サンダカン八番娼館

2011/08/26 13:14


いつもながらの長文、どうぞご勘弁を。

サンダカン8番娼館という本をお読みになったことがおありでしょうか。そう言いながら、実はわたしはまだ読んだことがありません。ただ、今すぐにでも読んでみたいと思っています。
なぜこれを読みたいと思うようになったかといいますと、文芸春秋今月号の特集に「心に火がつく人生の話」というのがあって、その中の山崎朋子さんのお話(講演)に感動を覚えたからです。

そのお話のタイトルは「真っ黒なごはん」というものでした。山崎さんは底辺にいる女性をテーマに多くのドキュメンタリーを書かれていますが、中でも有名な著書が「サンダカン八番娼館」です。これはからゆきさんと言われる女性たちの境涯について書かれたものです。

山崎さんは、十五、六になると、少女たちは自分たちがどのような目に遭わされるか知ってしまうので、もっと年少の10歳前後の少女が身売りされたと述べておられます。そして、その少女たちは石炭船の真っ黒な穴倉に詰め込まれ、水もろくに与えられない。喉の渇きに堪えられずに穴倉に通ったパイプを歯でかじって穴を開け、その水を飲んだ為に死んだ少女もいた、と。

講演でのお話「真っ黒なごはん」は、山崎さんが熊本県天草市を訪れたときに偶然あるおばあさんに出会った(この偶然というのはおそらく、たとえば何か悩みごとなどがあって本屋に入ったら、真っ先に目に付いた本がその悩みを解決してくれるものであった、というような類の偶然であったのだろうと思います)。そして、何か気になるので、ずっとその後をつけて歩いた。おばあさんもそれに気が付いて、自分の家まで山崎さんを迎え入れてくれた。ところが、その家というのは、家とはとても言えないほどにみすぼらしいものであったそうです。それは、

「・・・二間の座敷に土間だけという、農家としてはおもちゃのようなその家は、低い天井から1メートルもの煤紐が下がり、荒壁はところどころ崩れ落ち、襖と障子はあらかた骨ばかりになっている。座敷の畳はほぼ完全に腐りきっているとみえ、すすめられるままにわたしが上がると、たんぼの土を踏んだときのように足が沈み、はだしの足裏にはじっとりとした湿り気が残るばかりか、観念して座ったわたしの膝へ、しばらくすると何匹もの百足が這い上がって来るので、気味悪さのあまり瞳を凝らしてよく見ると、何とその畳が、百足どもの恰好の巣になっていたのである」

というような有様だったのです。
よくよく話をきいてみると、山崎さんにはこの老婆がいわゆるからゆきさんだったことが分かります。どうやら、山崎さんはこの老婆に気に入られたようで、老婆は彼女にご飯を食べさせたりします。ところが、そのご飯というのが演題の通り稗や粟の混じった真っ黒なご飯だったのです。老婆はしかし、山崎さんになるべく白いご飯のところを食べさせようとしゃもじで選り分けて茶碗によそってくれたのだといいます。
また、このおばあさんは、決して山崎さんがなぜ自分のことを根掘り葉掘り聞こうとするのかを決して聞こうとはしませんでした。不思議に思った山崎さんがある日、このことをこのおばあさんに聞いてみると「おまえさんが話したくないことを、わしが聞くことはなかろう」と答えたそうです。山崎さんは、読み書きも出来ない女性ではあるが、本当の教養というものをこの女性に見た、ということを書かれています。

山崎さんは、結局3週間、途中東京の自宅(柿の木坂に家を借りて学生用に賄いつき下宿を営業していたそうです)と天草を行き来しながらこの老婆の取材を続けます。そうして500枚にも及ぶ作品が完成しますが、山崎さんは4年間出版を見合わせたそうです。それは、本を出してしまうと、老婆をはじめ多くの関係者に迷惑がかかることを恐れたからです。しかしある日、老婆に会うと「ともこ。あの本はどうした」と聞いてきました。それで山崎さんが事情を話すと、「ともこ。おまえには字があるじゃないか」と、初めてみる険しい表情で彼女を咎めたといいます。

このとき山崎さんは、はっきりと老婆の言葉の意味を理解したそうです。文盲の老婆は、もちろん本を読むこともできません。しかし、山崎さんを介して自分の生涯について世間に語り掛けることができる。そのために山崎さんの取材を受けたのです。
サンダカン八番娼館には、副題がついています。それは底辺女性史序章というものです。まさに、この老婆は世の中の底辺を徘徊した女性でした。このころの日本は、このように不幸な女性をたくさん生み出してしまうほどに貧しかったのです。

山崎さんはこのように書いています。ある会員制の講演会に会員でない方がどうしてもお話を聞かせてほしいと紛れ込んだのだそうです。山崎さんの取り計らいで、この老男性は前の方の席で真剣そのものに聞いていたそうです。そして、講演が終ると、山崎さんに歩み寄り涙ながらにこう語ったといいます。
わたしは、お話を聞かせていただきましたが、自分の過去の罪を悔やんでいます。いまわたしの身体の節々が痛みますのも、あのとき親方にいわれて、あのいたいけな少女たちを鞭で打った、その罰が当っているような気がしております。

わたしがなぜ、このような話をトピに上げたかといいますと、確かに日本は貧しく、小さな娘を身売りしなければならないようなときがありました。226事件なども、このような惨状に堪えられずに起こったというようなことも言われています。しかし、そのような暗い時代があったことは仕方がなかったのだと認めるとしても、なぜそのように酷い目にあった少女が、本当に九死に一生を得て、運よく生き延びた女性が、なぜ上に記したような悲惨な生活を送らねばならなかったのか。それに比べ、わたしたちは軍に強制徴用された従軍慰安婦などとまくしたてながら、その実は日本軍の将校の給料などよりもはるかに多くの金を荒稼ぎをしていた朝鮮の売春婦たちには手厚く保障がなされている。そのことにまったく納得がいかないからです。