Paradise Lost

2011/08/29 14:15

ある麗らかな浅春の日曜日、指を絡ませながら、トオルとミアは市の公園を歩いていた。

昼下がりのSOLが、ミアの白いカーディガンやベージュ色のプリーツスカートの皺にスミレ色の柔らかな影を作っている。――最近SOLの力が衰えてきているようだ。トオルは、真っ白なTシャツの肩にカーキー色をした革のブルゾンを指で引っ掛け、ミアに合わせてゆっくり歩きながら、そう思った。SOL――それは二人がいつごろからかそう呼ぶようになった太陽のことだ。しかし、二人は、そのSOLという言葉に何か象徴的な意味があるように漠然とは感じながらも、その正体がつかめないでいた。

二人の歩く道の両側にはレンガ造りの花壇がまっすぐに伸び、色とりどりの花が微かに風に揺れている。
ふたりは、終始無言だった。ただ、その手は固く結ばれていて、それを介して密やかな会話が交わされているかのようにも思えた。

やがて、二人は公園の奥の少し小高くなった場所で休憩をとることにした。そこからは広い公園を一望することができた。この高台を挟んで公園とは反対の側に動物園と植物園があり、そこには世界中から希少な動物や植物が集められていた。この小さな人口わずか千人ほどの市が誇る施設だった。
小さな四阿のベンチに仲良く腰をかけ、二人は近くの自販機で買ったコーラのプルトップを開ける。炭酸のはじけるプシュッという音。

そのとき、ミアはトオルがあっと小さな叫び声を上げたような気がした。
「なに」と彼女は怪訝そうに顔を傾けた。その頬はここに来るまで坂道を大分歩いたせいでばら色に上気している。
「いや。なんでもない」そう言いながら、トオルの顔はコーラの缶を見たまま凍りついたようになっている。
トオル」ミアの声は自然に高くなった。「どうしたの。顔色が悪いわよ」
トオルがミアに向き直った。
「いや。急に大事な用を思い出した」そう言うなり、彼は立ち上がった。
ミアは泣き出しそうになるのを堪えながら、何も言わずトオルにならって立ち上がった。それで、その日のデートは終わりになった。こんなことはミアには初めての経験だった。

ミアは、家に帰っても少しも落ち着かなかった。悲しさと屈辱感とで胸が張り裂けそうだった。あれほど好きなトオルがひどく憎らしく思えた。
彼女は、ソファに横になり、溢れる涙に喉を詰まらせた。止め処も無く涙は溢れてくる。
彼女は涙を指で拭った。そのとき、左手の中指に小さな逆むけを見つけた。何の気なしにその小さな皮を剥いたとき、心臓がコトンと一つ空打ちした。
彼女は慌ててソファから起き上がった。そして右手で左手を握ったまま、その逆むけをよく目に近づけて見た。
その小さな三角形の傷は、何か新聞紙に開いた小さな穴のようで、その向こうからは銀色の光が溢れ出ているのだった。
「な、なに、これは・・・、いったいなにが、どうしちゃったの」
ミアの悲しみは一瞬にして恐怖に変わっていた。
彼女は、慄く足で薬品箱をさがした。あちこち行ったり来たりを繰り返しながら、やっと棚から薬品箱を降ろす。蓋が開いて、中身が床に散らばった。それにも構わず、バンドエイドを見つけると中指に巻きつけた。ただ、本能的に傷を隠したい一心からだった。
傷を塞ぐと、彼女は次に携帯を探した。何度も何度もトオルにかけようかかけまいかと迷った携帯はソファの上にあった。
今度は、彼女は躊躇なくトオルにかけた。
トオルはすぐに出た。
トオル・・・」後は声にならない。
「ミア・・・」トオルの声もこころなしか震えているようだ。
トオル。ひょっとして・・・」
「ああ。ミア、君もか」
ミアは、あのとき、トオルが黙り込んだ理由が一瞬で理解できた。
「あのとき、コーラの缶を開けたときに何かを見たのね」
「ああ。缶の底には別な世界が広がっていた」
「別の・・・」
「ああ。とにかく、ミア、ぼくはこれからそこに行こう」

いまミアとトオルは、ソファに肩を並べテレビを食い入るように見ている。画面は大変な異変を映し出していた。警察車両や救急車や報道用の車両がトンネルの前で赤や青や黄色のランプを明滅させ、警官や報道員たちが慌しく動き回っている。
映像は、トンネルの口を大きく映し出しているのだが、それはあまりに異様な光景だった。トンネルの穴の部分は、ミアが自分の指の逆むけ傷に見たのと同じような銀色の光を放っていた。しかし、それは決して単なる水銀灯の放つような光ではない。その光は、向こうにあるまったくこちらとは異種の世界の光景を映し出しているのだった。
その光景とは、冬の、雪に包まれた銀色の世界だった。
それを見たとき、トオルの心にも、そしてミアの心にも、何故か物悲しくも懐かしいような思いがひたひたと満ちてきた。
「世界が剥がれかけてきたんだ」とトオルが叫んだ。「この世の虚飾という虚飾がメッキのように剥がれ落ち始めた」
ミアは青ざめた顔でトオルを見た。
「SOLの力が無くなってきたのね」
「ああ。ぼくたちが帰るべき本当の季節が訪れたんだ」

そうしているうちにも、あらゆるものの穴や傷から、トオルの言う虚飾が剥がれ落ちていった。まるでジグソーパズルのピースがパラパラと剥がれ落ちてゆき、美しい春を描いた絵の裏に暗い冬の絵が隠されていたかのように、そこからは銀色の光とともに冷気が漏れ出した。
二人はいつの間にか、真冬の中に裸の姿で放り出されていた。空は鉛の薄板を何枚も重ねたごとく重く垂れ下がり、いつ果てるとも知れぬ小さな白いかけらがまき散らされていた。
トオルとミアは手を取り合い、泣きながら裸足で雪降る市を彷徨い歩いた。

そして、ついにテレビが映し出していたあのトンネルへとたどり着いた。
二人は、吸い込まれるように中へと入っていった。
薄暗い中を歩くうちに、二人は広大な地下の空間に出た。そこには繭のような形をした無数のカプセルが整然と並んでいた。
やがて二人は目指すカプセルを見つけた。それは、二人用のカプセルであり、その透明な液体を満たした中で裸のまま手を取り合って眠っているのは、自分たち二人の姿であった。
今、二人はすべてを思い出すことができた。SOL。それがその計画のコードネームだった。それは、Seed Of Lives の略で、第二のノア計画とも言われた。

今を去る20年前の4月、地球は監視体制を逃れたアテン系の大隕石によるディープインパクトに見舞われた。これにより地上は焼き尽くされ、空は粉塵に覆われた。陽の光は閉ざされ、地表は熱を失った。いつ終わるとも知れぬ冬が地球全体を覆った。
しかし、わずかに生き残った人類は、生命絶滅の危機に立ち上がった。一部の選ばれし者と地上に存在する多くの動物や植物の種を救うべく考え出されたハイバネーション計画。それがSOLだったのだ。
しかし、人工冬眠装置を維持するための太陽とも言うべき燃料電池に限界がきていた。燃料の水素がなくなり、もはや計画の維持は不可能となった。トオルが太陽の力が弱くなってきたと感じたのはこのせいだったのである。

コンピュータは、ついに最後のオペレーションを行使し始めた。それは、人類を一度夢から覚醒させることだった。その後にはただ死が待つだけであるとしても、真実は伝えねばならない。これがコンピュータにセットされたプログラムだった。
トオルとミアは、ハイバネーションカプセルの中で眠っている自分たちの肉体に浮遊霊のように吸い込まれていくのを感じた。
今、二人の心は平安に包まれていた。安楽死用の薬液が恒常性維持装置を通じて二人の血中に注ぎ込まれていた。
トオルとミアはいっそう強く手を握り合い、また二人して公園にデートに出かけるかのように静かに旅立っていった。