白牙

奔訳 白牙

原作 ジャックロンドン

翻訳 荒野一狼

 

第一部

第1章 獲物を求めて


 暗い唐檜の林が凍った河の両岸で顔を顰めていた。唐檜は最近、強い風により凍り付いた真っ白な皮を剥かれ、互いに身を寄せ合うように傾き、薄れゆく入日の中で不気味に黒く見えた。沈黙が広大な土地全体を支配していた。土地は荒廃し、生き物の影もなく、動く物もなく、寂しく、凍えるほど冷たかったが、そこに悲しさの入る隙はなかった。むしろ、そこには笑いの兆しさえ見えたが、その笑いというのはどんな悲しみよりも恐ろしく、スフィンクスの笑いよりも無慈悲であり、氷のように冷たい、無謬の冷徹さをもっていた。

それは、生きようとする命の徒労、悪あがきを笑う絶対者としての、決して意思の疎通も不能な永遠の智慧であった。それこそが荒野、情け容赦のない、凍てついた心を持つ北地の荒野であった。

しかし、そんな地にさえ、足を踏み入れ冷厳な笑いに歯向かおうとする命があった。凍てついた川床を、革紐を引いて下る狼のような犬たちである。彼らの尖った毛は霜に覆われていた。口から吐き出された瞬間に息は宙で凍りつき、前方で白い粉となって全身の毛にまとわりつき結晶化した。革製の帯紐が彼らにはかけられ、それから引き紐が橇へとつながれている。その橇にはランナーがなかった。その代わりに丈夫な樺の樹皮で作った板がしっかりと雪を捉えている。板の前部は渦巻きのように上方に曲げられており、そのために柔らかな雪が波のように押し寄せるのを躱すことができた。

橇の上に固く縛られているのは細くて長い木の箱であった。その他にも毛布や斧、それにコーヒーポットやフライパンなどが載せられていたが、もっとも人目を惹き、また場所を占めているのがこの細長い木の箱なのであった。

犬たちの前方では、幅広のかんじきを履いた男が雪と格闘していた。また橇の後ろでは二人目の男がやはり雪と格闘をしている。そして、橇に載せられた箱の中では、すでに格闘を終えた三番目の男が、――自然の厳しさに打ち負かされ二度と戦うことの叶わなくなった男が横たわっているのであった。なぜなら、動こうとするものをことごとく拒絶するのが荒野の本性だからである。そして命とは、絶えず動こうとする性向のものであるから、荒野は常にこれを破壊しようと試みるのである。海を目指して駆け込もうとする水を凍らせて阻み、樹々を芯まで凍てつかせて樹液を染み出させ、そして何よりも荒野が凶暴で恐ろしいのは、人を、――命の中でも最も活発で、動くものはすべて最後にはその動きを止めねばならない、というこの世界の原理に逆らおうとする人間という存在を屈服させようとする意志の力であった。

しかしながら、橇の前と後ろでは不撓不屈、不遜な男が二人、未だ死にもせず格闘を続けていた。二人は毛皮と柔らかく鞣した革に覆われている。睫毛にも頬にも唇にも吐き出した息が凍って結晶化し、顔の見分けもつかなかった。それどころか、その亡霊のような印象は、彼の世で葬儀を執り行う者たちの姿やかくあらんと思わせた。もちろん、二人は歴とした人間の男たちであり、荒廃し、沈黙で彼らを嘲笑する土地を踏破するという、当初は小さな冒険のはずであったものが、いつの間にか隔絶した、人を拒み生き物の影一つ映さぬ、まるで宇宙の深淵のような土地へと足を踏み入れてしまって、途方もない冒険へと巻き込まれてしまったのであった。

二人は終始無言であった。労働のために少しでも息を節約しようとするかのように。四方はすべて静寂に包まれており、彼らの感覚を圧迫していた。それは、恰も深い水の圧力が潜水夫の全身を圧迫させるような心理的効果をもたらした。そしてそれは、彼らにいつ終わるとも知れぬ無辺の感覚と決して変わることのない布告のように重く襲い掛かるのであった。彼らの心奥にある窪みにまで浸漬していって、葡萄を圧搾するように、彼らから虚偽の情熱や歓喜を、そして過大評価に過ぎない人間の精神的価値というものを搾り取り、偉大なる不可視の要素と力よりなる演劇や演劇の幕間を弱々しい狡さや乏しい知恵で動きまわる有限で微小な塵や埃の類に過ぎぬ、ということに彼らが自ら気付くまで、決して止むことはないのである。

一時間ほどが過ぎ、そして二時間が過ぎた。ただでさえ短い日の名残が薄青となって消えゆくころ、静寂を突くように微かな遠い叫び声が上がった。その叫びは、一気に空高くへと駆け上がると、高音のまま小刻みに、神経質に震え、それからゆっくりと消えていった。それは恰も、亡霊の嘆きのようであり、強烈な悲しみや飢餓から来る渇望によるものとは思えなかった。
橇の前の男は、首を回して後ろの男と目を会わせた。そうして、二人は四角い長い箱を挟んでお互いに頷きあった。

二つ目の叫びが針のような鋭さで静寂を突き破った。二人は声の方角を探ろうと耳を澄ました。それは後方、彼らが踏み越えてきた雪原の向こうから聞こえてくるのであった。三つ目の叫び、そしてそれに応える叫びが上がったが、それも橇の後方、二番目の叫びより左方よりのものであった。

「あいつらは俺たちを追ってきているみてぇだぜ、ビル」と、前の男が言った。

彼の声は嗄れていて夢のような調子を帯びていたが、それは意図してのものだった。

「肉が少ねぇからなぁ」と連れが応える。「この何日ウサギ一羽見やしねぇ」

しかしそれからというもの、後方で起こっている獲物を求める叫びに二人の耳は神経を捉われてしまって、会話はまったく交わされなくなった。

闇が落ちると、彼らは犬たちを川岸の唐檜が一叢になった辺りに導き、そこにキャンプを張った。棺は、火の傍に置いて、椅子と卓の代用とした。狼のような犬たちは、火から遠く離れた所に集まり互いにいがみ合い喧嘩を始めたが、闇の中に逃れようとする気配は見せなかった。

「俺はなぁ、ヘンリー、あいつらは思いっきりすぐ近くまで来ているように思うぜ」とビルが意見を述べる。

ヘンリーは、氷を入れたコーヒーポットを火に跨がせながら頷いた。後は棺の自分の席に腰かけて食べ始めるまで何も喋らなかった。

「犬どもは、どこに隠れてりゃ安全かをよく知っていやがるんだ」とようやく口を開く。あいつらは餌にされちまうよりは先に餌を喰ってしまうだろうよ。それだけ賢いってことだ」

ビルは頭を振った。「いや、俺はそうは思わん」

連れは彼を興味深そうに見つめた。「お前さんがあいつらを利口じゃないというのは初耳だな」

「なぁヘンリー」と、くちゃくちゃ豆を噛みながら連れが言う。「おまえさんは、俺が犬たちに餌をやっているところを見ちゃあいねぇだろう?」

「あいつらの様子に何か変わったところでもあったのか」とヘンリー。

「俺たちは何頭犬を連れていたんだっけ、ヘンリー?」

「六頭だ」

「ところがだ、ヘンリー・・・」ビルは、ここで間をとり、これから言おうとすることの効果を期待した。「俺もそう思って袋から魚を六匹取りだした。そして一頭につき一匹ずつ魚をくれてやったんだがな、ヘンリー、一匹足りなくなっちまったんだ」

「数え損なったんだろうよ」

「俺たちは六頭の犬を連れていた」連れの男は、なんら感情もこめずに同じことを繰り返して言った。「それで、俺は魚を六匹取り出した。片耳の野郎にだけ魚を与えられなかった。それで俺は袋のところまで戻っていって、奴のためにもう一匹魚を取りだしたんだ」

「俺たちは六頭しか犬を連れていねぇはずだ」とヘンリー。

「なぁ、ヘンリー」とビルが続ける。「俺は全部が犬だったとは言っちゃぁいねぇぜ。ただ、魚を食ったのが七頭いたと言ったんだ」

ヘンリーは、食うのを止めて、火の向こうに目をやると、犬たちを数え始めた。

「今は六頭だ」と彼は言った。

「俺は、一頭が雪の向こうに走っていくのを見たよ」ビルは、静かに確信をもって宣言した。「俺は七頭目を見たんだ」

ヘンリーは気の毒そうな目で連れの男を見ながら、言った。「俺はこの旅が早く終わってくれることを心から祈るよ」

「それはいったい、どういう意味だ?」とビルが意気込んだ。

「どういう意味かって、この旅の重圧がおまえさんの神経に触っているってことよ。それで、おまえさんはありもしねぇものを見るようになってきているんじゃねぇか、ってことだ」

「俺もそれは考えたよ」とビルが厳粛に答える。「それでだな、そいつが雪の上を走って逃げるときに、俺は雪の上に足跡が残るのをしっかり見届けた。それから俺は犬の数を数えたんだが、しっかり六頭残っていたというわけだ。それで足跡の方は、ほら、その通り、そこに残っているよ。もしも見たけりゃ、見てみな」

ヘンリーはそれには応えず、しばし静かに豆を咀嚼していたが、それを喰い終えると、最後にコーヒーで締めくくった。それから彼は、手の甲で口を拭い、こう言った。

「それで、おまえさんは、そいつをいったい――」

長く尾を引く、身を切られるような寂寥感を伴った悲しい叫び声がどこか暗闇の中から湧き起こり、彼の次の言葉を制した。彼は、その声に聞き入るために言いかけていたことを止め、代わりに片手を声の方に差し出して波打たせた。「そいつは、あいつらのうちの一匹なのか?」

ビルは頷いてみせた。「俺はそのことを何よりも先に考えてみた。おまえさんはその眼で犬たちがどんな足跡を付けたか見てみりゃいいぜ」

咆哮に次ぐ咆哮、そしてそれに応える咆哮は、場面を静寂から一転、喧騒に変えてしまった。全方向から叫び声が湧き起り、犬たちはその恐怖にお互いに身を寄せ合い、あまりに火に近づきすぎて毛を焦がしてしまった。ビルは、さらに木を火にくべ入れると、煙草に火を付けた。

「なんだか、おまえさん、急におとなしくなっちまったんじゃねぇか」とヘンリー。

「ヘンリー・・・」彼は、次の言葉を吐き出す前に注意深くパイプを吸い込んだ。「ヘンリー、俺はこの男の方が俺たちよりはよっぽど運がいいんじゃないかと思い始めていたんだ」

彼は、親指を下に向け二人が腰かけている箱の中の第三の男を示してみせた。

「お前さんと俺はだな、ヘンリー、二人して死ぬときにゃ、死骸の上にあいつらが近寄れねぇくれぇたくさんの石を被せてもらえれば上等としなきゃいけねぇってことだ」

「俺たちにゃこの男のように金も縁戚もいねぇわけだから、長い葬列など、どっちにしたところで望むべくもねぇがな」

「だがよぉ、俺にとってなにが不思議かって、ヘンリー、この男のように故郷じゃ何々卿なぞと呼ばれて、食い物にも寝るところにも困らねぇような男がよぅ、何が悲しくてこんな地の果てまでやってこなきゃならなかったか、ってことだよ」

「ああ、おそらくこの男は、故郷に留まっていればいい身分で長生きができたには違いねぇだろうにな」と、ヘンリーが肯う。

ビルが何か口を開きかけて、やめた。その代わりに彼は、四方から彼らを圧迫している暗闇を指さした。そこは完全なる闇で何か形を示すようなものが見えるはずがなかった。ただ、石炭の燃え殻のような一対の眼が輝いていた。ヘンリーが頭で二頭目を、そして三頭目を指し示した。光り輝く眼が輪になってキャンプを取り巻いているのだった。休むことなく一対の眼の光は動き回り、消えたかと思うと、少しの間を置いて再び現れたりした。

犬たちはだんだんと落ち着きをなくしてきており、突然の恐怖に一斉に火のそばまで駆け寄ってくると男たちの足元に腹這いになり身を竦めた。そのうちの一頭が慌て過ぎて火のそばで転びひっくり返って毛の焼け焦げる臭いとともに痛みと恐怖からきゃんきゃん泣き声を上げた。この騒動で、光る眼の輪がそわそわしだし、少しばかり引き下がったかに見えたが、犬たちが静まるとともに再び元に戻ってしまった。

「ヘンリー、俺には弾が足りねぇのがなんと言っても悔やまれるぜ」

ビルはキセルを吸い終えると、連れが寝支度のため晩飯前に雪の上に唐檜の枝を敷き並べて置いたその上に毛皮と毛布を敷くのを手伝いながら言った。ヘンリーは不満に鼻を鳴らすと、靴紐を解きにかかった。

「いったい何発弾が残っているとお前さん言ったっけ?」と彼が問うた。

「三発」と答えが返ってきた。「俺は、三百は欲しいところだそんだけありゃぁ、やつらに目にものみせてやらぁ!」

彼は、光る眼に向かって苛立たしく拳を振り上げてみせると、モカシンの靴を慎重に火の前にもたせ掛けはじめた。

「それにこの冷え込みだ。こいつにゃ、早く終わってもらいてぇ」と彼は続ける。「マイナス50度(華氏)がこれでもう二週間だ。それに俺はもうこんな旅は二度とごめんだぜ、ヘンリー。あいつらの眼がそもそも気に入らねぇ。どっちにしろ、正気にはなれねぇ。それに俺は、この旅が終わって、やり終えてだなぁ、俺とお前はフォート・マックグヮリーの暖っけぇストーブの前でクリベッジ(二人でやるトランプ)をやっている、ってのが俺の望みだ」

ヘンリーは不満の鼻を鳴らすと寝床にもぐり込んだ。が、ちょうど寝入りばなに連れの声で起こされた。

「なぁ、ヘンリー、あの魚をかっぱらっていった奴だが、なんで犬たちはあいつを素直に受け入れちまったんだろう? それが俺にはさっぱり分からねぇ」

「おめぇは煩すぎるんだよ、ビル」と眠たげな声が応じる。「前はこんなではなかっただろう。黙って寝床に入って寝ちまえよ。そうすりゃ明日の朝には気分爽快で起きれらぁ。お前が煩ぇのはきっと胃が悪いせいなんだよ」

男たちは互いに身を庇いあうように二人並んで眠りにつき、すさまじい寝息をたてはじめた。焚火は消え、それとともにキャンプを取り囲んでいた光り輝く眼の輪が狭まってきた。犬たちは恐怖から互いに固まりあい、対になった眼が近づいてくると途切れなく凶暴な唸り声をあげつづけた。その吠え声があまりに凄まじくなり、ついにビルは一度目を覚まさねばならなくなった。彼は、ヘンリーを起こさないよう寝床から静かに身を抜き出すと、消えかけた焚火に新しい木を投げ入れ始めた。焚火が大きくなると、眼の輪も大きく後退した。彼は固まった犬たちを何気なく見た。そして両目を擦すると、もう一度はっきりと見た。それから毛布の中にもぐり込む。

「ヘンリー」と彼は呼びかけた。「なぁ、ヘンリー」

ヘンリーは眠りと覚醒の間をさまよいながら唸り声を上げた。「今度は何だ?」

「いや、なんでもねぇ」と答えが返る。「ただ、また七頭になった、俺はしっかり数えたんだ」

ヘンリーは、眠りに引き込まれながら唸り声を上げたが、ビルの言ったことは確かに覚えていた。

朝になって、ヘンリーは先に起きると、連れを寝床から引きずり出した。日が射し込むまでにはまだ三時間もあったが、時刻はすでに六時を回っている。その暗闇の中、朝飯の用意をし、一方ビルは二人の毛布を丸め橇に括り付けている。

「なぁ、ヘンリー」彼は突如声を上げた。「俺たちは何頭の犬を連れていたっけ?」

「六頭だ」

「そりゃ間違いだ」ビルは勝ち誇ったように宣言した。

「また七頭になったのか」ヘンリーが問い質す。

「いや、五頭だ、一匹いなくなっちめぇやがった」

「そんな莫迦な!」ヘンリーは怒りから叫びを上げると、鍋を離れて犬たちの傍に来るとその数を数えた。

「お前さんの言うとおりだ、ビル」彼は認めた。「ファッティがいなくなってやがらぁ」

「奴ぁ、まるで煙みてぇにあっという間に消えちまいやがった」

「まったくだ」とヘンリーも認めた。「あいつら、奴を生きたまま飲み込んじめぇやがった。奴ぁ、飲み込まれるときに泣き声を上げたに違ぇねぇぜ、ちくしょう」

「あいつはもともとばかな犬だったがなぁ」とビル。

「しかしよぉ、どんなにばかな犬だったとはいえ、こんなふうに自殺するような犬はどこにもいめぇ」と、彼は残りの犬たちを見まわして即座にその特徴を刻みこむと考え深げに言った。「俺たちは、こいつらまで奴と同じ目に会すことはできねぇな」

「ああ、しかし棍棒でこいつらを火の傍から追い払うわけにもいくめぇ」とビルが同意する。「それに俺は、どうもファッティに関しては何か引っかかってしようがねぇんだ」

いずれにせよ、これで北地の旅における犬や多くの人間の墓標に犬のものが一つ加わったわけである。

第二章

雌狼

朝飯がすみ、わずかなキャンプ用品が橇に括り付けられると、男たちは暖かな焚火を背に暗闇の中へと向かった。途端に、強烈な心を掻き毟るような叫びが上がった――それは、凍てつく闇を貫き互いを呼び合うものであった。会話は途絶えた。日の光は九時になって射し始めた。日も半ばになると南の空が暖かな薔薇色に染まり、膨らんだ地表との境界が子午線であることを明らかにした。しかし薔薇色は急速に薄くなった。灰色の日の光が三時まで纏わりついたが、しかしそれもやがて薄れて極北の夜が静かに寂しく帳を下した。

闇の訪れとともに、右、左、そして後ろから狩るものたちの叫びは一層近くなり、橇を引く犬たちはそのたびに恐怖に襲われ束の間パニック状態に陥った。

そういったパニックの折に一度、ヘンリーとともに犬たちを元の道に戻しながら、ビルが言った。

「俺はよぉ、あいつらが早く獲物を見つけてどっかへ行っちまってくれねぇかと、そればかり願うぜ」

「まったく、神経を消耗させてくれることこの上ねぇな」とヘンリーも同調する。

しかしそれからは、彼らはキャンプを作るまで言葉を交わすことはなかった。

そのときヘンリーは、豆が煮たっているポットに氷を入れようと中腰になったところだったが、いきなり何かを殴る音がしたかと思うと、同時にビルの叫び声と犬たちの中から悲鳴のような鋭い唸り声が上がってはっと驚いた。彼はすっと身体を起こしたが、そのとき闇に向かって雪の中を消えていこうとする微かな影を見た。それから彼は、犬たちの中に立ったまま片方の手には棍棒を、そしてもう一方の手には頭半分なくなった干魚を持ち、半ば勝ち誇ったような、そして半ばがっかりしたようなビルの姿を認めた。

「やろう、半分持っていきやがった」と彼は伝える。「でもよぉ、俺も奴をぶん殴ってやったのよ。あいつが鳴くのを聞いただろ?」

「で、どんな奴だった?」とヘンリーが訊く。

「よくは見えなかった。だがよぉ、脚が四本あって口もありゃ毛もあって、普通の犬と変わりはしねぇ」

「ひょっとしたら、人に慣れた狼かも知れねぇな、俺が思うに」

「だとすると、とんでもなく人に慣れた奴だぜ。なにせ、あれがなんであるにせよ、ちゃんと犬に餌をやる時刻にやってきてよぉ、俺の手からちゃんと半分掻っ攫っていったんだからよぉ」

その夜、飯が終わると二人は箱に座りパイプを引っ張り出して火を着けたが、光り輝く眼は幾分その輪を縮めているようであった。

「俺はつくづくあいつらがヘラジカの群れを見つけて飛びついて行かねぇかとそればかり願うぜ」とビルが愚痴る。

ヘンリーは同情の籠らぬうめき声を上げたが、それから四半時ほど二人は何も喋らず静かに腰を降ろしたままで、ヘンリーはただ火を見つめ、そしてビルは火から少しばかり離れたところで燃え上がるたくさんの眼が輪を描くのを見つめている。

「俺は今すぐにでもマックグヮリーに行きてぇよ」と彼がまた始めた。

「いいかげんに泣き言をほざくのはやめやがれ」とヘンリーが怒鳴り声を上げる。「おめぇは胃酸過多で胸焼けがしているんだよ。それがおめぇに泣き言を言わせるんだ。匙一杯ほど重曹を飲んでみな。そうすりゃ、おめぇさんも気持ちがよくなるだろうし、でぇいち、この俺が一番助からぁ」

朝になり、ヘンリーは、腹の底から口を突いて出てくるようなビルの悪態で目を覚ました。ヘンリーは片肘をついて起き上がると、薪を継ぎ足したばかりの火のそばに犬たちと交じって立っている連れの姿を眺めた。両手は憤怒のために高く上げられ、顔は熱を帯びて歪んでいる。

「ヘロー!」とヘンリーが呼びかける。「いってぇ、今度は何が起こったんだ?」

「フロッグの奴がいなくなっちめぇやがった」と答えが返ってきた。

「嘘をいえ」

「嘘なんかじゃねぇ」

ヘンリーは毛布から跳ね出ると、犬のそばまで駆け寄った。そしてその数を慎重に数え終わると、自分たちの手からのうのうとまた犬を一頭奪い取ってしまった野性の底力に罵りを上げながら同士に歩み寄った。

「フロッグはこいつらの中でも一番強い犬だった」ビルが念を押すように言った。

「それにばか犬でもなかったな」とヘンリーが付け加えた。

こうして、二日のうちに二つ目の墓標が記録されることになったのである。

陰鬱な朝飯が終わり、残った四頭の犬たちにはハーネスが装着され橇に繋がれた。この日もまた昨日、一昨日と同じ繰り返しである。二人の男はただ黙して凍てついた雪面のかなたを見つめながら橇を進める。だが、その静寂も彼らを追い詰めるものたちの叫び声で破られた。しかしその姿は見えずただ背後に気配あるのみ。

昼下がりになって早くも宵闇が訪れると、狼の習性に従い叫び声はだんだんと近くなり、それに連れて犬たちは興奮するやら怯えるやらパニックをきたし、引き紐を縺れさせ、男たちを気落ちさせた。

「さぁて、おまえら馬鹿どももこれでようやく安心できるぜ」とビルはその夜、満足げに立ったまま仕事をやり終えた。

ヘンリーは鍋を離れるとそれを見にやってきた。彼の連れは犬たちをインディアン流に棒でつないでいた。棒は犬たちの首に革紐で縛られている。ビルは、その丈夫な棒を1~1・5mくらいの長さにしており、このために、また首に近すぎて犬たちはこれをどうしても噛み切ることができないのだ。棒のもう一方の端は、地面に打ち込んだ杭に革紐で縛られている。犬たちは、この革紐を食い千切ろうにも棒が邪魔をしてそこまで口が届かないというわけだ。

ヘンリーは納得して頷いてみせた。

「これなら、たとえ片耳の奴でも持っていかれることはねぇな」と彼は言った。「こいつは革紐をナイフで切ったみてぇに綺麗に食い千切ってしまうからなぁ。しかしまぁ、これで明日の朝はみな機嫌よく迎えられるってもんだ」

「ああ、賭けてもいいぜ」とビルが確信をこめて言った。「もしも一頭でもいなくなったら、俺は明日からコーヒーを止めるぜ」

「あいつらは、俺たちが弾を十分に持っていねぇことをよく知っていやがるんだ」ヘンリーが寝る時間になって、光る眼の輪が絞られているのに気がついて言った。「二、三発ぶっ放してやれれば、奴らももう少しおとなしくなるだろうによ。奴ら、一晩ごとに厚かましくなってきてやがる。手を火に翳してよく見てみな―ほら、あそこだ! あの野郎が見えるか」

しばらくの間、二人の男は焚火の端をうろうろしているぼんやりとした影を見ながら楽しんでいた。目を凝らしてよく見ると、そこらかしこに燃え上がるような一対の眼が認められ、ぼんやりとした獣の姿がだんだんと形を成してきた。二人は、その形が動き回る様子も捉えることができるようになった。

犬たちの間の騒ぎは二人の注意を呼び寄せた。片耳が切なさそうな泣き声を上げながら、闇に向かって何としてでも出て行こうとするのだが棒の長さだけしか動けず、苛立ってときどき棒に歯を当てては食いちぎろうと狂ったようになっている。

「あれを見てみろ、ビル」とヘンリーが囁いた。

焚火を通して、しなやかに滑るように横移動する犬のような獣の姿が見えた。その動きは、期待と恐れの入り混じったもので、人をよく観察する一方でその関心は犬に集中している。片耳は、棒に邪魔されながらもその侵入者に近づこうとして泣き声を上げているのだった。

「あの片耳のばか、雌犬のスカートには目がねぇらしい」とビルは、低い声で言った。

「あいつは雌狼だ」とヘンリーが囁き返す。「それでファッティとフロッグの件も合点がいく。あの雌は群れが仕掛けたデコイなんだよ。あいつは、犬を誘き出す役で、それを待ち構えていた狼どもが一斉に跳びかかってご馳走に与るというわけだ」

焚火が弾けた。薪が大きな音を立てて二つに割れた。その瞬間に姿のはっきり見えぬ獣は闇の後ろへと跳び退さった。

「ヘンリー、俺は考えていたんだがな」とビルが告げる。

「考えていたって、いってぇ何をだ?」

「俺は、棒で一発喰らわしてやったあいつのことを考えていたんだ」

「どう考げぇたって、やつがデコイだという以外に余地はあるめぇ」がヘンリーの応えであった。

「それはそうだが、俺にはもう一つ思い当たることがあるんだ」とビルが続ける。「あいつの焚火に対する慣れは尋常なんてもんじゃぁねぇ」

「ああ、あいつがただの狼じゃぁねぇってことは確かだ。ただの狼が犬たちに餌をやる時間を知っているはずがねぇからな」

「オル・ビランて奴の犬が一度狼どもと一緒に逃げて行ってしまったことがあるんだがよぉ」とビルは考え深げに大きな声で言った。「俺はそれを早く思い出すべきだったぜ。俺はリトルステックのヘラジカがいる草原でそいつが狼の群れと一緒にいるところを銃で撃っちまったんだ。オルの奴は赤ん坊のように泣きやがってよぉ。もうかれこれ三年も見かけなかった、と奴は言うのさ。その間、そのベンという犬は狼どもとずっと一緒だったというわけだ」

「お前さんの言いてぇことはよく分かるぜ、ビル。あの狼は確かに犬だ。しかも、何度も人の手から魚を貰って食ったことのある犬だ」

「いずれにせよ、俺はもう我慢がならねぇ。あの狼が、犬であろうとなんであろうとただの肉にしてやる。俺たちゃ、もうこれ以上犬を失うわけにはいかねぇ」

「しかし、お前さんには弾が三つしかねぇんだろ」とヘンリーが反論する。

「だから俺は、やつに確実に一発喰らわすまでじっと待つさ」がその答えであった。

翌朝になって、新しく薪を継ぎ足すと、ヘンリーは連れの大鼾を友に朝飯を作り始めた。

「あんまり気持ちよさそうに寝ているんで」と、ヘンリーがビルを朝飯を食わすために毛布から引きずり出しながら言った。「俺もほんとは起こしたくはねぇんだがな」

ビルは眠そうな顔で朝飯を食い始めた。彼はコーヒーカップが空であることに気がついて、ポットの方に手を伸ばそうとした。しかしポットはヘンリーの脇にあって手が届かない。

「なぁヘンリー」と彼はヘンリーを少し窘めるような口調で言った。「お前さん、何か忘れちゃぁいねぇか?」

ヘンリーは極めて注意深い様子で頭を振ってみせる。ビルは空のカップを差し上げた。

「お前さんの飲むコーヒーはねぇぜ」ヘンリーが宣った。

「切らしてしまったわけじゃあるめぇ」ビルが心細げに尋ねる。

「いんや」

「おめぇさんは、あれがなきゃ、俺が食いもんの消化ができねぇことを知らねぇってのか?」

「いんや」

怒りの為に突然ビルの顔が真っ赤になった。

「そんじゃぁ、いってぇぜんてぇ、なんでなのか、おめぇさんの口から聞きてぇもんだな」と彼が言った。

スパンカーの奴がいなくなっちめぇやがった」ヘンリーが答えた。

慌てる風でもなく、不幸な事実を拒否するかのようにビルは首を回して、その場から犬の頭数を数え始めた。

「なんでこんなことが起こったんだ?」彼は悲愴を面に出して言った。

ヘンリーは肩を竦めてみせる。「分からねえ。ただ、片耳の奴があいつの革紐を切っちまったとしか思えねえ。そうじゃなきゃ、あいつがひとりで切れるわけがねえからな。それだけは確かだ」

「あの馬鹿犬が」とビルは、怒りを抑えようとゆっくり絞り出すように言ったが、内にこもった怒りは隠しようがなかった。「あいつは、自分がどうにもできねえもんだから、スパンカーの紐を切っちまいやがったのか」

「まぁ、どっちにしろスパンカーのことはもういくら考えたって始まらねぇよ。今頃奴は、二十頭もの狼どもの腹の中で踊りまくっているだろうからよ」というのがヘンリーの、つい先ほどまで生きていた犬に対する哀悼の辞であった。「さぁビル、コーヒーを飲めよ」

しかし、ビルは首を横に振った。

「さぁ」ヘンリーがポットを差し上げながら懇願するように言う。

だが、ビルはカップを脇に押しのけてしまった。「そんなものを飲めば、俺は本当のアンポンタンになっちまうぜ。俺が言ったことを憶えているだろ。俺は、一頭でも犬を失えば飲まねえと言ったはずだ。だから、俺は飲まねぇ」

「いいコーヒーなんだがなぁ」とヘンリーが水を向ける。

しかしビルは頑固で、乾いた朝飯を片耳のしでかしてしまったことに対する悪態と共に呑み込んでしまった。

「俺は今夜、あいつらが互いの紐に届かないように繋いでみせてやるぜ」とビルは、出発際に宣言した。

そうして橇が百ヤードほど進んだとき、前を歩いていたヘンリーはカンジキに何かが触れたのを感じ、立ち止まってそれを拾い上げた。辺りが暗いので、それが何であるのかよく見えなかったが、彼はそれを感触で察知した。彼がそれを後ろに放り投げると、橇に当たって跳ねビルの前に落ちた。彼はそれをカンジキで探ると拾い上げた。

「そいつは、お前さんが今晩やろうとかいう仕事の役に立つんじゃねぇか」とヘンリーが声を上げる。

ビルが驚きの声を発した。それは、スパンカーの遺留品――彼を繋いでいた棒だったのである。

「奴らは皮まで喰っちめぇやがったのか」とビルは声を上げた。「この棒は笛みてぇにつるっつるっだし、皮紐の端まで喰っちまってやがる。ヘンリー、奴らは恐ろしいほど飢えてやがるぜ、下手すると、俺たちはこの旅が終わるまでに二人とも喰われちまっているかも知れねぇ」

ヘンリーは豪胆にも笑ってみせた。「俺はこれまで狼連れの旅をやったことはねぇがな、これ以上の悪い目には何度も会ってきたつもりだぜ。だがなぁ、ほれこの通りぴんぴんしてらぁ。もう十頭くれぇあの腹ペコどもがついてきたってどうってこたぁねぇぜ、ビルさんよ」

「ああ、これからいったいどうなることやら」とビルは、不安そうにぶつぶつ呟いた。

「いやぁ、マックガーリーに着いたらそんな気分なんか吹っ飛んじまわぁな」

「俺はとてもお前さんのような楽観主義者にはなれねぇ」とビルが言い張る。

「お前さんは身体に変調をきたしているに違ぇねぇ。それがお前さんの不安の原因なのさ」とヘンリーが教義を垂れる。「お前さんに今必要なのはキニーネよ。俺がちゃんとマックガーリーまで着けるようそいつを処方してやらあな」

ビルはヘンリーの診断に不満の唸り声を上げたが、そのまま黙り込んでしまった。

その日もまた、それまでの日とまったく同じであった。九時に陽が射し始めた。十二時になると南の地平線が顔を出さない太陽の息吹で暖かな色に染まったが、すぐに冷たい灰色の午後が混じったと思った三時間後には夜になっているのであった。

そうして太陽が顔を出そうか出すまいか無駄な逡巡を繰り返している頃、ビルは橇に縛りつけたライフルを抜き出しながら言った。「お前さんはこのまま橇を進めて行ってくれ。俺はこの目で見て確かめねばならねぇことがあるんだ」「そのまま橇に貼りついていた方がいいんじゃねぇか、ビル」と連れが異を唱える。「お前さんには弾が三つしかねぇわけだし、何が起こるとも分からねぇ」「へえ、今度はお前さんが弱音を吐く番になったのか」とビルが勝ち誇ったように質した。ヘンリーは、それには何も応えず一人橇を進め始めたが、それでもときどき連れが消えていった寂しい灰色の雪原に視線を投げかけた。一時間が過ぎ、橇の進行方向とクロスするようにビルが戻ってきた。

「あいつら、てんでバラバラに広がってしまっていやがる」と彼は言った。「俺たちの後を追いながら同時に他の獲物も探しているんだ。分かるだろ、俺たちは奴らのターゲットなんだが、餌食にするにはまだ少しばかり時間がかかるってわけさ。それで、その間奴らは何でもいいから手近な食い物があれば、それでしのごうってわけよ」

「お前さんは、奴らが俺達を既にものにしたつもりでいると言っているのか」ヘンリーは要点を投げつけた。しかしビルはそれを無視した。「俺は何頭か奴らを見たよ。皆恐ろしく痩せていた。俺が思うに、奴らはここ何週間なにも口には入れていねぇはずだ。ファッティとフロッグとスパンカー以外にはな。そんな奴らがそこら中にいて、俺たちから決して離れようとはしねぇんだぜ。とにかく、びっくりするほど痩せている。肋なんて洗濯板のようだし、腹は引っ込んじまって背骨とくっついちまってやがる。もう、死に物狂いと言ってもいい。いや、まだそこまではいっちゃぁいねえ。だから俺たちをじっと観察しているわけだ」

それから数分後、今度はヘンリーが橇の後ろを受け持っていたのだが、低い警戒の口笛を吹いた。ビルが後ろを振り返って見て、静かに犬たちの歩みを止めた。後方、最後に曲がった辺りにはっきりと、間違いようもなく自分たちの橇の跡を追っているほっそりした形が見えた。鼻はぴったり跡に貼りつき、その足並みはどこか奇妙で、滑るようなぎこちないものであった。二人が止まるとそれも止まり、頭をもたげて鼻をひくつかせ彼らの臭いを分析しているような様子を見せた。

「あの雌狼だ」とビルが応じる。

雪の中に身体を延べている犬たちを通り過ぎ、彼は橇の後ろにいる連れと合流した。そうして二人、彼らを何日も追い続け既に橇犬チームの半分を破壊してしまった正体不明の獣を観察し始めた。
獣の方も男たちを念入りに観察した後、何歩か前に駆け寄った。これを何度か繰り返し、距離が百メートル足らずにまで詰まった。雌狼は、一叢になった唐檜のそばで止まったまま、眼と鼻を使って自分を観ている男たちを詳しく調べているようであった。しかもその様子には、ときおり犬が見せる奇妙なほどの切なさがこもっていた。しかし、そこには犬が人に持つ愛着の念は一片も感じられない。それは飢餓が産み出す切なさであり、牙と同じ残酷さと凍土の持つ無慈悲を秘めたものだったのである。

狼にしては大きく、痩せた骨格が示すのはその種のものとしては最大のものである。

「肩まで七十五センチ程と言ったところだな」とヘンリーが一言述べる。「それに、俺は賭けてもいいが、体長は百五十センチ以上あるぜ」

「狼にしてはおかしな色だぜ」というのがビルの批評である。「俺は今まで赤い狼なんてのを見たことがねえ。俺にはシナモンのように映るぜ」

その獣はまったくシナモン色などではなかった。毛並みは真正の狼のものであった。基調を成すのは灰色で、そこに微かな赤っぽい色相が混じっているのだが、それが見え隠れするため、遠目にはイリュージョンのような、今は灰、はっきりした灰色であっても、次の瞬間には微かな赤っぽい光が宿り、見たこともない何とも形容しがたい色に変わるのであった。

「大きなハスキーの橇犬ってところだな」ビルが言った。「奴が尾っぽを振っても俺は驚かねえ」

「おーい、そこのハスキー」と彼は呼んだ。「こっちへ来てみな、おめぇの名前など知ったこっちゃねえが」

「お前さんにはちっとも気はねえ見てえだぜ」とヘンリーが笑った。

ビルは手を振り大声を上げて脅かしてみせたが、獣は少しも動じる気配がない。ただ、彼らにも感じ取れたのは、 その獣が少し警戒感を強めたことであった。だがそいつは、そのたった今でさえ彼らを食い物としてしか見ていない。彼らはただの肉でしかなく、この獣は腹ペコなのだ。その気にさえなれば、彼らを襲って喰ってしまうであろう。「なあ、ヘンリー」とビルが、ことの性質上から自然に声を落とし囁くように言う。「俺たちには弾が三発ある。ただし、これまで一発も使わずじまいだ。あの尼は俺たちの犬を三頭も持って行っちまいやがったが、もうこれ以上そんな真似をさせるわけにはいかねえ。さあ、お前さんはどう思う」

ヘンリーが同意の相槌を打った。それを合図に、ビルはゆっくりとライフルを荷の下から抜き出し、肩にそれを持っていこうとした。が、そうはいかなかった。その瞬間に雌狼は橇の跡から横に飛び跳ねて、唐檜の一叢の陰に隠れて見えなくなってしまったのである。

二人は顔を見合わせた。ヘンリーが長い口笛を吹いて納得した様子をみせた。

「俺は初めからこうなることを知ってなきゃならなかった」ビルは、ライフルを元に戻しながら大きな声で自分自身を叱った。「犬の飯の時間を知っているような狼が弾の飛び出る鉄の棒を知らねえはずがねえ。俺は今こそ言うぜ。あの尼は、俺たちの禍の種だ。俺たちはついこの前まで、三頭じゃなくて犬を六頭連れていたんだぜ。皆が皆あいつの腹ん中に入っちまったとは言わねえがよ。それにだ、俺が今なにを一番言いてえかと言うとだな、ヘンリー。俺はどうしてもあの尼をやっちまわなきゃならねえ、ってことだ。しかし、あいつめを遠くから撃ち殺すのは利口すぎて無理だ。だが俺は、俺の名に賭けても必ずあいつを待ち伏せしてやってやるぜ 」

「そんなこたぁやらねぇでいた方がいいんじゃねぇか」と、彼の連れは諫める。「なにしろ、お前さんには弾が三発しかねえわけだし、奴らが襲い掛かってきたら、三度大きな音がしてそれでおめぇはお終めぇのお釈迦さまよ。あいつらが恐ろしいほど腹を空かせていると言ったのはお前さんじゃなかったか。そんなやつらにかかったら、おめぇさんなど、あっという間に餌食だぜ、ビル」

彼らはその晩、早めにキャンプを張った。三頭の犬では六頭の時のように橇を速く走らせることも遠くまで走らせることもできなかったし、犬たちからその気が失せているのも明らかだった。ビルが犬たちを互いの革紐に届かないよう繋ぎ終えると、二人の男もさっさと寝床に潜り込んでしまった。

しかし、狼たちは次第に大胆になってきており、このために男たちは一度ならず眠りを妨げられ起きねばならなかった。余りに狼どもが近づいてくるため、犬たちは恐怖から狂乱を起こし、その度に新しい木を継ぎ足してこの略奪者どもを安全な距離まで遠ざけねばならなかったのである。

「俺は鮫が船をずっと追ってきたという話を船乗りから聞いたことがある」とビルが、そうして薪を継ぎ足した折に一度、自分の寝床に這うようにして戻りながら言った。「まったく、狼って奴は陸の鮫だな。あいつらは仕事のやり方ってものを俺たちよりもよほどよく承知してやがるぜ。奴らは俺たちをただ尾行てるわけじゃねえ。奴らは俺たちを仕留めるつもりなんだ。俺たちを確実にものにするつもりでいやがるんだ、ヘンリー」

「その口ぶりじゃあ、奴らはお前さんをもう半分ばかり喰っちまっているようだぜ」ヘンリーが鋭くやり返す。「人ってもんはよう、口に出したことの半分がその通りになっちまうっていうからなあ、その伝でいくとお前さんは半分喰われてしまっているというわけだ」

「あいつら、俺やお前などよりもう少しましな人間を狙ってくれればな」

「いいかげんに泣き言を止めやがれ。おめぇは俺を全く憂鬱にしてくれるぜ」

ヘンリーは怒って横を向いたが、ビルが何も怒って返さないことに内心驚いた。普段のビルであれば、きつい言葉にはすぐにかっとなったはずだからである

ヘンリーは寝入る前にこのことをしばらく考えた。そうして、瞼が痙攣し眠りに吸い込まれる直前に彼の頭を掠めたのは、こりゃあビルの奴相当重症だぜ、明日の朝には元気づけてやらねばなるめい、ということであった。

 

第三章

飢餓の叫び

その日は幸先よく始まった。夜の間に一頭も犬を失わずにすんだので、彼らは心も軽く暗くて寒い静寂の中、橇を進めた。ビルは前夜自らが口にした不吉な予言を忘れてしまったかのようで、日中に犬たちが悪路で橇をひっくり返してしまった時でさえ場違いな冗談を言うほどであった。

なにしろ、橇はただ転覆しただけではなかった。上下が反対になったまま木の幹と大きな岩の間に挟まってしまったので、これを元に戻すには、犬たちからハーネスを外して縺れてしまった革紐を解いてやらねばならなかったのである。ハーネスを外してやって、二人が橇を引き出そうとしているときに、ふとヘンリーが目をやると、片耳がこそこそと場を離れようとしている。

「こら、片耳」と彼は叫ぶと立ち上がって犬の方に近づいて行った。

しかし片耳は、雪原の向こうに引き紐を引き摺ったまま走り去ってしまった。そしてそこ、彼らの残した行跡の向こうでは、あの雌狼が片耳を待ち構えていたのである。彼は彼女に近づいていったが、途中でにわかに不安になったのであろう、警戒感から歩みがゆっくり小股になり、そして不意に立ち止まってしまった。彼は用心深く、疑い深く、しかし情欲のこもった目で彼女を見つめる。雌狼は微笑んでいるかのようで、牙は覗かせているものの、それは示威と言うよりご機嫌を伺っているように見える。彼女は数歩、遊びを促すような素振りで彼の方に進んだが、すぐに立ち止まった。片耳も彼女に近寄ったが、警戒は緩めず、用心深く、尻尾も耳も立て頭も高くしたままである。

片耳が彼女の鼻を嗅ごうとしたが、彼女は意図的につれなく身を引いた。彼の各部が前進すれば、それとは全く逆に呼応して彼女の身体の各部は後退する。着実に彼女は、その魅力を発揮して片耳を人間の庇護から引き離そうとしているのであった。

それでも一度、彼の知性が微かな警告を発したのか、彼はひっくり返った橇や、同僚の犬たちや、彼の名を呼んでいる二人の男の方に頭を巡らして見た。

しかし、どのような想念が彼に去来したにせよ、それは雌狼が一歩近づいて須臾の間彼の鼻を嗅ぎ、そしてコケティッシュに身を引くという行為によって破られ、片耳は再び彼女に引き寄せられてしまった。

一方ビルの頭には、ライフルが思い浮かんでいた。しかしそれは、ひっくり返った橇の下になっている。ヘンリーの助けを受けて荷を持ち上げようやく取り出したが、片耳と雌狼との距離は余りに近く、彼らまでの距離は余りに離れすぎていた。危険で撃てなかったのである。

片耳は自らの犯したミスに気がついたが、時すでに遅しであった。二人の男たちが異変に気がついたとき、片耳はすでに彼らの方を目指しまっしぐらに駆け出していた。しかし、その動線と直交して、片耳の退却を阻止すべく十頭以上もの痩せた灰色の狼たちが雪を蹴立てて突進していた。それを合図に雌狼からは媚もお遊びのムードも消えていた。唸り声を上げて彼女は片耳に襲い掛かった。片耳は雌狼を肩で押しのけ、橇を目指して走り始めたのだが、襲い掛かる狼の群れにコースを変えざるを得ず、大きくカーブを描いた。さらに多くの狼が現れ追撃に加わった。雌狼は、片耳のすぐ後ろ、あと一跳びの距離を追っている。

「どこへ行くつもりだ」とヘンリーがビルの腕に手をかけて質した。

ビルはその手を払いのけた。「俺はもうがまんできねぇ」と彼は言う。「俺はもう一頭も犬を失いたくはねえ」

銃を手に彼は、橇の行跡のすぐ脇に続く樹々の下生えへと飛び込んでいった。彼の思惑は明らかであった。片耳は橇の場所を中心に円を描いて走っているので、ビルは然るべきタイミングを計ってその円に向かって一発喰らわすつもりなのである。

明るい中、銃をぶっ放してやれば、狼どもに一泡吹かせ片耳を救ってやれる、というのが彼の目論みなのであった。

二つの線は急速にその地点に近づきつつあった。ヘンリーは、木と藪の隙間を通してその雪の地点に、狼の群れと片耳とビルが交錯しつつあるのが分かっていた。それは余りに速く、彼の予想を越えてはるかに早くその事態に至った。彼は、まず一発目が発射され、すぐ続けざまに二発放たれる音を聞いて、ビルの弾が尽きてしまったのを知った。そして、恐るべき唸り声と鳴き声。それが片耳の恐怖と痛みによる鳴き声であることをヘンリーは知っていたし、それに続く吠え声が獲物を仕留めた狼のものであることも分かっていた。それですべてがお終いだった。唸り声は止んだ。鳴き声も消えてなくなった。再び静寂が雪原を満たしていった。

彼は長らく橇の上に座っていた。何が起きたのか確かめる必要もなかった。彼には、それが目の前で起きたかのように明白だったのである。一度、彼は起きあがって橇の荷から急いで斧を取り出した。しかし、二頭の犬が這いつくばって彼の足もとで震えるのを目にすると何度か長きにわたり座り込んで考え込まざるを得なかった。

結局、力を振り絞るようにして立ち上がり、二頭の犬を橇につないだが、身体からは一切の弾力性がなくなってしまっていた。彼は、ロープを自分の肩に掛けると犬たちと共に橇を引き始めた。遠くまでは行けなかった。暗くなり始めるとすぐに彼は、薪の豊富な場所を見つけそこにキャンプを張ることにした。犬に食事を与え、続いて自分の晩飯を作って喰い、火のすぐ傍に寝床を拵えた。

しかし、寝床に入っても安眠はかなわない。瞼が重くなって閉じようとするたびに狼どもが近づいてきて襲い掛かろうとするからである。

もはや目を凝らして見る必要さえなかった。狼は焚火の周りにうようよいて、彼を取り囲むように小さな円を描き、あるものは寝そべり、またあるものは座りこみ、また別のあるものたちは腹這いになったままにじり寄ろうとし、あるいはこそこそと行ったり来たりしている様子が焚火の光に明らかなのである。中には眠り込んでいるものもいた。雪中あちこち犬のように尻尾に鼻先を突っ込んで眠りこけている姿を見ると、眠れぬ自分に一層の腹立たしさを覚える

狼どもの牙から己が身を守る唯一の手段として、焚火を常に明るく燃やし続けねばならなかった。二頭の犬たちは彼の両脇に庇護を求めてぴったりくっ付いたまま吠え声を上げたり鳴いたりしており、時おり狼どもが通常の距離を越えて近づくとたちまち激しい、狂ったような唸り声を上げた。その声に狼の群れ全体が刺激され、全員が起き上がってあまり気乗りしない様子ながら前ににじり寄って来るので、彼の周囲は唸り声と肉を求めての吠え声の大合唱となる。しかし、輪は再び広がって、あちこちで遮られた眠りを再開するものもいた。

しかしながら、この輪は彼を中心に常に縮まろうとする性質を持っていた。少しずつ、一寸ずつ、あちらでもこちらでも匍匐前進を試みる狼どもで、一気に襲い掛かれる距離までこの輪は縮小しようとしているのである。彼は、焚火から燃えさしをいくつか掴んでは群れの中に放り投げた。その度に慌てふためいて輪は後退し、不敵にも近寄りすぎた狼にこれがうまく的中すると毛を焦がして鳴き声を上げたり、恐怖に唸り声を上げたりした。

朝が来ると、ヘンリーは目がくぼむほど疲れてしまっていたが、寝不足にも関わらず目は大きく見開いたままであった。暗闇の中、朝飯を作って食い、九時になって陽の光が射しこむと狼たちも引き揚げて行ったので、彼は眠れぬ長い夜のうちに思案していた計画に取り掛かった。若木の枝を切り落として十字に組むと木の幹に沿って高い足場を作っていった。そして橇の引き紐をロープ代わりに二頭の犬と自分とで棺をその足場の上まで持ち上げたのである。

「奴らはビルを喰っちまいやがった。次は俺かも知れねぇがよぉ、お前さんだけは大丈夫だ、若いの」と彼は木の霊廟に向かって話しかけた。

そして彼は旅を続けた。軽くなった橇は、その気になった犬たちの後を弾むように走り出した。犬たちにもフォートマックガーリが自分たちの安全に直結していることが分かっていたのである。狼たちは、もはや嘘も隠しもなく大っぴらに彼ら追跡をしていて、厳かなと言ってもよいほどの態度で橇の両側に広がったまま、赤い舌を垂らせ、痩せて飛び出た肋骨を波打たせながら後を追っているのである。彼らはまさに骨の上に皮を被せただけで、筋肉などただ骨と皮をつなぐ紐でしかないほど痩せているのだが、ヘンリーには、それほどまでに痩せていながら、彼らが雪の中に突っ伏すでもなく平然と走り続けておられるのが不思議でならなかった。

彼は敢えて、暗いうちからは出発しなかった。日中、南側の地平線が暖かく染まっても、陽はただその蒼ざめた金色の縁を突いているだけである。彼は、それがサインであることを知っていた。日はだんだんと長くなってきているのだ。太陽は復活しつつあった。しかし、嬉しくなるほどにはその光は長くもたず、すぐにキャンプを張らねばならない。今はまだ、わずか数時間ほど灰色の昼とあるかないかの黄昏があるだけである。その短い時間を利用し彼は大量の枝を打って薪を作った。

恐怖の夜がやってきた。飢えた狼どもが大胆不敵になってきたせいだけではなく、寝不足が祟り始めていたのである。彼は肩に毛布を掛けて焚火の傍にしゃがみ込み、膝の間に斧を握りしめたままうつらうつらしはじめた。その両脇を二頭の犬がぴったり身体を圧しつけている。そんなとき彼がふと眼を覚ますと、わずか十メートルほど先に群れの中で最も大きな灰色をした狼がいるのに気がついた。見ていると、そいつはだらけた犬のような態度で大きく身体を伸ばし、大欠伸とともに少しばかり遅くなっている食事を見るような眼で彼を睨めつけた。

このような態度は群れ全体に見られた。全てを数えたわけではないが、狼どもは飢えた眼で彼を見ているか、あるいは静かに雪の上で寝ているかである。その様子は彼に、食事の並べられたテーブルを前に、親の許しを待っている子供たちを思い起こさせた。いったいどのように、そしていつこの食事は始まるのだろうか、などと彼は他人事のようにぼんやりと思った。

薪を火の上に積み重ねているときに、ふと彼は、かつて一度も感じたこともなかったわが肉体に対する感謝の念を覚えた。筋肉の細やかな動きを観て、精巧な指の機構に心を打たれた。火灯りのもと、彼は指を一本ずつゆっくり閉じたり開いたりし、あるいは一時にすべてを開き、次には素早く握ってみたりしてみた。爪の配置を観察し、指先で鋭く突いたり、逆に柔らかく突いてみたりして、神経が発する感覚を研究した。これは彼を虜にし、かくも美しく滑らかで精妙な動きをする肉体に俄かな愛着を覚えた。そうして彼は、舌なめずりしながら自分を取り囲む狼どもの輪にふと恐怖の目をやったとき、まるで強烈なブローでもくらったかのように、この素晴らしき肉体が、この生きた肉が、腹を空かせたあの獣たちにとってはただの食肉の塊に過ぎず、彼らの飢えた牙で裂かれ切り刻まれ、ちょうどヘラジカや兎がしばしば彼の食糧となったように、彼らの命を維持するための食糧になってしまうのだ、という現実感に襲われ寒気が走るのを覚えた。

そして彼は、悪夢から半ば目が醒めたように、微かな赤味を帯びた毛並みの雌狼が自分のすぐ目の前にいるのを認めた。その距離はわずか五、六メートルで、雪の上に腰を降ろしたまま、物欲しそうな眼でじっと彼を見つめているのである。二頭の犬は、彼の足もとで鳴いたり唸ったりしているが、雌狼は、犬にはなんらの関心も示してはいない。彼女が見ているのは彼であり、彼もまた何度も彼女を見返してやった。だが彼女の眼差しになんら脅かしはない。彼女はただ、強烈な熱意のこもった目で彼を見ているだけなのだが、彼にはその熱意が強烈な飢餓によるものであることがよく分かっていた。彼は食糧に過ぎず、ただ彼を見ているだけで、彼女の消化器官が興奮を覚えているのだ。事実、その開いた口からは涎が垂れ、大いなる期待から彼女は舌なめずりをしていた。

背筋を冷たいものが走った。彼は慌てて焚火から燃えさしを掴むと彼女に向かって放り投げようとした。が、燃えさしに手を伸ばし、指がその火器を掴もうとしたとき、すでに彼女は安全な位置にまで跳び退さってしまっていた。このとき彼は、この雌狼が何度も人間から物を投げつけられる経験をしていることを悟った。

跳び退さるとき、彼女は唸り声を上げ白い牙のつけ根が見えるほど大きく口を開いたが、その顔から物欲しげな表情は消え失せ肉食獣の悪意に変わったのを見て彼は身震いした。

彼は手に持ったままの燃えさしに目をやったが、それを握っている指の巧妙な優美さに、でこぼこした木の表面に沿って実にうまく曲がって握りを合わせ、小指などは燃えて熱くなった部分から冷たい部分にひとりでに少し位置をずらせ火傷を避けていることに気がついた。と同時に、この繊細で優美な手が雌狼の白い牙によって噛み砕かれ切り裂かれる光景が浮かんだ。彼は、かつてないほどの危険に曝された今の今になるまで、わが身の一部をこれほど愛おしく思ったことはなかった。

一晩中、彼は燃えさしを手に飢えた群れと戦いつづけた。眠りこけそうになるたびに、二頭の犬が鳴き声を上げたり唸ったりするので眠ることはできない。朝が来て、陽の光が射しこんでも狼どもは去らなかった。男は彼らが去ってくれることを期待していたのだが徒労であった。狼たちは、彼と火を取り囲み傲岸にもその輪の中が自分たちの所有物であるという意思を示し、このために朝が来るとともに彼の勇気は萎んでしまった。

彼は思い切って橇を出発させようと試みた。が、火から離れた途端に獰猛な狼が彼に跳びかかってきた。しかし、わずかに届かなかった。彼が慌てて跳び下がったので事なきを得たのだが、太腿からわずか十五センチほどのところで顎が閉じた。残りの狼たちも今や彼に近づいて襲い掛かろうとする気配を見せていて、火のついた木を右に左に投げつけねばどうにもならなくなっていた。

日の光の中でさえ、彼は絶えず火に新しく木をくべつづけねばならなかった。六メートルほど先に大きな唐檜の枯れ木があった。彼は、手元に五、六本、火のついた木をいざという時に投げられるよう用意しながら、半日かけて焚火をそこまで延長させた。木までたどり着くと、彼はどの方向が最も薪を集めやすいか周りの林をよく調べた。

その夜も前夜と同じく寝る時間の確保が至難になってきていた。二頭の犬の唸り声は、もはや効力を失いつつあった。彼らは常に唸っているので、彼の次第に麻痺し鈍くなってきた感覚と相まって、そのピッチや激しさの変化にも気が付かなくなっていたのである。

そのとき、彼ははっと目を覚ました。見ると、あの雌狼が一メートルと置かず自分の前にいるではないか。機械的に、最も手近な木を拾って、飛び退く間も与えず、その大きく開いて唸り声を上げる口めがけて投げつけた。彼女は跳び下がりながら苦痛に大きな鳴き声を上げ、毛と肉の焼ける臭いに彼はしばし喜びを味わったが、彼女は何メートルか先で頭を振りながら憤怒の唸り声を発している。

今回、彼は睡魔に襲われる前に火のついた松の枝を右手に縛り付けた。目が閉じようとしても、右手の火が手を焦がそうとするので眠ろうにも眠れないというわけである。何時間か、これを続けてみた。このようにしてずっと起き続け、近づいてくる狼に燃えさしを投げては追い払い、絶えず新しい薪をくべ、また新しい松を右手に縛り付ける。しばらくはこれで調子よくいったが、やがて彼はぞんざいに松を縛るようになった。そうして、眼が閉じた途端に松の枝は手から摺り落ちていった。

そのとき彼は夢を見ていた。夢の中で、彼はフォートマックガーリにいた。そこは暖かくて居心地がよく、彼はそこの管理者と二人トランプをしているのである。しかも、彼にはそこが狼に取り囲まれていることが分かっている。狼どもは門のところで吠え声を上げているのだが、彼と管理者は、時折トランプの手を休めてはその声に聴き入り、無駄なことを、と笑っている。しかしそのとき、夢とは不思議なもので、何かが割れる大きな音がした。と思うとドアが押し破られた。彼はフォートの大きな居間に狼たちがなだれ込んでくるのを見た。狼どもがまっすぐ管理者と彼に跳びかかってきた。開いたドアからは彼らの吠え声が途轍もなく大きく響いてくる。その声が彼には鬱陶しい。夢は今や、彼にもよく分からぬ何か別のことと混交してしまっており、それがずっと彼に付き纏って止まないのだ。

だが、ふと目が醒めて気が付くと、その吠え声は現実のものであった。ものすごい唸り声と鳴き声。狼どもは彼に襲い掛かってきた。彼らは一斉に彼を狙って襲い掛かろうとしている。そのうちの一頭が彼の腕に噛みついた。

本能的に彼は火の中に飛び込んだが、そのとき足の肉が切り裂かれる鋭い痛みを感じた。それからは文字通り火の戦いが始まった。丈夫なミトンが一時的にせよ彼の手を保護してくれたので、彼は炭火を掬い上げてあらゆる方向に放り投げ、焚火は恰も火山の様相を呈した。

しかし、それも長くは続かない。彼の顔は熱で水膨れになり眉毛も睫毛も焦げてなくなり、足は熱くて堪えられなくなった。火のついた木を両手に持つと、彼は火の縁を飛び越えた。狼どもはすでに後退している。あちこちに炭火が落ちて雪が音を立てて解け、鼻声や唸り声を上げている狼どもにこれより先に行ってはならぬと告げているのであった。

彼は近くの狼に燃えさしを投げつけると、煙を上げているミトンを雪に圧しつけ足を冷やすために足踏みをした。犬は二頭とも消えていたが、彼には、その二頭が少々遅れはしていたものの、何日か前にファッティから始まり、そして翌日か翌々日には自分で終わりになるであろう食事のコースの一つに過ぎなかったことを知っていた。

「おめえらはまだ俺を喰っちゃあいねぇぞ!」と彼は、両手の拳を激しく振りかざしながら飢えた獣たちに叫んだが、これに群れの輪が扇動されてあちこちから唸り声が上がった。そんな中、雌狼がひとり雪の中を滑るように近づいてきては物欲しそうな眼で彼をじっと見詰めた。

彼は新たなアイデアを実行に移した。火の輪を大きく広げたのである。そして、その輪の中心に陣取って座り込み、尻の下には夜具を敷いて解けた雪に濡れるのを防いだ。こうして彼が火のシェルターに消えてしまうと、いったい何が起こったのか、と好奇心も露に群れ全体が火の縁に集まってきた。彼らは決して中に入ろうとはしなかったが、火の輪を取り巻く円を描いて離れようともせず、馴染みのない暖かさの中でたくさんの犬たちと間違えそうになるくらいに、目を瞬いたり欠伸をしたり、痩せ細った身体で大きく伸びをしたりしはじめた。そんな中、あの雌狼がふいに腰を落とすと、鼻先を星に向けて遠吠えを始めた。これに次から次へと仲間が加わって、みなで腰を降ろし、鼻を空に向けて、ひもじさを訴える大合唱となった

夜が明け、日の光が満ちた。しかし火の勢いは衰えていた。もっとたくさんくべてやらねばならなかったが、その燃料がなくなってきている。男が薪を手に入れるために火から外に出ようとすると、狼たちがさっと彼の元に集まってきた。火のついた棒で追い払おうとしても横に飛びのくだけで後ずさりはしない。何度やっても同じである。結局あきらめて彼が戻ろうとしたときに一頭が飛び掛かってきた。が、そいつはドジを踏んで熾火の中に四本とも脚をついて落ちた。恐怖の叫びと同時に唸り声を上げ飛びのいて足の裏を雪で冷やしはじめた。

男は、毛布の上に座り込んだ。上半身が自然に前のめりになってしまう。肩の力が抜けて下がり、もう俺はこれ以上闘うつもりはないという意思表示のように頭が膝の上に載ってしまった。が時折、消えかかった火の立てる音に頭を向けた。火と熾火の輪は途切れ途切れになって、あちこちに隙間が出来ている。その隙間はだんだんと拡大し、輪を描いていた火の線は消えていった。

「いずれ、俺はおまえらに食われてしまうのかも知れねえがな」と彼はぶつぶつ言った。「構やしねぇ、とにかく、俺は眠るぜ」

そうして一度目を開けたとき、輪の中に、しかも彼のすぐ目の前にあの雌狼がいて、彼をじっと見ているではないか。

しかし、それから少し経って、再び目を開けた時、とは言っても彼には何時間も経過しているように思えたのだが、とても不思議なことが起きており、それが余りにショックであったので、彼は一気に目が覚めた。何かが変わっていた。しかし最初はそれが何なのか分からなかった。が、すぐに気がついた。狼たちがいなくなってしまっていたのである。ただ雪に残る彼らの踏み荒らした足跡が、如何に彼らが彼を襲う寸前であったかを物語っていた。睡魔がまた彼をつかんで引きずり込もうとしていた。頭が膝の上に載ろうとしたとき、突如彼は起こされた。

男たちの叫び声、いくつもの橇が雪を踏みしだく音、ハーネスのきしむ音、それに犬たちの活気に満ちた吠え声が聞こえてきた。四つの橇が川床を上がって木々の間に作ったキャンプまでやってきた。六人の男が火の消えかかった輪の真ん中に座り込んでいる男を取り巻いた。彼らは男を揺すぶったり突いたりして起こそうとした。男は、彼らを酔っぱらいのような眼つきで見ると、おかしな眠そうな声でだらだらしゃべった。

「赤い雌狼が、・・・犬たちの飯の時間にやってきて、・・・そんで、最初は犬の餌を喰って、・・・それから犬を喰って、そんで最後にはビルまで喰っちまった・・・」

「アルフレッド卿はどこだ?」と男たちの一人が彼を乱暴に揺すぶりながら彼の耳元で怒鳴った。

彼はゆっくり頭を振って、「いや、あの雌は彼を喰っちゃいねぇ・・・、彼は、ひとつ前のキャンプで木の上に寝かせてある」

「死んだのか?」とその男は叫び声を上げた。

「ああ、棺の中だ」ヘンリーは答えると、苛立たしく肩を揺すって握られた男の手を払った。「なぁ、俺を放っておいてくれ。俺はもう熟れたスモモみてぇに眠りに落ちるんだ。そんじゃ、みなさん、ごきげんよう

彼の目は瞬いたかと思うとすぐに閉じた。顎が胸にくっついた。そして彼らが毛布の上に彼を寝かせてやると、たちまち大きな鼾をかき出し凍てつくような空気を震えさせた。

しかし、その震えとはまた別の響きが聞こえてきた。遠く、微かな響きであったが、それは遙か離れた場所であの狼の群れが狩り損ねた人間に代わる肉を見つけて追いかける飢餓の叫び声であった。

 

 

2016/05/08 09:40

 

白牙 第一部を訳し終えて

 

白牙は、荒野の呼び声と対を成す名作である。ただその分量は呼び声よりもかなり多い。

 

わたしは両者とも何度読んだか分からないくらいに読み、そしてオーディオブックで聴いた。両者は、甲乙つけがたい名作、というよりは、二つ揃ってこその名作というべきであろう。つまり、美人の姉妹を見て、どちらがより美人かと比較してはだめなのである。なぜなら、この姉妹はお互いが相手の魅力を引き出すという性質を持っているからである。

 

白牙も荒野の呼び声も、その出だしはとてもミステリアスである。つまり引きがあるのだ。

白牙の場合、まず二人の登場人物がとてもいい。ヘンリーとビルという橇引きだが、ジャックロンドンは、二人の性格の違いとその結末を見事に関連付けて描いている。しかも、この二人が橇に乗せて運んでいるのはなんと、棺に入れられた自分たちよりも若い貴族の遺体なのである。

そして、彼らと橇を引く犬たちを狙って追跡する狼の群れ。その群れの紅一点ともいうべきシーウルフ(雌狼)。

ここまで読みすすめた読者は、果たして主人公たる白牙はいったいどの時点で、どのような形で現れるのか期待にわくわくするに違いない。もちろんロンドンはこれを計算に入れている。

物語が展開していく中で、このシーウルフが重要なキーであることが仄めかされていく。なぜなら、この狼には狼らしからぬところがあるからである。二人の男もだんだんそれに気がついていく。

一方、荒野の呼び声では、ミステリアスには違いないが、その展開は少し白牙と質が違っている。主人公バックは、太陽に恵まれたカリフォルニアでのいわば貴族的な文明生活から、クロンダイクストライクという人間社会の出来事によって、北の地での野蛮な野生へと生活が一変してしまう。これもまた魅力的な始まり方をするのである。

さて、一部でのシーウルフの役割は分かった。これからどういう展開を見せるのか。結果は分かっていても、やはりそのストーリーテリングの巧みさ、描写の細さに感動を覚えてしまうのである。

 

 

第二部


第一章 牙の闘争

 

男たちの掛け声や橇を引く犬たちの活発な吠え声を最初に聞き、そして消えようとする火輪の中に男を後一歩のところまで追い詰めておきながら、さっと最初に身を翻したのも雌狼であった。群はしかし、せっかくの獲物を見逃すまいと、しばらくは男のそばを離れようとしなかった。が、音や声がしかと耳に届くようになると雌狼の後を追って走り始めた。


先頭を走るのは灰色をした大きな狼で、いくつかある集団のリーダーの一頭であった。彼は雌狼の後を追い、群全体がその後に続いている。彼は、自分に先んじようとする生意気な若いリーダーに対し唸り声を上げて威嚇し、あるいは牙で切り傷を与えた。そうして彼は、猛スピードで走っていたのだが、雌狼の姿が視界に入ったとたんに速度を落とし、ゆっくりと彼女に近づいていった。


彼女は、恰もそれが指定席であったかのように彼の隣に並ぶと、群のペースメーカーとなって走り始めた。彼は、彼女が彼より前に出ても唸り声も上げず牙も見せなかった。そればかりか、彼女に先を譲って自分はただ彼女のそばを一緒に走っていればいいという態度であったが、余りに近づきすぎて彼女から唸り声をたてられ牙を見せられることになった。実際に、時折彼女は、彼の肩口に牙を見舞った。しかしそんな時にも彼は怒らなかった。ただ横に飛びのいて、少しだけまた先頭に立ってぎこちなく走り出すのだが、それはどこか田舎の恋する若者を彷彿とさせた。


これが彼の目下の困りごとであるとするなら、彼女の側にはもう一つ困りごとがあった。別の側を痩せて年老いた狼が、幾たびもの闘争を物語る古傷のついた灰色の狼が走っていたのである。この狼は常に彼女の右を走っている。それは彼が隻眼で、左目しか見えないためであった。さらには、この狼は傷跡の残る鼻先で執拗に彼女の身体に、肩や首にタッチしようとした。左にもう一頭従えて走りながら彼女は、この言い寄りに対し牙で応じたが、双方が同時に言い寄って来ると、手荒く押しのけ二頭に素早い牙を浴びせて追い払い、自分はひとり先頭に立って真っ直ぐ走り始めた。すると二頭のライバル同士は互いに牙をむき出しにして威嚇の唸り声を上げた。いずれ雌雄を決せねばならぬであろうが、今はまだそれよりも群全体の飢えを満たすことの方が先であった。


いがみあいの後、古狼は突如として、彼の中の何か強い欲求に促され、彼の見えない側を走る三歳の若い狼に体当たりした。この若い狼は、群全体の弱々しく飢えた状態と比べて立派な体格をしており、それに応じて精神的にも頑強で溌剌としていた。この狼は、片目よりも頭一つ、いや身体半分後ろを走っていた。が時折、片目と肩を並べようとして、そのたびに片目から唸られたり牙の洗礼を受けて引き下がっていた。しかし彼は、これにも懲りず、ときどき慎重にゆっくりと後に下がると、片目と雌狼との間に割って入ろうとした。これは、二重の、いや三重の怒りを招くことになった。彼女が唸り声を上げて怒りを表すと、老いたリーダーはこの若造に襲い掛かった。また、彼女自身もこれに加わった。そしてまた、これに左側の若いリーダーも加勢した。


このように三頭全てを敵に回してしまい、彼は否応もなく走るのを止め、四肢を硬直させ、口を凶暴に歪ませ、首の毛を逆立てて腰を降ろしてしまった。先頭のこのような混乱は得てして後方の群れにも混乱をもたらした。


後方の狼たちはこの若い狼と衝突し、彼の後足や横腹に噛みついて不快感をあらわにした。食料の欠乏とそれによる群全体のイラつきが背景にあるとはいえ、つまりは、彼自身が不要なトラブルを招いてしまったわけである。が、若さゆえの未熟は覆うべくもなく、この狼は同じこと過ちを何度も繰り返した。結果はいつも同じで挫折を味わせられるだけであった。


食料が足りていれば、生殖を巡る闘争は即座に終り群は解散してしまうはずであった。しかしこの群は今、自暴自棄の状態である。長きにわたる飢えでやせ細ってしまっていた。走る速度は通常よりも遅い。また、群の最後方では弱い狼たちがびっこを引きながら走っていたが、それは大抵幼いものか齢老いたものたちであった。先頭は最も強いものたちで占められている。しかし全体を見渡せば、皆ほとんど骸骨と言ってよかった。にもかかわらず、彼らの動きは、びっこを引いているものを除けば無駄がなく疲れを知らない。筋ばかりの筋肉は、汲めども尽きせぬエネルギーの泉のようである。鋼のような筋肉の収縮の後に更なる収縮が続き、そしてその後にも、またその後にも同じことが延々と、果てしもなく続いていくのである。


彼らはその日、何マイルも走った。夜もずっと走り続けた。そして気がつけばその翌日も走り続けていた。彼らは凍てついた死の世界の表面をずっと走り続けていたのである。そこには生き物の影さえなかった。ただ彼らだけがこの広大な無機の世界を横切っている。彼らだけが生きており、その生を保持するために、彼らは生きた肉を探して走り捉え貪り喰わねばならないのであった。


彼らは低い分水嶺を越え、この獲物を求めての旅が報われるまでに一ダースもの小さな川を渡らねばならなかった。そしてついに、彼らはヘラジカを見つけた。彼らが初めて目にするほど大きな牡鹿であった。それこそがまさに待ち望んだ肉であり命の綱であり、しかもそれは不思議な火や火の付いた飛翔物で守られているわけではなかった。蹄の蹴りや枝のように広がった角は馴染みのあるものであったし、あとは身に備わった忍耐力で走り続け、風向きに気を遣いながら追い詰めるだけである。闘いはごく短く、しかし激しいものであった。牡鹿は四方を取り巻かれた。彼は、俊敏な蹄の蹴りで狼の腹を引き裂き、あるいは頭蓋骨を蹴り砕いた。また巨大な角で狼たちの中に突進し、彼らを散らばらせた。彼は、四肢で狼たちを踏みつぶし雪の上を転げまわらせた。

しかし、彼の悲劇は既に決められており、雌狼が喉に食いついて激しく引き裂くと彼は倒れて、他の多くの牙が彼の身体のいたるところに噛みつき、彼の闘志も意識もまだ失われないうちから彼を貪り始めた。


十分な食料であった。牡鹿の体重は優に八百ポンドを越えており、四十頭の狼たちの口にそれぞれ二十ポンドずつ入る計算になる。しかし、その食う速度、その食欲の旺盛さは驚くべきもので、ほんの数時間前まで彼らの目の前に立っていた素晴らしい獣は、今はもう骨があちこちに散らばるのみである。


今や休息したり眠っている狼がほとんでである。中には満腹でいがみ合ったり喧嘩を始めたりしている若い雄狼たちもいて、これが数日、群れがいくつかに分裂していくまで続いた。飢饉は去ったのである。狼たちは今、獲物が豊富な地域におり、相変わらず群れで狩りしていたが、ただやり方が少し慎重になって、大きな牝鹿を切り離したり、あるいは途中で出会った小さな群れから老いて弱った雄鹿を選んで倒した。


しかし、とうとうこの食糧に事欠かぬ土地にも狼たちが二つに分かれ、別々の方向へと離れていく日が訪れた。雌狼を中に若いリーダーがその左に、そして片目の老狼がその右に並び、半分になった群れを率いてマッケンジー川へと下り、東の湖沼地帯へと進んで行った。毎日のようにこの残党は数を減らしていった。二頭ずつ、雄と雌の組になって、狼たちは散らばっていった。ときに、一頭だけの雄狼が恋敵から激しい牙を浴び弾き出されることもあった。そうして最後に四頭だけが残った。雌狼と若いリーダー、そして片目、野心旺盛な三歳である。


雌狼は、今や恐ろしいほど気が短くなっていた。彼女を追う三頭はみながみな彼女の牙による傷を負っていた。しかし、彼らはその仕返しをすることもなければ防戦することもなかった。彼らはその肩を彼女の猛烈な牙の洗礼に曝しつつ、尻尾を振りながら彼女の怒りを宥めるべく小股で歩み寄るのであった。しかし彼女に対してはそのように柔和に接する一方、お互いには敵意をむき出しにしあった。三歳の若い狼がもっともその凶暴さを露わにしていた。彼は片目の老いた狼の失われた視野の方からその耳をリボンのように切り裂いた。灰色の年老いた狼は片目だけの視野にもかかわらず若い狼に立ち向かい、見える側の目だけで長い経験に基づく知恵を発揮した。失われた目と鼻の傷痕は彼の経験を物語る証拠であった。彼は数多の戦いを、その瞬間、瞬間、臨機応変に対処することで生きながらえてきたのである。


闘いはフェアープレイに始まったが、しかしフェアープレイには終わらなかった。何が起こるかはまさに予期不能であり、もう一頭の狼が老狼の加勢につき、老いたリーダーと若きリーダーの共闘により野心むき出しの三歳を駆逐しようとしたのである。三歳の狼は両サイドをかつての同志たちによる容赦ない牙に挟まれた。お互いに狩りをし、獲物を倒し、飢餓に苦しめられた日々は記憶の遙か向こうに忘れ去られた。それらはすでに過去のものだったのである。今目前の愛に関わることは、常に獲物を得ることよりも厳粛で残酷な行為なのであった。


その間、雌狼は、すべての原因である彼女は、満足そうに腰を降ろして見物を決め込んでいた。彼女は楽しそうでさえあった。今こそが彼女にとって至高のときであり、雄たちが自分をめぐって互いにたてがみを逆立て、牙と牙をぶつけあい、あるいは互いの肉を切り裂きあう、こんな日など滅多にあるものではなく、今こそがまさに、これらすべてを我が手にしているときなのであった。


今や休息したり眠っている狼がほとんでである。中には満腹でいがみ合ったり喧嘩を始めたりしている若い雄狼たちもいて、これが数日、群れがいくつかに分裂していくまで続いた。飢饉は去ったのである。狼たちは今、獲物が豊富な地域におり、相変わらず群れで狩りしていたが、ただやり方が少し慎重になって、大きな牝鹿を切り離したり、あるいは途中で出会った小さな群れから老いて弱った雄鹿を選んで倒した。


片目は彼女の傍を落ち着きなく歩いた。再び彼女は不満を募らせてきており、探していたものを早く探さねばならないことを思い出していたのだ。彼女は踵を返すと森の方へ駈け出したが、このことは片目を安堵させ、木々の中に身が隠れるまで前へ小走りに駆けた。


二頭の狼は影のように音もなく月光の下を滑るように駆けているうちにけもの道に出た。二頭は、ともに雪に残る臭跡に鼻を落とした。臭跡はまだ新しかった。片目が先に用心深く駈け出し、連れの雌狼が後に続いた。彼らの幅広の足の裏は広がってベルベットのような雪を踏みしめた。片目は雪原の中に微かな動きを認めた。彼の滑るような走りはそれだけでも信じられないほど素早かったが、それは今彼が全力で疾走している速さに比べればどうってことはなかった。今彼が追っているのは先ほど彼が目にした白いものである。


彼らは両側に若い唐檜が茂る狭い道を疾駆している。木々を通して小道の口が見え、月光に照らされた空き地が開けている。片目の老狼は逃走する白いもののすぐ後ろに迫っている。一飛びごとにその距離は縮まっていく。今、まさに彼はそれに爪を掛けようとした。あと一飛びで牙を沈ませることができる。

しかし、その一飛びが適わなかった。空中高く、垂直に、その白い形そのままにスノーシューラビットはもがきながら空中高く跳躍して再び地面に落ちてくるやさらにまた跳ね上がるという幻想的なダンスを繰り返したが、最後には空中高く上がったまま地上に降りてはこなくなった。


片目は突然の恐怖に驚きの声を上げて後退さると、得体の知れぬものに対する畏怖に唸り声を上げながら雪の中に縮こまり身を屈めてしまった。

しかし、雌狼は冷やかに彼の傍を通り過ぎる。そして少し間をおくと、空で踊っているウサギに跳びつこうとした。かなり高く舞い上がったが、獲物ほどには高くはジャンプできず、牙が空しく空中で金属的な音を立てて閉じた。彼女は何度も何度もこれを繰り返した。


彼女の連れは、ようやく落ち着きを取り戻して立ち上がると、彼女のその様子をよく観察した。そして今、彼は彼女が繰り返している失敗の連続に呆れた様子を見せると、渾身の力を込めてジャンプした。彼の牙はウサギを捉え、それを加えたまま地面に引きずり降ろした。しかしそのとき、彼の近くで何かが折れるような気配を感じて目をやると若い唐檜の枝が折れ曲がって自分の頭を打とうとしているのに驚愕した。顎を開いて獲物を離すと、彼は後ろに飛び退き危難を逃れたが、唇は後ろに捲れあがって牙をむき出しにし、喉は唸り声を発し、全身の毛が怒りと恐怖に逆立った。枝はその屈服しそうになった過ちを正すかのように跳ね上がり、ウサギは再び空中高く舞い上がった。


雌狼は業腹であった。彼女は、非難の牙を連れの肩に沈めた。彼は恐怖のただ中にいて、彼女の攻撃の理由も分からなかったため、慄きながらも獰猛な反撃に出て、彼女の鼻面を切り裂いた。

彼女の非難に対する彼のこの怒りは、彼女にとってまったく予想外のものであったため、彼女は憤激に唸り声を上げながら彼に襲い掛かった。

それではじめて、彼は自らの過ちに気が付いて彼女を宥めようとした。しかし彼女は彼が宥めるの諦めるまで繰り返し彼をを懲らしめた。彼は頭を彼女から遠ざけるように輪を描いて回りながらも、その肩に彼女の歯による懲罰を甘んじて受け入れた。

 

その間もウサギは彼らの頭上高く舞っている。雌狼は雪の上に座り込んだままで、一方片目は、奇妙な枝よりもむしろ連れの怒りが怖くて再びウサギに向かって跳びついた。彼は歯にしっかりとウサギを咥えて枝をしならせたが、片時もその枝から目を逸らさなかった。前と同様、枝は彼とともに地面までしなった。彼は、枝に打たれる恐怖から毛を逆立てながら身を低くしたが、ウサギは口から離さなかった。枝は彼を打つことはなかった。彼の頭上でしなったままである。彼が動くと枝も動くので、ウサギを咥えたまま彼は唸り声を上げた。彼がじっとしているうちは枝も動かないので、彼はじっとしていれば危険がないことを悟った。しかし、口に染みだしてくる温かなウサギの血は溜まらなく食欲をそそった。


彼の口から彼が最初に見つけた獲物を奪い取ったのは連れであった。彼女が彼からウサギを奪い取ったとき、枝はしなって不安定に、脅すようにぐらついたが、彼女は平然とウサギの頭をもぎ取った。その瞬間、枝は跳ね上がったが、その後は何の問題も発生せず、ただ自然の意志そのままに威厳のある直立した姿勢に戻っただけのことであった。

そして二頭の狼は、この神秘的な枝が与えてくれた恩恵を貪るように食った。


他にもウサギが宙づりになっている狭い通り道がいくつもあって、この狼夫婦はすべてを渉猟し尽くしたのだが、それは、いつも雌狼が先で片目は用心深く後についてまわるというスタイルで罠から獲物を盗む方法を学んでいったのだが、これはやがて来るべき日のために役立つものであった。


第二章



二日間、雌狼と片目はインディアンキャンプの傍をうろつき回った。片目は、連れがキャンプに魅了させらてしまったかのようにいつまでも離れたがらないのを横目に非常に不安で気がかりであった。ところがある朝、空気が切り裂かれるような至近距離からの銃声とともに片目の頭を掠めて銃弾が木の幹にあたって弾けた。もはや躊躇のしようもなく、危険から逃れるべく跳ねるように何マイルも一気に駆け出した。


二頭は、数日の旅でいくらも移動しなかった。雌狼の探索活動が今や危急の感を帯びてきていたからである。彼女は身重になってきており、走るのもやっとという感じであった。一度、ウサギを見つけて捕まえるのに、普段の彼女であれば赤子の手を捻るようなものであったのが、捕まえるどころかへばってしまって肩で大きく息をするという始末であった。片目は彼女のそばに寄って、彼女の首に優しく鼻先を触れようとしたが、いきなり恐ろしい勢いで咬みつかれたので、彼は無様にも後ろにひっくり返らんばかりになってその歯を避けた。彼女の気性はかつてないほど短くなっていたが、片目の方は逆にかつてないほど我慢強く、また気遣いをするようになっていた。


そして、ついに彼女は探していたものを見つけ出した。それは、夏の間にはマッケンジー河に注ぎ込む小さな流れの何マイルか上流にあったものが、今はその上も下も岩肌の底まで白く凍って、その源流から河口までが凍えて死んだ白い流れの固形物になってしまっているのであった。雌狼は、疲れた様子でその流れに沿って小走りに走り、彼女の連れは軽快にその先を走っていたのが、そのとき彼女は、高く乗り出した粘土質の土手を見つけた。彼女はその横を小走りに見て回った。春の嵐に削られたり裂かれたりして、あるいは雪解け水に掘られて、土手の一部は狭い切れ目から洞窟の口につながっている。

彼女は洞窟の口に留まって、壁を注意深く見上げた。それから壁の両側を調べると、柔らかな土の中から突出している巨大な岩の周りを走って一回りした。洞窟まで戻ってくると、彼女は狭い入口に入った。九十センチ足らずを彼女は腹ばいになって進んだが、そこから壁の幅は広がり天上も高くなって直径百八十センチほどの丸い空間が現れた。天井は辛うじて彼女の頭がぶつからない程度であった。乾燥して居心地も良い。彼女はそこを辛抱強く調べ、一方片目の方も、そこに戻ってくるなりすぐ入口に佇み我慢強く彼女のしていることを見ていた。彼女は頭を落とすと、鼻先を地面に突き刺すようにし、それをコンパスの中心に四肢を何度か回転させた。それから疲れたような、ほとんど不満に近い溜息を吐き、身体を丸めて四肢の緊張を解き、頭を入口に向ける格好で横たわった。片目は、目を研ぎ澄まし、耳を立て、彼女に笑いかけていたのだが、彼女の目にも、彼のふさふさした尾が機嫌よく左右に振られているのが見てとれた。彼女の耳も心地よさげにその尖った先を後ろに下げ頭にぴったり着け、一方口元は開いて舌が幸せそうに垂れ下がり、満足と喜びを露わにしている。


洞窟の入り口に横たわり気持ちよさそうに寝てはいるものの、片目は空腹だった。彼はふと起きあがると耳を立て明るい外界の様子を伺う。四月の日差しが雪の大地をてらつかせていた。実はまどろんでいた時、どこからか水の流れが滴り落ちる囁きがこっそりと彼の耳に忍び込んできて、それが彼の目を覚まさせたのであった。太陽が戻り、目覚めた北の大地が彼をも呼び起こそうとしていた。命がさんざめきあっていた。春の訪れが空気に、命の芽吹きが雪の下に感じられ、樹液が木々の中を這いあがり、若芽は氷結の足枷を砕こうとしていた。


彼は気ぜわしげな目を連れに投げかけたが、彼女は一向に立ち上がる気配を見せない。外に目を向けると半ダースばかり雪ホオジロの群れが飛び立つのが見えた。彼は立ち上がろうとして、再び連れに目を向けたが、結局また座り込んで転寝を始めた。

短く鋭い歌声が彼の眠りを奪った。一度、いや二度、彼は眠たげに前足で鼻先を払った。それからようやく起き上がる。

空中で、彼の鼻先で音を立てているのは一匹の蚊であった。それはでっぷりした蚊で、乾燥した枯れ木の中で凍ったように一冬を過ごし、それが太陽に溶かされて出てきたのであった。彼は、もはやこれ以上、世界が自分を呼ぶ声に抗うことはできなかった。それにともかく空腹であった。


彼は連れのところまで這っていって起きるよう促した。しかし彼女はそれに唸り声で応えるだけであったので、彼は明るい日差しの下に出て柔らかで歩くのに骨の折れそうな雪を踏みしめた。彼は、木陰になっているために固く結晶し凍てついた河床を歩いた。

彼は八時間歩き、出立した時よりも腹を空かせて暗がりの中を帰ってきた。獲物を見つけはしたが手にすることは出来なかった。彼は一度融けて再度凍結した雪を踏み砕いて水に落ちてしまい、一方獲物の雪ウサギといえば慣れたもので軽々とその上を走って逃げてしまったのであった。


彼は、洞窟の入り口で俄かにショックを受けた。微かな、奇妙な音が中から聞こえてきたのである。それは連れが出す音ではなかったが、どこか聞き覚えのある音でもあった。彼は腹ばいになって耳を欹てたが、すぐに雌狼の唸り声の返礼を受けた。彼はこれを距離を保ったままじっと我慢して受け入れたが、その微かな、忍び泣きのようにも聞こえるだらだらした音にはずっと興味をそそられつづけた。


彼の連れが苛立って追い出そうとしたので、彼は入り口で丸くなって寝るより他になかった。朝が来て、微かな光が巣を侵食すると、彼は再び聞き覚えのある音の源を探ろうとした。連れの唸り声には新たな調子が加わっていた。それは何か大切なものを奪われまいとする嫉妬心から来るものであったので、彼は用心深く彼女からの距離を保った。

それでも彼は、彼女の四肢と身体の間に五つ小さな束のようになった生命が、とてもひ弱で極めて無力な生命が、未だ光に目を開くことさえできないまま小さな泣き声を上げているのを見出した。彼は驚いた。彼の長く成功した人生の中で、これは初めてのことではなかった。何度も経験してきたことではあったが、彼にとってはいつも新鮮な驚きに満ちた出来事だったのである。

 

連れは不安そうな目を彼に向けた。そうして、しばらくの間、彼女は低く唸り続けていたが、片目が一線を越えてしまったため、それまでのただの唸りだったものが一挙に牙をむき出しにした鋭い吠え声となって喉を突いて出た。それは、彼女自身の経験によるものではなく、彼女の本能、すなわち彼女が祖先の母親たちから受け継いできた記憶が、父親の狼が生まれたばかりの無力な我が仔を喰ってしまったという記憶がそうさせているのであった。それは、彼女の中に根強く恐怖として宿っていたものであり、そのために彼女は、片目がそれ以上近づいて我が仔の臭いを嗅ごうとするのを防いだのである。


しかし、恐れる必要はどこにもなかった。老狼の片目もまたある衝動に突き動かされていたが、それも翻せば、彼の祖先たる父親たちから来た自然な本能だったのである。そこには疑うべきことも首を傾げるべきこともなかった。目の前には己の血を分けた子供たちがいるのである。彼は踵を返すと、この世の最も自然な従うべきルールに従い、自身の生きるよすがである新しい家族のために肉を求める旅へと出立した。


巣から五,六マイル離れた所で流れは二つに分かれ、山を出て直角に分かれた。ここで左へと進んだ彼は新しい足跡に出会った。臭いを嗅いでみると、それはまだ新しいもので、彼は直ぐに姿勢を低くして前方に注意を傾けた。それから彼は用心深く右の方に向かうことにした。その足跡は彼自身のものより一回り大きく、その後を追っていったところで何ら成果が得られないことを彼はよく知っていたのである。


半マイルほど右の分かれ道を進んで行くと、彼の敏感な耳は何かが木を齧っている音を捉えた。密やかにその方に忍び寄っていくと、彼はハリネズミが木を抱えるように立ったまま樹皮に歯を立てているのを見つけた。片目は慎重に、しかしあまり期待することもなく忍び寄った。彼はこの種のものをよく知っていたが、これほど北で見るのは初めてのことであった。また、彼の長い経験からしても、ハリネズミのご馳走に与ることは一度もなかった。しかし彼は、決してチャンスが、好機が訪れないとは限らないこともその経験からよく知っていたので、ごく近くまで歩み寄った。生きとし生ける物の上には、何が起こるかまったく分かったものではないのだ。


ハリネズミは栗の毬のように丸くなり、防御のために長く鋭い針を全方向に向けて立てた。若い頃、片目はこれと同じような状況で針を立てた毬に近寄りすぎて、予期せぬ尻尾の一撃を顔に受けたことがある。針の一つが鼻に刺さって、その火のような痛みから解放されるまで何週間もかかった。そんなことから、彼はリラックスした姿勢で伏せたまま、鼻は十分に安全な距離を置き、尻尾の振れるレンジから外した。そうして、完全に静寂を保ったまま待った。このまま何も起きないとは限らない。何か予期せぬことが起きるかも知れない。ハリネズミが毬の形を解きほぐそうとするかも知れないではないか。そうなれば、巧みな前足の一閃で柔らかで無防備な腹の肉を切り裂けるであろう。


しかし三十分ほどが過ぎ、彼は立ち上がって、忌々しげな不満の唸り声を動かぬままの毬に向かって上げると再び駆け出し始めた。彼は過去に何度もハリネズミが毬の形を解くのを待ったことがあったが、そのような徒労はもう御免であった。彼は右の分かれ道をずっと走り続けた。時は過ぎてゆくが、未だになんの成果も無かった。


彼の中で目覚めた父親の本能が強く彼を駆り立てていた。どうしても肉を見つけねばならなかった。午後になって、彼は間抜けなライチョウと出くわした。彼が藪の中から出てくると、なんと目の前にドジな鳥がいるではないか。そいつは倒木の上、彼の鼻先から一尺と離れぬところに立っていたのである。お互いの目が会った。その鳥は慌てふためいて飛び立とうとしたが、彼は前足の一撃を喰らわせて地面に叩きつけると襲い掛かって飛び立とうと雪の上で激しく羽ばたくのに咬みついた。その歯が柔らかな肉と脆い骨を噛み砕いたとき、彼は本能的に食べてしまおうとした。しかし、すぐに新しく目覚めた別の本能が、ライチョウを口に銜えたまま彼を帰路へと向かわせた。


分かれ道から一マイルほどのところで、先行きに細心の注意を向けながら、いつも通りビロードのように柔らかな足取りで滑る影のごとく走っていた彼は、今朝方見つけたのと同じ大きな足跡を見つけた。彼は、それに誘われるように、しかし流れが向きを変えるたびに、その主と出くわさぬよう注意しながら跡をつけていった。


彼は、川床が通常よりも大きく曲がったところで岩の端に頭を擦り寄せるようにして前を伺ったが、そのとき眼の端に何かを捉えてしゃがみ込んだ。それは足跡の主、大きな牝の山猫であった。彼女は、朝彼がしゃがんだと同じようにそこにしゃがみ込み栗の毬となったハリネズミと対峙しているのであった。もしもこれまでの動きが滑る影であったとするなら、今の彼はまさに幽霊の影ででもあるかのように忍び足で二つの音を立てず動かぬ者たちの風下へと回り込んだ。


彼はライチョウを傍らに置き雪の上に腹ばいになると、針の葉を落とした育ちの悪い唐檜の低木を通して繰り広げられる目の前の命のやりとりに固唾を呑んだ。それは、待ち続ける山猫と待ち続けるハリネズミとの命のせめぎ合いであり、これこそがゲームの、喰おうとするものと喰われまいとするものの命の妙であった。一方で、古狼、片目は腹ばいになって息を呑みながら、今に、何か予期せぬことが起こるのではないかと期待に胸を膨らませており、それが彼の肉を求めての旅における役柄なのである。


三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。が、何も起きなかった。栗の毬ははじめから石だったのではないかと思われ、山猫ははじめから凍った大理石であったかのようであり、片目は死んでいたかのように思われた。しかし三つの生き物は、痛々しいほどの緊張状態にありながら、かつてないほどに生きており、その結果がこの石化なのである。


片目は、熱望を押さえきれず前方にわずか首を伸ばした。何かが起きようとしていた。ハリネズミは終に、敵が去ったかどうかを探ろうと決心したようであった。ゆっくりと、用心深く、栗の毬はその難攻不落の鎧を解こうとしていた。それは、なんらの殺気を感じている様子ではない。ゆっくり、ゆっくり、針を立てた毬は伸びてまっすぐ長くなっていった。片目はそれを、目の前にご馳走が広げられるのを見るように、興奮に口の中が湿っぽくなり唾が舌先から滴り落ちるの感じながら見ていた。


ハリネズミは毬を開ききらないうちに敵に気がついた。その瞬間、山猫が前足のパンチを繰り出した。閃光のごとき速さであった。前足の硬い爪が猛禽の鉤爪のように弧を描き柔らかな腹をえぐって元の位置に戻った。もしもハリネズミが完全に毬の形を解いていたら、あるいは敵を察知するのがもう少し遅かったなら、山猫は前足に損傷を受けずに済んだであろう。が、腹をえぐった瞬間、ハリネズミが横に振った尻尾の一撃を喰らい、鋭い棘を突き立てられてしまった。

すべては一瞬のできごとであった。前足の一撃、そして尻尾の反撃、ハリネズミが苦痛から放つ鋭い金を切るような鳴き声、大猫が思わぬ痛みと驚きから発する喚き声。片目は興奮の余り片身を乗り出したが、その耳は直立し、尾はまっすぐ後ろに伸びたまま痙攣している。山猫の怒りは絶頂に達していた。彼女はわが身を傷つけたものに我を忘れて襲い掛かかろうとした。しかしハリネズミは、弱々しくも破裂した腹のまま再び毬の形になろうと、鋭い泣き声とも恨みの声ともつかぬ声を上げながらその尻尾をまた横に打ち払い、そのためにまた大猫は激痛と驚きから喚き声を張り上げねばならなかった。そのまま彼女は後ろにひっくり返ってくしゃみをしだしだしたが、見るとハリネズミの長い棘が突き刺さって、鼻がまるで巨大な針刺しのようになっている。彼女は、両前足を使って鼻に刺さった火のような棘をこそぎ落とそうとしたり、雪の中に鼻を突っ込んだり、あるいは木の小枝や枝に擦り付けて取ろうとしたが、そのたびに気の狂いそうなほどの痛みと恐怖から前に、左右に、上下に飛び跳ねた。


彼女はひっきりなしにくしゃみをし、そのたびに尻尾の先が鞭のように激しく前に打ち出された。と、彼女はふいにその茶番を止め、しばらく静かになった。片目は息を呑んで見ていた。彼は、山猫が突如高くジャンプして、空中にまっすぐ伸び上がり長く恐ろしい喚き声を上げるのを聞いたとき、背筋に沿っての毛がみな逆立つのを禁じ得なかった。そうして彼女は、飛び跳ねるたびに喚き声を上げながら自分の巣の方へと走り去っていった。


その騒がしい声がまだ消えきらないうちに片目は前へ進み出た。彼は、雪の上にハリネズミの棘が散乱していて、柔らかな足裏をいつ突き抜いてしまうか分からないということもあって、用心深く歩を進めた。ハリネズミは、片目の接近に気が付くと憤怒の鳴き声を上げ、その長い歯で歯噛みをしてみせた。そして再び毬になろうとしたが、なにしろその筋肉が大きく裂かれてしまっているため、前のような完全な毬になることはできない。それはほとんど半分に裂かれ、まだ夥しい量の血が流れていた。


片目は下顎でその血が浸み込んだ雪を掬って口に入れると噛んで味わいながら呑み込んだ。これは空腹を一層掻き立てた。が、彼はそれに負けてしまうには十分すぎるほど齢を重ねていた。彼は待った。腹ばいになったまま、彼はじっと待ったが、一方ハリネズミは歯噛みをしながら不満げな泣いているような、そうしてときおり鋭い小さな金を切るような声を上げた。それから少しして、片目はその棘が力なく寝て、全身が大きく痙攣するのに気がついた。が、その痙攣もふいに終わった。そして最後の抵抗のような長い歯の軋るギリッという音。そうして長い棘が完全に寝て平たくなり、全身が弛緩してまったく動かなくなった。


恐る恐る震える前足で、片目はハリネズミを長く伸ばして、それから仰向けにひっくり返した。何も起きなかった。間違いなく死んでいる。さらに念を入れるように調べると、彼はそれを歯にしっかりと咥え、その棘だらけの身体が自分の進行の邪魔にならぬよう頭を横に向けたまま半ば引きずるようして下流に向かって走り出した。途中で何かを思いだしたようにその荷物を落とすと、ライチョウを置いたところまで駆け戻った。一瞬の躊躇いもない。彼は何を今すべきか心得ていて、その通りライチョウを腹に収めたのだ。それから再び荷物を取りに戻った。


彼がその日の成果を洞穴の巣へ持ち帰ってくると、雌狼はそれを嗅ぎ、鼻先を彼の方に回して軽くその首筋を舐めた。しかし、次の瞬間、彼女は唸り声を上げ彼を子供たちから離そうとしたが、それは普段より幾分おとなしく、また幾分申し訳なさそうな調子を帯びたものであった。本能的な父狼への不信と恐怖は衰えていた。片目は父親としてなすべき振る舞いをちゃんとしており、彼女がこの世に産み出した幼い命を貪り食うなどという不名誉な欲望は微塵も見せなかったからである。

 


第三章 灰色の仔


彼は兄弟姉妹たちと違っていた。彼らの毛には既に雌狼から受け継いだ赤味が現れていたが、彼だけは特別に父親のそれを受け継いだようであった。彼だけが一腹の仔たちの中でただひとり灰色だったのである。彼は純粋な狼の血を、つまり肉体的に片目の血を継いでいたのだが、ただ一つ違いがあるとすれば、それは父親が隻眼だったのに対し、彼には二つ目が備わっているということであった。


この灰色の仔は、長い間ずっと目が開かないままであったが、すでにはっきりとものをみることができた。目が閉じたままの内に、感じ、味わい、そして嗅いだ。彼はふたりの兄弟とふたりの姉妹のことを良く知っていた。彼らとぎこちなく遊び、あるいは諍いあったが、そんなときその小さな喉はおかしな擦れるような音(唸り声の先駆け)を発し、彼自身それに陶酔した。彼は、目が開くずっと前から、肌で、舌で、そして匂いで母親を、暖かさと粥状の食べ物と柔らかさの源を理解した。母とは、彼の柔らかで小さなからだを慰め、自然とその胸にまとわりつかせ、そして心地よい眠りへと落とす舌の持ち主なのであった。


生まれて最初の一月ほどはほとんど眠ったままであったが、今彼は目が開いてものがよく見えるようになり、活動する時間も長くなり、自分の世界というものをよく知るようになった。彼の世界は陰気そのものであったが、彼自身は他の世界を知らなかったので、陰気さを感じていたわけではない。そこはいつも薄暗かったが、かと言って彼の眼に何か焦点を合わせるべきものもなかった。彼の世界は本当に小さかったのである。その果ては巣の壁であったが、彼がその外の広大な世界を知る由もなく、自身の存在の無力さを感じることもなかった。


しかし彼は、世界の壁の一つが他と違っていることを発見していた。それは洞窟の入り口であり、光の源であった。彼は、それが他の壁と違っていることをずっと以前から、彼の中にもの心が、つまり自意識が芽生える前から知っていた。それは、目が開く以前から抑えようがないほど彼を惹きつけた。その光は、彼の瞼を突き抜けて両眼と視神経を脈動させ、閃光や温かな不思議な快さをもたらした。彼の身体に宿る命が、身体のすべての細胞が、身体中の命を形成するすべての物質が、彼の意思とは別に、植物の複雑な化学反応が光合成のために太陽を求めるようにこの光に向かわせるのだった。


生まれて間もないころから、自意識が芽生える前から、常に彼は洞窟の入口を目指して這った。この点では、彼の兄弟姉妹も同じであった。この時期、誰も暗い洞窟の奥に向かって這おうとする者はいなかったのである。光は、あたかも彼らが植物であるかのように惹きつけたが、それは命という名の化学反応が生存に欠くべからざるものとして光を欲求していたからであり、彼らの小さな操り人形に過ぎない身体は手探りに、そして化学的に蔓草のようにそれを求めて這うのである。それから少し経って各自の個性が伸び個々の衝動や欲望といった自意識が育ってくると、彼らは一層光に惹きつけられるようになった。彼らはいつもそれに向かって這い、あるいは身体を伸ばそうとしたが、いつも母親によって押し戻された。

 

彼は幼いながらも凶暴であった。ただ、これは彼の兄弟姉妹たちにしても同じである。彼らはそのように生まれついたのだ。彼らは肉食獣なのである。獲物を殺しその肉を喰らうものとして生まれついた。父も母も肉のみで生きてきた。彼が生まれて初めて口にした母乳もまた肉が姿形を変えたものであったが、生まれて一月、目が開いて一週間たった今彼は、母親が半ば消化して吐き出してくれた肉を食うようになっていた。雌狼の乳では五頭の育ち盛りの子供たちに間に合わなくなってきていたのである。


彼は、五頭の中で最も凶暴であった。彼は他の誰よりも大きな擦れたような唸り声を上げることができた。彼の小さな怒りは他の兄弟姉妹を脅かした。最も早く他のものたちを前足で巧みにひっくり返すことを覚えたのは彼であった。唸り声を上げながら顎で耳にしっかりと食らいつき引っ張たり、押さえつけたりするようになったのも彼が最初であった。そして確かに、巣穴の外に出ようとして母親を最も困らせるのも彼であった。


光への興味は日増しに灰色の仔の中で強まっていった。彼はいつも洞窟の入り口へ向かって一メートルほどの冒険を繰り返し、そのたびに連れ戻された。彼はそれが出入り口であることを知らなかった。そもそも出入り口というものがある場所から別のある場所への通過点であることなどまったく知らなかった。彼は、別のある場所というものを知らなかったし、そこへたどり着く方法などなお分からなかった。だから、彼にとって洞窟の出入り口は壁の一つに過ぎず、それは光の壁だったのである。彼にとってこの壁は、外の者にとっての太陽と同じものである。それは、蝋燭の灯が蛾を惹きつけるように彼を惹きつけた。彼は絶えずそれを希求した。彼の中で急速に広がっていった生命力が常に彼を光の壁へと押しやるのである。彼の中の生命力が、そこが彼に運命づけられた外部へと向かうたった一つだけの道であることを教えるのである。


ただ、この壁には一つ妙なことがあった。それは、彼の父(彼はすでに父親を母親と同じようにこの世界に住み、光の近くで眠り、肉を運んでくるものであることを認識するようになっていた)が白い壁を通り抜け、その向こうへ消えてしまうことであった。灰色の仔にはそれが不思議でしようがなかった。しかし、母親がその壁に近づくことを許してくれないので、彼は代わりに他の壁でこれを試そうとして柔らかな鼻の先を硬い障害物にぶつけてしまった。これは痛かった。それで何度かこれを試した後、彼は壁の通り抜けを諦めた。その代わりに彼は、余り深く考えもせず乳や吐き戻された肉が母親の神秘であるのと同じように壁の通り抜けを父親の神秘として納得することにした。


実際、灰色の仔にはまだ思考力が与えられておらず、少なくとも人間が考えるようには考えるということができなかった。彼の脳はぼんやりとしていたのである。しかし、彼の下す結論には人が到達する結論よりも鋭くまた深いものがあった。彼は、疑問を抱いたり何故と問うたり、あるいは何のためにと考えたりせず、ただものごとをあるがままに受け入れるという方法をとったのだ。換言するならこれは、ものごとを分けて考えるということであった。彼は、なぜこんなことになったのか、などとは思わなかった。それがどのように起こったかで十分だったのである。それで、何度か奥の壁に鼻面をぶつけて、彼は壁を通り抜けることができないということを受け入れた。同様に彼は、父親が壁の向こうに姿を消してしまうということを受け入れた。しかし彼は、なぜ自分と父親とが違うのか見つけてやろうとは少しも思わなかった。論理とか物理といったことは彼の精神構造になかったのである。


多くの生き物と同じように、彼もまた飢餓を経験した。とうとう肉ばかりか、母親の胸から乳が出なくなるという日がやってきた。最初のうち仔狼たちはクンクン泣いたり声を上げて泣いたが、ほとんどを寝て過ごすようになった。しかしそれはまだ、飢えによる昏睡ではなかった。もはやいがみ合いも喧嘩も、小さな怒りも唸り声も上がらず、白い壁に向かっての冒険も一斉に止んでしまった。仔狼たちは眠り続け、彼らの中で命の火はちらつき、そして消えていった。


片目は必死だった。彼は狩りの範囲を広げ、歓迎の声の上がらぬ惨めな洞窟の前で寝る時間が少なくなった。これは雌狼も同じで、彼女も巣を離れ肉を求めて外に出るようになった。仔狼たちが生まれた最初のころ、片目はインディアンキャンプに戻ってウサギを罠から盗んだが、雪解けが始まり川に流れが戻ってくるようになると、インディアンたちはそこを離れてしまって、ウサギも手に入らなくなってしまった。


灰色の仔が再び命を取り戻し、白い壁への関心も取り戻したとき、彼は、自分を取り巻く世界の人口が減少していることに気がついた。妹のひとりが生き残るのみだったのである。残りはみな逝ってしまっていた。体力が回復するに連れ、彼は、妹が頭さえ起こせない状態で、自分ひとりで遊ばねばならないことを知った。彼の小さな身体は肉が手に入るようになって丸みを帯びてきたが、妹の分までは回らなかったのである。彼女はずっと眠り続け、小さな骸骨に皮を張った提灯のような身体の中で火は小さく小さくちらつき、そして消えた。

そして遂に、灰色の仔に、これまで壁の入口に現れたり消えたり、あるいは腹這いになって寝ていた父親の姿が二度と見えなくなる日がやってきた。それは、比較的緩やかな二度目の飢餓のときであった。雌狼はなぜ片目が帰ってこないのか知っていたが、それを灰色の仔に伝えるすべを持たなかった。

彼女自身が狩に出て、二又になった道を山猫の住む左に進み、片目がその日たどった跡を追った。そして、とうとう片目を、いや、その遺骸を見つけた。激しい闘いの跡が残されていて、勝利を得た山猫が自分の巣へ帰って行ったことが分かった。そこを引き上げる前に雌狼は巣の在り処を見つけ出し、中に山猫がいることも知っていたが、敢えて中に入る危険を冒すことはしなかった。


そしてこの後、雌狼は左道での狩を避けた。山猫の巣には小さな仔猫たちが何匹もおり、こんなときの山猫の気性がどれほど荒く、また怖ろしく手強い相手であることを彼女はよく知っていたからである。たとえば、半ダースほどの狼の群れで吠えたて威嚇しながら木に追い詰めることはできても、たった一匹で山猫に対峙するのはまったく別問題であり、それが腹を空かせた仔を持つ母親であればなおさらであった。


しかし、野性は野性であり、母性は母性である。野性であろうとなかろうと命を賭して守らねばならないものがあり、雌狼にも灰色の仔のために敢えて左の道を行き、岩の中の巣に、そして山猫の激しい怒りに対面しなければならない日が迫っていた。


第四章


世界の壁


母親が狩のために巣を離れるようになったが、その頃には、仔は出口へ近づくことが禁じられている訳をよく理解するようになっていた。これまで何度となく母親の鼻先や前足で制されていたからというだけではなく、彼の中に恐怖の感情が芽生えはじめていたからである。これまで、短いながらも洞窟での生活で彼が実際に怖い目にあったことはなかった。しかし、恐怖の感情は疑うべくもなく彼の中に存在していた。それは、これまで何千という数の彼の祖先たちを通して伝わってきたものだった。それは、片目と雌狼から直接的には伝えられたものであったが、その彼らにしても遠い遠い狼の祖先たちから受け継いできたのである。恐怖! それは野生の遺産であり、どのような生き物であれ、それを甘美なポタージュに変えることはできないのだ。


よって、灰色の仔も恐怖を知っていたが、それが何によるものかは知らなかった。おそらく彼は、それを人生における一つの制限として受け入れたのかも知れない。なぜなら、彼はそのような制限があることを既に学んでいたからである。飢餓を経験し、その飢えをどうすることもできないとき、彼は制限を感じた。洞窟の硬い壁、母親の鼻による鋭い押し戻しや前足での強い打撃、何度かの飢饉による満たされない空腹が、この世界が思うようにならないものであるということを教え、それが人生における規制であり制限であるということを学ばせたのである。規制や制限というのは法であった。これに従うことによってこそ痛みを避け幸福を得ることができるのである。


彼は、人間のようにはこのことについて疑問を持たなかった。ただ彼は、痛みを伴うものと伴わないものとに物事を分類するだけだったのである。そして、それが痛みを伴うものであれば規制と制限により避け、人生の報酬としての幸福という果実を楽しむことを選び取った。


よって、母親に示された法に従うこと、そして未だ見ぬものや知らぬものに対する感情、すなわち恐れに従うこと、彼はこれを守って洞窟の出口へは近寄らずにいた。故にそれは、彼にとってずっと光の白い壁であり続けた。母親がいないとき、彼はほとんどの時間を眠って過ごし、目が覚めている間もじっと静かにして、喉から込み上げそうになる泣き声も我慢して堪えた。

 

一度、起きているときに彼は白い壁の方から奇妙な声がするのを聞いた。彼は、外に立っているものが鼬であることを知らなかったが、そいつらは武者震いしながらも慎重に洞窟の中の臭いを嗅いでいる。仔狼はその臭いが妙な、これまで嗅いだこともないものであったので、たちまち恐怖に襲われた。


背中の毛がぞっと逆立った。どうしてこの臭いが毛を逆立てさせたのであろうか? それは彼の知識にあるものではなく、彼がこれまでに遭遇したものでもなかったが、目に見える恐怖となって彼の中に現れたのである。しかし恐怖はまた、それとは別の隠されていた本能をも露わにした。仔狼は猛烈な恐怖に身動きもできず声も上げられず、凍りつき、石化して、まったく存在を消してしまったのである。


母親が戻ってきて、鼬の臭跡を察すると唸り声を上げながら洞窟の中に飛び込み、過度なほどの激しい愛情で彼を舐めた。そして仔狼は、これで痛い目に会わずに済んだことを知った。

その一方、仔狼の中では他の力が存在を訴え始めており、とりわけ成長の声が大きかった。本能と法が彼に従うよう要求するのだが、成長の声がそれを無視するよう要求するのである。母親と彼の中にある恐怖は白い壁に近づくなと強制する。ところが成長は命そのものであり、命は光を求めるよう設えてあるのである。そして、彼の中に満ちてくる命の潮を堰き止めるダムはなく、潮は彼が肉を口一杯に頬張るたびに、そして息を吐き出すたびに満ちてくるのだ。

そしてついにある日、恐怖と順法精神は漲る命の潮に押し流され、仔狼は漂うように、そして揺蕩うように出口へと向かって行った。


これまで彼が経験してきた他の壁とは違い、この壁は彼が近づけば近づくほど後退していくように見えた。柔らかな鼻を使い恐る恐る壁を突いてみようとしても硬いものに当たることはない。壁の材質は恰も光そのものであるかのように通り抜けたり曲げたり出来そうであった。そしてそのとき、かつて壁であったはずのものが彼には泡のように思われ、彼はそれに浴するべく進んだ。


不思議であった。彼は確としたものを揺蕩いながら通り抜けた。すると、光がかつてなく眩しく輝きだした。恐怖が彼を後退りさせようとしたが、成長が逆に彼を後押しする。突如、彼は自分が洞窟の口にいることに気がついた。中にいたときには壁であったものが今、途方もなく遠くへ飛び去ってしまっていた。光は痛いほどに強くなって輝いている。彼はその明るさに眼が眩んだ。同様に、突然の途方もない空間の拡張に眩暈を覚えた。自然に眼は明るさを調整し、焦点をはるか先のものに合わせようとする。最初、壁は彼の視界を飛び越え消えてしまった。彼は今、改めてそれを見ようとしたが、見覚えがないもののように思われた。見た目が変わってしまっていた。それは今、多様に彩られた壁となり、両岸に立ち並ぶ樹々に縁どられた流れや、その樹々の上にのしかかる山や、さらにその上に君臨する空となった。


大きな恐怖が彼を襲った。それはかつて感じたことのないものであった。彼は、洞窟の口にしゃがみこんだまま外の世界を眺めた。とても恐ろしかった。それは見知らぬものであり、自分に敵対するものであったからである。それ故に、彼は背筋に沿って毛を逆立て、唇を後ろに僅か引き下げて凶暴な脅かしの唸り声を上げようとした。自身の小ささや恐ろしさを超えて、彼は世界そのものに歯向かおうとしたのである。


しかし、何も起きなかった。彼はじっと眺めつづけた。それに集中し過ぎて、彼は唸ることを忘れてしまっていた。さらには、恐れることさえ忘れていた。そのとき、恐怖は成長に根差して生じたのだが、一方成長は好奇心の装いをまとっていたのである。彼は近くのものに注意を寄せ始めた。日の光に輝く川の流れ、斜面に立つ枝を広げた松の木、それに斜面そのもので、斜面は彼が今しゃがみ込んでいる洞窟の口から二メートルほど下まで続いている。


これまで灰色の仔はずっと水平な床で暮らしてきた。これまで一度も転落の痛みを味わったことなどなかった。転落が何であるかさえ知らなかった。それで、彼は大胆にも宙に一歩を踏み出した。後足が洞窟の口に引っかかったまま彼は頭から落ちていった。鼻を地面に激しくぶつけて鳴き声を上げた。それから彼は斜面を何度も何度も転がり始めた。転がりながら恐ろしさにパニック状態になっていた。何かに引っかかってようやく止まった。それは彼を乱暴に受け止め、恐るべき苦痛を与えた。成長は今、恐怖に根差し、彼は恐怖に怯える仔犬のような泣き声を上げた。


その見知らぬものは、これまで経験したことのない恐ろしいほどの痛みを与え、彼は吠え、泣き声を上げ続けた。これはまた、未知のものがしゃがんでいるすぐそばに潜んでいるときに感ずる凍りつくような恐ろしさとは別のものであった。今、未知のものは彼をしっかりと保持している。沈黙はことを悪くするだけである。それにこれは、恐れというより心底からの恐怖が彼を震えさせているのである。

 

しかし斜面は段々と緩やかになってゆき、草がその表面を覆うようになった。そして勢いが止まった。転がり落ちるのが止んだとき、彼は痛さから叫びを上げ、それから長い泣き声を上げ続けた。そして、ごく当然に、これまで人生で千回も排泄をしてきたときのように、自分の身体を覆う乾いた泥を舐めて落とし始めた。


それから彼は身体を起こすと、火星に初めて降りた人間のように自分自身を凝視した。仔狼は世界を包んでいた壁を打ち破り、彼を掴んでいた未知は彼から離れ、今、痛みからも解放された。ただ、火星に降り立った人間は彼ほどには馴染みのないものと遭遇しなかったであろう。何ら先例となる知識もなく、これにはこのような危険があるという警告も持たずに、彼は全く新しい世界の探求に乗り出そうとしていた。


今、未知の恐ろしいものは彼を離れ、その未知が恐怖であったことも忘れていた。彼はただ、周りにあるあらゆるものに対する好奇心で一杯だったのである。彼は下に生える苔苺の草を調べ、樹々の間の開けた空間の端に立つ松の枯れた幹を調べた。一匹の栗鼠がその幹の周りを回って彼と鉢合わせしたので彼はびっくりしてしまった。彼は腰を抜かせながらも唸り声を上げた。栗鼠はこれにひどく怯えた。そして樹に駆け上がり、安全なところまで登ると激しく脅し返した。


これにより仔狼は勇気を得て、さらには啄木鳥を見て前に進むと自信が湧いてきた。ムースバード(グレイジェイ)が厚かましくも彼の前に躍り出てきたとき 、彼は意気揚々としていたので遊び半分に前足であしらってやった。その結果は嘴による鼻の先への鋭い一撃で、彼はそのために怖気づいて腰を落し泣き声を上げてしまった。その声がムースバードには耳障りに感じられたのか飛び立ってしまった。


しかし仔狼には勉強になった。彼のぼんやりとした未熟な知性は既に無意識のうちに分類を行っていた。この世界には生物と無生物があるということ。それに、彼は生物にこそ注意を注がねばならぬということ。生きていないものは常に同じ場所にあるが、生きているものは動き、それが何をするか分からないということ。彼らが何を期待しているかを知ることは期待できず、故に用心をしなければならないということ。


彼はぎこちなく進んだ。彼は枝やいろいろな物の中を走った。ずっと先にあると思った枝で鼻を打ち、あるいは脇腹を擦られた。地面は全く平らではなかった。そのために彼は初中後躓き足を取られた。また小石や石が石車になり、これによって彼は、無生物とはいっても洞窟の中のように安定したものとは限らず、それに小さな無生物ほど大きなものより落ちたり回ったりしやすいということを知った。このように偶さかの出来事から彼は学んだ。

長い間歩き続け、それによって気分が良くなった。彼は自身を周囲と合わせようとした。彼は自分の筋肉の動きを測ることを学び、その限界を知り、物と物との距離感を測り、自分と物との距離を測った。

ビギナーズラックであった。狩る者として生まれ(もっとも彼はそのことを知らなかった)、初めて自分の巣であった洞窟を出て、すぐのところで肉と出くわしたのである。まさにそれは偶然の出来事であり、そのようなところにライチョウの巣が巧妙に隠されているなどとは思いもよらなかった。

しかし彼は、まさにそこに落ちたのであった。彼は朽ちて倒れた松の木の上を歩いていた。腐った表皮が足元で崩れ、悲鳴と共に彼は半円状になった幹の上辺から木の葉や小さな藪の枝が絡まるその真ん中の地面、ライチョウの雛が七匹いる中にに突っ込み落ちていった。


雛たちが一斉に騒ぎ出したので、最初 彼は怯んだ。しかし、見るとみなとても小さいのですぐに彼は大胆になった。

彼らはあちこち動き回った。彼はそのうちの一羽に前足でちょっかいを出してみたが、その瞬間から動きが速まった。これは彼にとても面白く思われた。彼は臭いを嗅いだ。次に口に咥えてみた。もがき回って彼の舌をくすぐる。それが彼に空腹を思い出させた。顎が自然に閉じる。脆い骨の砕ける音とともに暖かな血が口辺に広がった。何とも云えぬ美味。これは、彼の母親がいつも与えてくれる肉と同じものであったが、自分の歯で切り刻まれるまでは生きていて、その分余計にうまかった。彼は雛を食べ続けた。最後の一匹を食い尽くすまで止めなかった。そして、丁度彼の母親と同じように舌なめずりをしているとき、藪の外から何かが忍び寄ってきた。


それは羽毛のつむじ風であった。突撃と激しい怒りによる翼の攻撃に圧倒され目が眩んだ。彼は両前足で頭を覆い泣き声を上げた。打撃は激しさを増した。ライチョウの母親は憤怒している。彼もだんだん腹が立ってきた。彼は立ち上がると唸り声を上げ、両方の前足を使って打ち出した。その小さな牙を片方の翼に沈め、そして強く引き、押さえつけた。ライチョウはもがきながらも彼に対抗し、もう一方の自由な翼で彼を打ちつけた。

これは彼にとっての初めての戦いであった。彼は夢中だった。未知についての恐れは消えてしまっていた。もはや恐れるものなど何もなかった。彼は、自分を打とうとする生きものを切り裂いてやろうと戦った。しかも、この生きものは肉でもあった。殺すことに対する熱情が彼を捉えていた。すでに小さな生きものは破壊した。今彼は、大きな生きものを破壊しようとしていた。彼は余りに忙しく、幸福の中にいながら、幸福を感じる暇がなかった。彼は全く新しい、これまで一度も味わったことのないほど大きなスリルと絶頂感の直中にいたのである。


彼はしっかりと翼を口に咥えたまま、歯の間から唸り声を上げた。ライチョウは彼を藪の中から外へ引きずり出した。彼女が向きを変え、再び藪の中の巣に彼を引き摺りこもうとしたとき、彼は反対に彼女を藪の外の開けたところに戻そうとした。彼女は叫び声を上げながら自由な側の翼でずっと彼を打ち続け、そのために羽毛が雪のように辺りに舞い落ちた。


彼の発する唸り声は凄まじかった。受け継がれてきた闘士の血が激流となって彼の中を流れていた。これこそが生であった、が、無論彼はそのようなことは知らなかった。彼は生まれたことの意味を実感していた。それは、今まさに彼がやっていること、すなわち殺し、その肉を喰うということであった。彼は自分の存在を正当化しようと、つまりいずれがより優れた存在であるかを決しようとしていたのである。生命とは、己に備わった力を最もよく発揮したとき、その頂点に達することができるものだからである。


しばらくして、ライチョウは静かになった。彼の方は片方の翼に喰らいついたままで、双方は地面に腹ばいになったまま睨みあった。彼は凶暴な唸り声を上げ相手を脅かそうとする。すると、その鼻面を彼女が突っついたので、これまでの突っつかれた傷と相俟って痛みが一層強くなった。彼は顔を顰めたまま、それでもライチョウを離そうとはしなかった。彼女は何度も何度も突っついてくる。彼の顰め面が泣き面に変わった。彼は堪らずライチョウから後ずさって離れようとしたが、彼女を咥えたままでは離れられるわけもなかった。ライチョウの突っつきが雨霰のように鼻を襲った。とたんに闘争心が萎えてしまって、彼はついに獲物を離し尾を翻すと一目散に広い場所を横切って不名誉な撤退へと転じた。


ライチョウを反対側に置いたまま藪のすぐそばの広くなった場所で腹這いになって休みながら、彼は舌を長く伸ばし、はぁはぁ荒い息をし、鼻が絶え間なく痛むので、彼も絶え間なく泣き声を上げ続けた。

しかし、しばらくそこにじっとしていると、ふいに何か危険が差し迫っている予感に襲われた。何か分からぬ恐怖が波のように押し寄せ、彼は本能的に縮こまるようにして藪の中に逃げ込んだ。と同時に、扇風が彼を打ち、そして大きな、翼を持った不気味な何物かが静かに通過していった。それは晴天の霹靂のような鷹の襲来で、彼は辛うじて難を逃れたのであった。


藪の中に身を潜めたまま安堵と共に外を覗いてみると、反対側のスペースでライチョウの母親が荒れ果てた巣から羽ばたいて飛び立とうとしていた。恐らく雛を失った衝撃からであろう、彼女は空からの翼による雷撃を忘れてしまっていた。

しかし灰色の仔は、そのシーンを、鷹がその短い尖った身体を地面すれすれまで急降下させるや否や鋭い鉤爪をライチョウに突き刺し、苦悶と恐怖にライチョウが上げ続ける叫び声と共に青天高く上昇していくのを、自らを戒める警告として見ていた。


それから長らく、灰色の仔は藪の中に隠れていた。彼はすでに多くを学んだ。生き物が肉であること。そしてその味が格別うまいこと。一方、その生き物がずっと大きい場合、逆に自分がやられてしまうかも知れないということ。

ライチョウの雛のように小さな生き物であれば喰うにはちょうど良いが、その親ともなれば大きすぎて手に余るので構わない方が良いということ。

しかしながら、一方この仔には小さな野心が頭を擡げていた。それはライチョウの母親ともう一度闘ってみたいというものであったが、すでに鷹がそれを奪い去ってしまった。残るは同じようなライチョウの母親がいないであろうか、ということであった。そこで彼は、それを探しに出かけることにした。


彼は棚のようになった土手を流れの方に向かって降りていった。彼は一度も水を見たことがなかった。しかしそれは、足を入れれば心地がよさそうである。水面は平らであった。彼は大胆にもその中に入っていき、そして沈んで、何か訳の分からぬものに覆い包まれている恐怖に泣き声を上げた。それは冷たく、彼は息を呑み、激しい呼吸を繰り返した。水は慣れ親しんだ空気の代わりに彼の肺になだれ込んでくる。息を止められるという体験は死の痛みそのものであった。彼には、それは死の提示と思われた。死についての明白な知識はなかったけれども、野生の生き物であれば誰もが持つように、彼にも死に対する本能はあったのである。


死は巨大な痛みとして捉えられた。それは未知の精髄そのものであり、未知に対する恐怖の総和であり、彼に起こり得る最高にして思考も及ばぬ大破局であり、全く未知の、彼の最も恐れなければならぬものであった。


彼は水面に浮かび上がり、開いた口から甘い空気を吸うことができた。そして再び沈むことはなかった。それは祖先たちから受け継いだ、彼らの長い経験から確立されたもので、彼はすぐに四肢のすべてを使って泳ぎ始めたのである。近くの岸までは1メートル足らずであったが、彼はそこに背中を向けていたので、目に映るのは反対側の岸で、彼はそこを目指して泳ぎ始めた。川は小さなものであったが、淀んで広くなったところでは幅が6メートルほどもあった。


淀みの中ほどで、流れが灰色の仔を捉え下流へと導いて行った。彼は淀みの下で小さな激流に捕まってしまった。そこではほとんど泳ぐこともできなかった。静かだった水が俄かに激しく怒り出した。ときに彼は沈み、ときに浮かび上がった。しかし常に荒々しく揺すぶられ、ひっくり返されたり廻されたり、また岩にぶつけられたりした。そして、岩に当たるたびに彼は悲鳴を上げた。彼の川下りは悲鳴の連続であり、その悲鳴の数から彼が激突した岩の数を数えることもできたであろう。


激流の下は二つ目の淀みで、彼はここで渦に捕まり、緩やかに岸へと運ばれて、そして緩やかに捨てられるように小石の河床へと投げ出されていった。彼は狂ったように足で水を掻いて岸に辿りついた。

彼はまたここで世界について学んだのだった。水は生き物ではない、ということ。しかし生き物のように動くということ。それに見た目は地面のように硬そうだが、実際にはまったく硬さというものがない、ということ。これにより彼の出した結論は、物事はいつも見た目とは違うということであった。

この仔の未知に対する恐れは不信から来ていて、それは今体験によって裏打ちされたのである。それ以降、彼の中で物事の性質について見た目を疑うということが信念になった。彼は自分の思い込みよりも先に物事の現実を学ばねばならなかったのだ。


もう一つの冒険がその日、彼を待っていた。彼は、それまでに自分の身に起こった多くのことを自分の母親のことを思い出すように思い出していた。そしてその時に、自分が何よりもこの世界で求めているものが母親であることに気がついた。それまでの冒険で疲れ果てていたのは身体だけではなく、小さな脳の方も同じように疲れていたのである。それまで彼の生きてきた日々は今日の一日ほどに厳しいものではなかった。それに加え、彼は眠かった。それで彼は、押し寄せてくる堪えられぬほどの孤独感と無力感とに同時に苛まれながら、巣である洞窟と母親を探し始めた。


そのとき彼は藪の間にだらりと寝そべっていたのだが、鋭い脅かすような叫びを聞いた。彼の目が黄色い閃光を捉えた。彼は彼の前を鼬が素早く跳ねながら通り過ぎるのを見た。それは余りに小さくて、彼は怖くなかった。すると彼の足もとを、非常に小さな、わずか十センチ足らずの鼬の仔が、ちょうど彼と同じようにやんちゃな冒険をしようと巣を飛び出してきたのが目に入った。その仔は彼の目の前で引き返そうとした。彼はそれを前足でひっくり返してやった。するとその仔は奇妙な歯軋りのような音を立てた。次の瞬間、黄色い閃光が再び彼の目に入った。彼は再び脅しのような叫びを聞き、同時に首の横に鋭い一撃と母鼬の歯が彼の肉を切る鋭い痛みを感じた。


彼が泣き叫びながら後退さりしているうちに、母鼬は我が仔に飛びついて近くの藪の中に連れ去った。母鼬に傷つけられた首の傷は、実際の痛み以上に強く感じられ、彼はその場に座り込んで弱々しく泣き続けた。母鼬は小さな身体にも関わらずとても凶暴であった。ここでもまた彼は、大きさや重さからしても鼬というのは最も獰猛で執念深く、この世の中で最も恐ろしい肉食獣であることを知った。そしてこのような経験はすぐに彼のものとなった。


彼は母鼬が再び現れたので泣くのを止めた。彼女は、自分の仔の安全が確保されたせいか、いきなり襲いかかろうとはせず、用心深く近寄ってきて、そのおかげで灰色の仔は、その蛇のようにほっそりした身体や、まさに蛇のように擡げた頭やその鋭い眼をよく観察することができた。

彼女が上げる鋭い凶暴な叫びに、彼は背筋の毛を立てながらも唸り声を上げて威嚇した。彼女はだんだんと近くに迫ってくる。そして彼の未熟な眼では捉えられないスピードで跳躍し、彼の視界からその痩せた黄色い身体が消失した。次の瞬間、彼女の歯は彼の喉に埋っていた。


初め、彼は唸り声を上げ闘おうとしたが、彼は余りに幼く、それにそもそもこれが世に出た最初であり、その唸り声は泣き声に、闘いは逃走へとすぐに変わってしまった。しかし鼬の方は決して離れようとはしない。彼女はぶら下がったまま、その歯を彼の命がぶくぶく音を立てている静脈まで押し立てようと力を入れてくる。鼬というのはそもそも血を吸う生き物であり、喉から吸い取るのが大好きなのだ。


このまま灰色の仔は死ぬかも知れなかった、が、それではこの物語もお終いとなってしまったであろう。しかしそのとき、雌狼が藪を飛び越えて駆けつけてきた。

鼬は灰色の仔を離すと雌狼の喉を目掛けて跳びかかったが、狙いは外され逆に雌狼の顎に捉えられてしまった。雌狼は首を鞭のように振ると鼬を空中高く放り上げた。そして、まだ鼬が空中にいるうちに再び顎が痩せた黄色い身体を挟んで閉じ、鼬は自らの死を上下の歯が咬み合わさる音で知らされたのであった。

灰色の仔はここでもまた母親の愛情の深さを経験した。彼を見つけた時の彼女の喜びようは、彼の見つけてもらった嬉しさよりもずっと大きいように思われた。彼女は鼻先を彼に押し付け、愛しむように撫で、鼬の歯で切られた傷を舌で舐めた。それから、彼らは、母と仔は二人して吸血獣を喰い、喰い終えると洞窟に戻って眠った。


第五章 肉の掟


灰色の仔の発達は目覚ましかった。二日間休んだだけで、再び洞窟を出て探検へと出かけたのである。そして、その探検の途中で彼は、彼が雌狼のご相伴に与った母鼬の幼い仔が母を探し回っているのを見た。今回の探検では、彼は迷うことはなかった。疲れを感じると洞窟にちゃんと戻って寝たのである。そして、それ以降の探検は毎日のように範囲を広げていった。


そのような中で、彼は自分自身の強さや弱さを正しく知り、大胆に振る舞うべきときと慎むべきときが分かるようになっていった。ときに自分の勇敢さに対する自信から、些細な怒りや欲望に我を忘れることもあったが、大抵は用心深く行動した。


彼は、ライチョウを見つけると、怒りに燃える小さな悪魔になった。ところが、栗鼠に対しては、最初に松の上から口汚く罵られたときのようにはやり返さなかった。ムースバードに出会うと、いつも狂ったような怒りに襲われたが、それは初めての探検の折にこいつの同類に鼻を突っつかれたことの恨みからであった。


彼がムースバードに関心を持たなくなるまでには、また獲物を探してうろつき回る他の肉食動物の危険を感じなくなるにはまだまだ時間が必要であった。彼は決して鷹のことを忘れてはおらず、影の動きを察知すると姿勢を低くしてすぐに近くの藪に逃げ込んだ。

彼はもはや決して腰を抜かしたり躊躇したりはせず、母親と同じ絹のように滑らかで音の立たない、無駄な力を一切使わない、それでいて滑走するように速くて敵の目を欺く走り方を身に着けていた。


肉の幸運は最初だけであった。ライチョウの雛七匹と鼬の仔一匹が彼が仕留めた全てであった。彼の狩猟本能は日が経つにつれ強くなってきており、狼の仔が近づいてきているぞ、と木の上から多弁に周りの生き物たちに知らせる栗鼠についてはいつか喰ってやりたいという欲望を胸に抱いていた。しかし、鳥が空に舞っている間、彼らは木に駆け上がってしまうので、忍び寄って襲えるのは彼らが地上にいるときだけだった。


灰色の仔は、自分の母親を非常に尊敬していた。彼女は獲物を捕まえても、決して自分の分け前を忘れなかった。それに、彼女はまったく恐れを知らなかった。この仔は、この恐れ知らずが経験と知識に基づくものであることをまだ知らなかったのである。この仔には、力ばかりが目に映ったのである。母親は力の体現であり、彼は大きくなるにしたがって、その力を前足による鋭い叱責の中に感じとり、また鼻の突っつきによる非難を牙による切り裂きと同じものと捉えるようになった。そして、これにより彼は、一層母親を尊敬したのである。彼女は自分に従うよう彼に強制したが、大きくなるにつれ、彼はこれに背いて彼女を怒らせるようになっていった。


再び飢餓がやってきて、灰色の仔は噛みつかれるような空腹をはっきりと意識した。雌狼は、彼女自身も痩せ衰えながら必死で肉を求めて走った。彼女は、もはや洞窟の中で眠りにつくことはほとんどななく、一日中狩に費やしたが、その成果はなかった。今度の飢餓はそれほど長くなかったが、とても厳しいものであった。灰色の仔は母親の胸に吸い付いたが、乳も出なければ一口の肉にもありつけなかった。


以前、彼にとっての狩は大きな喜びであったが、今はもう命を賭けて真剣に取り組んだが、何も得られなかった。しかしながら、その失敗が彼の成長を加速させた。彼は栗鼠の特性を慎重に研究し、そして巧みに忍んで襲い、そして待ち伏せて襲った。彼はまた地鼠も研究しその巣を掘り返した。とりわけ、ムースバードとキツツキについては熱心に学んだ。そうしているうちに、鷹の影が近づいてきても藪の中に逃げ込まないようになっていた。彼は強く賢く、そして自信に満ちてきた。そして必死であった。彼は開けたところにわざと目立つように座り込み、鷹が空高くから自分めがけて降りてくるのを待った。なぜなら、空高く舞っているものが彼の求めてやまない肉であることを知っていたからである。しかし鷹は、降りてきて戦うつもりはないらしく、灰色の仔は薮の中に腹這いになって入り込むと失望と空腹に泣き声を上げた。


飢餓が終わった。雌狼が肉を持って巣に帰ってきたのである。これまでに彼女が捕えてきたものとは違う変わった肉だった。それは、彼と同じようにまだ成長さなかの、あまり大きくはない山猫の仔だったのである。それを丸ごと彼は与えられた。彼の母親はどこかで空腹を満たしていたのだ。しかし彼は、彼女を満足させたものが残りの山猫の仔たちであったことを知らなかった。また彼は、彼女がその成果を得るためにどれだけ必死であったかなど知る由もなかった。ただ彼は、そのベルベットのように柔らかな毛に包まれた仔猫の肉を一口喰うたびに喜びで満たされるのを感じるのみだったのである。


満腹になると行動は抑制され、灰色の仔は母親の傍らで眠りについた。彼は母親の唸り声で目を開けた。これまで一度も聞いたことがない恐ろしい唸り声であった。おそらくそれは、彼女にとっても生涯で上げた最も恐ろしい唸りであったであろう。それにはもちろん理由があったのだが、彼女以外にその由を知る者はなかった。山猫の巣は何の咎もなく荒らされたわけではなかったのである。ぎらつくような午後の光の中、洞窟の入口に腹這いになった山猫の母を灰色の仔は見た。その瞬間、背骨に沿って毛がさっと波のように逆立った。それはまさに恐怖そのものであり、本能が告げるまでもなかった。もしも見た目だけでは足りなければ、侵入者の激しい怒りから発せられる叫び声や、唸りから始まり突如高く掠れたようになって発せられる喚き声を聞けば十分であろう。


 灰色の仔は内なる命に突き動かされ、母親の傍に立ち上がり勇敢にも唸り声を上げた。しかし屈辱的なことに、母親は彼を鼻先で押し退け自分の背後につかせたのである。

入口が低すぎて山猫は跳び込むことが出来ず、腹這いになって入って来たところを雌狼が跳躍して覆いかぶさり地面に組み伏せた。しかし、灰色の仔には闘いの様子が見えない。ただ、ものすごい唸り声や喚き声、それに怒号が聞こえるのみ。二匹の野獣は切り裂きあったが、山猫の爪と牙に対し、雌狼が使えるのは牙だけである。


一度、灰色の仔は闘いの中に跳び入って山猫の後足に噛みついた。彼は喰らいついたまま凶暴な唸り声を上げた。彼が重しとなったおかげで山猫の動きが鈍り母親のダメージを軽くしたのだが、彼にそんな考えはなかった。

闘いの進行とともに灰色の仔は二頭に組み敷かれる形になり、喰らいついていた後足が捩じれて外された。次の瞬間、二頭は離れ、再び激突しようとするその前に、山猫は灰色の仔目掛けて巨大な前足を繰り出して彼の肩を骨まで切り裂き、その衝撃で彼は壁まで吹っ飛ばされた。洞窟の中は唸り声に彼の痛みと恐怖からくる悲鳴が加わった。しかし闘いはまだ止まず、灰色の仔は二度目の迸るような勇気を試す機会を与えられ、鬨の声を上げて跳びかかっていった。そうして彼は、闘いが終わっても後足に喰らいついたままずっと唸り声を上げ続けていた。


山猫は死んだ。しかし雌狼の方も傷つき、衰弱していた。最初、彼女は灰色の仔を撫で、深手を負った肩の傷を舐めてやった。しかし出血のために力は弱く、彼女はその日の昼も夜もずっと殺した敵の傍らに虫の息で横たわったままであった。一週間、彼女はただ水を飲むためだけに洞窟を出たが、その動きは痛々しいほどゆっくりしたものであった。その間、彼女の傷が癒え、再び狩に出かけられるようになるまで山猫が食料として貪り食われた。


灰色の仔は内なる命に突き動かされ、母親の傍で立ち上がって勇敢にも唸り声を上げた。しかし屈辱的なことには、母親は彼を鼻先で押し退け自分の後ろにつかせたのである。入口が低すぎて山猫は跳び込むことが出来ず、腹這いになって入って来たところを雌狼は跳躍して覆いかぶさり地面に組み伏せた。が、灰色の仔には闘いの様子が見えない。ただ、ものすごい唸り声や喚き声、それに怒号が聞こえるのみ。二匹の野獣は引き裂きあったが、山猫の爪と牙に対し、雌狼が使えるのは牙だけである。


一度、灰色の仔は闘いの中に跳び入って山猫の後足に噛みついた。彼は喰らいついたまま凶暴な唸り声を上げた。彼はそれを知らなかったのだが、彼が重しとなったおかげで山猫の動きが鈍り母親のダメージを軽くしていたのである。


闘いの進行とともに灰色の仔は二頭に組み敷かれる形になり、喰らいついていた後足が捩じれて外された。次の瞬間、二頭は離れ、再び激突しようとするその前に、山猫は灰色の仔目掛けて巨大な前足を繰り出して彼の肩を骨まで切り裂き、その衝撃で彼は壁まで吹っ飛ばされた。洞窟の中では唸り声に彼の痛みと恐怖からくる悲鳴が加わった。しかし闘いはまだ止まず、灰色の仔は二度目の迸るような勇気を試す機会を与えられ、鬨の声を上げて跳びかかっていった。そして彼は、ずっと、闘いが終わったことも知らぬずに後足に喰らいついたまま唸り声を上げ続けていた。


山猫は死んだ。しかし雌狼の方も傷つき、衰弱していた。最初、彼女は灰色の仔を撫で、深手を負った肩の傷を舐めてやった。しかし出血のために力は弱く、彼女はその日の昼も夜もずっと殺した敵の傍らに虫の息で横たわったままであった。一週間、彼女はただ水を飲むためだけに洞窟を出たが、その動きは痛々しいほどゆっくりしたものであった。その間、彼女の傷が癒え、再び狩に出かけられるようになるまで山猫が食料として貪り食われた。

 

第二部


第一章 牙の闘争

 

男たちの掛け声や橇を引く犬たちの活発な吠え声を最初に聞き、そして消えようとする火輪の中に男を後一歩のところまで追い詰めておきながら、さっと最初に身を翻したのも雌狼であった。群はしかし、せっかくの獲物を見逃すまいと、しばらくは男のそばを離れようとしなかった。が、音や声がしかと耳に届くようになると雌狼の後を追って走り始めた。


先頭を走るのは灰色をした大きな狼で、いくつかある集団のリーダーの一頭であった。彼は雌狼の後を追い、群全体がその後に続いている。彼は、自分に先んじようとする生意気な若いリーダーに対し唸り声を上げて威嚇し、あるいは牙で切り傷を与えた。そうして彼は、猛スピードで走っていたのだが、雌狼の姿が視界に入ったとたんに速度を落とし、ゆっくりと彼女に近づいていった。


彼女は、恰もそれが指定席であったかのように彼の隣に並ぶと、群のペースメーカーとなって走り始めた。彼は、彼女が彼より前に出ても唸り声も上げず牙も見せなかった。そればかりか、彼女に先を譲って自分はただ彼女のそばを一緒に走っていればいいという態度であったが、余りに近づきすぎて彼女から唸り声をたてられ牙を見せられることになった。実際に、時折彼女は、彼の肩口に牙を見舞った。しかしそんな時にも彼は怒らなかった。ただ横に飛びのいて、少しだけまた先頭に立ってぎこちなく走り出すのだが、それはどこか田舎の恋する若者を彷彿とさせた。


これが彼の目下の困りごとであるとするなら、彼女の側にはもう一つ困りごとがあった。別の側を痩せて年老いた狼が、幾たびもの闘争を物語る古傷のついた灰色の狼が走っていたのである。この狼は常に彼女の右を走っている。それは彼が隻眼で、左目しか見えないためであった。さらには、この狼は傷跡の残る鼻先で執拗に彼女の身体に、肩や首にタッチしようとした。左にもう一頭従えて走りながら彼女は、この言い寄りに対し牙で応じたが、双方が同時に言い寄って来ると、手荒く押しのけ二頭に素早い牙を浴びせて追い払い、自分はひとり先頭に立って真っ直ぐ走り始めた。すると二頭のライバル同士は互いに牙をむき出しにして威嚇の唸り声を上げた。いずれ雌雄を決せねばならぬであろうが、今はまだそれよりも群全体の飢えを満たすことの方が先であった。


いがみあいの後、古狼は突如として、彼の中の何か強い欲求に促され、彼の見えない側を走る三歳の若い狼に体当たりした。この若い狼は、群全体の弱々しく飢えた状態と比べて立派な体格をしており、それに応じて精神的にも頑強で溌剌としていた。この狼は、片目よりも頭一つ、いや身体半分後ろを走っていた。が時折、片目と肩を並べようとして、そのたびに片目から唸られたり牙の洗礼を受けて引き下がっていた。しかし彼は、これにも懲りず、ときどき慎重にゆっくりと後に下がると、片目と雌狼との間に割って入ろうとした。これは、二重の、いや三重の怒りを招くことになった。彼女が唸り声を上げて怒りを表すと、老いたリーダーはこの若造に襲い掛かった。また、彼女自身もこれに加わった。そしてまた、これに左側の若いリーダーも加勢した。


このように三頭全てを敵に回してしまい、彼は否応もなく走るのを止め、四肢を硬直させ、口を凶暴に歪ませ、首の毛を逆立てて腰を降ろしてしまった。先頭のこのような混乱は得てして後方の群れにも混乱をもたらした。


後方の狼たちはこの若い狼と衝突し、彼の後足や横腹に噛みついて不快感をあらわにした。食料の欠乏とそれによる群全体のイラつきが背景にあるとはいえ、つまりは、彼自身が不要なトラブルを招いてしまったわけである。が、若さゆえの未熟は覆うべくもなく、この狼は同じこと過ちを何度も繰り返した。結果はいつも同じで挫折を味わせられるだけであった。


食料が足りていれば、生殖を巡る闘争は即座に終り群は解散してしまうはずであった。しかしこの群は今、自暴自棄の状態である。長きにわたる飢えでやせ細ってしまっていた。走る速度は通常よりも遅い。また、群の最後方では弱い狼たちがびっこを引きながら走っていたが、それは大抵幼いものか齢老いたものたちであった。先頭は最も強いものたちで占められている。しかし全体を見渡せば、皆ほとんど骸骨と言ってよかった。にもかかわらず、彼らの動きは、びっこを引いているものを除けば無駄がなく疲れを知らない。筋ばかりの筋肉は、汲めども尽きせぬエネルギーの泉のようである。鋼のような筋肉の収縮の後に更なる収縮が続き、そしてその後にも、またその後にも同じことが延々と、果てしもなく続いていくのである。


彼らはその日、何マイルも走った。夜もずっと走り続けた。そして気がつけばその翌日も走り続けていた。彼らは凍てついた死の世界の表面をずっと走り続けていたのである。そこには生き物の影さえなかった。ただ彼らだけがこの広大な無機の世界を横切っている。彼らだけが生きており、その生を保持するために、彼らは生きた肉を探して走り捉え貪り喰わねばならないのであった。


彼らは低い分水嶺を越え、この獲物を求めての旅が報われるまでに一ダースもの小さな川を渡らねばならなかった。そしてついに、彼らはヘラジカを見つけた。彼らが初めて目にするほど大きな牡鹿であった。それこそがまさに待ち望んだ肉であり命の綱であり、しかもそれは不思議な火や火の付いた飛翔物で守られているわけではなかった。蹄の蹴りや枝のように広がった角は馴染みのあるものであったし、あとは身に備わった忍耐力で走り続け、風向きに気を遣いながら追い詰めるだけである。闘いはごく短く、しかし激しいものであった。牡鹿は四方を取り巻かれた。彼は、俊敏な蹄の蹴りで狼の腹を引き裂き、あるいは頭蓋骨を蹴り砕いた。また巨大な角で狼たちの中に突進し、彼らを散らばらせた。彼は、四肢で狼たちを踏みつぶし雪の上を転げまわらせた。

しかし、彼の悲劇は既に決められており、雌狼が喉に食いついて激しく引き裂くと彼は倒れて、他の多くの牙が彼の身体のいたるところに噛みつき、彼の闘志も意識もまだ失われないうちから彼を貪り始めた。


十分な食料であった。牡鹿の体重は優に八百ポンドを越えており、四十頭の狼たちの口にそれぞれ二十ポンドずつ入る計算になる。しかし、その食う速度、その食欲の旺盛さは驚くべきもので、ほんの数時間前まで彼らの目の前に立っていた素晴らしい獣は、今はもう骨があちこちに散らばるのみである。


今や休息したり眠っている狼がほとんでである。中には満腹でいがみ合ったり喧嘩を始めたりしている若い雄狼たちもいて、これが数日、群れがいくつかに分裂していくまで続いた。飢饉は去ったのである。狼たちは今、獲物が豊富な地域におり、相変わらず群れで狩りしていたが、ただやり方が少し慎重になって、大きな牝鹿を切り離したり、あるいは途中で出会った小さな群れから老いて弱った雄鹿を選んで倒した。


しかし、とうとうこの食糧に事欠かぬ土地にも狼たちが二つに分かれ、別々の方向へと離れていく日が訪れた。雌狼を中に若いリーダーがその左に、そして片目の老狼がその右に並び、半分になった群れを率いてマッケンジー川へと下り、東の湖沼地帯へと進んで行った。毎日のようにこの残党は数を減らしていった。二頭ずつ、雄と雌の組になって、狼たちは散らばっていった。ときに、一頭だけの雄狼が恋敵から激しい牙を浴び弾き出されることもあった。そうして最後に四頭だけが残った。雌狼と若いリーダー、そして片目、野心旺盛な三歳である。


雌狼は、今や恐ろしいほど気が短くなっていた。彼女を追う三頭はみながみな彼女の牙による傷を負っていた。しかし、彼らはその仕返しをすることもなければ防戦することもなかった。彼らはその肩を彼女の猛烈な牙の洗礼に曝しつつ、尻尾を振りながら彼女の怒りを宥めるべく小股で歩み寄るのであった。しかし彼女に対してはそのように柔和に接する一方、お互いには敵意をむき出しにしあった。三歳の若い狼がもっともその凶暴さを露わにしていた。彼は片目の老いた狼の失われた視野の方からその耳をリボンのように切り裂いた。灰色の年老いた狼は片目だけの視野にもかかわらず若い狼に立ち向かい、見える側の目だけで長い経験に基づく知恵を発揮した。失われた目と鼻の傷痕は彼の経験を物語る証拠であった。彼は数多の戦いを、その瞬間、瞬間、臨機応変に対処することで生きながらえてきたのである。


闘いはフェアープレイに始まったが、しかしフェアープレイには終わらなかった。何が起こるかはまさに予期不能であり、もう一頭の狼が老狼の加勢につき、老いたリーダーと若きリーダーの共闘により野心むき出しの三歳を駆逐しようとしたのである。三歳の狼は両サイドをかつての同志たちによる容赦ない牙に挟まれた。お互いに狩りをし、獲物を倒し、飢餓に苦しめられた日々は記憶の遙か向こうに忘れ去られた。それらはすでに過去のものだったのである。今目前の愛に関わることは、常に獲物を得ることよりも厳粛で残酷な行為なのであった。


その間、雌狼は、すべての原因である彼女は、満足そうに腰を降ろして見物を決め込んでいた。彼女は楽しそうでさえあった。今こそが彼女にとって至高のときであり、雄たちが自分をめぐって互いにたてがみを逆立て、牙と牙をぶつけあい、あるいは互いの肉を切り裂きあう、こんな日など滅多にあるものではなく、今こそがまさに、これらすべてを我が手にしているときなのであった。


今や休息したり眠っている狼がほとんでである。中には満腹でいがみ合ったり喧嘩を始めたりしている若い雄狼たちもいて、これが数日、群れがいくつかに分裂していくまで続いた。飢饉は去ったのである。狼たちは今、獲物が豊富な地域におり、相変わらず群れで狩りしていたが、ただやり方が少し慎重になって、大きな牝鹿を切り離したり、あるいは途中で出会った小さな群れから老いて弱った雄鹿を選んで倒した。


片目は彼女の傍を落ち着きなく歩いた。再び彼女は不満を募らせてきており、探していたものを早く探さねばならないことを思い出していたのだ。彼女は踵を返すと森の方へ駈け出したが、このことは片目を安堵させ、木々の中に身が隠れるまで前へ小走りに駆けた。


二頭の狼は影のように音もなく月光の下を滑るように駆けているうちにけもの道に出た。二頭は、ともに雪に残る臭跡に鼻を落とした。臭跡はまだ新しかった。片目が先に用心深く駈け出し、連れの雌狼が後に続いた。彼らの幅広の足の裏は広がってベルベットのような雪を踏みしめた。片目は雪原の中に微かな動きを認めた。彼の滑るような走りはそれだけでも信じられないほど素早かったが、それは今彼が全力で疾走している速さに比べればどうってことはなかった。今彼が追っているのは先ほど彼が目にした白いものである。


彼らは両側に若い唐檜が茂る狭い道を疾駆している。木々を通して小道の口が見え、月光に照らされた空き地が開けている。片目の老狼は逃走する白いもののすぐ後ろに迫っている。一飛びごとにその距離は縮まっていく。今、まさに彼はそれに爪を掛けようとした。あと一飛びで牙を沈ませることができる。

しかし、その一飛びが適わなかった。空中高く、垂直に、その白い形そのままにスノーシューラビットはもがきながら空中高く跳躍して再び地面に落ちてくるやさらにまた跳ね上がるという幻想的なダンスを繰り返したが、最後には空中高く上がったまま地上に降りてはこなくなった。


片目は突然の恐怖に驚きの声を上げて後退さると、得体の知れぬものに対する畏怖に唸り声を上げながら雪の中に縮こまり身を屈めてしまった。

しかし、雌狼は冷やかに彼の傍を通り過ぎる。そして少し間をおくと、空で踊っているウサギに跳びつこうとした。かなり高く舞い上がったが、獲物ほどには高くはジャンプできず、牙が空しく空中で金属的な音を立てて閉じた。彼女は何度も何度もこれを繰り返した。


彼女の連れは、ようやく落ち着きを取り戻して立ち上がると、彼女のその様子をよく観察した。そして今、彼は彼女が繰り返している失敗の連続に呆れた様子を見せると、渾身の力を込めてジャンプした。彼の牙はウサギを捉え、それを加えたまま地面に引きずり降ろした。しかしそのとき、彼の近くで何かが折れるような気配を感じて目をやると若い唐檜の枝が折れ曲がって自分の頭を打とうとしているのに驚愕した。顎を開いて獲物を離すと、彼は後ろに飛び退き危難を逃れたが、唇は後ろに捲れあがって牙をむき出しにし、喉は唸り声を発し、全身の毛が怒りと恐怖に逆立った。枝はその屈服しそうになった過ちを正すかのように跳ね上がり、ウサギは再び空中高く舞い上がった。


雌狼は業腹であった。彼女は、非難の牙を連れの肩に沈めた。彼は恐怖のただ中にいて、彼女の攻撃の理由も分からなかったため、慄きながらも獰猛な反撃に出て、彼女の鼻面を切り裂いた。

彼女の非難に対する彼のこの怒りは、彼女にとってまったく予想外のものであったため、彼女は憤激に唸り声を上げながら彼に襲い掛かった。

それではじめて、彼は自らの過ちに気が付いて彼女を宥めようとした。しかし彼女は彼が宥めるの諦めるまで繰り返し彼をを懲らしめた。彼は頭を彼女から遠ざけるように輪を描いて回りながらも、その肩に彼女の歯による懲罰を甘んじて受け入れた。

 

その間もウサギは彼らの頭上高く舞っている。雌狼は雪の上に座り込んだままで、一方片目は、奇妙な枝よりもむしろ連れの怒りが怖くて再びウサギに向かって跳びついた。彼は歯にしっかりとウサギを咥えて枝をしならせたが、片時もその枝から目を逸らさなかった。前と同様、枝は彼とともに地面までしなった。彼は、枝に打たれる恐怖から毛を逆立てながら身を低くしたが、ウサギは口から離さなかった。枝は彼を打つことはなかった。彼の頭上でしなったままである。彼が動くと枝も動くので、ウサギを咥えたまま彼は唸り声を上げた。彼がじっとしているうちは枝も動かないので、彼はじっとしていれば危険がないことを悟った。しかし、口に染みだしてくる温かなウサギの血は溜まらなく食欲をそそった。


彼の口から彼が最初に見つけた獲物を奪い取ったのは連れであった。彼女が彼からウサギを奪い取ったとき、枝はしなって不安定に、脅すようにぐらついたが、彼女は平然とウサギの頭をもぎ取った。その瞬間、枝は跳ね上がったが、その後は何の問題も発生せず、ただ自然の意志そのままに威厳のある直立した姿勢に戻っただけのことであった。

そして二頭の狼は、この神秘的な枝が与えてくれた恩恵を貪るように食った。


他にもウサギが宙づりになっている狭い通り道がいくつもあって、この狼夫婦はすべてを渉猟し尽くしたのだが、それは、いつも雌狼が先で片目は用心深く後についてまわるというスタイルで罠から獲物を盗む方法を学んでいったのだが、これはやがて来るべき日のために役立つものであった。


第二章



二日間、雌狼と片目はインディアンキャンプの傍をうろつき回った。片目は、連れがキャンプに魅了させらてしまったかのようにいつまでも離れたがらないのを横目に非常に不安で気がかりであった。ところがある朝、空気が切り裂かれるような至近距離からの銃声とともに片目の頭を掠めて銃弾が木の幹にあたって弾けた。もはや躊躇のしようもなく、危険から逃れるべく跳ねるように何マイルも一気に駆け出した。


二頭は、数日の旅でいくらも移動しなかった。雌狼の探索活動が今や危急の感を帯びてきていたからである。彼女は身重になってきており、走るのもやっとという感じであった。一度、ウサギを見つけて捕まえるのに、普段の彼女であれば赤子の手を捻るようなものであったのが、捕まえるどころかへばってしまって肩で大きく息をするという始末であった。片目は彼女のそばに寄って、彼女の首に優しく鼻先を触れようとしたが、いきなり恐ろしい勢いで咬みつかれたので、彼は無様にも後ろにひっくり返らんばかりになってその歯を避けた。彼女の気性はかつてないほど短くなっていたが、片目の方は逆にかつてないほど我慢強く、また気遣いをするようになっていた。


そして、ついに彼女は探していたものを見つけ出した。それは、夏の間にはマッケンジー河に注ぎ込む小さな流れの何マイルか上流にあったものが、今はその上も下も岩肌の底まで白く凍って、その源流から河口までが凍えて死んだ白い流れの固形物になってしまっているのであった。雌狼は、疲れた様子でその流れに沿って小走りに走り、彼女の連れは軽快にその先を走っていたのが、そのとき彼女は、高く乗り出した粘土質の土手を見つけた。彼女はその横を小走りに見て回った。春の嵐に削られたり裂かれたりして、あるいは雪解け水に掘られて、土手の一部は狭い切れ目から洞窟の口につながっている。

彼女は洞窟の口に留まって、壁を注意深く見上げた。それから壁の両側を調べると、柔らかな土の中から突出している巨大な岩の周りを走って一回りした。洞窟まで戻ってくると、彼女は狭い入口に入った。九十センチ足らずを彼女は腹ばいになって進んだが、そこから壁の幅は広がり天上も高くなって直径百八十センチほどの丸い空間が現れた。天井は辛うじて彼女の頭がぶつからない程度であった。乾燥して居心地も良い。彼女はそこを辛抱強く調べ、一方片目の方も、そこに戻ってくるなりすぐ入口に佇み我慢強く彼女のしていることを見ていた。彼女は頭を落とすと、鼻先を地面に突き刺すようにし、それをコンパスの中心に四肢を何度か回転させた。それから疲れたような、ほとんど不満に近い溜息を吐き、身体を丸めて四肢の緊張を解き、頭を入口に向ける格好で横たわった。片目は、目を研ぎ澄まし、耳を立て、彼女に笑いかけていたのだが、彼女の目にも、彼のふさふさした尾が機嫌よく左右に振られているのが見てとれた。彼女の耳も心地よさげにその尖った先を後ろに下げ頭にぴったり着け、一方口元は開いて舌が幸せそうに垂れ下がり、満足と喜びを露わにしている。


洞窟の入り口に横たわり気持ちよさそうに寝てはいるものの、片目は空腹だった。彼はふと起きあがると耳を立て明るい外界の様子を伺う。四月の日差しが雪の大地をてらつかせていた。実はまどろんでいた時、どこからか水の流れが滴り落ちる囁きがこっそりと彼の耳に忍び込んできて、それが彼の目を覚まさせたのであった。太陽が戻り、目覚めた北の大地が彼をも呼び起こそうとしていた。命がさんざめきあっていた。春の訪れが空気に、命の芽吹きが雪の下に感じられ、樹液が木々の中を這いあがり、若芽は氷結の足枷を砕こうとしていた。


彼は気ぜわしげな目を連れに投げかけたが、彼女は一向に立ち上がる気配を見せない。外に目を向けると半ダースばかり雪ホオジロの群れが飛び立つのが見えた。彼は立ち上がろうとして、再び連れに目を向けたが、結局また座り込んで転寝を始めた。

短く鋭い歌声が彼の眠りを奪った。一度、いや二度、彼は眠たげに前足で鼻先を払った。それからようやく起き上がる。

空中で、彼の鼻先で音を立てているのは一匹の蚊であった。それはでっぷりした蚊で、乾燥した枯れ木の中で凍ったように一冬を過ごし、それが太陽に溶かされて出てきたのであった。彼は、もはやこれ以上、世界が自分を呼ぶ声に抗うことはできなかった。それにともかく空腹であった。


彼は連れのところまで這っていって起きるよう促した。しかし彼女はそれに唸り声で応えるだけであったので、彼は明るい日差しの下に出て柔らかで歩くのに骨の折れそうな雪を踏みしめた。彼は、木陰になっているために固く結晶し凍てついた河床を歩いた。

彼は八時間歩き、出立した時よりも腹を空かせて暗がりの中を帰ってきた。獲物を見つけはしたが手にすることは出来なかった。彼は一度融けて再度凍結した雪を踏み砕いて水に落ちてしまい、一方獲物の雪ウサギといえば慣れたもので軽々とその上を走って逃げてしまったのであった。


彼は、洞窟の入り口で俄かにショックを受けた。微かな、奇妙な音が中から聞こえてきたのである。それは連れが出す音ではなかったが、どこか聞き覚えのある音でもあった。彼は腹ばいになって耳を欹てたが、すぐに雌狼の唸り声の返礼を受けた。彼はこれを距離を保ったままじっと我慢して受け入れたが、その微かな、忍び泣きのようにも聞こえるだらだらした音にはずっと興味をそそられつづけた。


彼の連れが苛立って追い出そうとしたので、彼は入り口で丸くなって寝るより他になかった。朝が来て、微かな光が巣を侵食すると、彼は再び聞き覚えのある音の源を探ろうとした。連れの唸り声には新たな調子が加わっていた。それは何か大切なものを奪われまいとする嫉妬心から来るものであったので、彼は用心深く彼女からの距離を保った。

それでも彼は、彼女の四肢と身体の間に五つ小さな束のようになった生命が、とてもひ弱で極めて無力な生命が、未だ光に目を開くことさえできないまま小さな泣き声を上げているのを見出した。彼は驚いた。彼の長く成功した人生の中で、これは初めてのことではなかった。何度も経験してきたことではあったが、彼にとってはいつも新鮮な驚きに満ちた出来事だったのである。

 

連れは不安そうな目を彼に向けた。そうして、しばらくの間、彼女は低く唸り続けていたが、片目が一線を越えてしまったため、それまでのただの唸りだったものが一挙に牙をむき出しにした鋭い吠え声となって喉を突いて出た。それは、彼女自身の経験によるものではなく、彼女の本能、すなわち彼女が祖先の母親たちから受け継いできた記憶が、父親の狼が生まれたばかりの無力な我が仔を喰ってしまったという記憶がそうさせているのであった。それは、彼女の中に根強く恐怖として宿っていたものであり、そのために彼女は、片目がそれ以上近づいて我が仔の臭いを嗅ごうとするのを防いだのである。


しかし、恐れる必要はどこにもなかった。老狼の片目もまたある衝動に突き動かされていたが、それも翻せば、彼の祖先たる父親たちから来た自然な本能だったのである。そこには疑うべきことも首を傾げるべきこともなかった。目の前には己の血を分けた子供たちがいるのである。彼は踵を返すと、この世の最も自然な従うべきルールに従い、自身の生きるよすがである新しい家族のために肉を求める旅へと出立した。


巣から五,六マイル離れた所で流れは二つに分かれ、山を出て直角に分かれた。ここで左へと進んだ彼は新しい足跡に出会った。臭いを嗅いでみると、それはまだ新しいもので、彼は直ぐに姿勢を低くして前方に注意を傾けた。それから彼は用心深く右の方に向かうことにした。その足跡は彼自身のものより一回り大きく、その後を追っていったところで何ら成果が得られないことを彼はよく知っていたのである。


半マイルほど右の分かれ道を進んで行くと、彼の敏感な耳は何かが木を齧っている音を捉えた。密やかにその方に忍び寄っていくと、彼はハリネズミが木を抱えるように立ったまま樹皮に歯を立てているのを見つけた。片目は慎重に、しかしあまり期待することもなく忍び寄った。彼はこの種のものをよく知っていたが、これほど北で見るのは初めてのことであった。また、彼の長い経験からしても、ハリネズミのご馳走に与ることは一度もなかった。しかし彼は、決してチャンスが、好機が訪れないとは限らないこともその経験からよく知っていたので、ごく近くまで歩み寄った。生きとし生ける物の上には、何が起こるかまったく分かったものではないのだ。


ハリネズミは栗の毬のように丸くなり、防御のために長く鋭い針を全方向に向けて立てた。若い頃、片目はこれと同じような状況で針を立てた毬に近寄りすぎて、予期せぬ尻尾の一撃を顔に受けたことがある。針の一つが鼻に刺さって、その火のような痛みから解放されるまで何週間もかかった。そんなことから、彼はリラックスした姿勢で伏せたまま、鼻は十分に安全な距離を置き、尻尾の振れるレンジから外した。そうして、完全に静寂を保ったまま待った。このまま何も起きないとは限らない。何か予期せぬことが起きるかも知れない。ハリネズミが毬の形を解きほぐそうとするかも知れないではないか。そうなれば、巧みな前足の一閃で柔らかで無防備な腹の肉を切り裂けるであろう。


しかし三十分ほどが過ぎ、彼は立ち上がって、忌々しげな不満の唸り声を動かぬままの毬に向かって上げると再び駆け出し始めた。彼は過去に何度もハリネズミが毬の形を解くのを待ったことがあったが、そのような徒労はもう御免であった。彼は右の分かれ道をずっと走り続けた。時は過ぎてゆくが、未だになんの成果も無かった。


彼の中で目覚めた父親の本能が強く彼を駆り立てていた。どうしても肉を見つけねばならなかった。午後になって、彼は間抜けなライチョウと出くわした。彼が藪の中から出てくると、なんと目の前にドジな鳥がいるではないか。そいつは倒木の上、彼の鼻先から一尺と離れぬところに立っていたのである。お互いの目が会った。その鳥は慌てふためいて飛び立とうとしたが、彼は前足の一撃を喰らわせて地面に叩きつけると襲い掛かって飛び立とうと雪の上で激しく羽ばたくのに咬みついた。その歯が柔らかな肉と脆い骨を噛み砕いたとき、彼は本能的に食べてしまおうとした。しかし、すぐに新しく目覚めた別の本能が、ライチョウを口に銜えたまま彼を帰路へと向かわせた。


分かれ道から一マイルほどのところで、先行きに細心の注意を向けながら、いつも通りビロードのように柔らかな足取りで滑る影のごとく走っていた彼は、今朝方見つけたのと同じ大きな足跡を見つけた。彼は、それに誘われるように、しかし流れが向きを変えるたびに、その主と出くわさぬよう注意しながら跡をつけていった。


彼は、川床が通常よりも大きく曲がったところで岩の端に頭を擦り寄せるようにして前を伺ったが、そのとき眼の端に何かを捉えてしゃがみ込んだ。それは足跡の主、大きな牝の山猫であった。彼女は、朝彼がしゃがんだと同じようにそこにしゃがみ込み栗の毬となったハリネズミと対峙しているのであった。もしもこれまでの動きが滑る影であったとするなら、今の彼はまさに幽霊の影ででもあるかのように忍び足で二つの音を立てず動かぬ者たちの風下へと回り込んだ。


彼はライチョウを傍らに置き雪の上に腹ばいになると、針の葉を落とした育ちの悪い唐檜の低木を通して繰り広げられる目の前の命のやりとりに固唾を呑んだ。それは、待ち続ける山猫と待ち続けるハリネズミとの命のせめぎ合いであり、これこそがゲームの、喰おうとするものと喰われまいとするものの命の妙であった。一方で、古狼、片目は腹ばいになって息を呑みながら、今に、何か予期せぬことが起こるのではないかと期待に胸を膨らませており、それが彼の肉を求めての旅における役柄なのである。


三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。が、何も起きなかった。栗の毬ははじめから石だったのではないかと思われ、山猫ははじめから凍った大理石であったかのようであり、片目は死んでいたかのように思われた。しかし三つの生き物は、痛々しいほどの緊張状態にありながら、かつてないほどに生きており、その結果がこの石化なのである。


片目は、熱望を押さえきれず前方にわずか首を伸ばした。何かが起きようとしていた。ハリネズミは終に、敵が去ったかどうかを探ろうと決心したようであった。ゆっくりと、用心深く、栗の毬はその難攻不落の鎧を解こうとしていた。それは、なんらの殺気を感じている様子ではない。ゆっくり、ゆっくり、針を立てた毬は伸びてまっすぐ長くなっていった。片目はそれを、目の前にご馳走が広げられるのを見るように、興奮に口の中が湿っぽくなり唾が舌先から滴り落ちるの感じながら見ていた。


ハリネズミは毬を開ききらないうちに敵に気がついた。その瞬間、山猫が前足のパンチを繰り出した。閃光のごとき速さであった。前足の硬い爪が猛禽の鉤爪のように弧を描き柔らかな腹をえぐって元の位置に戻った。もしもハリネズミが完全に毬の形を解いていたら、あるいは敵を察知するのがもう少し遅かったなら、山猫は前足に損傷を受けずに済んだであろう。が、腹をえぐった瞬間、ハリネズミが横に振った尻尾の一撃を喰らい、鋭い棘を突き立てられてしまった。

すべては一瞬のできごとであった。前足の一撃、そして尻尾の反撃、ハリネズミが苦痛から放つ鋭い金を切るような鳴き声、大猫が思わぬ痛みと驚きから発する喚き声。片目は興奮の余り片身を乗り出したが、その耳は直立し、尾はまっすぐ後ろに伸びたまま痙攣している。山猫の怒りは絶頂に達していた。彼女はわが身を傷つけたものに我を忘れて襲い掛かかろうとした。しかしハリネズミは、弱々しくも破裂した腹のまま再び毬の形になろうと、鋭い泣き声とも恨みの声ともつかぬ声を上げながらその尻尾をまた横に打ち払い、そのためにまた大猫は激痛と驚きから喚き声を張り上げねばならなかった。そのまま彼女は後ろにひっくり返ってくしゃみをしだしだしたが、見るとハリネズミの長い棘が突き刺さって、鼻がまるで巨大な針刺しのようになっている。彼女は、両前足を使って鼻に刺さった火のような棘をこそぎ落とそうとしたり、雪の中に鼻を突っ込んだり、あるいは木の小枝や枝に擦り付けて取ろうとしたが、そのたびに気の狂いそうなほどの痛みと恐怖から前に、左右に、上下に飛び跳ねた。


彼女はひっきりなしにくしゃみをし、そのたびに尻尾の先が鞭のように激しく前に打ち出された。と、彼女はふいにその茶番を止め、しばらく静かになった。片目は息を呑んで見ていた。彼は、山猫が突如高くジャンプして、空中にまっすぐ伸び上がり長く恐ろしい喚き声を上げるのを聞いたとき、背筋に沿っての毛がみな逆立つのを禁じ得なかった。そうして彼女は、飛び跳ねるたびに喚き声を上げながら自分の巣の方へと走り去っていった。


その騒がしい声がまだ消えきらないうちに片目は前へ進み出た。彼は、雪の上にハリネズミの棘が散乱していて、柔らかな足裏をいつ突き抜いてしまうか分からないということもあって、用心深く歩を進めた。ハリネズミは、片目の接近に気が付くと憤怒の鳴き声を上げ、その長い歯で歯噛みをしてみせた。そして再び毬になろうとしたが、なにしろその筋肉が大きく裂かれてしまっているため、前のような完全な毬になることはできない。それはほとんど半分に裂かれ、まだ夥しい量の血が流れていた。


片目は下顎でその血が浸み込んだ雪を掬って口に入れると噛んで味わいながら呑み込んだ。これは空腹を一層掻き立てた。が、彼はそれに負けてしまうには十分すぎるほど齢を重ねていた。彼は待った。腹ばいになったまま、彼はじっと待ったが、一方ハリネズミは歯噛みをしながら不満げな泣いているような、そうしてときおり鋭い小さな金を切るような声を上げた。それから少しして、片目はその棘が力なく寝て、全身が大きく痙攣するのに気がついた。が、その痙攣もふいに終わった。そして最後の抵抗のような長い歯の軋るギリッという音。そうして長い棘が完全に寝て平たくなり、全身が弛緩してまったく動かなくなった。


恐る恐る震える前足で、片目はハリネズミを長く伸ばして、それから仰向けにひっくり返した。何も起きなかった。間違いなく死んでいる。さらに念を入れるように調べると、彼はそれを歯にしっかりと咥え、その棘だらけの身体が自分の進行の邪魔にならぬよう頭を横に向けたまま半ば引きずるようして下流に向かって走り出した。途中で何かを思いだしたようにその荷物を落とすと、ライチョウを置いたところまで駆け戻った。一瞬の躊躇いもない。彼は何を今すべきか心得ていて、その通りライチョウを腹に収めたのだ。それから再び荷物を取りに戻った。


彼がその日の成果を洞穴の巣へ持ち帰ってくると、雌狼はそれを嗅ぎ、鼻先を彼の方に回して軽くその首筋を舐めた。しかし、次の瞬間、彼女は唸り声を上げ彼を子供たちから離そうとしたが、それは普段より幾分おとなしく、また幾分申し訳なさそうな調子を帯びたものであった。本能的な父狼への不信と恐怖は衰えていた。片目は父親としてなすべき振る舞いをちゃんとしており、彼女がこの世に産み出した幼い命を貪り食うなどという不名誉な欲望は微塵も見せなかったからである。

 


第三章 灰色の仔


彼は兄弟姉妹たちと違っていた。彼らの毛には既に雌狼から受け継いだ赤味が現れていたが、彼だけは特別に父親のそれを受け継いだようであった。彼だけが一腹の仔たちの中でただひとり灰色だったのである。彼は純粋な狼の血を、つまり肉体的に片目の血を継いでいたのだが、ただ一つ違いがあるとすれば、それは父親が隻眼だったのに対し、彼には二つ目が備わっているということであった。


この灰色の仔は、長い間ずっと目が開かないままであったが、すでにはっきりとものをみることができた。目が閉じたままの内に、感じ、味わい、そして嗅いだ。彼はふたりの兄弟とふたりの姉妹のことを良く知っていた。彼らとぎこちなく遊び、あるいは諍いあったが、そんなときその小さな喉はおかしな擦れるような音(唸り声の先駆け)を発し、彼自身それに陶酔した。彼は、目が開くずっと前から、肌で、舌で、そして匂いで母親を、暖かさと粥状の食べ物と柔らかさの源を理解した。母とは、彼の柔らかで小さなからだを慰め、自然とその胸にまとわりつかせ、そして心地よい眠りへと落とす舌の持ち主なのであった。


生まれて最初の一月ほどはほとんど眠ったままであったが、今彼は目が開いてものがよく見えるようになり、活動する時間も長くなり、自分の世界というものをよく知るようになった。彼の世界は陰気そのものであったが、彼自身は他の世界を知らなかったので、陰気さを感じていたわけではない。そこはいつも薄暗かったが、かと言って彼の眼に何か焦点を合わせるべきものもなかった。彼の世界は本当に小さかったのである。その果ては巣の壁であったが、彼がその外の広大な世界を知る由もなく、自身の存在の無力さを感じることもなかった。


しかし彼は、世界の壁の一つが他と違っていることを発見していた。それは洞窟の入り口であり、光の源であった。彼は、それが他の壁と違っていることをずっと以前から、彼の中にもの心が、つまり自意識が芽生える前から知っていた。それは、目が開く以前から抑えようがないほど彼を惹きつけた。その光は、彼の瞼を突き抜けて両眼と視神経を脈動させ、閃光や温かな不思議な快さをもたらした。彼の身体に宿る命が、身体のすべての細胞が、身体中の命を形成するすべての物質が、彼の意思とは別に、植物の複雑な化学反応が光合成のために太陽を求めるようにこの光に向かわせるのだった。


生まれて間もないころから、自意識が芽生える前から、常に彼は洞窟の入口を目指して這った。この点では、彼の兄弟姉妹も同じであった。この時期、誰も暗い洞窟の奥に向かって這おうとする者はいなかったのである。光は、あたかも彼らが植物であるかのように惹きつけたが、それは命という名の化学反応が生存に欠くべからざるものとして光を欲求していたからであり、彼らの小さな操り人形に過ぎない身体は手探りに、そして化学的に蔓草のようにそれを求めて這うのである。それから少し経って各自の個性が伸び個々の衝動や欲望といった自意識が育ってくると、彼らは一層光に惹きつけられるようになった。彼らはいつもそれに向かって這い、あるいは身体を伸ばそうとしたが、いつも母親によって押し戻された。

 

彼は幼いながらも凶暴であった。ただ、これは彼の兄弟姉妹たちにしても同じである。彼らはそのように生まれついたのだ。彼らは肉食獣なのである。獲物を殺しその肉を喰らうものとして生まれついた。父も母も肉のみで生きてきた。彼が生まれて初めて口にした母乳もまた肉が姿形を変えたものであったが、生まれて一月、目が開いて一週間たった今彼は、母親が半ば消化して吐き出してくれた肉を食うようになっていた。雌狼の乳では五頭の育ち盛りの子供たちに間に合わなくなってきていたのである。


彼は、五頭の中で最も凶暴であった。彼は他の誰よりも大きな擦れたような唸り声を上げることができた。彼の小さな怒りは他の兄弟姉妹を脅かした。最も早く他のものたちを前足で巧みにひっくり返すことを覚えたのは彼であった。唸り声を上げながら顎で耳にしっかりと食らいつき引っ張たり、押さえつけたりするようになったのも彼が最初であった。そして確かに、巣穴の外に出ようとして母親を最も困らせるのも彼であった。


光への興味は日増しに灰色の仔の中で強まっていった。彼はいつも洞窟の入り口へ向かって一メートルほどの冒険を繰り返し、そのたびに連れ戻された。彼はそれが出入り口であることを知らなかった。そもそも出入り口というものがある場所から別のある場所への通過点であることなどまったく知らなかった。彼は、別のある場所というものを知らなかったし、そこへたどり着く方法などなお分からなかった。だから、彼にとって洞窟の出入り口は壁の一つに過ぎず、それは光の壁だったのである。彼にとってこの壁は、外の者にとっての太陽と同じものである。それは、蝋燭の灯が蛾を惹きつけるように彼を惹きつけた。彼は絶えずそれを希求した。彼の中で急速に広がっていった生命力が常に彼を光の壁へと押しやるのである。彼の中の生命力が、そこが彼に運命づけられた外部へと向かうたった一つだけの道であることを教えるのである。


ただ、この壁には一つ妙なことがあった。それは、彼の父(彼はすでに父親を母親と同じようにこの世界に住み、光の近くで眠り、肉を運んでくるものであることを認識するようになっていた)が白い壁を通り抜け、その向こうへ消えてしまうことであった。灰色の仔にはそれが不思議でしようがなかった。しかし、母親がその壁に近づくことを許してくれないので、彼は代わりに他の壁でこれを試そうとして柔らかな鼻の先を硬い障害物にぶつけてしまった。これは痛かった。それで何度かこれを試した後、彼は壁の通り抜けを諦めた。その代わりに彼は、余り深く考えもせず乳や吐き戻された肉が母親の神秘であるのと同じように壁の通り抜けを父親の神秘として納得することにした。


実際、灰色の仔にはまだ思考力が与えられておらず、少なくとも人間が考えるようには考えるということができなかった。彼の脳はぼんやりとしていたのである。しかし、彼の下す結論には人が到達する結論よりも鋭くまた深いものがあった。彼は、疑問を抱いたり何故と問うたり、あるいは何のためにと考えたりせず、ただものごとをあるがままに受け入れるという方法をとったのだ。換言するならこれは、ものごとを分けて考えるということであった。彼は、なぜこんなことになったのか、などとは思わなかった。それがどのように起こったかで十分だったのである。それで、何度か奥の壁に鼻面をぶつけて、彼は壁を通り抜けることができないということを受け入れた。同様に彼は、父親が壁の向こうに姿を消してしまうということを受け入れた。しかし彼は、なぜ自分と父親とが違うのか見つけてやろうとは少しも思わなかった。論理とか物理といったことは彼の精神構造になかったのである。


多くの生き物と同じように、彼もまた飢餓を経験した。とうとう肉ばかりか、母親の胸から乳が出なくなるという日がやってきた。最初のうち仔狼たちはクンクン泣いたり声を上げて泣いたが、ほとんどを寝て過ごすようになった。しかしそれはまだ、飢えによる昏睡ではなかった。もはやいがみ合いも喧嘩も、小さな怒りも唸り声も上がらず、白い壁に向かっての冒険も一斉に止んでしまった。仔狼たちは眠り続け、彼らの中で命の火はちらつき、そして消えていった。


片目は必死だった。彼は狩りの範囲を広げ、歓迎の声の上がらぬ惨めな洞窟の前で寝る時間が少なくなった。これは雌狼も同じで、彼女も巣を離れ肉を求めて外に出るようになった。仔狼たちが生まれた最初のころ、片目はインディアンキャンプに戻ってウサギを罠から盗んだが、雪解けが始まり川に流れが戻ってくるようになると、インディアンたちはそこを離れてしまって、ウサギも手に入らなくなってしまった。


灰色の仔が再び命を取り戻し、白い壁への関心も取り戻したとき、彼は、自分を取り巻く世界の人口が減少していることに気がついた。妹のひとりが生き残るのみだったのである。残りはみな逝ってしまっていた。体力が回復するに連れ、彼は、妹が頭さえ起こせない状態で、自分ひとりで遊ばねばならないことを知った。彼の小さな身体は肉が手に入るようになって丸みを帯びてきたが、妹の分までは回らなかったのである。彼女はずっと眠り続け、小さな骸骨に皮を張った提灯のような身体の中で火は小さく小さくちらつき、そして消えた。

そして遂に、灰色の仔に、これまで壁の入口に現れたり消えたり、あるいは腹這いになって寝ていた父親の姿が二度と見えなくなる日がやってきた。それは、比較的緩やかな二度目の飢餓のときであった。雌狼はなぜ片目が帰ってこないのか知っていたが、それを灰色の仔に伝えるすべを持たなかった。

彼女自身が狩に出て、二又になった道を山猫の住む左に進み、片目がその日たどった跡を追った。そして、とうとう片目を、いや、その遺骸を見つけた。激しい闘いの跡が残されていて、勝利を得た山猫が自分の巣へ帰って行ったことが分かった。そこを引き上げる前に雌狼は巣の在り処を見つけ出し、中に山猫がいることも知っていたが、敢えて中に入る危険を冒すことはしなかった。


そしてこの後、雌狼は左道での狩を避けた。山猫の巣には小さな仔猫たちが何匹もおり、こんなときの山猫の気性がどれほど荒く、また怖ろしく手強い相手であることを彼女はよく知っていたからである。たとえば、半ダースほどの狼の群れで吠えたて威嚇しながら木に追い詰めることはできても、たった一匹で山猫に対峙するのはまったく別問題であり、それが腹を空かせた仔を持つ母親であればなおさらであった。


しかし、野性は野性であり、母性は母性である。野性であろうとなかろうと命を賭して守らねばならないものがあり、雌狼にも灰色の仔のために敢えて左の道を行き、岩の中の巣に、そして山猫の激しい怒りに対面しなければならない日が迫っていた。


第四章


世界の壁


母親が狩のために巣を離れるようになったが、その頃には、仔は出口へ近づくことが禁じられている訳をよく理解するようになっていた。これまで何度となく母親の鼻先や前足で制されていたからというだけではなく、彼の中に恐怖の感情が芽生えはじめていたからである。これまで、短いながらも洞窟での生活で彼が実際に怖い目にあったことはなかった。しかし、恐怖の感情は疑うべくもなく彼の中に存在していた。それは、これまで何千という数の彼の祖先たちを通して伝わってきたものだった。それは、片目と雌狼から直接的には伝えられたものであったが、その彼らにしても遠い遠い狼の祖先たちから受け継いできたのである。恐怖! それは野生の遺産であり、どのような生き物であれ、それを甘美なポタージュに変えることはできないのだ。


よって、灰色の仔も恐怖を知っていたが、それが何によるものかは知らなかった。おそらく彼は、それを人生における一つの制限として受け入れたのかも知れない。なぜなら、彼はそのような制限があることを既に学んでいたからである。飢餓を経験し、その飢えをどうすることもできないとき、彼は制限を感じた。洞窟の硬い壁、母親の鼻による鋭い押し戻しや前足での強い打撃、何度かの飢饉による満たされない空腹が、この世界が思うようにならないものであるということを教え、それが人生における規制であり制限であるということを学ばせたのである。規制や制限というのは法であった。これに従うことによってこそ痛みを避け幸福を得ることができるのである。


彼は、人間のようにはこのことについて疑問を持たなかった。ただ彼は、痛みを伴うものと伴わないものとに物事を分類するだけだったのである。そして、それが痛みを伴うものであれば規制と制限により避け、人生の報酬としての幸福という果実を楽しむことを選び取った。


よって、母親に示された法に従うこと、そして未だ見ぬものや知らぬものに対する感情、すなわち恐れに従うこと、彼はこれを守って洞窟の出口へは近寄らずにいた。故にそれは、彼にとってずっと光の白い壁であり続けた。母親がいないとき、彼はほとんどの時間を眠って過ごし、目が覚めている間もじっと静かにして、喉から込み上げそうになる泣き声も我慢して堪えた。

 

一度、起きているときに彼は白い壁の方から奇妙な声がするのを聞いた。彼は、外に立っているものが鼬であることを知らなかったが、そいつらは武者震いしながらも慎重に洞窟の中の臭いを嗅いでいる。仔狼はその臭いが妙な、これまで嗅いだこともないものであったので、たちまち恐怖に襲われた。


背中の毛がぞっと逆立った。どうしてこの臭いが毛を逆立てさせたのであろうか? それは彼の知識にあるものではなく、彼がこれまでに遭遇したものでもなかったが、目に見える恐怖となって彼の中に現れたのである。しかし恐怖はまた、それとは別の隠されていた本能をも露わにした。仔狼は猛烈な恐怖に身動きもできず声も上げられず、凍りつき、石化して、まったく存在を消してしまったのである。


母親が戻ってきて、鼬の臭跡を察すると唸り声を上げながら洞窟の中に飛び込み、過度なほどの激しい愛情で彼を舐めた。そして仔狼は、これで痛い目に会わずに済んだことを知った。

その一方、仔狼の中では他の力が存在を訴え始めており、とりわけ成長の声が大きかった。本能と法が彼に従うよう要求するのだが、成長の声がそれを無視するよう要求するのである。母親と彼の中にある恐怖は白い壁に近づくなと強制する。ところが成長は命そのものであり、命は光を求めるよう設えてあるのである。そして、彼の中に満ちてくる命の潮を堰き止めるダムはなく、潮は彼が肉を口一杯に頬張るたびに、そして息を吐き出すたびに満ちてくるのだ。

そしてついにある日、恐怖と順法精神は漲る命の潮に押し流され、仔狼は漂うように、そして揺蕩うように出口へと向かって行った。


これまで彼が経験してきた他の壁とは違い、この壁は彼が近づけば近づくほど後退していくように見えた。柔らかな鼻を使い恐る恐る壁を突いてみようとしても硬いものに当たることはない。壁の材質は恰も光そのものであるかのように通り抜けたり曲げたり出来そうであった。そしてそのとき、かつて壁であったはずのものが彼には泡のように思われ、彼はそれに浴するべく進んだ。


不思議であった。彼は確としたものを揺蕩いながら通り抜けた。すると、光がかつてなく眩しく輝きだした。恐怖が彼を後退りさせようとしたが、成長が逆に彼を後押しする。突如、彼は自分が洞窟の口にいることに気がついた。中にいたときには壁であったものが今、途方もなく遠くへ飛び去ってしまっていた。光は痛いほどに強くなって輝いている。彼はその明るさに眼が眩んだ。同様に、突然の途方もない空間の拡張に眩暈を覚えた。自然に眼は明るさを調整し、焦点をはるか先のものに合わせようとする。最初、壁は彼の視界を飛び越え消えてしまった。彼は今、改めてそれを見ようとしたが、見覚えがないもののように思われた。見た目が変わってしまっていた。それは今、多様に彩られた壁となり、両岸に立ち並ぶ樹々に縁どられた流れや、その樹々の上にのしかかる山や、さらにその上に君臨する空となった。


大きな恐怖が彼を襲った。それはかつて感じたことのないものであった。彼は、洞窟の口にしゃがみこんだまま外の世界を眺めた。とても恐ろしかった。それは見知らぬものであり、自分に敵対するものであったからである。それ故に、彼は背筋に沿って毛を逆立て、唇を後ろに僅か引き下げて凶暴な脅かしの唸り声を上げようとした。自身の小ささや恐ろしさを超えて、彼は世界そのものに歯向かおうとしたのである。


しかし、何も起きなかった。彼はじっと眺めつづけた。それに集中し過ぎて、彼は唸ることを忘れてしまっていた。さらには、恐れることさえ忘れていた。そのとき、恐怖は成長に根差して生じたのだが、一方成長は好奇心の装いをまとっていたのである。彼は近くのものに注意を寄せ始めた。日の光に輝く川の流れ、斜面に立つ枝を広げた松の木、それに斜面そのもので、斜面は彼が今しゃがみ込んでいる洞窟の口から二メートルほど下まで続いている。


これまで灰色の仔はずっと水平な床で暮らしてきた。これまで一度も転落の痛みを味わったことなどなかった。転落が何であるかさえ知らなかった。それで、彼は大胆にも宙に一歩を踏み出した。後足が洞窟の口に引っかかったまま彼は頭から落ちていった。鼻を地面に激しくぶつけて鳴き声を上げた。それから彼は斜面を何度も何度も転がり始めた。転がりながら恐ろしさにパニック状態になっていた。何かに引っかかってようやく止まった。それは彼を乱暴に受け止め、恐るべき苦痛を与えた。成長は今、恐怖に根差し、彼は恐怖に怯える仔犬のような泣き声を上げた。


その見知らぬものは、これまで経験したことのない恐ろしいほどの痛みを与え、彼は吠え、泣き声を上げ続けた。これはまた、未知のものがしゃがんでいるすぐそばに潜んでいるときに感ずる凍りつくような恐ろしさとは別のものであった。今、未知のものは彼をしっかりと保持している。沈黙はことを悪くするだけである。それにこれは、恐れというより心底からの恐怖が彼を震えさせているのである。

 

しかし斜面は段々と緩やかになってゆき、草がその表面を覆うようになった。そして勢いが止まった。転がり落ちるのが止んだとき、彼は痛さから叫びを上げ、それから長い泣き声を上げ続けた。そして、ごく当然に、これまで人生で千回も排泄をしてきたときのように、自分の身体を覆う乾いた泥を舐めて落とし始めた。


それから彼は身体を起こすと、火星に初めて降りた人間のように自分自身を凝視した。仔狼は世界を包んでいた壁を打ち破り、彼を掴んでいた未知は彼から離れ、今、痛みからも解放された。ただ、火星に降り立った人間は彼ほどには馴染みのないものと遭遇しなかったであろう。何ら先例となる知識もなく、これにはこのような危険があるという警告も持たずに、彼は全く新しい世界の探求に乗り出そうとしていた。


今、未知の恐ろしいものは彼を離れ、その未知が恐怖であったことも忘れていた。彼はただ、周りにあるあらゆるものに対する好奇心で一杯だったのである。彼は下に生える苔苺の草を調べ、樹々の間の開けた空間の端に立つ松の枯れた幹を調べた。一匹の栗鼠がその幹の周りを回って彼と鉢合わせしたので彼はびっくりしてしまった。彼は腰を抜かせながらも唸り声を上げた。栗鼠はこれにひどく怯えた。そして樹に駆け上がり、安全なところまで登ると激しく脅し返した。


これにより仔狼は勇気を得て、さらには啄木鳥を見て前に進むと自信が湧いてきた。ムースバード(グレイジェイ)が厚かましくも彼の前に躍り出てきたとき 、彼は意気揚々としていたので遊び半分に前足であしらってやった。その結果は嘴による鼻の先への鋭い一撃で、彼はそのために怖気づいて腰を落し泣き声を上げてしまった。その声がムースバードには耳障りに感じられたのか飛び立ってしまった。


しかし仔狼には勉強になった。彼のぼんやりとした未熟な知性は既に無意識のうちに分類を行っていた。この世界には生物と無生物があるということ。それに、彼は生物にこそ注意を注がねばならぬということ。生きていないものは常に同じ場所にあるが、生きているものは動き、それが何をするか分からないということ。彼らが何を期待しているかを知ることは期待できず、故に用心をしなければならないということ。


彼はぎこちなく進んだ。彼は枝やいろいろな物の中を走った。ずっと先にあると思った枝で鼻を打ち、あるいは脇腹を擦られた。地面は全く平らではなかった。そのために彼は初中後躓き足を取られた。また小石や石が石車になり、これによって彼は、無生物とはいっても洞窟の中のように安定したものとは限らず、それに小さな無生物ほど大きなものより落ちたり回ったりしやすいということを知った。このように偶さかの出来事から彼は学んだ。

長い間歩き続け、それによって気分が良くなった。彼は自身を周囲と合わせようとした。彼は自分の筋肉の動きを測ることを学び、その限界を知り、物と物との距離感を測り、自分と物との距離を測った。

ビギナーズラックであった。狩る者として生まれ(もっとも彼はそのことを知らなかった)、初めて自分の巣であった洞窟を出て、すぐのところで肉と出くわしたのである。まさにそれは偶然の出来事であり、そのようなところにライチョウの巣が巧妙に隠されているなどとは思いもよらなかった。

しかし彼は、まさにそこに落ちたのであった。彼は朽ちて倒れた松の木の上を歩いていた。腐った表皮が足元で崩れ、悲鳴と共に彼は半円状になった幹の上辺から木の葉や小さな藪の枝が絡まるその真ん中の地面、ライチョウの雛が七匹いる中にに突っ込み落ちていった。


雛たちが一斉に騒ぎ出したので、最初 彼は怯んだ。しかし、見るとみなとても小さいのですぐに彼は大胆になった。

彼らはあちこち動き回った。彼はそのうちの一羽に前足でちょっかいを出してみたが、その瞬間から動きが速まった。これは彼にとても面白く思われた。彼は臭いを嗅いだ。次に口に咥えてみた。もがき回って彼の舌をくすぐる。それが彼に空腹を思い出させた。顎が自然に閉じる。脆い骨の砕ける音とともに暖かな血が口辺に広がった。何とも云えぬ美味。これは、彼の母親がいつも与えてくれる肉と同じものであったが、自分の歯で切り刻まれるまでは生きていて、その分余計にうまかった。彼は雛を食べ続けた。最後の一匹を食い尽くすまで止めなかった。そして、丁度彼の母親と同じように舌なめずりをしているとき、藪の外から何かが忍び寄ってきた。


それは羽毛のつむじ風であった。突撃と激しい怒りによる翼の攻撃に圧倒され目が眩んだ。彼は両前足で頭を覆い泣き声を上げた。打撃は激しさを増した。ライチョウの母親は憤怒している。彼もだんだん腹が立ってきた。彼は立ち上がると唸り声を上げ、両方の前足を使って打ち出した。その小さな牙を片方の翼に沈め、そして強く引き、押さえつけた。ライチョウはもがきながらも彼に対抗し、もう一方の自由な翼で彼を打ちつけた。

これは彼にとっての初めての戦いであった。彼は夢中だった。未知についての恐れは消えてしまっていた。もはや恐れるものなど何もなかった。彼は、自分を打とうとする生きものを切り裂いてやろうと戦った。しかも、この生きものは肉でもあった。殺すことに対する熱情が彼を捉えていた。すでに小さな生きものは破壊した。今彼は、大きな生きものを破壊しようとしていた。彼は余りに忙しく、幸福の中にいながら、幸福を感じる暇がなかった。彼は全く新しい、これまで一度も味わったことのないほど大きなスリルと絶頂感の直中にいたのである。


彼はしっかりと翼を口に咥えたまま、歯の間から唸り声を上げた。ライチョウは彼を藪の中から外へ引きずり出した。彼女が向きを変え、再び藪の中の巣に彼を引き摺りこもうとしたとき、彼は反対に彼女を藪の外の開けたところに戻そうとした。彼女は叫び声を上げながら自由な側の翼でずっと彼を打ち続け、そのために羽毛が雪のように辺りに舞い落ちた。


彼の発する唸り声は凄まじかった。受け継がれてきた闘士の血が激流となって彼の中を流れていた。これこそが生であった、が、無論彼はそのようなことは知らなかった。彼は生まれたことの意味を実感していた。それは、今まさに彼がやっていること、すなわち殺し、その肉を喰うということであった。彼は自分の存在を正当化しようと、つまりいずれがより優れた存在であるかを決しようとしていたのである。生命とは、己に備わった力を最もよく発揮したとき、その頂点に達することができるものだからである。


しばらくして、ライチョウは静かになった。彼の方は片方の翼に喰らいついたままで、双方は地面に腹ばいになったまま睨みあった。彼は凶暴な唸り声を上げ相手を脅かそうとする。すると、その鼻面を彼女が突っついたので、これまでの突っつかれた傷と相俟って痛みが一層強くなった。彼は顔を顰めたまま、それでもライチョウを離そうとはしなかった。彼女は何度も何度も突っついてくる。彼の顰め面が泣き面に変わった。彼は堪らずライチョウから後ずさって離れようとしたが、彼女を咥えたままでは離れられるわけもなかった。ライチョウの突っつきが雨霰のように鼻を襲った。とたんに闘争心が萎えてしまって、彼はついに獲物を離し尾を翻すと一目散に広い場所を横切って不名誉な撤退へと転じた。


ライチョウを反対側に置いたまま藪のすぐそばの広くなった場所で腹這いになって休みながら、彼は舌を長く伸ばし、はぁはぁ荒い息をし、鼻が絶え間なく痛むので、彼も絶え間なく泣き声を上げ続けた。

しかし、しばらくそこにじっとしていると、ふいに何か危険が差し迫っている予感に襲われた。何か分からぬ恐怖が波のように押し寄せ、彼は本能的に縮こまるようにして藪の中に逃げ込んだ。と同時に、扇風が彼を打ち、そして大きな、翼を持った不気味な何物かが静かに通過していった。それは晴天の霹靂のような鷹の襲来で、彼は辛うじて難を逃れたのであった。


藪の中に身を潜めたまま安堵と共に外を覗いてみると、反対側のスペースでライチョウの母親が荒れ果てた巣から羽ばたいて飛び立とうとしていた。恐らく雛を失った衝撃からであろう、彼女は空からの翼による雷撃を忘れてしまっていた。

しかし灰色の仔は、そのシーンを、鷹がその短い尖った身体を地面すれすれまで急降下させるや否や鋭い鉤爪をライチョウに突き刺し、苦悶と恐怖にライチョウが上げ続ける叫び声と共に青天高く上昇していくのを、自らを戒める警告として見ていた。


それから長らく、灰色の仔は藪の中に隠れていた。彼はすでに多くを学んだ。生き物が肉であること。そしてその味が格別うまいこと。一方、その生き物がずっと大きい場合、逆に自分がやられてしまうかも知れないということ。

ライチョウの雛のように小さな生き物であれば喰うにはちょうど良いが、その親ともなれば大きすぎて手に余るので構わない方が良いということ。

しかしながら、一方この仔には小さな野心が頭を擡げていた。それはライチョウの母親ともう一度闘ってみたいというものであったが、すでに鷹がそれを奪い去ってしまった。残るは同じようなライチョウの母親がいないであろうか、ということであった。そこで彼は、それを探しに出かけることにした。


彼は棚のようになった土手を流れの方に向かって降りていった。彼は一度も水を見たことがなかった。しかしそれは、足を入れれば心地がよさそうである。水面は平らであった。彼は大胆にもその中に入っていき、そして沈んで、何か訳の分からぬものに覆い包まれている恐怖に泣き声を上げた。それは冷たく、彼は息を呑み、激しい呼吸を繰り返した。水は慣れ親しんだ空気の代わりに彼の肺になだれ込んでくる。息を止められるという体験は死の痛みそのものであった。彼には、それは死の提示と思われた。死についての明白な知識はなかったけれども、野生の生き物であれば誰もが持つように、彼にも死に対する本能はあったのである。


死は巨大な痛みとして捉えられた。それは未知の精髄そのものであり、未知に対する恐怖の総和であり、彼に起こり得る最高にして思考も及ばぬ大破局であり、全く未知の、彼の最も恐れなければならぬものであった。


彼は水面に浮かび上がり、開いた口から甘い空気を吸うことができた。そして再び沈むことはなかった。それは祖先たちから受け継いだ、彼らの長い経験から確立されたもので、彼はすぐに四肢のすべてを使って泳ぎ始めたのである。近くの岸までは1メートル足らずであったが、彼はそこに背中を向けていたので、目に映るのは反対側の岸で、彼はそこを目指して泳ぎ始めた。川は小さなものであったが、淀んで広くなったところでは幅が6メートルほどもあった。


淀みの中ほどで、流れが灰色の仔を捉え下流へと導いて行った。彼は淀みの下で小さな激流に捕まってしまった。そこではほとんど泳ぐこともできなかった。静かだった水が俄かに激しく怒り出した。ときに彼は沈み、ときに浮かび上がった。しかし常に荒々しく揺すぶられ、ひっくり返されたり廻されたり、また岩にぶつけられたりした。そして、岩に当たるたびに彼は悲鳴を上げた。彼の川下りは悲鳴の連続であり、その悲鳴の数から彼が激突した岩の数を数えることもできたであろう。


激流の下は二つ目の淀みで、彼はここで渦に捕まり、緩やかに岸へと運ばれて、そして緩やかに捨てられるように小石の河床へと投げ出されていった。彼は狂ったように足で水を掻いて岸に辿りついた。

彼はまたここで世界について学んだのだった。水は生き物ではない、ということ。しかし生き物のように動くということ。それに見た目は地面のように硬そうだが、実際にはまったく硬さというものがない、ということ。これにより彼の出した結論は、物事はいつも見た目とは違うということであった。

この仔の未知に対する恐れは不信から来ていて、それは今体験によって裏打ちされたのである。それ以降、彼の中で物事の性質について見た目を疑うということが信念になった。彼は自分の思い込みよりも先に物事の現実を学ばねばならなかったのだ。


もう一つの冒険がその日、彼を待っていた。彼は、それまでに自分の身に起こった多くのことを自分の母親のことを思い出すように思い出していた。そしてその時に、自分が何よりもこの世界で求めているものが母親であることに気がついた。それまでの冒険で疲れ果てていたのは身体だけではなく、小さな脳の方も同じように疲れていたのである。それまで彼の生きてきた日々は今日の一日ほどに厳しいものではなかった。それに加え、彼は眠かった。それで彼は、押し寄せてくる堪えられぬほどの孤独感と無力感とに同時に苛まれながら、巣である洞窟と母親を探し始めた。


そのとき彼は藪の間にだらりと寝そべっていたのだが、鋭い脅かすような叫びを聞いた。彼の目が黄色い閃光を捉えた。彼は彼の前を鼬が素早く跳ねながら通り過ぎるのを見た。それは余りに小さくて、彼は怖くなかった。すると彼の足もとを、非常に小さな、わずか十センチ足らずの鼬の仔が、ちょうど彼と同じようにやんちゃな冒険をしようと巣を飛び出してきたのが目に入った。その仔は彼の目の前で引き返そうとした。彼はそれを前足でひっくり返してやった。するとその仔は奇妙な歯軋りのような音を立てた。次の瞬間、黄色い閃光が再び彼の目に入った。彼は再び脅しのような叫びを聞き、同時に首の横に鋭い一撃と母鼬の歯が彼の肉を切る鋭い痛みを感じた。


彼が泣き叫びながら後退さりしているうちに、母鼬は我が仔に飛びついて近くの藪の中に連れ去った。母鼬に傷つけられた首の傷は、実際の痛み以上に強く感じられ、彼はその場に座り込んで弱々しく泣き続けた。母鼬は小さな身体にも関わらずとても凶暴であった。ここでもまた彼は、大きさや重さからしても鼬というのは最も獰猛で執念深く、この世の中で最も恐ろしい肉食獣であることを知った。そしてこのような経験はすぐに彼のものとなった。


彼は母鼬が再び現れたので泣くのを止めた。彼女は、自分の仔の安全が確保されたせいか、いきなり襲いかかろうとはせず、用心深く近寄ってきて、そのおかげで灰色の仔は、その蛇のようにほっそりした身体や、まさに蛇のように擡げた頭やその鋭い眼をよく観察することができた。

彼女が上げる鋭い凶暴な叫びに、彼は背筋の毛を立てながらも唸り声を上げて威嚇した。彼女はだんだんと近くに迫ってくる。そして彼の未熟な眼では捉えられないスピードで跳躍し、彼の視界からその痩せた黄色い身体が消失した。次の瞬間、彼女の歯は彼の喉に埋っていた。


初め、彼は唸り声を上げ闘おうとしたが、彼は余りに幼く、それにそもそもこれが世に出た最初であり、その唸り声は泣き声に、闘いは逃走へとすぐに変わってしまった。しかし鼬の方は決して離れようとはしない。彼女はぶら下がったまま、その歯を彼の命がぶくぶく音を立てている静脈まで押し立てようと力を入れてくる。鼬というのはそもそも血を吸う生き物であり、喉から吸い取るのが大好きなのだ。


このまま灰色の仔は死ぬかも知れなかった、が、それではこの物語もお終いとなってしまったであろう。しかしそのとき、雌狼が藪を飛び越えて駆けつけてきた。

鼬は灰色の仔を離すと雌狼の喉を目掛けて跳びかかったが、狙いは外され逆に雌狼の顎に捉えられてしまった。雌狼は首を鞭のように振ると鼬を空中高く放り上げた。そして、まだ鼬が空中にいるうちに再び顎が痩せた黄色い身体を挟んで閉じ、鼬は自らの死を上下の歯が咬み合わさる音で知らされたのであった。

灰色の仔はここでもまた母親の愛情の深さを経験した。彼を見つけた時の彼女の喜びようは、彼の見つけてもらった嬉しさよりもずっと大きいように思われた。彼女は鼻先を彼に押し付け、愛しむように撫で、鼬の歯で切られた傷を舌で舐めた。それから、彼らは、母と仔は二人して吸血獣を喰い、喰い終えると洞窟に戻って眠った。


第五章 肉の掟


灰色の仔の発達は目覚ましかった。二日間休んだだけで、再び洞窟を出て探検へと出かけたのである。そして、その探検の途中で彼は、彼が雌狼のご相伴に与った母鼬の幼い仔が母を探し回っているのを見た。今回の探検では、彼は迷うことはなかった。疲れを感じると洞窟にちゃんと戻って寝たのである。そして、それ以降の探検は毎日のように範囲を広げていった。


そのような中で、彼は自分自身の強さや弱さを正しく知り、大胆に振る舞うべきときと慎むべきときが分かるようになっていった。ときに自分の勇敢さに対する自信から、些細な怒りや欲望に我を忘れることもあったが、大抵は用心深く行動した。


彼は、ライチョウを見つけると、怒りに燃える小さな悪魔になった。ところが、栗鼠に対しては、最初に松の上から口汚く罵られたときのようにはやり返さなかった。ムースバードに出会うと、いつも狂ったような怒りに襲われたが、それは初めての探検の折にこいつの同類に鼻を突っつかれたことの恨みからであった。


彼がムースバードに関心を持たなくなるまでには、また獲物を探してうろつき回る他の肉食動物の危険を感じなくなるにはまだまだ時間が必要であった。彼は決して鷹のことを忘れてはおらず、影の動きを察知すると姿勢を低くしてすぐに近くの藪に逃げ込んだ。

彼はもはや決して腰を抜かしたり躊躇したりはせず、母親と同じ絹のように滑らかで音の立たない、無駄な力を一切使わない、それでいて滑走するように速くて敵の目を欺く走り方を身に着けていた。


肉の幸運は最初だけであった。ライチョウの雛七匹と鼬の仔一匹が彼が仕留めた全てであった。彼の狩猟本能は日が経つにつれ強くなってきており、狼の仔が近づいてきているぞ、と木の上から多弁に周りの生き物たちに知らせる栗鼠についてはいつか喰ってやりたいという欲望を胸に抱いていた。しかし、鳥が空に舞っている間、彼らは木に駆け上がってしまうので、忍び寄って襲えるのは彼らが地上にいるときだけだった。


灰色の仔は、自分の母親を非常に尊敬していた。彼女は獲物を捕まえても、決して自分の分け前を忘れなかった。それに、彼女はまったく恐れを知らなかった。この仔は、この恐れ知らずが経験と知識に基づくものであることをまだ知らなかったのである。この仔には、力ばかりが目に映ったのである。母親は力の体現であり、彼は大きくなるにしたがって、その力を前足による鋭い叱責の中に感じとり、また鼻の突っつきによる非難を牙による切り裂きと同じものと捉えるようになった。そして、これにより彼は、一層母親を尊敬したのである。彼女は自分に従うよう彼に強制したが、大きくなるにつれ、彼はこれに背いて彼女を怒らせるようになっていった。


再び飢餓がやってきて、灰色の仔は噛みつかれるような空腹をはっきりと意識した。雌狼は、彼女自身も痩せ衰えながら必死で肉を求めて走った。彼女は、もはや洞窟の中で眠りにつくことはほとんどななく、一日中狩に費やしたが、その成果はなかった。今度の飢餓はそれほど長くなかったが、とても厳しいものであった。灰色の仔は母親の胸に吸い付いたが、乳も出なければ一口の肉にもありつけなかった。


以前、彼にとっての狩は大きな喜びであったが、今はもう命を賭けて真剣に取り組んだが、何も得られなかった。しかしながら、その失敗が彼の成長を加速させた。彼は栗鼠の特性を慎重に研究し、そして巧みに忍んで襲い、そして待ち伏せて襲った。彼はまた地鼠も研究しその巣を掘り返した。とりわけ、ムースバードとキツツキについては熱心に学んだ。そうしているうちに、鷹の影が近づいてきても藪の中に逃げ込まないようになっていた。彼は強く賢く、そして自信に満ちてきた。そして必死であった。彼は開けたところにわざと目立つように座り込み、鷹が空高くから自分めがけて降りてくるのを待った。なぜなら、空高く舞っているものが彼の求めてやまない肉であることを知っていたからである。しかし鷹は、降りてきて戦うつもりはないらしく、灰色の仔は薮の中に腹這いになって入り込むと失望と空腹に泣き声を上げた。


飢餓が終わった。雌狼が肉を持って巣に帰ってきたのである。これまでに彼女が捕えてきたものとは違う変わった肉だった。それは、彼と同じようにまだ成長さなかの、あまり大きくはない山猫の仔だったのである。それを丸ごと彼は与えられた。彼の母親はどこかで空腹を満たしていたのだ。しかし彼は、彼女を満足させたものが残りの山猫の仔たちであったことを知らなかった。また彼は、彼女がその成果を得るためにどれだけ必死であったかなど知る由もなかった。ただ彼は、そのベルベットのように柔らかな毛に包まれた仔猫の肉を一口喰うたびに喜びで満たされるのを感じるのみだったのである。


満腹になると行動は抑制され、灰色の仔は母親の傍らで眠りについた。彼は母親の唸り声で目を開けた。これまで一度も聞いたことがない恐ろしい唸り声であった。おそらくそれは、彼女にとっても生涯で上げた最も恐ろしい唸りであったであろう。それにはもちろん理由があったのだが、彼女以外にその由を知る者はなかった。山猫の巣は何の咎もなく荒らされたわけではなかったのである。ぎらつくような午後の光の中、洞窟の入口に腹這いになった山猫の母を灰色の仔は見た。その瞬間、背骨に沿って毛がさっと波のように逆立った。それはまさに恐怖そのものであり、本能が告げるまでもなかった。もしも見た目だけでは足りなければ、侵入者の激しい怒りから発せられる叫び声や、唸りから始まり突如高く掠れたようになって発せられる喚き声を聞けば十分であろう。


 灰色の仔は内なる命に突き動かされ、母親の傍に立ち上がり勇敢にも唸り声を上げた。しかし屈辱的なことに、母親は彼を鼻先で押し退け自分の背後につかせたのである。

入口が低すぎて山猫は跳び込むことが出来ず、腹這いになって入って来たところを雌狼が跳躍して覆いかぶさり地面に組み伏せた。しかし、灰色の仔には闘いの様子が見えない。ただ、ものすごい唸り声や喚き声、それに怒号が聞こえるのみ。二匹の野獣は切り裂きあったが、山猫の爪と牙に対し、雌狼が使えるのは牙だけである。


一度、灰色の仔は闘いの中に跳び入って山猫の後足に噛みついた。彼は喰らいついたまま凶暴な唸り声を上げた。彼が重しとなったおかげで山猫の動きが鈍り母親のダメージを軽くしたのだが、彼にそんな考えはなかった。

闘いの進行とともに灰色の仔は二頭に組み敷かれる形になり、喰らいついていた後足が捩じれて外された。次の瞬間、二頭は離れ、再び激突しようとするその前に、山猫は灰色の仔目掛けて巨大な前足を繰り出して彼の肩を骨まで切り裂き、その衝撃で彼は壁まで吹っ飛ばされた。洞窟の中は唸り声に彼の痛みと恐怖からくる悲鳴が加わった。しかし闘いはまだ止まず、灰色の仔は二度目の迸るような勇気を試す機会を与えられ、鬨の声を上げて跳びかかっていった。そうして彼は、闘いが終わっても後足に喰らいついたままずっと唸り声を上げ続けていた。


山猫は死んだ。しかし雌狼の方も傷つき、衰弱していた。最初、彼女は灰色の仔を撫で、深手を負った肩の傷を舐めてやった。しかし出血のために力は弱く、彼女はその日の昼も夜もずっと殺した敵の傍らに虫の息で横たわったままであった。一週間、彼女はただ水を飲むためだけに洞窟を出たが、その動きは痛々しいほどゆっくりしたものであった。その間、彼女の傷が癒え、再び狩に出かけられるようになるまで山猫が食料として貪り食われた。


灰色の仔は内なる命に突き動かされ、母親の傍で立ち上がって勇敢にも唸り声を上げた。しかし屈辱的なことには、母親は彼を鼻先で押し退け自分の後ろにつかせたのである。入口が低すぎて山猫は跳び込むことが出来ず、腹這いになって入って来たところを雌狼は跳躍して覆いかぶさり地面に組み伏せた。が、灰色の仔には闘いの様子が見えない。ただ、ものすごい唸り声や喚き声、それに怒号が聞こえるのみ。二匹の野獣は引き裂きあったが、山猫の爪と牙に対し、雌狼が使えるのは牙だけである。


一度、灰色の仔は闘いの中に跳び入って山猫の後足に噛みついた。彼は喰らいついたまま凶暴な唸り声を上げた。彼はそれを知らなかったのだが、彼が重しとなったおかげで山猫の動きが鈍り母親のダメージを軽くしていたのである。


闘いの進行とともに灰色の仔は二頭に組み敷かれる形になり、喰らいついていた後足が捩じれて外された。次の瞬間、二頭は離れ、再び激突しようとするその前に、山猫は灰色の仔目掛けて巨大な前足を繰り出して彼の肩を骨まで切り裂き、その衝撃で彼は壁まで吹っ飛ばされた。洞窟の中では唸り声に彼の痛みと恐怖からくる悲鳴が加わった。しかし闘いはまだ止まず、灰色の仔は二度目の迸るような勇気を試す機会を与えられ、鬨の声を上げて跳びかかっていった。そして彼は、ずっと、闘いが終わったことも知らぬずに後足に喰らいついたまま唸り声を上げ続けていた。


山猫は死んだ。しかし雌狼の方も傷つき、衰弱していた。最初、彼女は灰色の仔を撫で、深手を負った肩の傷を舐めてやった。しかし出血のために力は弱く、彼女はその日の昼も夜もずっと殺した敵の傍らに虫の息で横たわったままであった。一週間、彼女はただ水を飲むためだけに洞窟を出たが、その動きは痛々しいほどゆっくりしたものであった。その間、彼女の傷が癒え、再び狩に出かけられるようになるまで山猫が食料として貪り食われた。

肩の傷は硬くなって酷く痛み、そのために彼は時々びっこをひいて歩かねばならなかった。しかし今、彼が見る世界は違っていた。彼はその世界に、大山猫との死闘以前にはなかった意気を感じ、堂々と胸を張って踏み入るようになった。彼は、人生をこれまでとは違って、はるかに残酷なものとして捉えるようになった。彼は闘い、その牙を敵の肉に埋める。そうして生き残ってきた。そうして、彼は一層勇敢になり、またその結果として反抗的にもなってきた。もはや些細なことを怖れなかったし、内にあった従順さは影を潜めたが、それでもまだ、未知のものに対する神秘や畏れ、五感の及ばぬものや脅威はずっと彼を掴んで離さずにいた。


彼は、母親と共に狩に出かけるようになったが、そうした中で彼は多くの獲物に出会い、狩の中で自分の役目を果たすようになった。そうして、ぼんやりながらも彼は肉の掟を知るようになっていったのである。その一つが世界には自分と同じ生き物と別の生き物がいるということであった。自分と同じ種とは母親や自分自身である。その他は、すべての動く生き物ののことであった。しかし、他の生き物はさらに分類が必要であった。一つは彼と同じ、殺して食うものである。さらにこれらは殺さぬものと小さな殺すものに分けられた。もう一つのものは、殺してその肉を喰うものであり、また逆に殺されてその肉を喰われるもののことである。このような分類は、すなわち掟となった。生の目的は肉である。生そのものが肉なのだ。生は他の生によって成り立つ。喰うものがあり、喰われるものがある。掟とは、喰うか喰われるか、なのである。彼は、この掟をはっきりと理論化したわけではなく、言葉や倫理にしたわけでもなかった。それどころか、彼は掟について考えたわけでもなかったのである。彼は、掟を思考するのではなく、あるがままに捉えたのである。


彼は、掟を周りで起きていること全てに適用させた。彼はライチョウの雛を喰った。また鷹はライチョウの母親を喰った。さらには、鷹は彼自身をも襲って喰おうとした。後になって、彼は大きくなって怖いもの知らずになったら鷹を喰ってやろうと思った。彼はすでに大山猫の仔を喰った。しかし、もしも大山猫の母親が死なずに彼の方が殺されていたら、大山猫の母は彼を喰ってしまっていたであろう。それが現実なのである。掟は彼の中に、そして生きとし生けるもの全ての中に息づいており、彼自身もその掟の一部なのだ。彼は肉を喰う獣なのである。彼の唯一の食物は肉であり、それも生きた肉、すなわち彼の目を賺してすばやく逃げ、空に舞い上がり、あるいは木の上に登り、あるいは土に潜り込み、あるいは彼と対峙し闘い、あるいは逆に彼を追い回すものたちなのである。


灰色の仔がもし人間のように考えるとしたら、生とは途方も無い食欲の具現であり、世界は種々多様の味に満ちた、追いつ追われつの、狩るか狩られるかの、喰うか喰われるかの、何もかもが暴力と無秩序に彩られた盲目の混乱、貪欲と殺戮のカオス、偶然と無慈悲と無計画の、決して終わることの無い統治、とでもなったであろうか。


しかし灰色の仔は決して人間のようには考えなかった。彼は物事を広くは考えなかったのである。彼は一つの目的、楽しみだけに集中し、一時に一つのことのみを考え、あるいは熱中した。肉以外にも彼には夥しい数の取るに足らぬ法や従わねばならぬことがあり、それらについて学ばねばならなかった。世界は驚きに満ちている。生の活動は彼の中にあり、躍動する筋肉は彼の尽きぬ喜びであった。獲物を追うのはスリルと絶頂感に満ちた体験であった。怒りも闘争さえも喜びであったのだ。恐怖そのもの、そして未知に対する神秘は彼の生そのものだったのである。


そして、そこに安らぎと満足があった。腹が満ち、陽射しの下で気怠い昼寝をすることは苦闘と苦難の報酬であったが、その苦難苦闘自体も報酬だったのである。それらは生の表現であり、生は、それを表現している限り常に喜びなのである。故に、世界が敵意に満ちていようとも、この狼の仔にとっては争うべきものではなかったのである。彼は意気揚々として生きており、幸福に満ち、自分を誇らしく感じていた。

火を起こすもの


灰色の仔は、いきなりそこにやってきた。彼の落ち度であった。彼は不注意だったのである。彼は、水を飲もうと洞窟を出て川までやってきたのである。睡眠不足のためか頭が重かった(夜通し狩りに出ていて、今起きたばかりだったのである)。それと、不注意だったのは、その川が慣れ親しんだものだったからかも知れない。ここには何度となく訪れていたが、これまでそのようなことは一度もなかったのである。


彼は松の木を通り過ぎ、開けたところを渡って林の木々の中を小走りに進んだ。そのとき、眼で見ると同時に臭いでも気がついた。彼の前に、静かにしゃがみこんでいる五つの生き物は彼がこれまで一度も目にしたことの無い類のものであった。それは初めて見る人間の姿だったのである。しかし、彼を見ても、彼らは腰を上げようともせず、歯も見せなければ唸りもしなかった。彼らは身動きもせず静かにそして不気味にそこにじっとしているだけであった。


灰色の仔も身動きしなかった。彼の本能は急いで逃げるように告げているのだが、一方彼の中には突如として本能に抗おうとするものが湧き起こったのである。大きな畏敬の念が彼の中に生まれつつあった。彼は、自身の小ささや非力さに打ちのめされ動けずにいたのである。今目にしているのは、彼の想像を超える力と支配であった。間を怖れよと本能が告げていた。微かに、人間とは野生の生き物の中で最も優れた生き物であると感じていた。それは彼独りの目を通してではなく、彼の祖先たちすべての目が彼の目となって人間を見ているのであって、その目というのは、数え切れぬほどの冬の暗闇に隠れ、遠くから、あるいは藪の深みから、円く取り囲むように、奇妙な二本足で立つ、そして全ての生き物を統べるものを見る目であった。その呪文、すなわち何世紀、何十世紀に及ぶ闘いと蓄えられた経験は、恐怖と畏敬の形となって彼の中にもしっかりと伝えられていた。その遺産としての呪文は、幼いお狼の仔には効きすぎた。もしも彼が十分に成長していれば、真っしぐらに逃げ出したであろう。しかし案の定、彼は恐怖に腰が抜けたようになって、彼の祖先が初めて人間と共に焚き火の前に腰を降ろし暖をとることを知ったときのように、半ば屈服してしまっていたのである。


一人のインディアンが立ち上がって彼の傍までやって来ると彼を見下ろす位置で立ち止まった。狼の仔は縮み上がって地面に伏せた。それは経験したことのない、生の血の流れる肉が、折れ曲がって最後には何かが投げ出されるようにしてさっと彼を掴もうとしたのである。彼の毛は知らぬうちに逆立ち、唇は後ろに引かれ小さな牙が剥き出しになった。彼を掴もうとした手はそのために躊躇し、彼の上でドームのようになって止まり、その男は笑いながら言葉を発した。「ワバム ワビスカ イップ ピット ター」(見ろよ、白い牙を剥き出しやがった)。


他のインディアンたちも大きな声をあげて笑い 、それでその男は狼の仔を拾い上げる決心をした。その手が下されるにつれ、闘争の本能がだんだんと沸き起こってきた。彼は二つの大きな衝動に突き動かされていたが、それは屈服するかそれとも闘うかであった。彼のとったのはその折衷案であった。彼は両方を一度にやろうとしたのである。彼は手が彼に触れる寸前まではじっと大人しくしていた。しかし一度手が彼に触れた瞬間、彼は稲妻のようにその手に噛み付いた。次の瞬間、彼は頭の片側を掌で殴られ横に転がされてしまった。もはや闘う気は消え失せてしまっていた。幼さと服従の本能がそれに取って代わった。彼は坐り直すと声を上げて泣いた。しかし、手を噛まれた男の怒りは収まっていなかった。狼の仔は反対側の頭を殴られ、今度はその方に転がった。その場に坐り直すと、彼は一層大きな声を上げて泣き始めた。


四人のインディアンたちはこれまで以上に大きな声で笑い出したので、殴った男もつられて一生に笑い出した。彼らは皆で狼の仔を囲んで笑い続けた、一方灰色の仔はその間も痛さと恐怖から悲しげに泣き続けた。そんな最中のことであったが、狼の仔は何かを耳にした。

インディアンたちもまたその音を聞いた。狼の仔はその音が何かを知っており、最後に泣き声というよりは勝利の雄叫びのような、長い叫びを一つ上げると、それきり泣き止んでじっと母親が、凶暴で決して何ものにも屈することのない、闘えば何であろうと殺し、恐れというものを全く知らぬ母親が自分の元に駆けつけてくるのを待っていた。彼女は走りながら唸り声をあげていた。彼女はわが仔の泣き声を聞き、急いで駆けつけてきたのであった。


彼女はインディアンたちの真っ只中に飛び込んだが、その母性の、わが仔に対する思いの織り成す光景は美しいものであった。一方、仔狼にとっては、母の自分を守るための怒りは嬉しいものであった。仔狼は嬉しくて小さな鳴き声をあげると母の元に近寄ろうとし、逆に人間たちは慌てて何歩か後退りした。雌狼は仔を庇って立つと毛を逆立てて人間たちと対峙し喉から深くて低い雷鳴のような唸り声をあげた。彼女の顔は敵意にゆがみ、鼻の皺は目の縁まで寄っていたが、何よりも恐ろしいのはその唸り声であった。


しかし、そのとき一人のインディアンから叫び声が上がった。

「キッチェ」というのがその声であった。それは、驚きのあまり発せられたものであった。仔狼は、その声を聞いた母親がたじろぐのを見た。

「キッチェ」男が再び叫んだが、今度はより鋭く確信に満ちたものであった。


そして灰色の仔は、彼の母が、雌狼が、あの恐れを知らぬものが、腹を地面にくっつけて伏せ、尾を振りながら甘えるように鳴き屈服するのを見た。灰色の仔にはまったく理解ができなかった。彼は退け反らんばかりに驚いた。人間に対する畏敬の念が再び彼を襲った。彼の本能は本物だったのだ。彼の母親がその証左であった。彼女もまた、この人間たちには屈服せざるを得ないのである。


彼女を呼んだ男が彼女のそばまで近寄ってきた。その男は手を彼女の頭に載せたが、彼女はただ姿勢をより低くしただけであった。彼女は噛みつきもしなければ噛み付こうともしなかった。他の男たちも近くまで寄ってきて、彼女を取り囲こみ、撫でたり触ったりしたが、彼女は怒る様子さえ見せなかった。彼らは皆興奮し、口々に何かを発し始めた。彼らの発する音が危険なものではないことを灰色の仔は母親のそばでしゃがみ込んだまま感じ取っていたが、時に全身の毛が逆立とうとするのを堪えるので必死であった。


「考えてみれば合点がいく」とインディアンの一人が言った。「彼女の父親は狼だ。これは事実だ。母親は犬だった。たしか俺の兄は、盛りの時期にその雌犬を森の中に三日三晩繋ぎっぱなしにしたのではなかったか? いずれにせよ、キッチェの父親は狼だ。


「彼女が逃げてからもう一年も経つぜ、グレイビーバー」と他のインディアンが言った。


「いや、ちっとも不思議じゃねぇよ、サーモンタン」とグレイビーバーが答えた。「あれは犬にやる食い物もねぇほどの飢餓のときだった」


「そして彼女は狼どもと一緒になったというわけだ」ともう一人のインディアンが言った。


「どうやらそんなことのようだなスリーイーグル」と、グレイビーバーが灰色の仔の頭に手をやりながら言った。「こいつがその証というわけだ」


灰色の仔は、手が触れると少し唸り声をあげたが、手が翻って殴ろうという気配を見せたのですぐに牙を隠し服従の素振りを見せたが、その手は彼を殴る代わりに彼の耳の後ろを撫で、続いて彼の背中を前、後ろと撫で始めた。


「こいつがその証拠だ」と、グレイビーバーは続けた。「こいつの母親がキッチェということは明らかだ。しかしこいつの父親は狼だ。ということは、こいつの血は犬が少しで狼がほとんどということだ。こいつは今白い牙を剥きやがったから、白い牙という名がいいだろう。今言ったように、こいつは俺の犬にする。キッチェは俺の兄の犬だったわけだろ? それにその兄弟は死んでいねぇわけだからな」


こうして灰色の仔は、この世で初めて自分の名がつけられるのを横になったままみつめていた。それからしばらくの間、人間たちは何かを喋りあっていた。そして、グレイビーバーが首から下げていた鞘からナイフを抜き出すと、藪の中に入って行き、棒を一本切り取ってきた。白い牙はそれをじっと観察していた。グレイビーバーは、棒の両端に切れ目を入れると、その切れ目に革の紐を結びつけた。紐の片方をキッチェの首に結び付けると、彼は小さな松の木のところまで彼女を連れて行き、もう片方の紐をその松に結びつけた。

白い牙はその後を着いて行き彼女のそばにしゃがみ込んだ。サーモンタンの手が彼の方に伸び、彼を後ろに転がした。キッチェは気遣わしげにその様子を見ている。白い牙は恐怖で一杯になるのを感じた。彼は唸り声を抑えきれなかったが、噛みつくこともできない。すると、その手は折れ曲がって広がり、彼の腹をじゃれあうように撫で回し、彼を右に転がしたり左に転がしたりし始めた。

彼は、背中を地面につけたまま四肢を宙に投げ出すという馬鹿げた何の益もない姿勢を取らねばならなかった。白牙の本能はそのような無防備な体勢から逃げ出すよう告げている。このままでは彼は何の防御もできないのだ。もしもこの人間奴に彼を傷つけるというつもりがあれば、逃げられないということを白牙は知っていた。いったいどうしたら、足を4本とも上に向けたまま逃げ出すなんてことが出来ようか? しかし、服従心は彼の恐怖を抑え込み、彼は微かに唸り声を上げるだけであった。この唸り声だけは、彼も抑えることができなかった。またそれで男が怒って彼の頭を殴るということもなかった。さらに不思議なことには、白牙は男の手が彼の腹の上を行ったり来たりするたびに何とも言えぬ心地よさを覚えた。彼は横に転がっている時、唸ることを忘れていた。指が耳の付け根のあたりを鋤で梳くように強く撫でると、心地よさは一層強くなった。そしていきなり、最後の一撫でのように男は白牙を撫でると彼を置いたまま離れていったので、白牙からは一切の恐怖心が消え去った。彼は人間との接触の中で多くの恐怖を味わうことになったが、このときの経験は、彼にとって人間と恐怖の連鎖を切り離す決定的な記念の出来事となった。


それからしばらくして、白牙は奇妙な声が近づいてくるのを聞いた。彼は即座に分析を行い、それが人間たちの出す音であると判断した。数分ほどして、彼らの一族の残りの者たちが行進でもするようにぞろぞろとやって来た。彼らは多くの男たちや女たち、それに子供たちで、総勢四十人ほどの全員が重そうなキャンプ道具や衣類などを背負っている。それに加え、多くの犬たちもいた。そしてこれらの犬たちもまた、仔犬を除き皆がキャンプ用の道具を身に課されていた。彼らの背の両側には袋が強く括り付けられていて、彼らは二十から三十ポンド(九キログラムから十四キログラム)ほどの荷を運んでいるのであった。


白牙は犬を見たことがなかったが、彼らを一目見た瞬間から、少し違っては見えるが自分と同種の生き物であると感じた。しかし彼らは、彼とその母親を目にすると、狼とは少し違う態度を見せた。いきなり飛びかかってきたのである。白牙は毛を逆立てて唸り声を上げ、口を開けて突進してくる犬たちの顔を切り裂いたが、すぐに彼らの下に組み伏せられ、彼らの鋭い牙を身体に感じたが、彼自身も下から彼らの脚や腹に噛み付いた。それは大騒動であった。彼は、キッチェが彼のために闘おうと唸り声を上げるのを聞き、また人間たちの叫び声や棍棒が犬たちの身体を打ちつける音や、打たれた犬たちが痛みに上げる悲鳴を聞いた。


たった数秒ほどで、彼は元の体勢に戻った。彼は今、人間たちが彼の同類たちの容赦ない牙から、いや彼とは少しばかり種の違うものたちから彼を守るために棍棒や石で犬たちを蹴散らすのを見ることができた。彼には公正さという抽象的概念に対する明確な理解はなかったけれども、それでも彼なりに人間たちの公正さを捉え、彼ら人間の存在は、法を作り、その法を実践することにあると考えた。そして彼は、そのような法を施行する力に感謝を覚えた。彼がこれまでに遭遇した他の生き物たちとは違って、彼らは噛みつきもしなければ引っ掻きもしない。彼らは力を生きてはいないものによって行使する。死んでいるものたちは噛みつかない。しかし、棒や石はこの不思議な生き物の命ずるままに空中を生き物のように飛び、犬たちに苦悶の鳴き声を上げさせるのだ。


彼にとって、このような力は尋常のものではない、理解を越えた超自然の、神の如き力であった。白牙は、当然ながら神について何も知らなかった。ただ彼が知るのは知識を超えたものであり、彼が人間に抱く神秘と畏れは、人間が天上の存在が山頂に立ったまま両手から稲妻を発するのを目にした時に感ずるようなものであった。


最後の一匹が追い払われた。喧騒は収まった。白牙は自分の傷を舐めながら、初めての群れとの出会い、そしてその群れの残酷さについて思いを巡らしていた。彼は、母親と片目の父親と自分以外に自分と同じ種が存在することなど夢にも思わなかった。


キッチェが白牙の傷を舌で慰めるように舐めてやり、自分の元に引き止めようとした。しかし、好奇心が彼の内で暴れまわり、数分後には新しい冒険を求めて彼は飛び出していった。途中、彼は一人の人間に遭遇したが、それはグレイビーバーで、彼はしゃがみこんだ姿勢で地面にひろげた何本かの木切れと乾燥させた藻を相手に何かしようとしているところであった。白牙は傍までやってくると、じっとその様子を見つめた。グレイビーバーは口の中で何かブツブツ唱えていたが、白牙はそれが危険のないものと理解しさらに傍まで近寄った。


女子どもたちがさらなる薪を集めてグレイビーバーのところに持ってきた。そしてそれが起きた。白牙はグレイビーバーの膝に鼻が触れるほど近づいていたが、好奇心のあまりそれが恐ろしい人間であることを忘れてしまっていた。


突然、グレイビーバーの手の下、乾燥させた藻や木切から霞のようなものが立ち上がった。そして、木切の中から身をくねらせ捩りながら、空に浮かぶ太陽のような色をした生き物が現れた。白牙は火について何も知らなかった。それは洞窟の入り口の光が彼を引き寄せたように彼を引きつけ、幼かった頃のことを思い起こさせた。彼は何歩か火に近寄って行った。彼はグレイビーバーが小さな声を上げて楽しそうに笑うのを頭上に聞いた。そうして、彼の鼻は炎に触れ、同時に小さな舌でそれを舐めようとした。


次の瞬間、彼の意識は吹っ飛んだ。全く未知の、木切や乾燥した藻のの間に潜んだ何者かが凶暴にも彼の鼻に噛み付いたのである。彼は後ろに跳びのきながら、驚きのあまり凄まじい泣き声を上げた。その声にキッチェが唸り声を上げ飛び出そうとしたが、棒が邪魔をして助けに行くことができない。そのもどかしさから彼女は凶暴な怒りに猛り狂った。その一方、グレイビーバーはけたたましい笑い声を上げ、膝を叩いて周りの者たちに今何が起きたかを告げたのでキャンプ中が笑いの渦に飲み込まれた。白牙は独り、人間たちの間でその小さな身体をしゃがませて哀しげに泣きに泣き続けた。


これは彼にとっての最悪の出来事であった。鼻と舌の両方が陽の色をした生き物によって焼かれ、その生き物は今、グレイビーバーの手の下でさらに大きくなっている。彼は間断なく泣き続けたが、その生々しい痛みの声がまた人間たちの一部に笑いの爆発を引き起こした。彼は舌で舐めて鼻の痛みを鎮めようとしたが、舌も火に焼かれていたため、二つの痛みは合わさってさらに大きな痛みとなった。彼はなす術もなく一層激しく泣くことになった。


しかしそれからしばらくすると、彼にも恥ずかしいという思いが起きてきた。彼には人間たちの笑いとその意味が理解できた。われわれはある種の動物がどのように笑い、どのような時に笑うかを知らない。白牙にしても人間たちの笑いの意味が分からなかった。しかし彼はついにその意味を理解し、そして恥ずかしくなったのである。


彼は身を翻して逃げ帰ったが、それは単に火が恐ろしかったからではなく、人間たちの嘲笑というもっともっと深く食い込んで自分を傷つけプライドを切り裂くものから逃避したのである。彼はキッチェの元に逃げ帰り、彼女を、世界中でただ一人、彼のことを決して笑い者にしない者を縛り付けている棒の端に狂ったよう怒りをぶちまけた。


黄昏が舞台の袖に引き、夜の帳が降りるころ、白牙は母親の傍に横になっていた。鼻と舌はまだ痛んだが、それよりも彼はもっと大きなことに悩まされていた。ホームシックだった。彼の心にはぽっかりと大きな穴が空き、静かなせせらぎや崖の上の洞窟が恋しくなったのである。人生が余りにも急激に賑やかになりすぎた。多くの人間の男や女たち、それに子供らのすべてが煩く騒がしく思われてしようがなかった。それに犬どもも絶えず騒いでは咬みつきあったり唸りあったりしており、それがときに大騒動にまで発展する。彼の知る静謐で安穏としたただ独りの生活は遠いものになってしまったのだった。


ここには殺伐とした空気が流れていた。それは虫のようにぶんぶんと唸り声を上げている。絶え間なく続く緊張と突如として変化する状況は彼の神経と感覚を圧迫し、彼を神経質で落ち着きなくさせ、今にでも何かが起こるのではないかという不安で脅かした。


彼は人間たちがキャンプを出たり入ったり、あるいは動き回る状態をよく観察した。それは、人間が自分たちが創造した神を崇めるのと少しばかり似ていた。彼らは超越した神の一種なのだ。彼のぼんやりとした認識では、人間は、人間が考える神以上の奇跡を行う者たちであった。彼らは超越者であり、未知のもの不可能なものの振る舞いを我がものとし、命あるもの命なきものの上に君臨し、動くものを従わせ、動かぬものを動かし、そして乾燥した苔と木切れに命を吹き込み日の色した噛み付くものに変化させる。彼らは火の創造主! 彼らは神なのである!


第二章  絆


白牙の日々は群との関わり合いの中に過ぎていった。その間、キッチェは棒に繋がれたままで、一方彼は何かを求め、あるいは何かを探し、あるいは何かを学ぼうとしてキャンプ中を走り回った。彼はすぐに人間というもののやり方を習得したが、かと言って、そのような慣れ親しみが嘲りになることはなかった。彼らのことを更に学ぶにつれ、その超越性が次第に明らかになり、彼らの神秘的な力を見せつけられるはめになり、その神がかり的な力に圧倒された。


人間のそのような力を見るにつけ、彼は自身の神聖な神殿がボロボロに壊されていくような悲哀を味あわされたが、そのような悲哀は、人間の膝元に平伏す狼や野犬には決して見られることのないものであった。

というのも、人間たちにとっての神とは、目に見えず、理解を超えた、現実という日の光に照らされれば幻想の霧や霞のごとく消えてしまうもの、あるいは力や良きものを求めて彷徨える生霊の如きものであり、現実的精神の中にぴょこっと突き出た察知不能のものであるが、人間のそれとは違い、彼ら狼や野犬にとっての神とは、彼らが焚火の傍に来て以来、生身の肉体を持つ、触れることのできる、時と空間を支配し、自らの死と存在意義のために時間を使おうとするものたちであった。このような神を信ずるに信仰は用をなさなかった。このような神は、その意志を見せつけることによって信心を勝ち得るのである。そこから逃れる手段はなかった。ただそこに二本の足で立ち、片手に棍棒を持ち、何をするか分からぬほどの力を持ち、情熱と天を衝く怒りとそして愛情に満ち、神性と神秘と力の全ては、切り裂けば血の流れる肉、他の生き物と少しも違わぬ喰えば美味い肉に覆われているのだ。

その点においては、彼らは白牙となんら変わるところはなかった。しかし人間という獣は無謬の、逃れることのできない神なのだ。彼の母、キッチェが名前を呼ばれたその瞬間から彼らに忠誠を示したように、白牙もまた彼らに忠義心を抱き始めていた。彼はまず彼らへの全幅の信頼を示した。彼らが歩けば道を開けた。彼らに名を呼ばれれば歩み寄った。彼らが脅せば身を縮こませ地に伏せた。彼らがどけと命ずれば慌てて飛び退いた。彼らの意志の裏にあるのはその意志を実行するに足る力であり、その力とは痛みであり、それは拳と棍棒によって、あるいは飛翔する石や肉に食い込む鞭の一撃によって達成されるのであった。

彼は、他の犬たちと同じく彼らの所有物であった。彼の一挙手一投足は彼らの命令そのものだったのである。彼の肉体は、彼らに痛めつけられ、踏みつけられても、じっと耐えねばならなかった。こういったことは、直に彼の肉体に染みつき慣れさせられていった。それを受け入れるのは容易いことではなく、生来の反抗心が抗えと叫んでいたが、実際にそうすることはできなかった。そのような試練には嫌悪を抱いたが、それもしばらくすると彼自身も気付かぬうちに嫌いではなくなっていった。それは、自らの運命を他者の手に委ねるということであり、生存権の委譲であった。しかし、それ自体が代償行為であり、独りで生きるよりは他者に頼っていた方が常に安楽なのである。

しかし、このような、身も心も人間という獣の意のままというのは四六時中というわけではなかった。彼には祖先から受け継いできた凶暴さを、そして野生から学んだ経験をすぐに放棄はできなかったのである。彼はときに森の縁までそっと忍び寄っては遙か彼方から自分を呼ぶ何者かの声に耳を傾けた。そして、すぐにまた落ち着きを失った、心の癒されぬ、憂いを帯びた微かな泣き声を上げながらキッチェの傍にまで戻ってくると彼女の顔を熱心に、なぜとでも問いたげに舐めるのであった。


白牙は、キャンプの生活習慣を瞬く間に習得していった。彼は、肉や魚が餌として放り投げられるときに年季の入った犬たちが見せる不公平さや貪欲さを具に見せつけられた。彼は男たちが幾分公平であり、子供たちが残酷であり、女たちが幾分自分たちに優しく肉や骨を投げ与えてくれるということを学習した。それに、子育て中の母犬にうっかり近づきすぎて何度か痛い目に会ったことから、仔を連れた母犬には決して近づかず、彼女たちの方から近づいてきた場合には避けるのが賢いやり方であることを学んだ。


しかし、彼が生きていく上でもっとも厄介なのがリップリップであった。彼よりも大きく、齢も上で、喧嘩も強いリップリップは彼をイジメの対象に選んだのである。白牙も喧嘩は望むところであったが、しかし相手が一枚上であった。敵は強大過ぎた。リップリップは白牙にとって悪夢となった。

彼が母を離れて出かけるとき、いつもチャンスとばかりにイジメを始め、彼の後を追い回しては唸り声で挑発し、苛めようとして機会を伺い、近くに人間がいない時を見計らっては襲い掛かって喧嘩を吹っ掛けた。リップリップはいつも全戦全勝なのだが、それがひどく愉快でたまらないらしいのだ。それが彼の人生一番の楽しみになりつつあり、逆にそれは白牙にとっての人生一番の苦悩になっていった。

しかし、そんなことで白牙は怯まなかった。いつもやられっぱなしで痛い思いをする一方なのだが精神は決して折れなかった。ただ、別の意味で影響が及んでいた。彼は性格が悪く気難しくなっていったのである。生まれつきの残虐さがこのいつ終わるとも知れぬイジメにより一層残虐になっていったのである。温和で悪戯っ気のある仔犬っぽい面が見えなくなってしまった。彼はキャンプの仔犬たちとはしゃぎ合ったり遊んだりしなくなってしまった。リップリップがそれを許さなかったのである。白牙が彼らの近くに現れただけで、リップリップは彼に襲い掛かり、苛め、脅かし、喧嘩を吹っ掛けて彼が逃げ出すまで止めなかった。

このような影響は、白牙から仔犬らしさを奪い去り年齢に相応しからぬ特徴を植え付けた。遊びを通してのエネルギー発散の場を失くし、その反動として彼は精神的に発展していった。彼は狡賢くなっていったのである。彼は空いた時間を戦術に費やした。キャンプの犬たちに大量の餌が与えられると、彼は要領よくそれを盗んだ。

2017/12/03 21:31


彼は自らを養っていかねばならず、その点において実にうまくやってのけたが、それはインディアンの女たちにとっては疫病神であることを意味した。彼はこっそりとキャンプに忍び込むと巧みに、今どこで何が起きているかを眼と耳で敏感に察知し、その情報によって論理的に執拗な迫害者を避ける方法を考えた。


ある早朝のこと、彼はそうして初めて迫害者に大きな復讐を遂げることに成功したのである。キッチェが狼の群れと一緒だったとき、彼女は男たち二人のキャンプから犬たちをうまく誘いだし餌食にしてしまったことがあったが、白牙のやり方もそれに少し似ていて、リップリップをキッチェの復讐の牙の元にうまく誘い出したのである。

リップリップが自分を追いかけてくるように白牙は多くのティピーの間を走り回ったりティピーを入ったり抜けたりした。彼は走りに長けており同じサイズのどの仔犬たちよりも、そしてリップリップよりも速かった。しかし彼は、全速では逃げなかった。追手がもう一跳びで追いつけるというスピードを維持しているのだった。

リップリップは、自分のイジメ相手にもう一跳びで襲い掛かれるという状況に興奮してしまって、注意力と場所の感覚を忘れてしまっていた。そして彼がはっと自分の居場所に気付いたときにはすでに遅かりしであった。

あるティピーを全速力で回り込んだ後、彼は思い切りブレーキをかけたが、そこには棒切れにつながれたキッチェがいた。彼は驚愕のあまり一つ鳴き声を漏らしたが、それが合図であったかのように彼女が懲らしめの顎を強く閉じた。彼女は棒切れによって繋がれていたが、そう簡単には逃がしてもらえなかった。彼女は彼を横倒しにしてしまったので、彼の脚は地に着かず、その間彼女の鋭い牙に何度も何度も苛まれた。


最後には何とか転がるようにして彼女から逃げおおせることができたが、彼は身も心も傷ついてしまって、みっともなくも泳ぐようにして歩かざるを得なかった。彼女に噛みつかれ傷ついたあちこちの体毛が藪のように立っている。彼はようやく立ち上がると、そこで口を開けて長い悲しみの籠った仔犬らしい泣き声を上げた。しかし、このような状況においても彼は完全には許してもらえなかった。

そんな中、白牙は彼に襲い掛かると後足に牙を沈めた。もはやリップリップに闘う気力はなく彼は恥ずかしげもなく逃げ出したが、かつての被害者は後をしつこく追いかけてきて彼が自分のティピーに逃げ込むまで追い打ちをかけたのである。飼い主の女が彼を助けようと出てきたときには、白牙はまさに怒れる悪魔と化していたのだが、流石に次々と飛んでくる石礫には堪らずとうとう追い払われてしまったのであった。

そして、グレイビーバーがキッチェを自由にする日がやってきた。彼は、彼女がもう逃げ出すことはあるまい、と決断を下したのである。白牙は母親が解放されるのを見ると嬉しくてしようがなかった。彼は浮き浮きした気分で母と共にキャンプの中を歩き回った。彼が母親と共にいるうちはリップリップもしかるべき距離を置いた。白牙の方は敵意むき出しで彼に近寄ったが、リップリップの方は知らん顔をしていた。彼も馬鹿ではなかったから、必ずいつか仕返しをしてやるつもりで彼がひとりになるのを待っていたのである。


それからしばらくしたある日、キッチェと白牙は森の端までふらふらと迷い込んだ。彼が母親をリードしてそこまで行ったのだが、彼女がふとそこで突然立ち止まってしまったのを見ると、彼はさらに遠くまで彼女を誘い込もうとした。あの川の流れ、あの古巣、静かな森が彼を呼んでおり、彼はそこに彼女を連れて行きたかったのだ。彼は何歩か飛び跳ねてみせ、すぐにまた止まっては後ろを振り向いた。

彼女は動こうとしなかった。彼は請うような低いなき声を上げ、遊びに誘うように藪の中に駆けこんだかと思うとそこからすぐにまた飛び出して来たりした。彼は彼女の元に駆け寄るとその顔を舐め、そしてまた走り出した。しかし彼女は微動だにしない。彼は立ち止まって彼女をじっと見ていたが、彼女が項を翻しじっとキャンプの方を見詰めるのを認めると、躍起さや切望という彼の中にあって行動にも露わになっていた気持ちがだんだんと萎えていくのが分かった。


森の中の開けたところで、何かが彼を呼んでいた。彼の母親も確かにそれを聞いていた。しかし彼女にはそれとは別のもっと大きな声も聞こえていたのである。、それは火の、そして人間の呼ぶ声であり、数ある獣の中でも狼だけが、いや狼と野生の犬だけが、兄弟同士である彼らだけに聞こえる呼び声だったのである。

キッチェは踵を返すとゆっくりとキャンプに向かって走り始めた。棒切れという物理的な束縛よりも強い絆が彼女とキャンプとの間にはあった。目には見えないオカルトのような力を人間の神は握っていて、決して彼女を離しはしないのだ。白牙は樺の木陰に座り込むと微かな悲しげな声を上げた。