鎮男39

2012/06/08 22:37

 

私は、その大臣ともう一度二人っきりで話をする機会を持てた。
石田大臣の顔は、初めてみる険しさを漂わせていた。
「私は、あれほどあなたに自分の分を弁えるよう忠告したはずだ」大臣は、開口一番、そう告げた。

「大臣。私は、いまさらあなたと喧嘩などしたくはないが、それがあなたの弁解というわけですか」私は大臣を睨みつけながら言った。「要するに、あなたは、いや、おそらく日本中のあなたがた政治屋たちが今やあの男の傀儡になってしまっているということでしょう」
「あなたが、何を言おうと勝手だが、何の罪もない大企業の経営者に因縁をつけ、怪我まで負わせた罪は決して小さくはありませんよ」
大臣の声音には、嘘をつく者特有の甲高い響きがあった。
「そうですか」私は、短くそれだけ答えた。「それなら、私は素直に罪に服しましょう。しかし、その前に一つだけ、私の頼みを聞いて欲しいのです」
すでに負けを悟っていた私の頼みというのは、もちろん、鎮男のことだった。そのときに私は、アートルム社が見下ろせるあの公園に鎮男の像を建てて欲しいと頼んだのだ。もちろん費用については、すべて私が財産を処分し支払うこととした。私は、その場で帽子を被りトレンチコートを着た鎮男の姿を描いて大臣に渡した。

「これがあなたの言う平鎮男さんですか」大臣は、私の描いたへたくそな絵を食い入るように見ながら嘆息した。「分かりました。私はあなたには何の借りもないつもりだが、市長に頼み込んで銅像は作ってさしあげましょう」
「ありがとうございます」私は、椅子に座ったまま頭を下げた。
「しかし、不思議ですなぁ」と、大臣が再び長嘆息してみせた。「――実は私は、あれから部下の者に命じて平鎮男のことを調べさせたのです。あなたと平氏の生まれ故郷に部下を赴かせました。部下は、そこが大変のどかで美しい山峡の町だったと言っておりました。

そして、あなたの言われた通り、平鎮男は大変な天才だったらしいと報告してきました。――しかし、その彼は、平鎮男は、15のときに自殺していたのですよ」
「えっ」驚きのあまり、私は目の前が真っ暗になった。「そっ、そんな、そんなばかなことがあるはずがない」
大臣が軽く溜息を漏らした。
「私には、あなたの驚きが嘘偽りのないものであることは良く分かります。しかし、われわれが調べたことに間違いはありません。平鎮男は、確かに中学を卒業したその日に亡くなっています。そして、あなたがいまお描きになったこの絵のとおり、父親の買ってくれたトレンチコートを着たまま荼毘に付されたそうです」

それからの私は、パニック症候群にでも陥ったように、突然この世界が現実のものではなくなったような感覚に襲われた。そして、自分自身が誰なのかさえ分からなくなってきていた。

しかし、大臣の話は容赦なく続いた。

「部下は、平鎮男の実家があったという場所を訪れました。しかし、そこには既に別の家が建っていて、鎮男たち3人が暮らしていた頃の面影はまったくなかったそうです。ただ、その家の裏には鬱蒼とした森があって、その奥に立派な神社があったと言っておりました。
それから部下は、平鎮男が中学3年のときの担任だった衣川先生と会って話をしてまいりました。衣川先生は、だいぶ御歳を召されていましたが、平鎮男のことは大変よく覚えておいでだったそうです。しかしそれは、単に彼が自殺をしてしまったという理由からだけではありません。――実は、平鎮男は、卒業の間際に、数学を教えておられた衣川先生に分厚いノートを郵送していたのです。
しかし、衣川先生がそのノートを開いて見たのは、鎮男の葬儀が終わって家に帰ってからのことだったそうです。先生は、そのノートを見るまでは鎮男のことをただただ大人しい平凡な生徒と思われていたようです。しかし、一度ノートを開いて、そこに書かれている極めて難解な数学の証明らしき論文を見るや、全身に怖気のようなものが走ってしばらくは震えが止まらなかったと部下に仰ったそうです。そして、そのとき初めて、いかに自分の目が節穴であったかを悟ったとも。
また、先生は、そのノートを大切にずっと手元に保管されていたのですが、ようやく最近になって、そこに書かれていた内容がポアンカレ予想を証明するものであったことに気が付いたのだそうです。

あなたはご存知のことかも知れませんが、私が部下から聞いたところによると、ポアンカレ予想というのは、今世紀の初めにロシアの天才数学者グレゴリー・ペレルマンによって証明されています。衣川先生は、そのペレルマンが解いた証明と、その証明の拠所となったリーチ流などの理論を含め、鎮男の証明が寸分違わないものであることに気が付いたと私の部下に言われたのです。
そして最後に、衣川先生は、鎮男がそのノートに辞世の言葉を残していたとも言われました。先生は、それをメモに写し取って、いつも大切に身に付けておられたようです」
大臣は、上着のポケットから折りたたんだ紙片を取り出すと、それを目の前で広げて読み始めた。

「ぼくは、死ぬに当たって、誰かを恨んでのことではないことを宣言しておきたい。ぼくの死は、社会や人を恨んでのものではない。この社会は、平等でも公平でもないけれども、それは何も今に限ったことではない。過去においても、そしてこれから先の未来においてもそれはずっと変わらないだろう。それが人間の、いや生物の本性だからだ。
それにぼくは、このまま生きていれば、今の境遇など簡単に脱却し、この世で大成功を納めることができるだろう。社会のリーダーになって人類を導くことも出来るかもしれない。しかし、それがいったい何になろう。

ぼくは、人は孤独でなければならないといつも思っていた。ヒトという種は、生き残っていくために徒党を組むことを覚えた。もっとも狡猾な雄がその徒党のリーダーとなって君臨し、長い生殖期間を得るようになった。そして、多くの雌に子を産ませ、その狡猾な遺伝子を世界中にばら撒いていった。多くの国、多くの人種、多くの民族が存在し、互いに争いあっているが、それらは皆こういった戦略の結果なのだ。

しかし人は、もうそろそろ組織の一員から孤独な一個の人間へと戻っていかねばならない。なぜなら、一夫一婦制が世界中に根付いた今、これ以上に狡猾になる必要などどこにもないからだ。
そして、蝗が過密状態になると、単体の時とはまったく違う飛蝗と呼ばれるものに相変異し凶暴化するように、人もまた集団の一員となると、その個性は失われ、それがどのような規模、どのような目的をもつものであれ、その属する集団の奴隷となり、どれほど愚かで残酷な仕業に及ぶかは歴史の教えるとおりだからだ。
もとより、その集団の善悪など関係がない。そもそも生物にとっての善とは、もっと先へと生き延びることでしかないからだ。
それにしても、人とは何と愚かな生き物か。それこそが、ぼくがずっと思い続けてきたことだ。他のずっと下等な生物でさえ、その存在の奥に固く封印してしまった「死」を、わざわざ大脳皮質に表出させ、それをこねくり回して慰めとしなければならぬとは。そして、その「死」を消してしまう唯一の方法としては、インクでインクの字を消す如くもはや死しかないのだ。
もしも創造主がいたとして、よくもまぁ、こんな矛盾に満ちた生き物を創って見せたものだ。
と、こういうような意味の言葉だったそうです」
大臣は、紙片を再び折りたたむと、私の顔を見ながら手渡した。
「しかし、残念なことに、ノートの方は、ほんの一月ほど前に隣家の火事によるもらい火で消失してしまったそうです」