奔訳 白牙 50

2017/12/17 19:34


そして、グレイビーバーがキッチェを自由にする日がやってきた。彼は、彼女がもう逃げ出すことはあるまい、と決断を下したのである。白牙は母親が解放されるのを見ると嬉しくてしようがなかった。彼は浮き浮きした気分で母と共にキャンプの中を歩き回った。彼が母親と共にいるうちはリップリップもしかるべき距離を置いた。白牙の方は敵意むき出しで彼に近寄ったが、リップリップの方は知らん顔をしていた。彼も馬鹿ではなかったから、必ずいつか仕返しをしてやるつもりで彼がひとりになるのを待っていたのである。

それからしばらくしたある日、キッチェと白牙は森の端までふらふらと迷い込んだ。彼が母親をリードしてそこまで行ったのだが、彼女がふとそこで突然立ち止まってしまったのを見ると、彼はさらに遠くまで彼女を誘い込もうとした。あの川の流れ、あの古巣、静かな森が彼を呼んでおり、彼はそこに彼女を連れて行きたかったのだ。彼は何歩か飛び跳ねてみせ、すぐにまた止まっては後ろを振り向いた。
彼女は動こうとしなかった。彼は請うような低いなき声を上げ、遊びに誘うように藪の中に駆けこんだかと思うとそこからすぐにまた飛び出して来たりした。彼は彼女の元に駆け寄るとその顔を舐め、そしてまた走り出した。しかし彼女は微動だにしない。彼は立ち止まって彼女をじっと見ていたが、彼女が項を翻しじっとキャンプの方を見詰めるのを認めると、躍起さや切望という彼の中にあって行動にも露わになっていた気持ちがだんだんと萎えていくのが分かった。

森の中の開けたところで、何かが彼を呼んでいた。彼の母親も確かにそれを聞いていた。しかし彼女にはそれとは別のもっと大きな声も聞こえていたのである。、それは火の、そして人間の呼ぶ声であり、数ある獣の中でも狼だけが、いや狼と野生の犬だけが、兄弟同士である彼らだけに聞こえる呼び声だったのである。

キッチェは踵を返すとゆっくりとキャンプに向かって走り始めた。棒切れという物理的な束縛よりも強い絆が彼女とキャンプとの間にはあった。目には見えないオカルトのような力を人間の神は握っていて、決して彼女を離しはしないのだ。白牙は樺の木陰に座り込むと微かな悲しげな声を上げた。