養魚池

以前にラプチャーというB級映画の感想を書いた。

ラプチャーrapture歓喜とか有頂天の意味になるらしい。もう一つ携挙という宗教的な意味もあるらしい。

わたしはこの映画を最高のホラーとして見た。筒井康隆ショートショートを思い出させる、と書いた。題名は忘れたがある日突然鬼が職場に現れ、一ノ瀬から九条だったか、かたっぱしからその金棒でぶん殴って殺していくのだ。慈悲を乞おうとすがろうと金を出そうと一才構わず理不尽に殺していくのだ。

 

さて、今理不尽と書いたが、ラプチャーの中でも人々はかたっぱしから宇宙人のような正体を決して表さない白い蜃気楼のようなものの放つ雷に打たれて石になっていくのだ。主人公らしき最後の男は、宗教に縋った自分の妻が容赦なく雷に打たれたことを知っていながら、やはり最後には教会に逃げ込むのである。

 

わたしは今、筒井康隆と共に小松左京のお召しという短編を思い出している。

これは、養魚池をご存知だろうかという書き出しで始まる。

養魚池では、ある程度成長した魚を網で掬い上げて他に移す。あるいはそのまま料理してしまう。

プロットとしては、おそらく13、4歳くらいの小学生が中学生になる頃の子供たちだけの世界というのがあって、ある日声変わりの兆候を見せ始めた子供が突然として姿を消してしまうというものなのだが、姿を消してどこへいってしまうのかは残された誰にも分からない。

この話をとても意味深だとわたしが思うのは、子どもから大人への移行期を全く別の異次元世界への飛躍として捉えているとも思えるし、また生から死への移行を描いているとも取れるからである。

もちろん作者の意図は前者にあって、それを何か、大人であれば誰もが経験したであろう無垢で純粋であったあの頃への甘酸っぱい憧憬で色取っているのだ。

しかし、この「お召し」を携挙の意味に捉えるなら、やはりラプチャーに通じる人間の根源的な恐怖を底に据えた作品であるとも解すことができる。

やはり、映画にしろ小説にしろ、よい作品にはこのような人間の心の奥底にある根源的なものがきちんと据えられているのである。