超訳 荒野の呼び声 27

2015/11/10 16:44

ある夜、彼は突如として目を瞠き、鼻をひくひく震わせて臭いを嗅ぎ、波が打つようにたてがみを起毛させ、つい今しがたついたばかりの眠りから跳ね起きた。森の方から例の声(今までとは違ってただ一つだけの声であった)が、はっきりと区別のできる特徴ある声が聞こえてきたのである。それは長く尾を引く吠え声で、これまで一度も聞いたことのない、強いて挙げるなら、いや強いて挙げようにも挙げることさえできない、ハスキー犬の吠えるどの声とも違う声であった。しかし彼は、それが何の声であるかをこれまで慣れ親しんだ方法によって知っていた。この声には夢で聞き覚えがあったのである。彼は眠りに就いたキャンプを飛び出し、音もたてずに森の中へと入っていった。彼は声の主に近づくと一挙手一投足に気を配り一段と歩みを遅くして樹々の間の開けた空間まで来た。ついに見つけた。それは、後足で立って鼻を空に向けた一頭の長い痩せた森林狼であった。

狼はじっと動かずにいた。すでに吠えるのを止めて、バックの接近を捉えようとしていたのである。バックは開けたところまで半分這うように身体を小さく縮め尾は固く真っすぐ伸ばし四肢を予期せぬものにすぐ反応できるよう静かに落としながら、その狼に忍び寄った。それらの動きはすべて、脅迫と友好の前奏曲が混交したものであった。それは、野性の肉食獣どうしが出会うときの不戦協定だったのである。
しかし狼は彼の視界から逃げ出した。バックはそれを追い越そうと必死になって大きく跳躍しながら追った。木の枝が垂れ下がって狭い川床の道を塞いでいる。そこに彼は狼を追いつめた。狼は回り込んで片足で向きを変え、隅に追い込まれたかつてのジョーやハスキー犬のように唸り声を上げ、毛を逆立てて歯をカチカチ鳴らしながら、隙あらば咬みつこうとしてみせた。
バックは攻撃せず一定の友好的な距離を保ったまま彼を中心に円を描いて回った。狼は疑い恐れているようであった。なぜなら、バックの体重は優に彼の三倍あり、一方彼の頭はようやくバックの肩に届くほどしかなかったのである。彼は隙を見て走り出し、また追っかけっこが再開された。そして再び追い詰められるということが何度か繰り返されたが、狼の劣勢にも関わらずバックは簡単には彼を圧倒することができない。狼はバックの頭が彼の横に来るまで走り続けると、横に回り込んで隅に逃げ込み、次に走り出す機会を待った。
しかし最後にはバックの粘り強さが報われた。狼はバックが危害を加える気がないことを悟り、彼の鼻に鼻を寄せて臭いを嗅いだ。そして二頭は仲良くなり、内に凶暴さを秘めた野獣がじゃれあうように、神経質に半ば照れたように遊びはじめた。
このじゃれあいの後、狼は自分がどこかへ行こうとしていたことを思い出したように一つ大きく跳ねてバックから離れた。彼はバックに着いてくるよう素振りでみせると、二頭は柔らかな夕明かりの中、川床をその源である峡谷へ向かって真っすぐ上がっていき、分水嶺を越えた。
分水嶺の反対側の傾斜を下っていって、森が広がり小さな多数の流れが走る平地まで降りると、彼らは森の中を何時間も日が高くなり気温が上がって暖かくなるまで走り続けた。バックの中の野性は喜びの声を上げていた。彼は、森の兄弟とともに呼び声のする方に向かって走った。ついに呼び声に応えることができた。古い記憶がはっきりとよみがえり、彼はそれが影に過ぎなかったときにその現実感に興奮したのと同じように今興奮していた。それは記憶も定かではない他の世界でのことであったが、彼はすでにこれと同じことを経験していたのである。そして彼は今、あのときと同じことを、この現実の世界の開けた場所で足裏に踏み固められていない土を感じ、そして頭上に広い空を戴いて自由に走りながら体験しようとしているのだった。

彼らは水を飲むために流れの前で止まって休んだが、そのときバックはジョンソーントンのことを思い出した。彼は腰を降ろした。狼ははっきりと聞こえてくる声の方に向かって走ろうとしたが、バックのところまで引き返し、彼を元気づけようと鼻を嗅いで促したが、バックは踵を返してゆっくりと元来た道を引き返し始めた。一時間ほど、野性の兄弟は彼とともにときどき鼻を微かに鳴らしながら走った。しかし彼は止まって座り、鼻を高く差し上げて遠吠えをし始めた。それは悲しみのこもった遠吠えであった。しかしバックはそれがだんだんと遠くになり次第に消えていくのを聞きながら迷わず道を引き返し、ついにそれは聞こえなくなった。

ジョンソーントンが晩飯を食っていたところへバックは飛び込んでいくと、狂ったように彼に飛びついてひっくり返し、覆いかぶさって顔を舐め、手に咬みついた。ジョンソーントンが「バカのトム将軍ごっこ」と名付けたものであったが、ソーントンはバックを前や後ろに揺さぶり愛情を込めて罵った。
二日と二晩、バックはキャンプを離れず、ソーントンからずっと目を離さなかった。彼の仕事にも後をついていき、彼が食事をしているときも、夜毛布に入ってから朝出るときまでずっとつきっきりだった。しかし二日が過ぎ、森からの呼び声がかつてないほど強く響いてくるようになった。バックの落ち着きなさが再発し、彼は野生の兄弟を、微笑で迎えてくれる分水嶺の向こう側の平地を、そしてそこに広がる深い森の中を二人並んで走った思い出に憑りつかれた。もう一度、彼は森の中に飛び込んで行ったが、そこに野生の兄弟が現れることはなく、そこでじっと耳を澄ましていてもあの物悲しい吠え声は二度と起きてはこなかった。

彼は、夜中に目を覚ますようになり、何日もキャンプを開けるようになった。彼は川床を走り分水嶺を越え森と小さな流れに富んだ平地に入った。彼は野生の兄弟の姿を求めてそこを一週間も彷徨し、その間は自分で獲物をしとめて喰い、喰い終わるとまた疲れを知らない大きな跳躍で走り続けた。

彼は、海へとつながりやがて消えてしまう川の広くなったところで鮭を捕まえ、またここでは大きな黒い熊が彼と同じように魚を捕まえようとしていたのだが、群がる蚊で視界が効かずどうしようもなくなって森の中に飛び込んだのを襲って殺した。とは言っても、それは決死の戦いで、またそれはバックの中に潜む凶暴さの残滓を揺り動かすものであった。それから二日して彼がその成果の元に戻って見ると、何十匹もの鼬がその死骸の上で争っていた。彼はそいつらを籾殻のごとく追い払うと、二匹の鼬がもはや決して争うこともない身となって残った。

血を求める本能は以前にもまして強くなっていた。彼は殺戮者であり、誰の助けも借りずただ一人、己の持つ力と卓越した能力を徳とし、強者のみが生き残ることのできる敵意に満ちた世界で生きる物を糧とし誇り高い勝者として生きてきたのである。そしてこのことにより、彼は自らの肉体の優越さに酔ってしまったかのように大きなプライドを抱いた。それは彼の動き一つ一つに表れ、あらゆる筋肉がそのように振る舞い、彼の態度が率直にそれを物語り、そして何よりも輝かしいという以外に形容する言葉の見つからない毛皮のコートに現れていた。

しかし、鼻の先と両目の上のまばらな茶色と、胸の真ん中を下に走る飛沫のような白い毛は、ややもすると彼をその種の狼の中で最も大きな狼よりもさらに巨大な狼に見せた。父であるセントバーナードより彼はその巨体と体重を、そしてシェパードの母からはその姿を受け継いだ。彼の長い鼻づらは狼のそれであったが、どんな狼のものよりも大きかった。頭は幅が広く、狼のそれを最大化したものであった。

彼の狡賢さは狼の狡賢さであり、野生の持つ狡猾さであった。彼の知性はシェパードの知性であり、またセントバーナードの知性であった。そしてこれらに加え、もっとも凶暴な自然という名の学校で学んだ経験が彼を荒野を徘徊する者の中で最も手強い生き物にしたのである。生きた獲物を喰って生きる肉食獣として彼は最盛期にあり、満ち潮に乗り、活力と逞しさが溢れんばかりであった。

ソーントンの手がバックの背中を撫でようと伸びると、恰も磁石を仕込まれた毛が手の触れた瞬間に磁力を放出するかのように、たちまちバックの顎はぱくぱくとあるいはカチカチ音を鳴らしてその手を追った。すべての部分が、脳、身体、神経束や神経繊維、これらが最も美しいピッチのキーを奏でた。そしてこれら各部分の間には完全なる均衡、あるいは調節があった。見、聞き、そしてそれによって要求される動き、バックは電光の速さでこれに反応した。その速さは、ハスキー犬が攻撃から身を躱すため、あるいは攻撃のために跳ねる速さの倍も速く跳ねることが出来た。彼は動きを捉え、あるいは音を聞いて、他の犬がその見たもの、聞いたものの方向を察知するよりずっと早く察知した。彼は察知、判断、反応を瞬時にかつ同時に行うことができた。これら察知、判断、反応の要点は、これらが一連の流れであるということである。しかし、この間があまりに短いために同時に行われているように見えるのである。彼の筋肉は活力に満ち溢れ、動くときには鋼の板のように鋭く弾けた。生命は彼の中で奔流となり、喜悦し、気負い獅子のごとく勇み、その鋭い高揚感で彼をばらばらにして、その力を惜しげもなく世界中に注いでしまうのではないかと思われた。