ヨブについて考える

わたしはキリスト者ではない。バイブルを読んだこともなければ、あまり関心を持ったこともない。

ただ、キリスト教については、たいていの日本人と同じくらいの基礎的な知識はあるのではないかと思っている。

今書こうとしているヨブ、ヨブ記についてだが、大したことは知らない。

ヨブが信仰深い人物であったこと。最初は大変に幸福であったこと。しかし、その幸福が突然ひっくり返ったように悲惨で不幸の真っ只中に放り出されたこと。

わたしは、このことについて考えたいのである。

結論から言えば、ごくありふれた話ではないか、ということである。

このようなことは、日常茶飯である。確かに幸福の絶頂から奈落の底へ真っ逆さまに落とされるというのは極端かもしれないが、決して珍しいことではない。

おかしいと思うのは、これと信仰が結びつくことである。宗教の本に書かれているのであるから、信仰と結びつくのは当たり前、と言われればその通りである。

けれども、わたしはそれを否定したいのだ。

自分の幸不幸と神は関係がない。というより、わたしは不信心者(はっきり言って無神論者)だから、わたしは、わたしの不幸が例を見ないほどのものであることを自覚しているが、それを神のせいにはできないのである。

こういう時、わたしがいつも思うのは動物たちのことである。

例えば母鹿が仔を産んで、今幸せの絶頂期にいた。ところが、それをライオンに襲われ子鹿が餌食にされてしまった。

果たしてこの母鹿はいったいどのような罪を犯したためにこのような不幸な境遇に陥ってしまったのだろう。

これを考えたときに、人間と鹿は違うと断言できる者はいないのではないか。

幸不幸と神や信仰はまったく別のものである。信仰によって幸福になれる者は信仰をすれば良いと思う。しかし、いくら信仰をしていても決して不幸はなくならない。ただ、不幸を忘れることはできると思う。そしてそれこそが信仰のもつ役目なのではないかと思う。

地球上、38億年という生物の歴史の中で、どれほど多くの不幸が刻まれてきたか。それはおそらく生存した全ての生き物の数以上であったに違いない。

しかし、それを幸福とか不幸とか呼ぶのは人間だけである。

幸福と不幸を切り分けて考える人間だけが神を作り宗教に縋るようになったのである。