言論の自由について

2011/06/05 21:28


ちっとも自由ではないのに、自由だと思っている人はすでに自由の奴隷になっている。

有名なゲーテの言葉である。この言葉ほど自由の本質を的確に説いたものはないのではないか。極論をいうなら、この世に自由などありえない。自由というものは、本質的に存在し得ないのである。すべての人間は不自由を託って生きていかねばならない。金があろうと権力があろうと、同じことである。
自由という言葉は、ときに人の憧れを刺激する。イージーライダーの初めのシーンで、ピーター・フォンダ演じる主人公が時計を腕から外して捨てるシーンに感動を覚えた方も多いことだろう。空を飛ぶ鳥を見て、あのように自由になりたいと思う人も多いかも知れない。
しかし、時計を捨て去ることで、果たして自由が得られだろうか。時間の束縛から逃れることなどできるだろうか。いや、決してそんなことはない。誰しもが、・・・人間ばかりではない、全ての生き物が時間に束縛されて生きている。地球の自転と公転に、そして月の満ち欠けに影響を受けて生きている。老化という呪縛から逃れられずにいる。
空を飛ぶ鳥にしてもこの例外であるはずがない。彼らは、より時間とそして空間の支配を受けている。黄昏時になると、カラスはカァカァ鳴きながら自分の巣に戻らねばならない。その大きな木のどの枝のどの辺りに自分の居場所を定めるかは、その社会的地位によって決まっている。好きなところに寝場所を選べるわけではないのである。

そして、言論の自由についてだが、これも幻影である。言論の自由は、他の自由と同じように現実には有り得ない代物である。
わたしたちは、普段友人なりと何気なく話しているときにも、ふとこれに気が付くことがある。ああ、今俺が言おうとしていたことは、決して彼の前では言ってはいけないことだった。ああ、言わなくて良かった。こんな風にそっと胸を撫で下ろしたことは誰にも一度や二度はあるのではないだろうか。
友達とのおしゃべりでさえこうなのだから、こういう公開日記にしても同じことである。わたし自身も、言葉というものに細心とまでは言わずともある程度の神経は使っている。
人は長く生きれば生きるほど、様々な傷を負っている。一片の傷も持たぬような人は、生まれたての赤ん坊を除けば皆無であろう。いや、赤ん坊でさえヘビースモーカーの母親のお腹の中で何らかの傷を負っているかもしれない。

だから、以前にも書いたが、筒井康隆氏の「無人警察」が一部の勢力から非難を受けるのは理解できる。言論はときに人を傷付けるからだ。
イスラムの世界でアッラーを冒涜したらどうなるか、これは火を見るよりも明らかである。ここにも言論の自由はない。共産主義の国で共産党を批判したら粛清を受ける。当たり前のことだが、共産主義言論の自由は敵同士だからである。

こうやって考えてみると、言論の自由というものほど頼りなくか弱いものはない。
しかし、もう少し考えてみよう。言論とは、ある思想やアイデアの発表であり、その多くはただ一人の人間が発したものである。その思想なりアイデアが世に広まると、これに不快感や憎悪を覚える者達が現れる。その者達は言葉は悪いが徒党をなし、自分達に不快感を与えた発信者を批判し強い圧力をかける。これでは、個人に勝ち目はない。そうすると、今度はその発信者を擁護する者達が現れ・・・。こうして世の中には様々な対立の構造が生まれる。

結局は、多くの自由と同様に、言論の自由も勝ち取ることでしか得られない。二つのお互いに対立する思想がある。AとB、どちらの思想が世に受け入れられるか。それは争って勝ち取るしかないのである。ただ仮に勝ち取ったとしても、それは決してその思想が正しかったということではない。進化論と同じく、そのときどきの、その時代時代の社会的環境に、その思想がより適応したものであったというに過ぎないのである。

言論に自由はある。ただし、それは高嶺に咲く花のようなもので、ときに大きな危険を冒さねば勝ち取れないのである。