天罰について

2012/01/31 22:10


反・幸福論を読んで改めて意を強くしたのは、現代人の幸福とはなんと薄っぺらなものであろうか、ということであった。いや、幸福を追求するなどということがそもそも卑しく浅ましいものなのではないか、と思うのである。

佐伯氏も述べておられるとおり、昨年の311は、人の幸福などというものが砂上の楼閣のごとく儚いものであることを明らかにした。

津波に襲われかけがいのない家族を失った人々、また土地や家屋や財産を失った人々はみな、わたしたちとなんら変わりのない、罪なき人々であった。それをあの大地震津波という巨大で凶暴な手に姿を変えて根こそぎ奪い取っていったのである。

このことを考えるとき、わたしはどうしてもあのヨブの嘆きというものに思いを馳せざるを得ない。神が存在するとすれば、あまりに理不尽な仕打ちだからである。
いや、そうではないのかも知れない。神は、決して人間よ幸福であれ、として人間を創造されたのではない、と考えることもできるからである。

ところで、石原慎太郎東京都知事は、311を「天罰である」と言って世間の顰蹙を買った。佐伯氏も本書の中で石原都知事のこの言葉を引いて、一章を起こしておられる。
もちろん、佐伯氏も擁護されている通り、石原氏は罹災された方々に対して天罰が下ったと言ったわけではない。誤解や曲解を招きやすいことを敢えて口にしたのは、その主張にインパクトを持たせたかったためであろう。
それでは、石原氏はいったい何に対して天罰が下った、と言いたかったのか。佐伯氏は、次のように述べている。

科学の遅れた昔であれば、今回のような地震津波のよる被害を人々は天罰が下ったと言って恐れ戦いた。しかし、今の人は、石原氏のように天罰などとは決して言わなくなった。それはいったいなぜか。
「近代社会とは、『天』や『神』というものを否定し、それに代えて人間の理性や人間の能力を称揚してきました。出来事には原因があり、原因と結果をつなぐ法則を見出せば、人は出来事を管理できる、という。
 この法則を見出すのは人間の理性であり、その結晶が近代科学であり、さらに科学から産業がうまれ、技術の使用によって、人は自然を変え、社会を変え、幸福を増進できる、という。
 確かに近代科学近代技術は、われわれにけた外れの富をもたらしました。経済成長こそが近代の幸福を約束したのです」
佐伯氏はこのように書き、石原都知事の言う天罰とは、この近代科学信奉がもたらした虚栄の幸福に対するものであったのだとしている。

要は、石原氏の天罰発言は、今のわが国の姿を批判し将来を憂う、実に的を射たものであった、ということになる。
今日のわが国の姿は、その精神性を持たずして、単にアメリカの表面的な繁栄だけを追ってきたものに過ぎなかった。

そして、そのアメリカの表面的な繁栄の帰結とはいったい如何なるものであったか。これは、わたしたちはすでにその被害者でもあるのだから、火を見るよりも明らかなはずである。それは、グリーディ(貪欲)な資本主義によるグローバリズムに他ならない。
グローバリズムの席巻により、地域の独自性や文化や伝統、そして活力が失われ、後には草木も生えぬ荒れ果てた廃墟しか残らない。

人を決して幸福にはしえない、強欲資本主義。果たして、そのルーツはいったいどの辺りにあるのだろう。
今度は、この辺りを少し掘り下げてみようと思う。