倫理と論理、そして進化と革命について

2013/08/26 16:12

早速ですが、倫理という言葉は人偏ながら、これは人間だけに限ったものではない、とわたしは考えています。人間も動物の端くれ?ですから、本来動物すべてに備わったものを人間は自分たちだけのもののように勘違いしているのではないでしょうか。

それでは、なぜ動物のすべてに倫理なるものが存在するか、ということですが、わたしはこれを生存本能と切り離して考えることはできないと考えています。

生物の本質は生存、つまり存在の肯定にあるわけで、これがすべての行為の源泉となっているように思います。

それでは倫理とは一見まったく異種とも思える論理についてはどうでしょう。飛躍するようですが倫理と論理は、それこそイボルーションとリボルーションほどの違いがあります。倫理と論理は、進化と革命ほどに違うと思うわけです。
進化とは、生物が生存維持を目的に自らの肉体に革命を起こし、激変する環境に適応させたと考えることもできます。
そうすると、進化と革命はまったく似ても似つかぬ、というわけでもない。
同様に、倫理というものについても、たいてい論理的に説明の可能なものです。まったく論理に合わない倫理というものの存在をわたしは余り聞いたことがありません。倫理は論理を親として生まれた、ということもできるかもしれません。

このトピでは主として殺人や自殺についての考察が行われてきましたが、殺人がなぜいけないか、あるいは自殺がなぜだめなのかは、論理的に説明ができないというわけではありません。しかし、またその逆の殺人や自殺を肯定する論理的説明も存在するというだけのことです。

このトピと余り関わりのなさそうなクローンや臓器再生も、あるいは原発核融合炉や量子コンピュータも、そして宇宙探査も、論理と倫理の狭間にあってこれらの推進に賛成の人も反対の人も多数いるという点で、上の殺人や自殺の問題とよく似ています。

殺人や自殺を上の捉え方の負の側面とするなら、科学の探求は正の側面と考えることもできるのではないでしょうか。

子供の頃、ひとは誰しも星の煌く空を見上げては神秘的な感慨を抱きます。宇宙の広大さ、無辺、永遠性に恐れを抱く子供もいます。そして自らの小ささ、儚さにまで考えをいたす子供もいる。小さな哲学者の誕生です。

では、なぜひとは宇宙や素粒子や数学の世界に魅かれるのか? わたしは、これも生物の生存本能に根差したものであろうと思うのです。

粘菌の類が餌への最短ルートを探るように、ひともまた自らの儚さを知る生き物として、個ではなく、種以上の、生命系としての永遠性を探るべく飽くなき科学的、いえ知的な活動を続けているのだ・・・と。

わたしは、人類の生末に希望を持っています。系の中にいて系を変えることは不可能ですが、わたしはこの系自体が、その内部に系を変えようとする力を持っていると信じています。

わたしは、恰も生命系のDNAが自らを変容させて新たな環境に適応していくように、宇宙という系自身が生命を生み出すことによって、自らを変容させようとしていて、その萌芽が人類なのだ、というふうに考えるのです。

老子に「谷神不死。是謂玄牝玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤」がありますが、このことを言っているような気がします。

横井さんへの答になっているかおぼつきませんが、わたしの倫理観について述べさせていただきました。

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これを書きながら、DNAを連想した。アデニンとチミン、グアニンとシトシンの関係である。
リンリとロンリ、カクメイとシンカを平行に並べてみると、これは、突然わたしの頭の中で二重螺旋となってグルグル廻り始め、眩暈を起こさせるのである。

前にも書いたが、倫理は心理と論理の中間に存在する。人間のもっとも基底にあるのが生理とするなら、その上の階層に属するのが心理、もっと平たくいえば感情である。その感情と論理、つまり知性の間にあるものが倫理であろう、とわたしは思うのである。

倫理とは不文のコードである。「武士道」のなかで、新渡戸は武士道が不文律であると記しているが、倫理とはそもそも法律のように明文化されるべきものではない。
オオカミにも倫理は存在する。それは普通倫理とは呼ばれないで、掟というような言葉に置き換えられる。しかしこれも間違いなくオオカミにとっての倫理体系である。

野生のオオカミというのは弱肉強食の世界に生きている。弱肉強食というのは、たとえば狩をして、一頭のカリブーを仕留めたとする。これを真っ先に食うのがアルファ雄であり、その次がこれの伴侶であるアルファ雌である、というふうに厳密な序列が存在する、というようなことであり、もしもこの序列を乱そうとするオオカミがいたとするなら、それはアルファに対する明らかな挑戦と看做される。アルファは、このような掟破りを決して看過しない。彼はこの狼藉者を完膚なきまでに痛めつけるであろう。

しかし、もしもこの狼藉者が自らの分(非力)を思い知り非を認めるなら、アルファは決してこの者を殺すまでのことはしない。
非を認めるとは、おそらくこれは、彼らのDNAに仕組まれた行動に違いないが、仰向けになったまま手足を折り曲げ、アルファに対し、自分のもっとも弱い部分である腹を見せる行為をとることである。
アルファは、これを見せ付けられると、スイッチが切り替わったかのように、突然に攻撃の意欲を削がれてしまうのである。
これがどのような機構によるものか、わたしにはよく分からない。しかしそこに、何らかの心理的抑制が働いていることは疑いない。そしてそれが種族保存の本能に基づくものであることも間違いない。

人間の場合、上のアルファオオカミのような行為をなんと呼ぶのであろう。憐憫の情、あるいはmercyとでも呼ぶのであろうか。あるいは、武士の時代であれば武士の情けとでも言ったかも知れない。

いずれにしろ、倫理というものは、人間に限らずすべての動物に、いや生きとし生けるものすべてに備わった不文律である。
不文の(律)である以上、そこには必ず論理が存在することもまた事実である。ただし、論理とはいえ、それはその種に固有の論理である。人間的論理とオオカミ的論理には自ずと齟齬が生ずる

たとえば、上のような弱肉強食のオオカミの世界に人間が介入して民主主義を強要したとすればどうだろう。
アルファに対し、おまえのやり方はまったく封建的でかつ専制的でけしからん、などと説教してみたところで、それでうまくいくだろうか。
アルファもベータもガンマもみな公平に等量の肉を食うべきであるなどとして、彼らの不文律を改変してしまったら、いったいどうなるか。たちまちオオカミは種として絶滅してしまうに違いない。

神の仕組まれた不文律、自然の掟、あるいは自然の法則は、シンプルに見えて、実は非常に奥が深いものである。その法、神の摂理は、それを解読しようと人間が考えただけでその姿を変えてしまうほどに精妙にできている。

ただ、それでもわたしたちは、その法を、摂理を見極めないではいられないのである。恰も、幼児が母親の手招きに嬉々として呼び寄せられていくように・・・。