丸山眞男の謦咳

2010/08/01 13:23


中野雄氏の「丸山眞男 人生の対話」を読み終えた。読み始めてすぐに感じたのは、これはエッカーマンの「ゲーテとの対話」であるということだった。また、恐らくそれを意識してのことであろう、タイトルにも人生の対話と謳っている。

ゲーテとの対話」は、エッカーマンという才能がゲーテという巨人を尊敬し、常にその身近にいたからこそ書けた人類にとっての遺産である。いや、というよりもゲーテが自らの遺伝子の代わりにその思想を、そして交流のあった知識人や芸術家などについての人物評を織り交ぜながら時代そのものを後世に残さんと企図したものであったに違いない。エッカーマン自身もそのことを十分に承知した上でゲーテに師事していたのである。
わたしは、ゲーテエッカーマンという彫刻家をうまく使って、巨大な自身の裸像を彫らせたのだと考えている。

中野氏は、丸山眞男氏と40年に渡って親しく交流しその謦咳に接した。その交流のきっかけについて詳しく述べられているわけではないが、おそらくそれは共通の関心事である音楽を通じて、いやもっと正確を期して言えばオーディオ機器を通じてのものだった。

中野氏の趣味はオーディオの自作で、この趣味が実を結んで日本開発銀行からオーディオ機器メーカーであったトリオ(現ケンウッド)の役員への転進、そして代表取締役まで上り詰められた。

その中野氏が東大卒業後間もない銀行員時代に、丸山氏の自宅に秋葉原で買い集めた部品を使って、当時HiFiと呼ばれたLPレコード機器を作り上げたというエピソードが織り込まれている。間違いなく音楽が二人を強く結びつけたのである。

それにしても、一流の人というのは、何においても一流である。丸山眞男は、音楽についても一家言をもっていた。彼は、フルトヴェングラーを愛し、カラヤンを嫌った。
その丸山眞男の言葉がある。
カラヤンの音楽、ぼくは好きじゃないけど、リヒャルト・シュトラウスはいいですよ。リヒャルト・シュトラウス交響詩を振らせたら天下一品!」
聞き手が? と思っていると、
「この二人には共通点があるんですよ。『音楽が無内容』という」

また、中野氏は言う。「彼が音楽という芸術分野で希求したのはあくまでも精神性――それも言語では説明しきれない、音楽をもってしか語り得ない人間精神の深層であった。その代表格がベートヴェン、指揮者のフルトヴェングラー、ピアニストのケンプである。或るときわたしが、『先生、作曲家の柴田南雄先生が、ベートヴェンやフルトヴェングラーは19世紀前半に一世を風靡したドイツ観念論の系譜に属する音楽家だよ。フルトヴェングラーが振ると、チャイコフスキーまでヘーゲルの哲学を読まされているような音楽になっちゃうと、笑っていました』と告げたときも、
「言いたい奴には言わしておけばいいんです。ぼくはそれでいいと思ってますから。だって、フルトヴェングラーチャイコフスキーの<悲愴>(交響曲)を聴けば、人生に対する絶望感で口がきけなくなってしまうではないですか。人の世の深淵を覗き見たような思いで・・・。それが”音楽的感動”なんです。言語では、絶対にあの絶望感と諦念を相手の心に刻みつけることはできない。カラヤンは<悲愴>が大好きらしくて、もう何度も(生涯に七回)録音をしているけれど、彼の演奏はチャイコフスキーの描いた管弦楽総譜の見事さを音で証明しているだけです。彼の演奏から受ける印象は”パセティーク”じゃなくて”センチメンタリズム”だな』と反論されてしまった」

わたしもクラシックが好きで、チャイコフスキーの#5も#6も好きである。悲愴を聴くと、たしかに丸山氏の言うとおりの心境に陥ってしまうこともある。しかし、それなのに敢えて聴くのは、そのときの心境がまさにパセティークだからであり、自分に同調してくれる音楽と逢いたいからであると考えている。いずれにしろ、わたしは丸山氏の感性には賛意を唱えたい。

丸山眞男という知性と感性に富んだ偉人の謦咳に接することの出来なかったわたしは、せめてその膨大で難解な著書の片鱗にでも触れてみたいと考えている。