真・善・美

2011/07/30 09:57


藤原正彦さんの「日本人の誇り」を読んでいて、「真と善と美は同じものの違う側面である」という言葉に出会った。
もっともこの言葉は、藤原さんの発明ではなくて20世紀最大の数学者と讃えられるヘルマン・ワイルが発したものである。
藤原さんは自身が数学者であるから、真と美が同じものであるというのはよく理解できると書かれている。これは数学の才能に恵まれなかったわたしにさえよく理解できる、ような気がする。たとえば、オイラーの宝石とファインマンが称した数式である。これは、小川洋子さんの「博士の愛した数式」にも登場するが、

e^iπ=-1  

というものである。

オイラー以前のいったい誰であれば、円周率のπと自然対数の底であるe、そして虚数単位のiの間にこのような関係があることに気がついたであろうか。この式が人類の至宝と呼ばれる由縁である。
わたしは、この式は実にシンプルで美しいと思う。そして、この式には未だ解明されない神意が隠されているに違いないとさえ思うのである。

このように、真と美は切り離すことのできないものである。つまりすべて真実は、どういうわけかわたしたちに美を感じさせるように出来ている。
たとえば絶世の美人を見たとしよう。あるいは、わたしのような美男でもよい。なぜ、人は心を惹き寄せられてしまうのであろうか。いや、人だけではない。鳥や魚にさえ審美力はある。彼らの場合は、大抵雌が雄の美しさに引き寄せられる。普段は地味な色の魚が繁殖期になると婚姻色と言われる美しい色に染まるのは雌に自分の美しさをアッピールするためである。また、燕の雌が雄の長ーい燕尾服の裾に惹かれるのもこのためである。
燕の長い尾羽に雌がどのような魅力を感じているかは想像もできないが、きっとヒトのメスが、オスが腰をくねらせ汗を飛ばしながら愛を歌い舞い踊る姿にキャーキャー声を上げ、ギタリストの長い薬指に失神しそうになるくらい興奮するのと同じ事であろう。
そして、この美しさの裏には実は、種の保存に欠かせないその個体が持つ遺伝的優秀さ、強さが隠されているのである。

さて、ではこれら真・美と善が同一のものであると20世紀最大の数学者が思い至った根拠は何であったのだろうか。
真と美の統一理論は自然科学からの帰納法によって証明する事ができた。しかし、善はきわめて人間的なもの、あるいは命を持つものだけに適用することのできる言葉である。真と美とはすこし趣の違う言葉ではないだろうか。
いや、でも良いのだ。わたしたち人間は人間としての言葉しか語れない。だから、善が極めて人間的な言葉であることは当然である。また、真にしても美にしても同じである。人間として見て、真と美、そして善は同じものであるということなのだ。

藤原さんは、善が真と美と同じものであるということが分かった時のことを次のように述べられている。
「日本人が道徳上の善悪を宗教や論理ではなく、『汚いことはするな』などといった美醜によって判断してきたことに気付いた時、ヘルマン・ワイルの言ったことが単なる哲学的独り言ではないと納得したのでした」