白昼夢2

2011/08/29 23:53


わたしは墓前に手向ける花を用意すると、彼の家を訪ねた。実は、彼の家はお寺だった。今は代替わりして、本来であればMが跡を継ぐはずであったのであろうが、彼の妹であるNが婿をとって寺をつないでいるのだった。
そのお寺は、小学校の裏手にある小高い山の上にあった。そこには、何百段あるとも知れぬ石段を上がっていかねばならなかった。石段の両側には錆びた鉄パイプ製の手摺があり、わたしは右手でその手摺を握り、一段、また一段と上っていきながら、心臓の弱かったというMは毎日この石段を上り下りして学校に通っていたのだ、という感慨に打たれた。
石段を登りきったと思ったが、それで終わりではなかった。開けた場所に出ると、そこには大小様々な墓石が並んでいた。その墓地の真ん中の狭い平らな石の敷かれた道を進むとその先にまた同じように石段があった。それを上りきってようやく大きな門に辿りついた。
予め訪ねていくことは伝えていたので、Nさんはわたしを快く迎えてくれた。そして手桶と柄杓を持つと、さぁ行きましょう、とばかりにわたしの先に立った。
Nさんは、柄杓を入れた手桶を左手に軽やかな足取りで急な石段をおりてゆく。わたしは、右手で手摺を持ちながら、上がってくるときには気がつかなかった光景にはっと息を呑んだ。木立に囲まれた墓地の向こうに木造の小学校や家並みが見えるのだ。
Nさんは、Mの墓の前で静かに両手を合わせた。わたしも、その隣に立ち半ば後ろめたい気持ちのまま両手を合わせた。
墓石の花立にはすでに真っ白な百合が差されていた。わたしは、少し考えながら花束を二つに分けると、左右の花立に立てた。
わたしがお線香にライターで火を点けて香炉に立てているうちに、Nさんは手桶に水を汲んできて柄杓で掬うと丁重な慣れた様子で墓石の頭にかけた。水は黒い滑らかな石の上で四方に分かれ小さな白い滝となって落ちた。

そのときだった。わたしの頭の中で若い男の声が響いたのである。
「Kさん。きょうはよく来てくださいました。ぼくは、あなたに感謝を申し上げるとともにお詫びをしなければなりません。ぼくは、Yさんに会いたいがためにあなたの夢に忍び込んで、あなたを利用しました。そのために、あなたをとても困った状況に追い込んでしまいました。本当に申し訳ありませんでした。
もうお気づきになっていることとは思いますが、あなたの友人であるSは、わたしの高校時代の親友でもありました。ある偶然からSはあなたと同じ会社に入り、そしてあなたの友人となりました。そして、これもまた偶然ながら、Sは大事にしてくれていたわたしの小説の掲載された同人誌をあなたに差し上げた。それをあなたはとても熱心に読んでくださいました。そのおかげで、あなたの記憶の中にいつしか架空の、わたしの記憶が住みつくようになったのです。わたしはこのことを利用したのです。
もちろん、あなたもご承知のように、あなたはこの下に見える小学校に通ったこともなければ、この土地が故郷の人でもありません。しかし、あなたは何度も何度もわたしの小説が誘導させた夢を見たために、あたかもこの土地に住んでいたような気にさせられていたのです。
そして、今あなたがお気づきになっておられるように、ぼくは、あなたがロスアンジェルスでYさんに会うことになっている、その運命を利用しました。
おかげで、ぼくはYさんに会ってお話をする楽しいひと時をもつことができました。心からお礼を申し上げたいと思います。ほんとうにありがとうございました」

「そんな莫迦な・・・」とわたしは、思わず口走ってしまった。
「えっ」とNさんがわたしの顔を見た。
「いえ」とわたしは、とっさに思いついた言い訳を口にした。「こんな若さで死ななければならなかったとは・・・」
「はい。兄は、もともと身体が弱く、医者からも長くは生きられないであろうと言われていました。しかし、なにも服毒自殺などしなければ良かった」
「自殺?」わたしは驚いた。
「はい。これはあなただけに話しますが、兄にはずっと好きなクラスメートがいたようなのです。しかし、兄は一度もそれを相手に告白することなく、死んでいきました。ただ、自分のその思いを一遍の小説にだけ託して」

風が墓石の花を揺らしていた。木々の隙間を通して見える小学校の校庭からはこどもたちの楽しそうな歓声が聞こえてくる。
「そうか」とわたしは思った。「MはそれほどにYさんに会いたかったのだ。このわたしの身体を借りてでも、会いたかったのだ。

わたしは、あの明け方にたびたび襲われた切ない夢のことを思った。あのときの切なさこそがMの切なさだったのだ。
わたしは、Nさんから手桶を受け取ると、万感の思いを込めて柄杓で水をかけた。