時空と縁

 百光年離れた惑星Pからある日映像が流れてきた。それは、Pで世界戦争が勃発し人類が滅亡の危機に瀕しているという状況を伝えるものだった。

さて、地球人は映像を見ることによってPにおける人類滅亡を具に見ることができたわけだが、それはすでに百年前に「起こっていた」ことである。Pでは現時点で人類は存在せず、別のものが栄えているかもしれない。

さてさて、この状況はシュレ猫の話と全く同じであるとは言えないだろうか。シュレ猫は量子というミクロの世界をマクロの話に拡張したものである。ところがPでの人類滅亡は宇宙という途方もなく巨大な世界の話である。だから、何をお前さん見当違いなことを言っている、と思う人もきっといることであろう。しかし、この途方もなくでかい百光年の空間を一つの小さなブラックボックスとして考えるなら、箱の中で起きていることは、わたしたちには全く分からないわけであるから、これは箱の中に入れられたラジウムから一時間後に放射線が出て猫が死んでしまうか、あるいは放射線は放射されなくて、猫は生きているのかが分からないのと同じ性質の話ではないだろうか。

ブラックボックスの中で人類が滅亡するか、あるいは何らかの救済があって滅亡を逃れられるのか、それはブラックボックスの中では既に決定してしまっている(それはそうだろう、ことは百年も前の起きたことなのだから)にも関わらず、われわれ地球人には箱の前で百年待って蓋を開けてみなければ分からないのである。

わたしはこれのタイトルを時空と縁とした。時空とはアインシュタイン以降に一般化した概念である。それまでの宇宙観では、空間と時間とは繋がってはいなかったのである。ところがアインシュタイン一般相対性理論によって、空間と時間はお互いに相関しており、空間を進む物質の速度や重力によって空間は伸縮し、また時間の方もも早くなったり遅くなったりすることが分かったのである。

この世に光の速度を超えるものは存在しない。その光の速度によって、つまり電波によってPから地球に情報が届けられた。その情報を伝える「光の使者」にとって、彼が手に携えた情報は最新のものであり、彼はPを出立してから一瞬で地球に着いたのである。なぜなら、光速で進むものの中では時間が止まっているからである。

わたしは一体何が言いたいか? それは、百光年という巨大な宇宙空間であれ、量子という極微の世界であれ、既に決定してしまっていることであっても、わたしたちには分からない、知りようがないのだということである。逆に言うなら、この世界は最初から最後までその中で起るイベントの全てが決定してしまっている、ということである。そして、すべて決定してしまっていることの相互間には何らの因果関係もない、ということである。なぜなら、Pで起きた悲劇に地球人の「わたし」が涙を流したとしても、それは百年前に起きた地球上の史実に涙を流すのと何ら変わりはない。同じ時点で起きたことではないからである。つまり、出来事というのはすべて、ある瞬間に於いては何かの影響を受けて発生しているのではなく、言わば独自に独立して起こっているのである。すべては原因なく発生しているのだが、わたしたちは、距離が近いものに対しては、原因があってその後に結果があるように思わされているのだ。

しかし、ちょっと考えてみれば分かることだが、わたしたち人間のことを取り上げても、「わたし」には「母」がおり、その「母」にもまたあの「母」がおり、というように連綿と過去から現在までつながってきたわけである。この何千年、何万年、何十万年という時間の中でたった一つでも狂いがあったなら、今の「わたし」は存在しなかった。たとえば、今のわたしがZで母系の祖先のAからはじまり、B、C、Dと続いて行く中でHが子供の時にマラリアにかかって死んでしまったとしたら、当然「わたし」は存在しえなかった。ところがそうはならなかった。だから「わたし」は今あるのである。

この宇宙の中ではすべてが予定通りに全くの狂いもなく進行してきた。

したがって、未来も間違いなく予定通りのものになる。いや、なっている。それをわたしたちは否定する。そうは思いたくないからだ。

宇宙にはわたしたちが時間と呼ぶ観念は存在しない。なぜなら、宇宙は固定した不変の空間だからである。