佐伯啓思氏の「反・幸福論」を読む

2012/01/31 17:04


日曜にこの本を買って、本日電車の中で読み終えた。
佐伯氏については、産経新聞のコラム欄に書いておられるのを時折読ませてもらって、そのたびに共感を覚えるというか、わたしの弛んでささくれ立った心の琴線とやらに触れるものを感じていたから、新潮でこの本の存在を知るや否やすぐに読みたいという気になったのである。いや、何よりもそのタイトルがわたしには痛快なものと思えたのだ。

以前、わたしはこの日記にわたしなりの幸福論を披瀝したことがある。それと佐伯氏の反・幸福論に相通じるものがある、とはとてもおこがましくて言えたものではないが、それでも敢えて言うなら、わたしには氏の思想がわたしの考えに非常によく似ていると思われシンパシーを感じることができた。すなわち、氏がこの書に書かれていることは、まさしくわたしがわたしなりの幸福論で言いたかったことそのものであった。

この本の帯の言葉もまた痛快である。帯は上下に白地と黒地に分かれ、上の白地には「人はみな幸せになるべき」と黒字で書かれており、そして下の黒地には白い文字で「なんて大ウソ!」と大ウソの部分が大書されている。そしてさらに、赤字で小さく、「稀代の思想家が『この国の偽善』を暴く」と書かれている。

わたしは、この帯を見ただけで本の中身が垣間見えたような気がした。そして読み終えてみて、生垣の向こうにあったのが堅固で揺るぎのない建築物であったことを知ったのである。

氏は、はじめにリベラリズムについて述べ、現代社会はこれを基準に動いているとしている。リベラリズムとは、経済学でいうなら「利益」の追求であり、政治学でいうなら「権利」の獲得を目的とするものである、としている。つまり、現代社会における幸福とは、偏にこの利益と権利のことに他ならない。
氏は、管直人前首相の「最小不幸社会」を取り上げ、これはベンサム功利主義からというよりも、人々の多様な権利を認めるというリベラル派の発想からきている、と述べている。
なぜなら、「最大幸福」といえば、具体的に「何が幸福なのか」を定義しなければならない。しかし、「最小不幸社会」といえば、まだしも福祉給付で片をつけることができるでしょう、とこの言葉の欺瞞性を喝破している。
そしてさらに、「確かに、実人生では、トルストイではないですが『幸せの形はひとつだが不幸は様々だ」といわねばなりません。だが、だからこそ、その中身にふれず、最低限の生活をする権利だけは保障しようというのです、と述べ、「これはリベラル派の『権利』の発想にほかならないのです、と書いているのである。

さて、この続きはまた明日書くこととしよう。