白昼夢

2011/08/29 21:39

 

もう何年前からだろう、歳をとったせいなのか、それとも友人がくれたある小説に一時のめり込んでしまったせいなのか、ちょくちょくと同じ、それもとても奇妙な夢を見るようになった。
いつも明け方にその少女はやってきて、わたしをとても幸せな気分にさせてくれるのだが、それはほんの束の間ですぐに目が醒めてしまい、つい今しがたの天にも昇るような気分とは打って変わった寂しく切ない気持ちに襲われ、布団の上に座ったまま、いったいあれは何だったのだとしばし考えこんでしまうのである。ほんとうに、わたしの過去にあんな少女がいただろうか、と。
そして、よくよく思い出してみると、わたしには小学生のころからずっと好きだった山口裕子という名の女の子がいて、小中高と12年間一緒だったのだが結局ただの一度も自分の気持ちを伝えることなく、好きだという素振りさえまったく見せず、高校卒業と同時に道はきれいに二つに分かれてしまった、というような「微かな記憶」がある。しかし、それが本当に現実のことだったかというと、もはや判然としない。たしか彼女は国立へ、そしてわたしはといえば、決して一流とは呼ばれない大学へと進学し、そこで道は分かれた・・・、しかしそれも本当のことかどうかははっきりしなかった。それが本当に現実にあったことなのか、それとも夢と現実が入り混じってしまったのか、同じような夢を何度も何度も見るせいでどちらとも分からなくなってしまったのである。

そして、その夢というのも、最初に述べたように、あるいは、わたしの友人でもあり同僚でもある鈴木和巳がおもしろいから読んでみろ、といってわたしにくれたたかだか数十ページほどのところどころ黄ばんで手垢やコーヒーをこぼした跡の残る同人誌に載せられた小説のせいかも知れなかった。
小説は「白昼夢」という平凡なタイトルの恋愛小説であったが、そのありふれたタイトルからは想像もできないほどにわたしは感情を揺すぶられ、これほどのものがなぜ広く世に出なかったのだろう、と何度も何度も読み返しながら不思議に思ったものだった。作者名は多田一牛とあったが、これはペンネームであろう。
わたしは、鈴木にこの小説はいったい何だ、と尋ねた。そのとき鈴木はただ、自分の高校時代の同級生の作品だ、というだけで、わたしもそれ以上の詳しいことは聞かずじまいだったのである。

わたしは、二流大を卒業するとすぐに世間に少しは名の知れた電気工事会社に勤めるようになった。確かにこれは疑うべくもなく現実のことである。
そしてこれは夢などではなく、もう裕子との道は二度と交差することはないだろうなどと夜寝るときなどに漠然と思うのだが、そんなときにはっと夢から醒めたように、果たして本当に山口裕子などという同級生が存在したかどうかを論理的に考えてみると、どうにも辻褄の合わないことが多く、ひょっとするとわたしの脳は、満たされなかった青春時代の何かを補償するために夢の中で幻想を作り上げているのだろうか、と思ったりもするのだが、ただ、たとえそれが幻想であったとしても、裕子の姿や声は極めて鮮明であり、わたしはだんだんと、それが現実のことであったと確信するようになっていった。

しかし、その夢も月日が過ぎるにつれ次第に見なくなり、仕事の忙しさにかまけていつの間にか裕子のことも頭の片隅へと追いやられていた。
やがてわたしは定年となった。息子二人もすでに会社勤めをしていたから、家でごろごろして女房といつも顔を付き合わせるのはまっぴらごめんと、次の就職先を運良くみつけ、というより、前の会社の縁でその関連会社にもぐりこんだ。

そうして、話は飛ぶのだが、その会社は小さいながらも海外に支店を持っていて、ある日社長がわたしに「Kさん、英語の方は・・・」と聞いてきたのである。わたしは確か履歴書に「英語は英検準1級のレベル」と書いたなと思い出しつつ、なぜそんなことを、と不審に思ったことを憶えている。
それがわたしにロスへ長期出張してもらいたいという意味であることは、その翌朝に分かった。
「ロスへですか・・・」とよっぽど口に出かかったのを無理矢理に押し込んで、「いつからでしょう」と聞くと、「実は新しい商談がまとまった。というより、うちに転がり込んだ。なんでもA社が何か大きなミスをしたらしく、急遽わが社にやってもらえないかとM商事から親会社に話が来たらしい」
「そうですか。すると、ことは急を要しますね。わたしは明日からでも構いません」と腹にもないことを言ってしまった。
そんなわけで、話はその日の昼食中に決まった。社長と秘書とわたしの上司であるBで鰻を食べながらである。秘書は、すでにロスへのチケットを取ってあるという。アパートさえすでに用意してあった。わたしはすでに俎板の上の鯉だったのであり、しばらく落ち着くまでは単身赴任になるが、どうぞよろしく、ということであった。

それでその肝心の話なのだが、実はこのロスで起こった。というより、ありていに言えば、ロスでの仕事のパートナーが山口裕子だったのである。
しかし、奇妙なことに・・・、大変おかしなことには、裕子は初対面の挨拶の時からわたしを完全に無視した。わたしなどまったく知らないという素振りをみせたのである。もちろん、わたしは彼女を見たときにあっと声が出るほど驚いたのに、である。彼女は、わたしという小中高を通して自分と同級であった男に、まったく気がついていないふりをしたのである。
これほどの侮辱、ショックはなかった。最初は、それでも他人の空似かとも思ったが、山口裕子という名前も年齢も、そして出身大学もわたしが知っている通りだったのである。
それでもわたしは、赴任の挨拶が済んで彼女が自分のブースに戻ろうとするのを追いかけて声をかけた。
「もしも間違いでなければ良いのですが、あなたはX市のZ高校出身ではありませんか」
「ええ。どうしてそれを」彼女は怪訝そうな顔をわたしに向けた。
わたしが畳み掛けるように
「昭和○○年に卒業されましたね」と言うと、
「いったい、あなたは・・・」そう言って絶句した。
「おかしいなぁ。なぜ、惚ける必要があるんです。あなたとわたしは会社こそ違え、同じ目的に向かって協力しあうパートナー同士ですよ」
「しかし、そのこととわたしの出身がどういう関係があるのですか」彼女は詰るようにわたしを見た。
「わたしのことを全く憶えていない、と仰るのですか・・・」わたしは、呆れ返ってしまった。
「あなたのことを・・・」
「わたしとあなたは同じ小学校、中学校、そしてZ高校に通い、あなたはK大に進学して、わたしは二流の私立に入った。そこで、確かに道は分かれたが、少なくとも12年間、わたしとあなたは同じ学校に通った。いいですか、わたしはあなたの家のことまで良く知っている。あなたの家は、A線沿いの田んぼの中にあって、大きな庭と立派な木立に囲まれた、百姓家ながら随分と大きな家だった」
「分かりました」と彼女は言って少し頬を緩めた、ような気がした。「あなたの仰っていることは良く分かりました。しかし、わたしにはあなたにお会いしたという記憶がまったくないのです」
わたしは唖然とした。もはや何も言葉が思い浮かばなかった。いったい、彼女は何を言っているのだ。たしかに、お互いに顔を見なくなって早や43年の歳月が流れた。しかしこれでは、三島の豊穣の海の結末と同じではないか。その第四巻、天人五衰の最後で本多は自らの死期を悟り、月修寺に尼になった聡子を訪ねる。
「春の海」に描かれた松枝清顕と聡子との悲恋からはや60年が過ぎている。門跡となった聡子は、本多をまるで初めて見る人のように応対する。そして聡子はその本多に、「春の雪」の中であれほど愛しあい、そのために自らが出家するはめになった清顕のことをこのように訊ねるのである。
「その松枝清顕さんという方は、どんなお人やした」

わたしはしばし言葉を失っていたが、それでも、
「分かりました。わたしの勘違いだったようです」と言って、わたしに与えられたブースへと向かった。
「あのう・・・」と彼女がそのわたしの背中に呼びかけた。
「何か思い出しましたか」わたしは、立ち止まったまま言った。
「いえ。でも、今のお話、大変に気にかかります。いつかで構いませんので、もう少し詳しくお聞かせ願えませんか」
振り向いて彼女を正面から見ると、今度は、その真摯な表情と話しぶりに、立てていたはずの腹が何かきゅっと引き絞られるようになって、これはいったい・・・、狐につままれるとはこのことかと暗澹たる思いになった。

それから数日が経ち、わたしと山口裕子とは、それは週末で皆が早めに仕事を切り上げる日と暗黙の了解が職場の隅々にまで行き渡っていて、そして声をかけてきたのは彼女のほうで、どこか静かな所でこの間のお話の続きをお聞きしたいと言ってきたのだ。
ジャカランダが目に染みるような青い花を咲かせている。空気は乾燥しており、やや肌寒い感じがした。わたしたちは事務所の入ったビルを出ると通りを2ブロックほど歩いて、こぢんまりとしたイタリアンレストランに入った。もちろん、彼女がストレンジャーのわたしの肩を押すようにして入ったのである。

席に着くと、彼女がビールを注文した。わたしも喉が渇いていたので、同じように注文した。
そして、彼女はメニューをわたしに寄こして
「ここのパスタはほんとうにおいしいのよ」と言った。
「わたしは余りスパゲッティなど食ったりしないのだが、それでもイタリアンレストランに入った以上は日本でいうナポリタンとやらいうあの真っ赤なトマトのソースを載っけたものを食ってみたくなって、半ば知ってはいたのだが、彼女に、
ナポリタンを食べてみたい」と言ったら、案の定
「あはは」と笑って、このときわたしは、あのわたしを虜にしたチャーミングな笑い方がまったく変わっていないことに気がついた。そして、考えてみればこれが彼女との生まれてはじめてのデートになるのだ、などと事態の深刻さをよそに勝手なことを思ったりした。
「それに似た料理をお願いしてみるわ」と彼女は言って、ウェイトレスを呼ぶと、英語ではなく流暢なイタリア語で20秒くらい、小柄でスマートな頬の赤い彼女に話した。ウェイトレスはちょっと屈んで最初はやや堅い表情で彼女の口元に耳を近づけて聞いていたが、ふとわたしを見て明るく笑ってオーケーと言うと料理場に何かとても早口で声を掛けた。
そんな細かいことも良く憶えているが、本題のほうといえば、まったく理解不能で、本当にこの世のことかと思うばかりだった。
琥珀色のグラスが二つすぐにやってきた。それを合図に彼女が話し始めた。
「あなたのお話を聞いてからというもの、わたしは本当に混乱しています。あなたとわたしがクラスメートだったなんて、とても信じられません。第一、わたしはあなたのお名前も存じ上げませんでした。これはいったいどういうことでしょう」彼女は、ビールを一口飲むとそう切り出した。しかしそう言われても、こちらの方が混乱するばかりである。わたしは、正直にその気持ちを伝えた。
「わたしにも分からなくなってきました。確かにわたしはあなたをよく知っている。これは嘘ではありません。それが証拠にあなたはわたしが言ったことを否定されなかった」
「ええ。あなたがお話になったわたしの過去や家についてはまったくその通りです。いえ、その通りとしか言えません。しかし、わたしは、あなたがわたしのことを事前にお調べになって、それで何かプラクティカルジョークのようなものをお仕掛けになっているようにしか思えないのです」
「プラクティカルジョーク」わたしは絶句した。「・・・いくらなんでも、そんなことをわたしはいたしません」そう言いながらも、心は何かとんでもない事態に陥ってしまったことに縮み上がってしまっていて、気の利いた言葉の一つも出てはこないのだった。

そんなわけで、初めて食うことになった本場?のナポリタンにも感激することなく、むしろそれは砂を噛むように思われ、ただビールで無理矢理喉に流し込むだけだった。
話は弾まず、食事を終えると膝においたナプキンで二人揃えたように口を拭った。
わたしは、財布から1ドル札を取り出すと汗の滴るグラスの下に敷いて、彼女の顔を見た。
「もう一度、お話をしましょう。今日はわたしがお勘定を持ちます」
彼女は黙ってうなずいた。

それからの一週間、わたしはどのように過ごしたかまったく憶えていない。しかし、再び彼女と同じレストランで食事をしたときのことは終生忘れることはないであろう。
そのときに気が付いたのだが、そのレストランの名は rosa blu 日本語に訳すと青い薔薇であった。わたしは、青い薔薇の意味を知っていた。そして、まさにこの名はわたしたちのこの状況に相応しいと思った。青い薔薇、すなわちそれは有り得ぬこと、あるいは叶わぬ望みを意味する言葉である。

彼女の提案で、相手が先週食べたものを食べることになった。そしてまずビール。彼女は紺のスーツ姿で淡いピンクのブラウスの襟元には黄色いアスコットタイが巻かれていた。そうやって見ると、彼女はとても若々しくとてもわたしと同じ年齢とは思えない。わたしは軽いショックを受けた。
「Kさん」先週と同じように、彼女はビールを一口飲むと語りかけた。「わたしは、先週ここでお話をしてからずっとわたしの子供のころのことを考え、調べ続けていました」
「それで、何か分かりましたか」わたしは、緊張に口が渇くのを覚え、ビールを取って口に含んだ。
「はい」と言って、彼女はわたしの顔を何とも言えぬ表情で見た。
わたしはごくりとビールを飲み下した。「それで何か発見がありましたか」
「ええ。ありました。わたしは小中高時代の卒業アルバムを全て見ました。そこにはあなたの写真も名前もありませんでした」
「なんですって」わたしは思わず声を上げた。「そんなはずはない。・・・しかし、あくまでそう仰るなら、わたしは日本からアルバムを送らせて、わたし自身の目で調べてみます」
彼女は、やや緊張した面持ちで「ええ。そうしてみてください」と答えた。
しばらく、重たい時間が続いた。しかしわたしは、驚いてはみたものの別に腹を立てたわけではないし、彼女の方もまたわたしに対して悪感情をもっているのではなかった。ただ、お互いに気まずくなってしまっただけなのだ。
ほどなく、わたしたちはどちらともなく会話を再開した。差しさわりのない料理の話をきっかけに、胃にはまだ鈍重な塊のようなものがあったが、わたしはフォークを口に運びながら、先週わたしもこれを頼めば良かった、と冗談を言うだけの余裕はあった。
そして、彼女がついに躊躇っていたらしいことを口に出した。
「一つだけ、とても気になったことがございましたの」
わたしは、はっとして彼女を見た。その拍子にフォークがビアグラスに当ってキーンと澄んだ音を立てた。
「何でしょうか」
「高校の卒業アルバムに一人だけ集合写真の中ではなくて、楕円形の枠の中に入れられた生徒がいました」
「つまり・・・、卒業前に亡くなったということですか」わたしは、右手のフォークを宙に浮かせたまま言った。「しかし、わたしはそんな話を聞いた記憶がありません」
「ええ。わたしもすっかり忘れていました。しかし、アルバムを見て、ようやく思い出したんです、その男生徒のことを」

わたしの頭はこのとき、目の前の空っぽのビアグラスになってしまって、頭そのものがキーンという微かな高周波音を発している・・・、そんな虚ろな状態になってしまっていた。
「それで、その生徒はどういう男だったのですか」わたしはそう言いながらも、その声が決してわたしの口から発っせられたものではないもののような気がしていた。
「わたしは、その生徒がわたしに好意を持ってくれていることを知っていました。何か告白されたとか、そういうことではありませんでしたけれども、わたしには何となく分かったんです。しかしわたしは、その青白い病弱な生徒のことが好きではありませんでした。彼は、創作部に所属していて時折小説や詩を発表していました。わたしは、その小説を一度読んだことがあります。それは恋愛小説でした。
その内容は今となってはよく思い出せないのですが、その小説の中のヒロイン、つまり主人公の恋愛の対象の女性がわたしではないか、他の女生徒は気付かなくともわたしにはそれと分かるようにディテールを設定してあるような気がしました。
小説としては大変に優れたものであると感じましたが、そのようなこともあって、わたしにはその小説もまたそれを書いた男生徒も好きになれないばかりか、反って嫌いになってしまったのです。と言いますよりも、すでにわたしにはそのとき、クラスメートに意中のひとがおり、彼とは同じ大学を目指してお互いに励ましあっていたのです」
彼女はここまで一気に話すと、ちょっと疲れたように俯いた。
「それで、その亡くなった生徒は、なぜ・・・、まさか・・・」
「その生徒はもともと病弱だったようです。心臓に欠陥があって、噂によると、医者からも余り長生きはできないと言われていたそうです」
「すると彼は、・・・その生徒は、そのことを知りながらも、あなたのことが好きで、といって病弱な身ではそれを告白することも出来ず、せめて小説にでもと、その小説を書いたのかも知れませんね」
わたしは、わたしの言が彼女を傷つけることになるかも知れないな、と思いつつもそう口に出してしまった。
「ええ」と彼女は顔を曇らせた。それを見て、わたしは自分を悔いた。
「しかしそのことと、わたしたちのこの変な齟齬とにどういう関係があるのか、さっぱり合点がいきませんね」
「はい。その通りなのですが、わたしにはなぜかこのことが気になってしようがなかったのです」
「そうですか」とわたしは切り出した。「それで、その男生徒は何という名前だったのですか」
「牟田口一生と言いました」
「そうですか。しかし、そう言われても、やはりわたしにはその生徒についての記憶が何もありません。・・・ますます謎は深まるばかりです」
「ほんとうにおかしなことです」そう言って、彼女はわたしの顔をまじまじと見た。その表情にわたしに対する疑念がありありと見てとれた。
結局、今回の話し合いでも解決には至らなかった。ただ、わたしには彼女の話した牟田口一生がこのミステリーの鍵を握っているように思えた。

それと、これは店を出て彼女と別れてからのことであるが、彼女の語った牟田口一生の小説のことがふと頭を過った。まさか、とわたしは即座にその考えを頭から振り払った。そんなオカルトめいた話があるわけがない。こんなことを彼女に確認することさえばかげている。そう思って、わたしは彼女にわたしの友人の鈴木のこともまた「白昼夢」のことも聞かずじまいだったのである。

それから三ヶ月が過ぎ、わたしは一週間ほど日本に帰る機会を得た。そのとき、わたしはわたしの出身地へ帰郷して牟田口一生のことを調べようと思ったのだ。
まずわたしが行ったのは、山口裕子の話が本当かどうか、牟田口一生の墓の存在を調べることだった。

わたしは墓前に手向ける花を用意すると、彼の家を訪ねた。実は、彼の家はお寺だった。今は代替わりして、本来であれば彼が跡を継ぐはずであったのであろうが、彼の妹である紀子が婿をとって寺をつないでいるのだった。
そのお寺は、小学校の裏手にある小高い山の上にあった。そこには、何百段あるとも知れぬ石段を上がっていかねばならなかった。石段の両側には錆びた鉄パイプ製の手摺があり、わたしは右手でその手摺を握り、一段、また一段と上っていきながら、心臓の弱かったという牟田口一生は毎日この石段を上り下りして学校に通っていたのだ、という感慨に打たれた。
石段を登りきったと思ったが、それで終わりではなかった。開けた場所に出たのだが、そこには大小様々な墓石が並んでいた。その墓地の真ん中の狭い平らな石の敷かれた道を進むとその先にまた同じように石段があった。それをようやく上りきってようやく大きな門に辿りついた。
予め訪ねていくことは伝えていたので、紀子さんはわたしを快く迎えてくれた。そして手桶と柄杓を持つと、さぁ行きましょう、とばかりにわたしの先に立った。
紀子さんは、柄杓を入れた手桶を左手に軽やかな足取りで急な石段をおりてゆく。わたしは、右手で手摺を持ちながら、上がってくるときには気がつかなかった光景にはっと息を呑んだ。木立に囲まれた墓地の向こうに木造の小学校や家並みが見えるのだ。
紀子さんは、牟田口一生の墓の前で静かに両手を合わせた。わたしも、その隣に立ち半ば後ろめたい気持ちのまま両手を合わせた。
墓石の花立てにはすでに真っ白な百合が差されていた。わたしは、少し考えながら花束を二つに分けると、左右の花立てに立てた。
わたしがお線香にライターで火を点けて香炉に立てているうちに、紀子さんは手桶に水を汲んできて柄杓で掬うと丁重な慣れた様子で墓石の頭にかけた。水は黒い滑らかな石の上で四方に分かれ小さな白い滝となって落ちた。

そのときだった。わたしの頭の中で若い男の声が響いたのである。
「Kさん。きょうはよく来てくださいました。ぼくは、あなたに感謝を申し上げるとともにお詫びをしなければなりません。ぼくは、山口裕子さんに会いたいがためにあなたの夢に忍び込んで、あなたを利用しました。そのために、あなたをとても困った状況に追い込んでしまいました。本当に申し訳ありませんでした。
もうお気づきになっていることとは思いますが、あなたの友人である鈴木和巳は、わたしの高校時代の親友でもありました。ある偶然から鈴木はあなたと同じ会社に入り、そしてあなたの友人となりました。そして、これもまた偶然ながら、鈴木は大事にしてくれていたわたしの小説の掲載された同人誌をあなたに差し上げた。それをあなたはとても熱心に読んでくださいました。そのおかげで、あなたの記憶の中にいつしか架空の、わたしの記憶が住みつくようになったのです。わたしはこのことを利用したのです。
もちろん、あなたもご承知のように、あなたはこの下に見える小学校に通ったこともなければ、この土地が故郷の人でもありません。しかし、あなたは何度も何度もわたしの小説が誘導させた夢を見たために、あたかもこの土地に住んでいたような気にさせられていたのです。
そして、今あなたがお気づきになっておられるように、ぼくは、あなたがロスアンジェルス山口裕子さんに会うことになっている、その運命を利用したのです。
おかげで、ぼくは彼女さんに会ってお話をする楽しいひと時をもつことができました。心からお礼を申し上げたいと思います。ほんとうにありがとうございました」

「そんな莫迦な・・・」とわたしは、思わず口走ってしまった。
「えっ」と紀子さんがわたしの顔を見た。
「いえ」とわたしは、とっさに思いついた言い訳を口にした。「こんな若さで死ななければならなかったとは・・・」
「はい。兄は、もともと身体が弱く、医者からも長くは生きられないであろうと言われていました。しかし、なにも服毒自殺などしなければ良かった」
「自殺?」わたしは驚いた。
「はい。これはあなただけに話しますが、兄にはずっと好きなクラスメートがいたようなのです。しかし、兄は一度もそれを相手に告白することなく、死んでいきました。ただ、自分のその思いを一遍の小説にだけ託して」

風が墓石の花を揺らしていた。木々の隙間を通して見える小学校の校庭からはこどもたちの楽しそうな歓声が聞こえてくる。
「そうか」とわたしは思った。「彼はそれほどに山口裕子さんに会いたかったのだ。このわたしの身体を借りてでも、会いたかったのだ。

わたしは、あの明け方にたびたび襲われた切ない夢のことを思った。あのときの切なさこそが彼の切なさだったのだ。
わたしは、紀子さんから手桶を受け取ると、万感の思いを込めて柄杓で水をかけた。