人間はミミズである

2013/06/30 15:41


春を買ったことのないわたしだが、毎週のように文春と新潮は買っている。

その文春、じゃあなかった新潮でまっさきに読むのが藤原正彦氏の「管見妄語」だ。両親揃って直木賞作家という家庭のご子息というだけあって、その短いエッセイには極上のエキスが凝縮されている。

先週号のタイトルは忘れてしまったが、なんでも学生時代にある教授が人間というのはひとつの管の周りに筋肉や骨がくっついているだけのものに過ぎない、というようなことを言われて、その言葉が妙に心に残っている、というようなことを書かれていた。
いささか尾篭な話だが、つまり管の始めは口である。そして終わりは水戸のご隠居、といえばかえって下品になる。つまり肛門様である。

氏が言いたいことというのはこうである。つまり、下の話は当然誰しもが上品とは感じない。たとえば、アメリカでもトイレのことはバスルームとかラバトリー(あまり使わないか)とか、婉曲表現を使う。日本でもこれは同じで、女性ならとくに便所などと直接的な言い方はしないはずである。たとえ切迫した状況であったとしても、「すんません、べんじょどこっすか」などという女性に、幸いにしてわたしはまだ一度もお目にかかったことがない。

まぁ、普通は「トイレ」で、少し古風な女(ひと)ならご不浄、あるいは手水というだろうし、男でも昔は憚りとか雪隠と言った。
というようなことがまず書いてあって、これはまぁ言ってみれば出口の話である。

そして、氏が本当に言いたいことはこれだな、ということが姿を現してくる。つまり、入り口の話である。

昔の女性は、たとえば高校生でも弁当を食べているときに話しかけられたら、口に手をやったり弁当のふたを閉じたりした。つまり、それくらい食べる姿を見られるというのは恥ずかしいことだったというのである。これは、若いわたしにも実はよく分かる感覚で、確かに食事のときに口に食べ物を含んだまま話すのは草野球のキャッチャーと一緒でミットもないと思う。

さて、わたしはいったい何が言いたいのか。わたしは、孔子様が仰ったように所詮人間というのは糞袋に過ぎないと思うのである。
つまり、人間は巨大なミミズとなんら変わりはない。ただし、人間は、自身を糞袋と思わせないために様々な努力をしてきた。その努力の一環が食事中のマナーであったり、ご不浄などといった婉曲表現だったりすると思うのだ。

藤原氏は、ご家族の、特にご子息が食い物の旨い不味いに言及する姿を見るにつけ藤原家の滅亡を予感すると冗談交じりに述べておられるのだが、わたしも日本という美しい国の姿がこんなところからも崩壊していくのを感じるのである。