超訳 荒野の呼び声 23

2015/11/07 07:00

第五章

愛する主人のために

昨年の十二月、ジョンソーントンの足が凍傷になったとき、彼の相棒たちは、彼の傷が回復するまでの間、彼が出来るだけ快適に過ごせるようにしてやった上で、自分たちは切り出した丸太の筏を漕いで河を上りドーソンへと戻っていったのだった。ソーントンがバックを助けたとき、彼はまだいくらかびっこを引いていたのだが、暖かい日が続いたので、そのわずかな脚の引き摺りも次第になくなっていった。そしていま、この長い春の日がな一日を川岸の土手に寝っ転がって河の流れを目に、鳥たちの囀りや自然の囁きをのんびりと耳にしているうちに、バックは徐々に体力を取り戻していった。

三千マイルもの橇引き苦行を終えた後の休養は何よりも良いものであり、正直に言ってバックは傷が癒えるまで怠惰な生活に浸りきっていたおかげで筋肉は膨らみを取り戻し、肉付きが良くなって骨を隠すようになった。この間、彼らはみな怠け呆けていた。みなというのは、ソーントンにバック、それにスキートにニグで、彼らはみんなして、ドーソンまで相棒たちを運んで行った筏が戻ってくるのを待っていたのである。スキートは小柄なアイリッシュセッターで、バックとはすぐに仲良くなった。彼女は死にそうだったバックの傍らに真っ先に連れ添ったのだが、バックは怒って追い払おうにも弱り切っていて追い払うこともできなかった。それに彼女は、いわゆるナース犬の傾向を持った犬であった。母猫が子猫を舐めてきれいにしてやるように、彼女もバックの傷を舐めてきれいにしてやった。毎朝決まったように、バックが食事を終えると、彼女は自分で決めた仕事に精を出し、バックが彼女の奉仕の精神が自分自身のソーントンに対するのと同じものだと分かるまで続けた。ニグは、大きな黒い犬でブラッドハウンドとディアハウンドの血が混じっていた。スキートと同じように友好的であったが、余りそれをひけらかすようなまねはせず、笑ったような眼で底抜けの性格の良さを表していた。

バックが驚いたのは、二頭の犬が彼に対して嫉妬心を持っていないことであった。彼らはジョンソーントンがもつ親切心や寛大さを身に着けているといるように見えた。バックが回復するにつれて、二頭の犬は、ジョンソーントンもその誘いに抗しきれないでいる様々な馬鹿げた遊びにバックを誘うようになった。そうしてバックは、この回復期を通しての遊びにより新しく生まれ変わっていったのである。

愛、真の情熱に満ちた愛は、彼にとって初めての経験であった。サンタクララバレイのミラー判事の元でもこれは経験しなかった。判事の息子たちと猟や逍遥をしていたときも、それは単なるパートナーシップに過ぎず、判事の孫たちと遊んでいるときも、それは子守をしていたに過ぎず、また判事自身との関係も言うなれば威厳ある友情であった。しかし、愛とは、熱く燃え上がるものであり、狂おしく焦がれるものであり、ジョンソーントンによってバックの中に掻き立てられたものであった。

この男は、彼の命を救ってくれた。それだけでも大したことであったが、その上にこの男は理想の主人だったのである。これまでの男たちの犬を見る眼は、自分たちの仕事に対する義務感や期待からのものであったが、ソーントンの眼は、犬たちを自分の子どもとして見ていて、彼にはそれ以外の見方ができないようであった。いや、彼はそれ以上のものとして彼らを見ていたのである。彼は、犬たちに対していつも優しい挨拶や言葉を欠かさなかったし、傍らに座って長い間彼らと語り(彼はこれをガスと呼んでいた)合うことは、彼自身にとって犬たち以上に楽しいことだったのである。彼はバックの頭を両手で荒々しく挟み、そして彼自身の頭をそれにくっ付けて前後に揺さぶりながら、彼のことを意地の悪い名で呼び続けたが、バックにとってのそれは愛の囁き以外のなにものでもなかった。バックはこのような、荒々しい抱擁や呟くように話しかけられる罵り、そして前、後ろに揺さぶられるときに感じる心臓が身体の外に振り落とされてしまうのではないかと思うほどの恍惚感をこれまで知らなかった。そしてようやくこれから解き放たれると、彼は大きくジャンプし、口を開けて大きく笑い、眼は雄弁に語りかけ、喉は震えて言葉にならない声を上げた。これらはみな、ボディランゲージとは違い動きが伴わずに行われたので、ジョンソーントンは敬虔にも「おお神よ! お前さん、喋っているじゃないか」と叫ぶのであった。

バックは、痛みにも似た愛情表現の方法を持っていた。彼はソーントンの手を咥えて強く噛み、そのため手の肉に歯の跡が残るくらいであった。そして、バックが罵りを愛の表現だと理解するように、ソーントンもこの噛みついた振りを愛撫と捉えた。

バックの愛の大部分は、しかしながら尊崇の念であった。一方、ソーントンが彼に触れ、話しかけるたびにバックは、幸せの余りワイルドになったのだが、彼はそれ以外に幸せの表現を知らなかったのである。スキートなら、彼女の鼻面をソーントンの手に押し付けソーントンが可愛がってくれるまで突っついたであろうし、またニグなら、静かに忍び寄ってソーントンの膝の上にその大きな頭を休めたであろうが、バックは遠くから崇めるているだけで満足だったのである。彼はソーントンの足元に伏せ、何時間であろうと、強く熱望し警戒しながら、その顔を仰ぎ見、じっと見つめ続け、移りゆくその表情からその時々の興味の対象や動き、姿の変化を読んだ。また、機会さえあれば、もう少し横や後ろの離れた場所に伏せて、ソーントンの外観やそのときどきの動きを観察した。そしてしばしばそれは、彼らの言葉のない意志疎通で手段となって、バックの強い視線にソーントンがバックの方に顔を向け、言葉を発するわけでもないが、彼の心の内がバックの心の輝きを映したように眼の輝きとなって現れるのであった。