荒城の月に想う

2016/04/04 13:47


小学生の頃、わたしは音楽の時間が苦痛だった。幸い、窓の外に池があったので、針金で釣り針を作り、どこかから調達してきた2,3メートルばかりの細身の竹を竿に鯉を吊ることに興じた。餌は給食のパンである。鯉はよく食いつきはしたものの餌をもって行かれるだけで釣れはしなかった。針に戻しが無かったことと、やはり針金のような柔らかいものでは引っ掛けることができなかったのである。

音符を読んだり笛を吹いたりは苦痛そのものだったが、音楽を聴くことは決して嫌いではなく、特に美人の音楽の先生が綺麗な声で歌ってくれる歌は大好きだった。 わたしには幼い頃から美的センスがあったからだと思う。

どんな歌が好きだったかというと、それがタイトルに挙げた土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲なる「荒城の月」であったり、近藤朔風作詞の「ローレライ」であったりした。

荒城の月などは、子供心にもその意味するところがよく伝わってきて、じんっとした記憶がある。

1♪春高楼の花の宴~というのは、ちょうど今頃の季節のことである。いわば、人生の絶頂期とでも言おうか、栄華を極めている姿を花見の宴に重ねさせているのである。次々に酒が注がれ巡ってくる杯に映るはまさに逆月である。三島由紀夫の「春の雪」に主人公の松枝清顕が金盥に月を映して吉凶を占う場面があるが、このとき杯に映った月は間違いなく滅びを暗示していたであろう。

2♪秋陣営の霜の色~は、人生の晩秋である。栄華はすでに衰え、滅亡が色濃く謳われている。雁も去ってゆく。

3♪いま荒城の夜半の月~は、すでに滅んでしまった姿である。
土井晩翠は岡城址からこの詩をイメージしたと言われている。ただ、それがどこの城であろうと、夜半にそこを訪れ、このような荒廃と、それを暴き出す月の姿を見れば、晩翠ならずとも哀れを触発されるに違いない。

4♪天上影は変わらねど~は、晩翠の慨嘆である。うつろうものと変わらぬものとを対蹠させて、人の栄枯盛衰を際立たせている。

とまぁ、こんなふうに解説してみたが、わたしが思うのは、実は1番、2番、3番にある「光」についてである。もちろんこれは、月が放つ光を意味するわけであるが、1番で杯に射した月の光も、2番で植うる剣に照り返した月の光も、3番で荒城を映す月の光も、本当にどこに行ってしまったのであろう、といういわば物理的な疑問なのである。

このことは、山口百恵の「さよならの向こう側」について記したときにも述べたが、この世で起きたことというのはすべて記憶として残るのではないか、というわたしの仮説である。
というよりも、またπの例を持ち出せば、円周率は永遠に数字の羅列が続いていくわけであるが、その数字は不変で固定したものである。
これと同じように、月が照らしだした出来事もそれは事実として永遠にこの宇宙に刻まれているのであろう、ということである。