モンキートライアルについて

2010/05/13 15:47


昔、「日本人とユダヤ人」を読んだ。その始めの方に、次のようなことが書かれていた。
ある人が、たしか道祖神だったと思うが、手を合わせて拝んでいたら、傍にいた外国人に「そんなものに神はいませんよ」と言われた。そしたら、その日本人は不思議そうな顔をして「もちろん、いない」と答えたのそうだ。それを聞いた外国人は唖然としてしまった。とまぁ、このような話だったと思う。

山本七平氏の「空気の研究」の中にもこれとほとんど同じ話が出てくる。イザヤ・ペンダサン(いざや、ペンを出さんのもじり)は山本氏の別名でもあるから、これは別段驚くに値しない。
ただおそらく、この話のオリジナルは「空気の研究」の方であったに違いない。

その「日本的根本主義について」と題した抄のなかに、著者が米軍の捕虜としてフィリピンの収容所にいたときの話がある。

その収容所にホートンという中尉がいた。ある日、氏はこの男から予期せぬ質問をされた。この男、アメリカでも屈指の大学を出ていて、日本兵捕虜に民主教育をするという悪癖があった。
その彼が氏をつかまえて進化論の講釈を垂れだした。氏によれば、この男は、よもや日本人は「人間がサルから進化した」ということを知るまいと何の根拠もなく判断していて、氏にこれを聞かせれば驚くに違いないと思っていた節がある。
少々頭にきた氏は、
「進化論など、日本では小学校でも教えている。日本は、モンキートライアル(進化論裁判)の行われたアメリカほど未開ではない」と応じた。
ところがホートン、まったく氏の言葉を信用しない。
そこで氏は、ビーグル号のことやガラパゴス諸島の調査がその端緒であったことなどを述べ、そんなことは子供の科学という雑誌で知っていると言った。
すると、この男は本当に驚いてしまった。
その驚いた様子に今度は氏の方が驚くほどだった、というのだ。

わたしが冒頭に上げたペンダサンの話とこの話、相似形を成してはいないだろうか。わたしは、氏が日本という国の特殊性に気が付いたのは、このフィリピンで捕虜になっていたときではないかという気がしてしようがないのである。

それはともかく、ホートンが山本氏の言葉に驚いたのには理由がある。
なぜなら、ホートンは、日本人が、天皇は現人神であり、神である天照大神の直系の子孫であると信じている、と思い込んでいたのである。
そのような国に進化論を是とするような教育が存在するはずがない。これがホートンの前提であった。
その彼が日本人を啓蒙するつもりで進化論を持ち出したまでは良かったが、山本氏に「そんなことは子供でも知っている」と言われてしまったものだから、ぐうの音もでなくなってしまったのである。

モンキートライアルについては、たいていの日本人は首を傾げてしまうに違いない。わたしだってそうである。なぜ、このようなことが問題になるのだろう。
これは、ガリレイの宗教裁判の蒸し返しではないのか。あのとき、ガリレイは自説を撤回して難を逃れたが、強行に「それでも地球は回っている」と公に唱えていたら、間違いなく物理学の殉教者になっていたであろう。

ともかく、一神教の世界では、ガリレイダーウィンのような者はなかなか受け入れてはもらえない。その理由は、聖書にある。一神教の世界においては、聖書という絶対的な一つの体系の中に地動説や進化論がどう当て嵌まるのか、いわば思考のジグソーパズルが行われる。その体系の中にうまく嵌ればよいが、どうしても矛盾してしまう場合には排斥せざるを得ない。そういう世界なのである。

ところが、日本は汎神論の世界であり、八百萬の神の在す国である。このような国においては、そもそも組織的な宗教体系などあるはずがない。要するに、何でもありの、非常に受容力の高い国なのである。そのおかげで、科学技術や芸術の分野において、ほとんど宗教的タブーなどといった制約を受けることなく、自由で豊かな発想の下にこれらを発展させてこれたのである。

これとは逆に、欧米など一神教の世界では、唯一絶対の神により個人が厳しく律せられてきたのは良いとしても、反面、ダーウィンガリレオやあるいはガウスなどの学者にとっては非常に住みにくい世界であったに違いない。彼らは、自説の証明という難作業の前に、果たしてそれが宗教界から非難を受けないかどうかを考えなければならなかったからである。

宗教は、21世紀になっても一向に衰えを見せない。いや、それどころか次々と新興宗教が生まれて人心を惑わせているように思えてならない。

わたしは、まだまだその「聖書」が完成するには時間がかかるであろうけれども、結局は科学こそが真の宗教であり、現実的に人間を救う力があるものであると信じているのだが・・・。