられている「空気」はどうもそういうものではないらしい。というのも、この研究書は次のような衝撃的な実例から始まるからである。

イスラエルで遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。そこからは人骨・髑髏(されこうべ)がざらざらと出てくる。(中略)
この人骨のうち不要なものをイスラエル人と日本人が共同で投棄場所に運ぶことになった。それは大変な作業で、一週間ほどその作業が続くと、イスラエル人には何も起こらなかったが、従事していた日本人二人はおかしくなって本当の病人のようになってしまった。ところが、この人骨投棄の作業が終わると二人ともケロリとなおってしまった。

氏は、どうやらこの二人に必要だったのはお祓いだったらしい、と書いている。実は、この二人の日本人はクリスチャンであったとのことだが、との注釈までつけて。


要するに、この書の研究対象である「空気」とは、このような日本人に特有の空気と解しても良い。氏は、上の例は「空気」の基本形であると述べている。

もう少しこの例を追求してみると、イスラエル人にとっては人骨はただの物であるのに対し、二人の日本人にはとてもそういう骨=物質という捉え方ができなかった。つまり、この二人にとっては、人骨はただの物ではなかったので、くる日もくる日も人骨を投棄するという作業が心理的ストレスになり、その結果、二人とも心身症になってしまったということなのである。

氏は、骨に人の霊が宿るというような考え方は伝統的に西洋にはないと書いている。
ギリシャ人は、肉体を牢獄と見、そこに「霊」(プネウマ)がとじこめられており、死は、この霊の牢獄からの解放であり、解放された霊は天界の霊界(エーテル)の中にのぼって行ってしまうと考えた。そして、残った「牢獄」は物質にすぎない」と氏は、ギリシャ人的な考え方を日本的臨在感と対照させて書いている。
もっとも氏は、この辺については、日本的な臨在感を一種のアニミズムと捉えていて、これを日本独自のものとしているわけではない。

氏は、上のようないわば原始的物神論的ものから、言語による空気の支配へと理論を拡張させている。

「そして教育勅語のように言語もしくは名称が写真と共に偶像となり、礼拝の対象となって、この偶像への絶対帰依の感情が移入されれば、その対象は自分たちを絶対的に支配する『神の像』となり、従って、天皇が現人神となって不思議でないわけである」と、天皇にまで触れている。
勿論、氏の意図は皇室批判にあるのではない。このような理論が展開されていくなかで、天皇や皇室にはまったく言及しないというのでは逆に不自然でさえある。

しかし、わたしが痛いと感じるのは実はやはりここのところなのである。
なぜなら、氏によると、保守的な日本人にとっての拠所である天皇陛下とは、臨在感的把握の対象、すなわち偶像である、ということになるのである。
二・二六事件を起こした将校たちにとって、天皇とは偶像的「現人神」ともいうべき存在であった。従ってこの偶像天皇が自分の意思をもっていると知ったとき、彼らは、仏像が立ち上がって口を利いたかのごとくに驚いたわけであった」と書いている。

もちろん、これは冷静に、論理的に考えれば首肯すべき捉え方である。天皇、および皇室とは日本的な空気そのものである。氏は、日本的空気の一例、いや代表として直截的に天皇に言及されているに過ぎない。

繰り返すが、これは「空気」の研究書であり、政治を扱った本ではない。したがって、氏が天皇や皇室を批判しなければならない理由はどこにもない。
それが証拠に、氏は、偶像化できる対象は何も像や人間だけではないとし、「言葉の天皇制」も成り立ちうるし、現に成り立っていると書いている。これは、氏の言うところの「言葉狩り」という新しい「不敬罪」のことである。この事実から逆に、言葉そのものが偶像化の対象となり得ることが証明できると氏は述べている。そして、言葉狩りの対象となる言葉は、その意味や内容よりも、その言葉を臨在感的に把握し偶像化することによって生じる空気が問題としているのである。

氏は、この日本的空気と対蹠させるためにイスラム圏、ユダヤ教圏、そしてキリスト教の一部に存在する偶像崇拝の禁止について述べている。
これらの社会は一神教(モノティズム)社会であり、唯一絶対の神の世界である。このような社会においては神の名を口にすることは涜神罪に相当する。この理由とは、先に言葉も偶像化されると書いたが、「『神の名』が臨在感的に把握されて偶像化し、この偶像化によって偶像崇拝を招来し、逆に[神]を冒涜することを防ぐためである」

逆に言うなら、このような社会では、神以外のものはすべて相対化される。

この相対化ということについては、氏は次のように述べている。
「唯一絶対神の社会では言葉は常に相対的に扱われる。たとえば、義なる神が存在するなら『正義は必ず勝つ』という命題がある。この命題は相対化できそうもないが、しかし彼らは言う。『では、敗れた者はみな不義なのか。敗者が不義で勝者が義なら、権力者はみな義なのか』と。『正しい者はみな必ず報われる』という。『では』と彼らは言う、『報われなかった者はみな不正をした者なのか』と」

ここでは、一神教社会での通念と日本の社会通念との対比がされているのである。上はヨブ記からの主題とのことだが、
「われわれの社会では、常に正義の基準の如く絶対化されている命題も、すべて、一種の対立概念で把握されて、相対化されてしまうのである」
要するに、一神教の社会は、わたしたちの八百万の神がおわします社会とは根本的に違うのである。

ここで少し、「空気」の原義を遡って追ってみよう。氏によると、「空気」にもっとも近い意味を持つ日本語は霊であるという。そして、この霊は、日本語訳聖書が明治時代に中国語訳聖書から流用?したものなのだそうだ。もともとはヘブライ語のルーアがギリシャ語のプネウマとなり、またラテン語のアニマになったと解説している。そして、その原意は、風、空気という意味であった。

氏は、この古代の人々をその宗教的狂乱状態、すなわちエクスタシーに陥らせたプネウマ(空気)の沸騰状態を、詳しくは省かせてもらうが、そのまま現代日本の諸問題にも見てとれると指摘しているのである。

日本的、臨在感的把握について、次のような「聖書」物語の記述がある。
氏は、聖書の相対性について、日本に聖書が入ってきたとき、見事にその相対性が排除されてしまったと書いている。

その最初に例題として出てくるのがアダムとイブ、つまり天地創造である。これは誰でも知っている話と思われがちだが、氏によると、これは聖書でもなんでもない「相対化排除」の日本式「聖書」物語なのだそうだ。この聖書物語の中では、まず光と闇・天と地・地と水と植物・昼と夜・魚と鳥・地の獣の順で、最後の創造がアダム(人)であり、アダムの肋骨からイブが創造された、ということになっている。しかし、聖書にそういう話はないのだそうだ。

聖書にはP資料と呼ばれるものとJ資料と呼ばれるものの二通りがあり、これらは相矛盾するものであると書いている。
詳細は省くが、P資料では人間は最後に完成品として創造され、J資料では最初の生き物として男性が、そしてこの男性を材料にして女性が創造されたとしている。

PとJでは、人間の姿、規定は全く異なる。しかし、聖書はこの二つを平然と併行させたまま、その違いを調整しようとはしていない。
ところが、「聖書」物語では、この二つの矛盾を消去して、PとJをつないで一つの物語にしている。
氏は、ここに基本的考え方の違いがあるとしている。つまり、聖書では人間とはそもそも矛盾に満ちた生き物として捉えられているのに対し、これが日本に輸入されると、たちまちその矛盾は看過できないものとして、二つの相反するストーリーが一つにまとめられてしまうのである。
もう一つの例として、「箴言」と「ヨブ記」が出てくる。しかし、ここでは詳述しない。言葉の絶対化の怖さについて述べていると言うに留めておこう。

氏は、日本的臨在感の危険性について次のようにも記述している。

「『空気』の研究」から「『水=通常性』の研究」まで、臨在感的把握とか、空気の醸成とか、「父と子」の隠し合いの倫理とか、一教師・オール3生徒の一君万民方式とか、それを支える情況論理と情況倫理とか、実にさまざまなことをのべてきた。では以上に共通する内容を一言でのべれば、それは何なのか。
言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」だということである。

それは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定のもとに人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって、一つの真実が表現されている。
端的にいえば、歌舞伎座で、女形は男性であるという「事実」を大声で指摘しつづける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界である。

だが「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理が設定されている劇場という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で“空気”を醸成し、全体空気拘束主義的に人びとを別世界に移すというその世界が、人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になることは否定できない。したがって問題は、人がこういう状態になりうると言うことではなく、こういう状態が社会のどの部門をどのように支配しているかと言うことである。演劇や祭儀の世界だけならそれは問題ではないが、日本の場合、その通常性に基づいて一つの秩序ができあがるには、まず「空気の醸成」とそれを維持する「父と子の隠し合い」の真実の中に、これを求めざるを得ない。

そして、この秩序を維持しようとするなら、すべての集団は「劇場の如き閉鎖性」を持たねばならず、全日本をこの秩序でおおうつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ない、としている。

冒頭に書いたように、これは「空気」および「水」の研究についての、わたしの考察の端緒に過ぎない。これを自分自身の血肉とするには早すぎる。まだまだ、胃の腑に落ちたばかりで十分に消化しきれていないからである。