男のおされについて

2010/07/25 19:05

前から疑問に思っていたことがある。なぜ、髑髏のことをサレコウベというのだろう。コウベは頭だから、これは分かる。サレはシャレとも言うが、サレコウベにしてもシャレコウベにしても、なぜサレないしシャレが付くのかがよく分からない。

でも、まぁ、これは話の惹きのようなもので、余りわたし自身思い悩んでいるわけではない。
ところで、本題のおしゃれについてであるが、これもおシャレということだと思う。じゃぁ、このシャレなるものは、これの語源はいったいどこにあるのか、髑髏と一緒なのかと、ついつい疑問に思ってしまう。

ありがたいことに、Wikiというわたしなどには大変重宝なものがあるので、さっそく調べてみると、晒れ、戯れ(どちらもざれと読む)から来たものらしい。因みに戯には、気が利くとか垢ぬけているという意味があるらしい。

わたしは、男というものは絶対に女にはお洒落のセンスでは勝てないと考えている。
なぜか? 男はおしゃれをする必要が全くないからである。再びなぜか? 男は生まれつき肉体そのものが女性のお洒落と同じアッピールを有しているからである。ここでゲーテの言葉を引用したい。「男性美は芸術的には女性美よりも優れている」
わたしはショービニズムを信奉する者ではない。しかし、この名言には強く与したい。三度、なぜか? それは、今までお気づきでなかった方も多数おられることと思うが、かく言うわたし自身が男性のハシクレであるからだ。

男のお洒落というものをわたしは信用しない。これで四度。なぜか? あれは本物の男のお洒落ではないと思うからだ。あれは、女性のお洒落の借りものに過ぎない。
それでは、お前さんの思う本物の男のお洒落とは何かと問われることと思う。勿論、それに答えるだけの用意はしておいた。

昔、亡くなった紀伊国屋書店の創業者である田辺茂一さんがカゴメのコマーシャルに出演されていた。
「♪お酒を飲んだ翌朝は~カゴメトマトジュ――ス」というのが、そのコマーシャルソングで、これは一世を風靡したと言っても良い。件の田辺さんは、寝起きのガウン姿(だったと思う)で、真っ赤なトマトジュースをコップに注いで美味そうにがぶりと飲む、というものだったと記憶している。
わたしは、田辺さんは茂一さんも一鶴さん(あの声の変な田辺バニラさんの師匠)も好きで、なぜ田辺一鶴さんが好きかと言うと、わたしと同じでコウダンシだからである。と、ここまで書くと、自分で全部ネタばらしをしてしまったようなもの(お頭の回転の速い、そうあなたには)だが、茂一さんが好きな理由というのも、実はこの人も大変おされな人だったからである。

こういう面白いエピソードがある。ある日、落語家の立川談志が田辺さんと会って、「実は昨日、おたくの書店で本を何冊か買いましたよ」と言ったのだそうだ。すると、すかさず茂一さん、こう応えたそうな。
「ほうっ! それこそ君、だんしのほんかいってものだよ」
われらが談志師匠もこれには「・・・」という失語状態だったらしい(想像だが)。

さぁ、ここまで読んできて、未だわたしが言わんとしていることに気がつかないあなたは、必ずやその半生において一度や二度はどなたかに「ナイーブなお方ね」とか「近頃では珍しい大変な善人です」などと称賛を受けたことがあるに違いない。

まぁ、以上は半分冗談である。面白半分に書いたと思ってもらっても良い。
しかし、真面目な話、わたしが思う本当の男のお洒落とは、たとえばこんなものである。
アフリカやボルネオなどが未開の地と言われていた頃、原住民たちが顔に入れ墨をしていた。あるいは皮膚を傷つけて蚯蚓腫れのように凸凹にしていた。あるいは鼻にピアスをしたりしていた。これがわたしの思う男のお洒落の代表格なのである。

わたし自身は絶対にこんな真似をしたいとは思わないが、つまり、男のお洒落とは女性に対するセックスアッピールであるとともに、同性に対するプライドの表明、威嚇、こけおどしのようなものであると思うのである。
少し話が飛躍するが、たとえば、喫煙の習慣は圧倒的に男性に多い。これもまた、ちょっとばかし文明化した男のお洒落であるという風にわたしは考えるのである。

いずれにしても、男のお洒落はすべて! みな自分自身を傷つけるものばかりである。