おお神よ

RaptureというB級映画がある。わたしは、これを高く評価する。

第一に、これを見て恐怖に苛まれた。大仰に言っているわけではない。自分の存在を根底から否定されたような気になったのである。

Raptureとは携挙というような意味だそうだが、ある日、突然に雷雲が現れて、人類の一人一人に襲いかかる。人々は雷に打たれて石化してしまうのである。

いわゆるパニック映画なのだが、わたしが怖くなったのはそこではない。その意味するものに恐怖を覚えたのである。

それは、わたしたちというのは死すべき存在であり、この映画は、そのタイトルとは逆にどこにも救いがないということを訴えているように思われたのだ。

敬虔な、なになに教信者と言われるような方が大勢いることを否定はしないが、一方で科学技術の発展に伴い、神の姿が希薄になってきたことも事実である。今まで神の御技と思われていたことが、すべて、とは言わないが、科学によって論理的に解明されてきたからである。

陳腐な言い方ながら、わたしたちは今、神なき時代を生きている。

神なき時代、神を持たない時代、神を知らない人間。考えてみれば、これは親を知らずに生まれ育った子供のようなものである。

親の愛を知らずに生きることはとても厳しく辛いに違いないが、そのような過酷な定めを力強く生き抜いている人たちは少なからずいる。

しかし、親のない、両親を持たずにこの世に生を受けた人というのは、さすがにこれまで存在したことがなかった。

ところが、今神の存在を否定する人たちが多くなった。

リチャードドーキンスの信奉者などがそうである。

しかし、とわたしは思うのだ。神を否定することによって何が得られるのだろう、と。

もちろん、彼らはこう反駁するであろう。神を信じることによって、多くの戦争が起きたではないか。神の束縛によって、自由な科学の発展が妨げられてきたではないか、と。

わたしは彼らの反論を否定しはしない。ただ、怖くはないのだろうか、と思うのである。

わたしは無神論者であった。今でも宗教的な神など信じてはいない。宗教的な神を信じないが、わたしには神の存在と同様にこの世は未知であるといつも感じているので、不可知論者と言った方がいいかも知れない。

ある数学者が言ったように、Piの無限に続く数の中に0が百個連続している箇所があるかどうかは人類にとって永遠の謎であろう。神というのは、言わばそのような、わたしたちには決して姿を見せない存在であるとしたら、無神論者というのは、それだけをもって自説の拠り所としているようにも思える。

つまり、彼らには百個の0の連続が考えられないのである。

それでは、わたしはどうかというと、分からないと答えるよりない。なぜなら、わたしは不可知論者であり、そのような数の連続が本当にあろうが、あるまいが、わたしたちには決して永遠に知ることができない、と考えるからである。

話を戻そう。Raptureという映画は、わたしには大きな恐怖を覚えさせてくれた。パスカルが言ったように、この宇宙の永遠の沈黙の恐ろしさを味わせてくれたのである。

わたしはその恐怖の強大さをよく知っている。それ故に、この恐怖に打ち勝つには、結局は何かに縋らざるを得ないことも知っている。臆病者のわたしには、神は存在しないなどと大見得を切ることなど決してできはしないのだ。

絶望の果てに、宗教が決して救いにならないことを知っていながら、それでも結局は教会に逃げ込んだ最後の男のように。