渋滞について

2010/08/19 14:10


渋滞というものは「複雑系」の現象だそうである。しかし、今回はそんな科学的なことを書くつもりではない。

わたしは、短気なせいか行列に並ぶということが嫌いである。ましてや、何の目的もなくただ前を塞がれた状態というものには我慢がならない。

雑踏を歩いていて思うことは、何でみんなこんなゆったりとしたペースで歩いているんだろうということである。わたしは唯一健脚だけが自慢の男である。したがって、その健脚を活かすことのできない渋滞というものが嫌いなのである。

駅の中や駅前の雑踏を歩いていて、ときどき女性の歩き方に腹立たしくなることがある。彼女達は、その体型によるものなのか、歩く姿を上から見ると、手の振り方がハの字型になっている。男にもハの字はいるが、たいていは「い」の字型である。渋滞している中でこれをやられるとどういう結果になるか。わたしなど、女性のお尻について歩くことを断じて好まないから、追い抜こうとして大事な部分に手をぶつけられてしまうことがしばしばあるのだ(もちろん、背の高い女性にである)。

いつものように飛躍するようだが、渋滞という問題を考えるときに、しばしばわたしが連想するのは学校教育についてである。
わたしは、何度も言うようだが、健脚ぐらいしかこれといって取り得のない男である。しかし、そのただ健脚だけが取り得の男が雑踏に入るとイライラを募らせてしまう。

何が言いたいか。たとえば、小学、中学の義務教育においては、優秀な、つまり学業の良くできる生徒というのは、わたしが渋滞の中を歩くのと同じイライラを感じているのではないか、と思うのである。
おそらく、義務教育のペースというのは、基本的には平均的な出来の生徒を中心に進められているに違いない。しかし、中には途方もない天才も存在するであろう。いわゆる神童(Prodigy)である。このような子供にとっては、義務教育というのは退屈そのものであるに違いない。そして、昔からよく言うように退屈な手はついつい悪魔の誘惑に負けてしまいがちである。退屈の余り万引きをしたり、あるいはドラッグに手を出したりということにもなりかねない。

このような渋滞を解消する方法はまったく考えられていないわけではないだろうが、まだまだ実効が上がっていないし、上げるつもりもないのではないかという気がしてならない。なぜなら、今の教育の態度というのは、渋滞が起きても一向に構わない。平均的で、みんなと歩調を合わせることのできる平凡な人間を大量生産することにあるように思われるからである。

栴檀は双葉より芳しというが、わたしは、これからの日本には選良教育というものがごくごく小さな時から必要だと思う人間の一人なのである。