骨について

2010/05/25 21:51


この間、テレビを見ていて大変興味深いシーンに出くわした。「世界一受けたい授業」という番組である。それに象の群れが登場するのだが、この群れ、なんと象の骨が一杯散らばっている場所にやってくると、大人の象も子象もしばしそこに留まり、あたかもその骨を愛おしむというか懐かしむかのように、その長い鼻を使って牙を拾い上げたり頭骨を撫で回したりしだしたのだ。

いったい何をやっているのだろうと最初は訝かったが、そのうちに、やはりこれは亡くなった仲間たちを偲んでいるのであろうという結論に達した。
このように感じるのは、わたしが日本人であり、例の日本人特有の臨在感に支配されているためのものであろうか。
いや、そうではないとわたしは思いたい。なぜなら、日本人に特有とは言うけれども、臨在感とは、そもそも最も原始的な、言い換えれば最も動物的な感性によるものではないか。

山本七平は、「空気の研究」の中で、古代イスラエルの墓地で不要な骨を廃棄する作業を行っていた日本人二人が心身症を患ったが、同じ作業を行ったイスラエル人には何らそのような身体的、心理的変化が見られなかったと書いている。つまり、日本人だけが日本特有の、この場合は骨に対する臨在感に支配されていたと述べているのだ。

しかし、もしもその骨がそのイスラエル人たちと血縁的に近い、あるいは親しい人間のものであったとしたら、その骨は、やはり彼らにとってもただの骨にはならなかったであろう。何らかの心的な影響を与えたに違いないと思うのである。

そう考えていくと、骨というものには、やはり動物にとって、単なる物質とは違った「何か」が存在するのではないか。もちろん、その「何か」とは魂といったようなものではない。脳の最も深いところに刻まれた記憶、すなわち生命の根元とでもいうべき感情を刺激し呼び起こす何かという意味である。

これは、いささか感傷的な事物の捉え方であろうか。単にあの象たちは骨を使って遊んでいただけではないのか。
正直に言えば、今もなお、このような疑念が頭を過ぎる。いわば唯心論と唯物論が頭の中でせめぎあっている。

果たして真実はいずれに在りや。今わたしは無性に象に訊いてみたくてたまらないのである。