眠れない男

2010/06/01 22:34

Wは、不眠症に陥っていた。もう何年、いや何十年になるだろう。眠れなかった。眠りたくて眠りたくてしようがないのに、どうしても眠れないのだ。
いったい、原因は何なんだろう。彼は、朦朧とした頭で思い出そうとした。
しかし、それは記憶喪失にでもかかってしまったかのように、深い霧の中にとじ込められてしまったかのように、漠として思い出せなかった。

いや。しかし彼は、ついに思い出した。
それは、30年も前の話だった。彼は、結婚してわずか半年ほどで、しかも妻は彼の子供を宿しているというのに、仲間二人と共に「北壁」を目指して旅立ったのだ。

冬の北壁登頂は予想していた以上に困難を極めた。挙句、天候の急変により登頂どころか下山もままならなくなった。激しい吹雪にビバークを余儀なくされた。
急速に体温が奪われていった。血糖値が下がり激しい眠気に襲われた。

「おい、W眠るな! 眠ると死ぬぞ」
遠くでXの声が聞こえた、かと思うと頬に激しい痛みを感じた。Xが平手で彼を打ったのだ。遠のいていた意識が一瞬にして蘇る。しかし、数分も経つとまた睡魔が襲ってくる。
「W、絶対に眠っちゃダメだ。おまえには大事な奥さんとまだ見ぬ子供がいるんだからな」今度はYの強烈なびんたが彼の頬を打つ。
「眠りたい。もういいから、静かに眠らせてくれ」
Wは、心の中で哀願する。
そんなことが何度繰り返されたことだろう。ついにXもYも疲れ果ててしまったのだろうか、彼を叩かなくなった。

・・・そうか、あれからもう30年も経つのか。Wは朦朧とした意識の中で思った。しかし、あれがすっかり俺のトラウマになってしまって、俺はまったく眠れない男になってしまった。いったい、俺はいつになったら、まともに眠れるようになるのか。

そんなある日、彼の耳に久しく聞かなかった人の声が聞こえてきた。

「とうとう見つけたぞ」
と、その声は言っていた。若い、朗らかな初めて聞く声だった。
「3人ともいるぞ」
「見てみろ。まるで、生きているようだ」
「w。この人が、この目を見開いたままの人がおまえの親父さんじゃないか。おまえにそっくりだぜ」

そのとき、Wは、初めて自分の不眠の原因を悟った。そうか、そうだったのか。俺はこれを待っていたのだ。俺の息子が俺をここまで迎えに来てくれることをずっと待っていたのだ。それまでは、俺は何があろうとも決して眠ることなどできなかったのだ。

「おとうさん」
彼の息子が、彼と同い年の彼の息子が、そう呼びかけて彼の冷たい手を取ってくれたとき、初めて彼は、大きな安堵と共にすーっと眠りに落ちていくのを感じた。