どこが不自由なのか

どこが不自由なのか


と思う今日この頃である。
なにが? と思う方はこれ以上読む必要はない。
名古屋の市長はこれに大反対だった。わたしはこの市長に賛成である。

愛知県知事はこれに賛意を唱えているようだ。何でも、表現の自由がその根拠らしい。あほか、とわたしは思う。

わが国の、われら国民の統合の象徴である(あった)天皇陛下の御影を燃やす、あるいは売春婦であった少女の像を平和への願いだとか称して展示する。
デュシャンが便器を泉と称して展示した。それは確かに芸術であった。
その二匹目の泥鰌を狙ってのことであれば、それらにはまさに月と鼈ほどの違いがある。
あれは、芸術の名を騙った詐欺であり、政治的パフォーマンスであるに違いない。

天皇陛下の写真を燃やそうと、日の丸を燃やそうとわが国においては罪に問われない(他国の旗であれば別である)。
そんなことを分かったうえで、彼らはそのような嫌がらせをやっている。
もしも、本当に表現の不自由に挑戦したいなら、そのような題材はそれこそ山ほどあるではないか。
韓国で旭日旗賛美の展示をやってみればよい。独島とやらの模型に日の丸を立てて展示してみればよい。彼の国にそのような自由があるか、身をもって味わえばよい。

タブーは、彼の国にもわが国にも山ほどある。言いたくとも、恐ろしくて口にできないことなど溢れかえるほどある。
もしも表現の不自由をその嚆矢としたかったと言うなら、韓国やわが日本を覆いつくしている本物の不自由に、タブーに挑戦してみろ。