わたしの運命論(三島由紀夫と魁ごう)

2010/11/14 15:04


昭和45年11月25日と聞いてピンと来る人というのは、恐らくわたしと同じ50代以上の方であろう。
この日に、三島は自決をした。腹を切り盾の会の学生長であった森田必勝に介錯をさせた。実際には森田は介錯できず、別の会員が三島の首を落とした。場所は市ヶ谷の旧陸上自衛隊駐屯地。この日、三島は完成したばかりの「豊穣の海」を出版社に渡したばかりであった。

三島由紀夫の死は、当時の日本列島に巨大地震のような衝撃を与えた。その衝撃波は、三島の一ファンに過ぎなかったわたしの心をも揺れ動かし、その揺れは40年が経とうとする今もなお収まることを知らない。
なぜ三島はあのような死に方をしたのか? このような疑問は、三島の真のファンにとっては愚問としか受け取れないであろう。もちろん、その真のファンとて三島由紀夫割腹の真の理由など分かろうはずがない。しかし、なぜ彼があのような死を選んだかを訊くことが愚問であることには何等変わりはない。なぜなら、あの自殺をも含めて、あれらすべてが三島由紀夫であったからである。あの自決の瞬間をもって三島由紀夫という男の運命が完全に結晶したのだ、とわたしは捉えている。

三島の処女作といわれる「仮面の告白」の中に、早くもあの事件の萌芽を認める者もいる。あるいは、三島の出生にその原因を求めたり、いや、あのような祖母による育てられ方こそが彼の耽美主義的性向を生み、ひいてはあのような終結にまで導いたのだという者もいる。どの意見も傾聴には値するであろう。しかし、やはり彼の「運命」が、強く彼をあのような結末へ導いていたのだ、とわたしは感じる。わたしは運命論者であるから、彼の数々の著作の中に死を賛美し、あるいは死の影が色濃く射しているのを、彼の宿命を暗示する星のように認めることができる。

人は誰しも宿命の星の下に生まれるのだ。人は肉体と運命の二つをもってこの世に生を受けるのである。
わたしは三島に四柱推命でいう魁?(かいごう)という激烈な星があったことを知っている。三島の師とも言われる川端康成にも、また三島が嫌った太宰治にもこの星があった。

たかが星占いと笑う勿れ。運命論者であるわたしには、半ば公人であった三島由紀夫こと本名平岡公威の既に結晶化してしまい、今や見ようとさえ思えば誰の目にも明らかな彼の運命を、運命論の強力な状況証拠として提示したいのである。