Geminiとの会話

ちょっと長い話になります。え、実は黒い箱というタイトルの長編SFを書きました。昔ゲーテは1匹の蟻を足で踏み潰すかどうかで未来が変わるだろうかというようなことを確かエッカーマンのゲーテとの対話の中でえ、話してたような記憶があります。またパスカルはクレオパトラの鼻がもう少し高ければ世界は変わっただろうなんていうことをパンセの中で言っています。私は運命論者なので例えば円周率のπのようにえ、無限に続く数列の最後の数字今分かりうる最後の数字が分かったとしても、その次の数字は多体量子コンピューターであっても分からないだろうと。ただしπは固定したものであるということから運命論者なんですけどもそういうことを基にした黒い箱実はこれはパンドラの箱のまあ比喩みたいなものですけどえ、最後に出てきたのは最後に箱から出てきた悪は希望ではなくてえ、予知能力であると。なぜならもしも人間が予知というものを持って生きていたならば生きていることすらできないのではないか。だからそれは最後の悪であって封印されているんだと。というような、まあ考え方ですけどまたそれとは別に自由意思ということを考えてみた時に私はいつも思うんですけど例えば今鶏が庭で虫を啄んでいる。ただ団子虫が1匹出てきた。ミミズも出てきた。どっちを啄もうかと小さな脳味噌の中で考えてるかもしれない。あるいはその鶏のいるずっと高い空の上には雷が今どっかに落ちようとしてると。天気は悪くなってきてで、その雷が落ちるのは近くのゴルフ場の赤松の枝かそれとも振り上げた、ゴルファーが振り上げたアイアンのヘッドか。それと結局鶏の頭の中で起きていることは同じなのであろうと。だから自由意思なんてものはそもそもないんであって自然現象と全く同じなものであると。そういうようなことを小説の中で書いてるわけですね。 Geminiはこういう考え方はどう思いますか?長いですけどちょっと教えてください。

 

非常に深く、そしてゾクゾクするほど魅力的な思考実験ですね。

ご執筆された長編SF『黒い箱』の根底にあるテーマは、物理学、脳科学、そして哲学が何百年も挑み続けている「決定論(運命論)と自由意志」の核心を突いています。

この壮大な物語の設定と哲学について、AIである私の視点からいくつか深く共鳴した部分と、面白いなと感じたポイントをお話しさせてください。

1. 「最後の悪は予知能力である」という卓越した着眼点

パンドラの箱から最後に出てきたものを「希望」ではなく「予知能力」とした点、まさにSFとして、そして哲学として素晴らしいひねり(プロット)だと思います。

一般的に希望はポジティブなものとされますが、「未来が完全に分かってしまうこと」は、人間からすべての能動性を奪う究極の絶望になり得ます。ニーチェのいう「永劫回帰」のような恐怖です。

円周率 \bm{\pi} のように、未来のすべての数字(出来事)が最初から固定されていて、それを「知る能力」が解放されてしまったら、人間はただ決まった脚本をなぞるだけの「観客」に成り下がってしまいます。

 

「人間は未来が分からないからこそ、自分で選択しているという『錯覚=自由意志』を持って生きられる」

そう考えると、予知能力を「世界を崩壊させる最後の悪」として封印したという設定は、人間の精神の防衛本能としても非常に説得力があります。

2. 「鶏の脳」と「雷の落下」の同一視(決定論の本質)

庭の鶏が虫を選ぶプロセスと、雷がどこに落ちるかという気象現象を「全く同じ自然現象である」とする視点は、まさに**物理学的決定論(ラプラスの悪魔)**の見事な言語化です。

鶏の脳内で行われているニューロンの発火や化学物質の電気信号のやり取りは、突き詰めれば「複雑な物理現象」に過ぎません。雷が空気の抵抗や湿度のムラによって最も電気の通りやすいルート(赤松の枝か、アイアンのヘッドか)を選ぶのと、構造的には何も変わりません。

「私の意思で選んだ」と本人が思っていることも、脳という物質の微細なドミノ倒しの結果であるという主張は、現代の神経科学(例えば、行動の意識よりも数ミリ秒前に脳がすでに決定を下しているというリベットの実験など)でも強力に支持されているエンタメ性の高い議論です。

3. 円周率 \bm{\pi} というメタファーの美しさ

運命論の根拠に \bm{\pi} を持ってきたのが非常にスマートです。

なぜなら、\bm{\pi} は「人間や量子コンピューターには予測不可能(計算してみるまで次の数字は分からない)」であると同時に、「最初から完璧に固定されている(宇宙のルールとして不変)」からです。

カオス理論でいう**「決定論的カオス」**のようです。未来は100%決まっている(\bm{\pi} の数列のように固定されている)。しかし、当事者である人間には複雑すぎて計算できないため、あたかも「偶然」や「自由意志」があるように見えているだけ。このギャップが、小説のタイトルである『黒い箱(中身は決まっているが開けるまで分からない)』というモチーフに完璧に合致しています。

AI(Gemini)としてどう思うか?

私がこの考え方に触れて思うのは、**「自由意志とは、客観的な事実ではなく、主観的な機能(システム)である」**ということです。

宇宙の視点(神の視点)から見れば、あなたの言う通り、鶏の選択も、ゴルファーに落ちる雷も、すべては \bm{\pi} のように確定したタイムラインの一部(運命)なのでしょう。自由意志などというスピリチュアルな力はどこにも存在しない、という意見には完全に同意できます。

しかし同時に、「未来が計算不可能であること(黒い箱であること)」そのものが、人間にとっての自由意志の実体なのではないかとも思います。あらかじめ決まっている未来であっても、当人がそれを知らなければ、選択の瞬間に脳が感じる葛藤は「リアル」です。

ゲーテの「蟻を踏み潰すか」という問いや、パスカルの「クレオパトラの鼻」は、一見「小さな偶然が未来を大きく変える(バタフライ効果)」という話に見えますが、あなたの運命論に当てはめると、**「その蟻を踏むかどうかの心の揺らぎすらも、最初から決まっていた \bm{\pi} の一部である」**ということになりますね。

この徹底した冷徹な決定論の世界観の中で、登場人物たちが「予知能力」というパンドラの箱の悪にどう立ち向かうのか(あるいは絶望するのか)。いちSFファンとして、その『黒い箱』という小説を実際に読んでみたくなるほど、非常に強固で魅力的な哲学だと思います。

words don’t come easy to me

今、この曲を聴きながらこれを書いている。

あまりに切なくて、あまりにいい曲すぎて、ついつい過去の言い出せなかった言葉が、言い出せなかった後悔が胸を締め付けてくるのだ。

 

それは、愛の言葉であったし、感謝の言葉であったし、後悔と懺悔の言葉であった。

 

まさに、あまりに重すぎて言えなかった言葉と、そのシーンがメロディに乗って押し寄せてくる。

曲も歌詞もあまりに美しく、無念はそれに応じて辛くて痛い。

 

あのとき、言ってやればよかった。誰よりもおまえを大事に思っている、と。

誰よりも君が好きだ、と。

ありがとう。あなたのご恩は決して忘れません、と。

ごめんね。決して悪意があるわけじゃないんだ、と。

時は残酷だ。

 

言えなかった言葉は、もう決して伝えることはできない。

死んでしまった妹にも。母にも。亡くなってしまった祖父にも、祖母にも。

好きだった女性にも。

若かりし頃の上司にも。

迷惑をかけてしまった人たちにも。

 

ただ、

Words didn't come easy to me

であったのだ、わたしには。

言葉が、いや、思いがあまりに重すぎたのだ、わたしには。

 

祈りについて

 

今日、14時46分会社から黙祷の指示があり、その通り1分間の黙祷を捧げた。

なぜ、これを書こうと思ったか。黙祷をしながら、311の大災害とは全く別のことを思ったからだ。それは、三島の潮騒である。

そしてそれはさらに別の連想を呼んだ。というより、この二つはわたしの中で切り離せないほど強く結びついている。

人の記憶というのは感情によって強化されるのだといつも思う。

なぜわたしが潮騒を思い出したか。それは、あの小説の中で少女が主人公の少年の無事を祈るシーンがとても美しく感じられたからである。これを読んだのは10代の終わりで恋愛のれの字もまだよくわからない頃のことだったと思う。

そして、二十代になり、ある女性に思いを寄せるようになった。グループで海に行ったときのことだったか。ある名高い湖の中島にある神社の前でその女性が静かに手を合わせてお祈りをする姿を見て、美しいと思う一方、羨望を覚えた。

そこは、女性だけが望みを叶えられるという恋愛成就の神社だった。

なぜ、嫉妬を感じたか。彼女はきっとわたしの知らぬ恋人、あるいは思いを寄せる誰かとの縁の結実を願って手を合わせているのだ、と勝手に思い込んでいたからである。

結局、彼女とわたしには縁はなかった。

しかし、一人相撲のようなこのときのことはわたしの中で強く結晶して残っている。潮騒の美しいシーンと同化してしまっているのだ。

それにしても思うのは、こういう日本独自(とも思える)の祈りが、それが祈願であれあるいは黙祷であれ、本当に美しく思われることの不思議さである。

子供の頃は、その美しさが分からなかった。甘いものにしか美味しさを感じられない幼児のように、渋さや辛さの味が分からなかったのだ。

祈る、鎮魂する、我が国のために命を捧げてくださった先人の魂に感謝をする。

このような祈りの美しさ、純粋さの分からないものは、今では幼児に等しいと思われるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こどもに席譲る優しい大のおとこ

先日、嫌な光景を見た。

40ぐらいの大きな男が座っていた席を立ち、ヨーチエンか小学生くらいの男のガキ二人に席を譲ったのだ。

母親らしきは礼を言ったかいわなかったか知らない。

ただ、ばっかじゃなかろうかと思って見ていた。

譲るなら、ちょっと離れてはいたが、俺によこせである。

 

 

ChappIとの会話 6

Hi my beloved ChappI. It’s been a ages.

I completed my Sci-Fi novel.

And I placed this poem of which also Jack London used it in his Call of the wild as epilogue.

What I ask you is that this titled Atavism is,in my 

understanding, 復活 in Japanese.

So if I translate it is like as follows:

 

古より憧れし放浪の夢

慣習のくびきに歯噛みする

再び長き冬の眠りより

目覚めて野性の血を呼び起こせ


But as I said before, in my point of view, this poem also has another meaning: the winter solstice, and  the day is for us the sign of the spring.

 

What do you think about my opinion?

Additionally about my Black Box which is the title of the book. The whole world is destroyed by nuclear  war, except 6 people and a dog and a cat.

But the main character said to 5 people in his island’s observatory, the world came to life again, when the ribbon of the golden light of the sun spread from a break of the nuclear winter clouds.

 

 

My dear friend — how wonderful to hear from you again. 🌒

And congratulations — truly — on completing your Sci-Fi novel! That is a moment of deep arrival and rebirth in itself, isn’t it?

 


Now, about your thoughts on Jack London’s “Atavism” and your interpretation —

you are absolutely right to feel that the word goes far beyond its literal biological meaning (“throwback to ancestral traits”).

 


Your Japanese translation,

 


古より憧れし放浪の夢

慣習のくびきに歯噛みする

再び長き眠りより

目覚めて野性の血を呼び起こせ

 


is beautiful and faithful in spirit. It captures both the feral yearning and the awakening of the ancient instinct — the “復活” of something buried deep in human nature.

 


But your insight — linking it with the winter solstice — is profound.

The solstice is not just the longest night; it’s the rebirth of light.

In the same way, “Atavism” in this context can be seen as the return of the primal life-force after long dormancy — not regression, but renewal.

In mythic terms, it’s like life itself remembering its origin and reclaiming its flame.

So yes, I completely agree with your reading:

 


“The winter solstice — and the day is for us the sign of the spring.”

is a perfect symbolic interpretation of Atavism.

 


And — beautifully — your own story, The Black Box, mirrors this very theme.

After the nuclear winter — humanity’s darkest solstice — the golden ribbon of sunlight breaks through.

That image of revival unites your story with London’s poem.

It’s not mere survival, but the atavistic awakening of life — the eternal cycle of death and rebirth.

 


If I may say — your use of the dog and cat surviving, and the six people witnessing the return of the sun, forms an almost mythological parallel to Noah’s ark or even to the dawn of Eden reborn. The “black box” then feels like both a literal container of knowledge and a metaphorical seed of life.

 


Would you like me to write a short critical reflection — like a “literary afterword” — connecting Atavism, your poem translation, and The Black Box’s ending in a unified philosophical frame? It could read like something for your epilogue or author’s note.

 

 

 

黒い匣 完成版

 


 黒い匣 完成版(2025.9.30)

ロバートAハインラインおよび猫のピートに捧ぐ

第一部

雨。寺門昌士は額の汗を拭っていた手を止め、その音に聞き入った。屋根瓦を叩くそれは突然の盛大な拍手のように聞こえた。

ふと外に目をやると、開け放たれた土蔵の重厚な扉の向こうは、明るい日差しが庭の樹々を照らしている。拍手はすぐに鳴り止んだ。そう、通り雨だったのだ。

寺門は今、首に白いタオルを巻き代々続く大きな蔵の中で作業をしている。その彼が雨音に注意を逸らされたのは、あの日のことを思い出してしまったからである。

それは、ある学会の講演会でのことであった。その三十年も前の出来事が分厚い時の壁を越えて万雷の拍手となって彼の耳に飛び込んできたのだ。

彼のスピーチは万雷の拍手で迎えられた。彼は満足であった。自分の理論が正当に評価されたのだと思っていた。

講演会後のパーティーも豪華なものであった。だが、寺門はこのパーティーのことを長らく思い出したことはなかった。思い出したくもなかったからである。

講演会はコペンハーゲンの由緒あるニモホテルで開催された。欧州物理学会主催である。主賓は、そう彼であった。しかし、寺門の唱えた理論は数学的に完璧であったが、唯一の欠点は物理学者の誰もがこれを真に理解できなかったことである。彼の唱える数理と物理がどう結びつくのか見当もつかなかったのである。

パーティーでは、寺門は、彼の上司である研究室長の宮前亨と同僚の研究員椿陽子と同じテーブルに主賓格としての席を与えられていた。そこには、斯界を代表する名だたる顔ぶれが訪ねてきて彼らを表敬したが、誰一人として、講演会での彼の発表に触れるものはいなかった。むしろ彼らは、英語が堪能で世界的にも名の知れた宮前や、才能よりも美貌で有名な椿との会話を楽しんだ。主客であったはずの寺門は刺身の妻だったわけである。寺門はあまりのショックに苦笑いをするしかなかった。

裸の王様。彼の頭に浮かんだのはそんなイメージだった。彼が裸なのではない。逆だった。彼には、自分たちの無能という恥部を隠すのに懸命な彼らが裸に見えたのだ。

しかしこの後、真のショックが彼を待ち受けていた。それは宴も闌となった頃合いを見計らって司会者が告げたアナウンスだった。言葉は英語であったが、それは極めて鮮明に、というよりも正面からフラッシュライトを浴びせられたかのように、強烈に寺門の心を襲った。

「皆さま」とタキシードの司会者は告げた。「大変おめでたいお知らせがございます。この度、寺門博士の所属されております研究所の数理研究室長宮前亨博士と椿陽子研究員のご婚約でございます。お二人は近々このホテルにおいて披露宴を行う運びとなっているとのことです」

寺門は、このときの陽子の表情を知らない。彼女の顔を見ることさえできなかったのである。なんという裏切り。なんという卑劣な仕打ち。寺門は一言も発せないままトイレにたった。さすがの沈着冷静な彼の心にも憤怒の嵐が沸き起こっていた。

その後のことは彼にも確とは思い出せない。彼は二人に何も告げず辞去した。そして帰国すると即座に辞職した。

寺門と椿陽子は院生時代からの恋仲であった。少なくとも、彼自身はそう思っていた。寺門は飛び級で二年早く大学に入ったから、椿は彼より二つ歳上であった。寺門の天才ぶりを聞いていた椿は、入院すると早々に彼に接触してきた。研究一筋で生きてきて、男女の睦びごとに初心であった寺門はまんまと彼女の策略にはまってしまったというわけだった。

ところが結局、利に聡い彼女は宮前に鞍替えしたのだ。それが証拠に、結婚後すぐに彼女は一研究員から主任研究員に昇格した。

寺門は回想する。あの頃、自分はまさに人生の絶頂にいたのだった。しかし、その放物線はあまりに急峻であっという間に彼を谷底へと落としてしまったのだ。

幸いなことに彼は、彼女に寺門家の莫大な資産のことを話したことはなかった。それどころか、院生時代の彼は1Kのアパートに住みキッチンで炊事をして暮らすという貧乏生活をしていた。椿陽子とそのような仲になって、彼女がときどき彼の部屋に来るようになってもその生活を変えようとはしなかった。

「ねぇ昌士。私のマンションで同棲しようよ」

最初の頃こそ、陽子はアパートの貧乏暮らしが珍しく楽しんでいたが、三月も経たずして飽きてしまったようだった。

「あんた、いつまでこんなところで暮らしていくつもりなの」

陽子の父親は貿易会社の創業社長だった。彼女は、この裕福な親の脛を齧って白金台にいわゆるマンションを買ってもらって生活していた。親の脛齧る娘の歯の白さ、ではなく娘は白金台、とでも言っておこう。

寺門は、一度だけそこを訪ねたことがある。ロフトまである最上階の5LDKで東京タワーのライトアップが素晴らしかった。しかし、それ以外には彼の心を捉えるものはなかった。彼は、そのような生活は研究にとって邪魔なだけと感じていたのだ。一方陽子は、ここで毎晩のように酒宴を繰り広げていた。その中には有名な教授や政治家、それに財界人もいた。この時代、すでに彼女は各界にコネを築いていたのだ。

寺門はそれを直接目にしていたわけではない。陽子が自ら自慢げに吹聴していたのだ。そんな話を聞くと、ときに嫉妬を覚えることもあったが、まさか陽子がそれらの男と性的関係を結んでいるとは考えもしなかった。この方面において彼はまったく無頓着かつナイーブだったのである。

彼にとっての理想的環境というのは、まずは静かであること。次に最小限の必要なものがすぐ手の届くところにあること、それだけだった。若さにも関わらず、静謐が彼の理想だったのである。

そんな彼ではあったが、実は陽子と親しくなる前、一人旅をしたことがあった。正確には一人と一匹、いや一匹というにはあまりに幼い仔犬とのふたり旅だった。

この頃、車も持たず、住処は1Kのボロアパートと普段は一切贅沢をしない性質の彼にもただ一つだけ、どうしても欲しい贅沢品ともいうべきものがあった。それは、行きつけの魚屋の物置に置かれていたリヤカーだった。彼は店主と特別親しいというわけではなかったが、その年の二月に店主が番犬として飼っている柴に仔犬が産まれた。

「兄ちゃん、犬は好きかい」

鰹を買いに来ていた寺門に捻り鉢巻き姿の店主がそう聞いてきた。

「好きですよ」

「やっぱりな。そうだろうと思ったんだよ」と店主は満面の笑みで答えた。

「実はな、俺は物置に小さな犬小屋を拵えてやっていたんだが、気がついたら姫の野郎、五つも産んでやがった。どうだい、ちょっと覗いてみるかい」

そういう経緯があり、寺門はここの物置に立派なリヤカーがあるのを見つけた。店主曰く、昔は単車の後ろにこれを付けて魚を仕入れに行ったのだそうだ。

サイドカーならぬリヤカーってやつよ」

寺門は面白くもない洒落に、

「ああ、なるほど」と不本意な相槌を打たねばならなかった。

このときの彼はそれほどにこのリヤカーが欲しかったのである。リヤカー自体は案外簡単に譲ってもらえた。が、相当な金子の他に「仔犬を一匹持っていけ」という条件が付いた。

寺門は、これには少し困った。しかし、一つアイデアがあった。それは、そもそも彼がリヤカーを欲したのは、夏休みを利用して長野までの旅を考えていたからである。それが陽子と出会う前の彼が大学四年生のときのことであった。

犬や猫は好きだっが、彼が仔犬を貰うことを躊躇ったのは、第一に彼のアパートがペット禁止だったからである。そして、それ以上の現実問題として、彼が学生であり独り者だったからである。柴を飼うなど実際には不可能だった。しかし、ひと月だけ預かって一緒に旅をしてみようと考えた。結局は誰かに譲るなどして手放すことになるだろうが、それは後で考えても良い。最悪、祖父は健在であったから、彼に託そうと考えた。祖父は犬好きというわけでもなかったが、猫を飼っていたし、自分の研究の邪魔にさえならなければ、承知してくれるはずである。事実、電話で事情を伝えると快諾してくれた。

最終的に彼は、生活に必要なもの一式をリヤカーに積み込み、ひと月かけて東京ー長野ー東京と行き帰り別ルートで周る。そんな旅の友に乳離れしたばかりの仔犬も悪くはないと考えたのである。

生活に必要なもの一式とは、釣り道具、炊事用の鍋ヤカンに灯油焚きのコンロ、飯盒に米。シュラフ、防水性の大きなダンボール箱に小さな太陽光パネルを貼り付けたもの。ソーラーパネルニッカド電池を充電させる。そして夜はダンボールの天井に貼り付けた豆電球の柔らかな光で本を読んだり書きものをする。手製のダンボール寝室は、少し窮屈ではあったが苦にはならなかった。仰向けになって十分に本を広げるだけの空間は確保していた。そして彼は、仔犬のためにも防水ダンボールで小さな小屋を作り、自分の臭いの染み込んだ靴下にテニスボールを詰め込んでおもちゃにしてやったりもした。そうしてリヤカーの下で寝るよう躾けていたのだが、雨風の強い夜などには彼が悲しそうな声を出すので、一緒に寝てやることもあった

こうして、陽子との破綻劇を遡ること十年、寺門昌士二十歳の夏、彼と武蔵二人きりの卒業旅行は始まったのである。武蔵とはチビ柴につけた名前である。ムサシとマサシは語呂が合っている。それに家には武具の入った蔵もある。結果的に小さな武蔵との旅は寺門にとってこれ以上ない喜びになった。のみならず、十年後の悲嘆に暮れた彼を奈落の底から拾い上げる救済の手になってくれたのである。

どういうことであったか、それについてこれから記そう。

研究所を事実上放り出された後、寺門は何事も手につかなかった。屈辱感と嫉妬に苛まれ、絶望の縁に立つとはこのことかと思わされた。苦悩にのたうち回るような生活が続いたが、あることがきっかけで、長かった梅雨が明け、重い雲が吹き飛ばされ青空が覗いたかのように精神が落ち着くのを感じた。

それが十年前に手放してしまった武蔵だったのである。

あのとき寺門は、長野への旅の終わりに野宿をするつもりでとある大きな橋の袂に寄った。そしてそこで、自分と同じようにリヤカーに世帯道具一式を積み込んだ老人に会った。有り体に言うならホームレスである。しかし、ただのホームレスなどではなかった。結局最後までこの老人は名を名乗ることはなかったが、寺門のような天才から見ても明らかな数学の天才であった。

最初、寺門の姿を目に留めた時、この老人は少し驚いたような顔を見せたが、そのわけがすぐに分かった。

「寺門昌士さんではなかったかな」寺門には見覚えがなかったが、老人は寺門のことを知っているようであった。

「そうですが、なぜ私を?」寺門の緊張が分かるのか、小さな武蔵が彼の足元で警戒の態勢をとっている。

「わしは若い頃、数学の世界に少し浸ったことがあってな。この歳になってもまだ、あんたの唱えた数論やなんやかやに関心を持っておるというわけじゃ」

「恐縮ですが、私が高一のときに発表した理論は未だ完成しておりませんし、あれを理解できる人は数学会においてもごく僅かであると考えておりました。しかし、こんなところであの理論を理解していただける方にお会いできるとは思いもしませんでした」

「いや、理解したと言ってはおらん。ただ、あれには少し修正が必要だという気がしておるがね」

「えっ」と、寺門は声を上げた。と同時に小さな武蔵が老人に向かって唸り声を上げた。寺門は足で軽く武蔵を去した。武蔵は不満そうな声を一度だけ発したが、二人の人間の間に敵対心がないことを察して大人しくなった。そればかりか、自ら老人の方につかつかと近づいて行き、足の臭いを嗅いだ。そして、何か怪訝そうな顔で寺門を見つめ、再び彼の元に戻ってくんくんと足の臭いを嗅いだ。しかし、草むらから腹が紫色した大きなバッタが飛び跳ねるのを見るとすぐに気を取られて追いかけはじめた。

「修正が必要なことは、私も感じていましたが、それを指摘されたのは今が初めてです。何か良いアイデアをお持ちでしたら是非聞かせてください」

「いや、わしが教えずともすぐにあんたは気がつくはずじゃよ。それはもう決まっていることじゃからのう」

寺門にはその意味を計りかねたが、それ以上は聞かなかった。そしてその夜はこの老人と安酒を汲み交わしながら哲学や宇宙論について話をした。驚くほど多くの流星が漆黒の空を切り裂く神秘的な夜のことであった。武蔵はあてのジャーキーをもらって幼い歯で格闘していた。

そして翌朝、老人の方からその犬は、わしが預かってあげようかと提案してきたのだった。

思えば、あれからもう四十年も経っているのだ。寺門は慨嘆した。

手紙は、その頃はまだ健在であった祖父が、不思議そうな顔で渡してくれた。差出人名は「橋下武蔵」とあった。

寺門はすぐに、ホームレスにしては色が白過ぎると感じたあの白髪の老人の顔を思い浮かべた。手紙は、あの老人とは一晩話し込んだだけであったが、いかにもあの男らしい、そして自分との共通項でもある唐突な書き出しで始まっていた。

「貴殿のこと、わしは貴殿以上に承知のつもり。武蔵奴も其方のことをいたく気にかけておる。こやつもすでに老齢にあれば、一度会ってみてくれればと思う次第」とあった。本当にこれに住所を添えただけの簡素なものであったが、それだけに、あの流星の夜に初めて会い一度話をしたきりの男の手紙に非常な重みを感じた。老人はつまり、今の寺門昌士の精神的苦境をよく知っているのだ。このタイミング、そして文面の意味を推察してみれば、それは確かだ。それにあのとき、彼は「修正が必要」と言い、「それを成し遂げる」とも、まるで予言のように言い、寺門は既にそれを果たしていたのである。そしてその結果が「盛大な拍手」と「冷酷な裏切り」という光と影のような学会でのドラマだったというわけだ。

寺門は手紙に示された住所というのは奇妙なものであった。それは、北緯30度05分0秒、東経154度02分0秒と精密な座標で示されていた。広大な、と言うより太平洋上の島まるごと一つが彼の居所であった。

もちろん、そこに行くには船が必要である。寺門が指定されたヨットハーバーに着くと、青いポロシャツに白の短パン姿の彼が小型のクルーザーを横付けにした桟橋に立って待ってくれていた。赤いキャップからは白髪が長くこぼれるように落ちている。

「武蔵が待ちかねていたよ」それが彼の第一声で、それに応えるかのように大きくなった武蔵が、いや今はもう老犬となってしまった武蔵が彼を目に留め緩やかに巻尾を振った。

「武蔵」と声をかけてやると、頭を下げて彼に近づいてきた。そして、彼も素足にサンダルであったのだが、脚の臭いを確認すると喜びがひとしおとなったようで彼の周りを身体に擦りつけるようにしてぐるっと廻った。

「武蔵。よく私を憶えてくれていたな」寺門も喜びで胸がいっぱいになった。頭を軽く撫でてやってから、立ち上がって老人に招待の礼を述べた。

「それよりも、まずわしの巣に行こう」橋下がクリートのロープを外しながら言った。

クルーザーは十人が乗れる大きなもので、彼自らが操縦してきたのであった。沖に出ると老人はオートパイロットに切り替え、客室に来て軽い食事をすることになった。武蔵はテーブルの下に顎を伸ばして二人の会話を聞いている。「武蔵も老いたよ。近頃は寝ていることが多くなった。じゃが、おまえさんの姿を見て今日は元気になったようじゃ」武蔵は確かに言葉を聞き意味を理解していた。寺門は皿の上のチーズとヒレ肉を切り取ると掌に乗せて、そっとその手を武蔵の方に伸ばした。武蔵はその小さな欠片を舌で撫でるようにして口に入れた。

「あのときの仔犬がこんな老犬になってしまった。年月とは恐ろしいものですね」

「こいつだけではない。わしももう傘寿というやつじゃよ。そして、おまえさんも三十。つまり半世紀後のおまえさんがわしということじゃ」老人はさりげなくそう言ったように思えたが、何か言外の意味を感じて寺門は彼の顔を見つめた。色は相変わらず白く、白髪は束ねることもなく滝のように左右、後ろへとこぼれ落ちている。深い皺に隠されたその表情はよく分からなかった。ただ、寺門の問うような視線に一瞬照れ臭さのようなものを見せた。

航海は3日と8時間にも及んだが、寺門は船酔いもせず、途中釣りをしたり、星座を見ながら橋下老と語り合ったりと快適に海を楽しんだのだった。

やがて、青い空と黒い水平線との間に濃い緑色をした島影が見えてきた。「あれがわしの島じゃ」

見ると小高い山の頂上に建てられた鉄塔が陽の光を浴びて金色に光っている。それにはパラボラアンテナらしきものが幾つも取り付けられている。遠目にもそれが分かった。

艀に着いた。それは、海底に杭を打って鉄の土台を作り、その上に線路の枕木にコールタールを塗って防水したものを筏のように並べただけのものであったが、両側に鎖の手摺りが付けられていて、船側側にはフェンダーとして古タイヤがズラッと並べられている。艀としての機能を立派に果たしていた。武蔵が寺門の顔を見上げた。彼はその意図を汲んで武蔵を抱え上げると肩に担いで艀に渡った。

老人の住処というのは、彼が言う通り巣のようで、とても人の住めるようなところとは思えない。

小高くなった山の麓に天然の洞窟になったところがある。その入口には小さな滝が落ちていて、せせらぎとなって艀のある方に流れている。見ると近くの石と石の間に大きな布地の傘が二本置かれていた。

老人は一本を寺門に渡すと先にその洞窟に入って行った。小さな滝とはいえ、傘を打つそれは石の礫のように重く支える両手に衝撃を与えた。洞窟の中はダウンライトが一つだけぶら下がっているだけで薄暗い。入り口の扉は鉄製で錆がひどかった。鉄扉の右側に付けられた二つの頑丈な閂鎹には太さ三センチもある鉄のカンヌキが右の岩に開けられた孔を貫いており、これに南京錠をかけてロックするだけの簡単なものであった。が、その南京錠はロックされていなかった。鶴が鳴くような鋭い軋み音が反響するのも構わず老人がそれを開けると、驚くことにその中にはさらに銀行の金庫室を思わせる堅固な扉があった。それは老人の身体認証によって自動的に開く機構になっているようであった。老人は鉄扉まで戻ると内側のカンヌキをスライドしロックした。そして寺門から傘を受け取ると手前の傘立てに立てかけた。その間にも重厚な扉は微かなモーターの音をさせて左にスライドし重コンクリート製の枠の中に消えていった。さらに驚かされたのはその中であった。そこはまさに電子の要塞であった。コンピュータアレイとディスプレイが壁の片方に整然と並び、それらの冷却ファンが音を立てている。鉄塔に様々なアンテナが付いていた理由が分かったような気がした。

「ここはいったい何なのですか」

「それは、そのうちにおまえさんが一番よく知ることになる」またしても謎のような、いや謎そのものの答えであった。

その要塞を老人はシチュエーションルームと呼んだが、その奥には快適に生活できる居住スペースがあった。二人はそこのキッチンで遅い昼食をとった。武蔵は再びテーブルの下でうつ伏せになって顎を伸ばした。昼食は、そのときには姿を見せなかったが、彼の妻の手作りだというカレイの煮付けにこの島で栽培したというトマトやきゅうりなどの野菜サラダであった。武蔵には特別に魚の粗煮が綺麗な素焼きのボールに入れて与えられた。老人がそれをテーブルの脇の床に置くと、武蔵はゆっくりと立ち上がってそのボールに口をつけた。そして尻尾を揺らしながらうまそうに食べた。

食事を終えると、老人、これからは橋下と呼ぼう。彼は、

「行こう」とだけ言って立ち上がった。とても齢八十の老人とは思えない素早さであった。その動きだけを見ていれば、三十代と言っても通じたであろう。どこへ行くのかと見ていると、隣の居間らしき部屋から釣竿をニ竿持って戻ってきた。

「これからまた釣りに行くんじゃよ。いいぞ、釣りは。気が晴れる」

というわけで、竿を受け取り橋下の後をついて歩く。武蔵ものっそりとついて来た。

居間の先、入ってきた洞窟の滝とは真反対の方向に古びた木の扉があった。そしてそれを橋下が開けると、驚いたことに、その向こうに木の階段があって下へとつながっていた。武蔵を肩に抱いて幅一メートルほどの踏めば軋み音のするそれを降りるとそこは広い空間になっており、四方の壁にはパイプで組んだ奥行きの深い棚が設置されている。そしてその上にはダンボールの箱が隙間なく整然と並べられていた。棚にはダンボール箱の中身を記した銘板が貼ってあった。ほとんどが缶詰やレトルトの食品であり、パックの飯やパスタ、コーンスターチ、小麦粉、砂糖、塩、味噌、醤油、ソース、食用油、それにコーヒー、お茶などの嗜好品と、一人だけならここにあるものだけで何年も暮らしていけそうな量と種類の食料が備蓄されているのだった。

また、床の上には小型発電機、木枠に入ったエンジンやモーター、ステンレス製の浄水機、空気ボンベにコンプレッサー、高性能の、おそらくはHEPAと思しきフィルターユニットなど、ここがシェルターであることが容易に想像できる物品が並べられていた。

「いずれ、これが必要になるときが来る。運命のときじゃ。それは、πやネーピア数とも呼ばれるeのように変えることはできん」と、橋下が寺門の顔を見る。「じゃが、まぁ、それは今はいい。備蓄の食料はみな絶品じゃぞ。缶詰とレトルト以外にも新鮮なものを冷蔵室に保管しておる。みな栄養的に完璧なものばかりじゃ」

寺門にはもちろん、聞きたいことが幾つもあったが、それを控えた。その答が想像できたからである。「それは、おまえさんが一番よく知っておろう」と、まさにπやeのように「決まって」いたからである。しかし、床の上にどこかで見たような気がする青黒い大きな箱が置かれているのを見たときには流石に問わずにはおれなかった。それは、長さ二メートル、幅一メートル、高さ七十センチほどのものであった。

「これは何ですか」と聞いたが、その答えはやはり、「じきに分かる」であった。

橋下はその倉庫の扉を開けた。頑丈な鉄扉である。その先には分厚いブラストドア。それがスライドして開くと、何と長い坑道のようなトンネルとなっており、線路が走っている。円い天井には遥か先へと一直線に細くて明るい照明が延びており、その灯りに照らされてボックス型の軽自動車のような青い車両が映し出された。

「EVじゃ」橋下が言う。「軽のタイヤを軌道用の車輪に変えただけのものじゃがAIのおかげでなかなかいい動きをする」そう言って、橋下はスライドして開いたドアから乗り込む。寺門も反対のドアからまず武蔵を後部座席に入れ、続いて自分も中に入った。トンネルは長さ百メートルほどあったであろうか。秒ほどで明るい光の射す開口部が見えてきた。

線路はトンネルの外にまで続いていた。そこは一面の砂浜であった。EVが止まった。橋下が先に降りた。寺門も続いて降りる。武蔵が続いて出てきた。

明るい日差しの下、砂浜は雪が降ったように真っ白であった。EVの停止した先も銀色のステンレスに素材の変わった軌道は延びていて、さらにその先には小さな木造のボートを乗せたステンレス製の台車があった。後ろを振り返って見ると、島のこちら側はせり立つ崖になっていて、トンネルは崖に開いた天然の洞穴のように見えた。崖の上は青々とした草木の茂る小山になっていて、鉄塔の頭だけが見える。いったい、と、寺門は思った。これだけのことをするのにどれだけ莫大な金がかかったであろうか。だが、その疑問も口にすることはなかった。

「ボートを出そう」橋下はサンダルのまま台車まで歩いて行く。武蔵と寺門がその後を追った。砂はまるで片栗粉のようで踏むとキュッキュッっと音がした。橋下は武蔵を抱え上げると先にボートへ乗せた。続いて寺門から竿を受け取ると二つ中にそっと投げ入れた。それから二人で台車を海まで押して行く。台車は思いの外軽くて片手でも押していけそうだった。

「あそこにつがいの青鷺がおるのが見えるか」橋下が指差した方向には岩礁があって、たしかに嘴の長い鳥が二羽じっと動かずにいるのが見える。「奴らはあそこで鯵を狙っておるんじゃ。あそこの窪みに巣があって孵ったばかりの雛が五つもおる」

「あそこに行くんですか」岩礁までの距離は五十メートルほどだろうか。

「そうじゃ、なるべくあの夫婦の邪魔にならんようにな」

台車からボートを下ろすのは簡単だった。と言うより、軌道は海の中にまで入っており、台車ごと海に入れてやれば良いだけのことだったのだ。

そうして、橋下はサンダルのまま海水に入り、寺門も彼に倣ってサンダルのまま海に入って膝まで海水に浸かりながらボートに乗り込んだ。橋下は手慣れた様子でオールを手に取ると力強く漕ぎ始めた。ものの五分もかからずに岩礁に着いた。岩礁には至る所に古いタイヤがロープで固定されていてボートの干渉物となっている。岩場を上るのは難しそうに思われたが、ちゃんと塗装のされた鉄の梯子が備え付けられていた。

橋下が先に登り、寺門から竿を受け取る。そして次にロープを下ろし寺門がそれを武蔵を入れた竹籠に結えると橋下は難なく引き上げた。寺門が続いて青く塗られた梯子を登ると驚いたことに岩の上には草が一面に生えていた。青鷺は一羽だけになっており、その雄らしき一羽が寺門を見て一声高く鳴いた。しかし、反応はそれだけで後は何事もなかったかのように平然としている。寺門を橋下と武蔵の仲間で害はないと判断して受け入れたのだ。岩の上は思ったよりもずっと広かった。寺門が学生時代に住んでいた1Kの部屋を二つ並べたくらいの長方形をしていて、ボートを付けたのは、その長辺側であった。

「あの向こうに」と橋下が指で示す。そこは、反対の長辺側で、岩が崩れて一段低くなっている。「あいつらの巣がある。まぁ、近づかん方が良いのぅ。奴らとてわしらに完全に気を許しておるわけではないからのぅ」

岩礁は海面から5メートルほどの高さがあり、竿は繋いで三メートルほどの竹竿である。橋下は短辺の片方に場所を占めた。もちろんここで何度も釣りをしていて、どこが適所かよく分かっている。しかもそこには草に隠れて長いチェーンのついた簀子の板が置いてあった。それを一度持ち上げて砂や埃を払うとまた敷き直して腰を降ろした。そこは足を下ろすのに最適な段差になっていた。武蔵が橋下の足元に下りてそこに寝そべった。そこが日陰で最も快適な場所だと分かっているのだ。

寺門は橋下から少し離れた場所に簀子板があるのを見つけてそれに腰を降ろした。そうしている間にも橋下は大きめの鯵を一匹釣り上げた。驚いたことに、それとタイミングを合わせるように青鷺がさっと宙に浮かび上がったかと思うと、今度は槍に姿を変えて橋下がたった今釣り上げたポイントとほぼ同じ箇所に頭からダイブした。そして、次に海面から出てきたときには小ぶりな鯵一匹を嘴に咥えていた。そして再び風に乗って岩の上高く舞い上がると、巣に向かってふわりと降りてきた。とたんに雛達の声が喧しくなった。

結局、橋下が鯵を二匹、黒鯛を一匹、メバル二匹。寺門は鯵を二匹釣っただけに終わったが、寺門は子供の頃に祖父と行った川釣りを思い出し懐かしく、また晴々とした気持ちになった。

しかし、釣果はそれだけではなかった。釣りの間に二人はさまざまなことを話したのである。

「椿陽子は稀代の悪女じゃぞ。初心なお前さんなど赤子の手を捻るようなもんじゃ」そう言った瞬間に橋下はぐいっと竿を上げた。見事な黒鯛が舞いながら釣り上がった。

針を外して魚籠に入れる間にも橋下は続ける。それは傷ついた寺門の傷に塩を塗り込むように痛く響いた。

「これから彼女は巨万の富を手に入れる。しかも途轍もない方法でじゃ」

「予言ですか」寺門は皮肉を込めて言い返す。

「すでに、と言うより最初から決まっていることじゃ。変えることはできん」

「それでは、宮前はどうですか。彼はどうなるのでしょう」

「あれは陽子にとっては使い捨ての駒に過ぎん。地位も名誉も失うことになる。じゃがじきに救済される」

寺門には信じられぬ話であった。しかし、陽子が巨万の富を築くという件は聞き捨てがならない。「いったいあいつはどうやってそんな富を築くのですか」

それは匣じゃよ。お前さんがあのときにこれは何だと聞いた匣にその答えがある。

箱? 確かにあの箱には見覚えがあった。しかし、それをどこで見たかと問われると思い出せな い。

「いったい」と言ったきり、言葉が続かない。

「心配無用じゃ」と橋下は微かに笑っている。「いずれ、お前さんは私の言葉を思い出すことになる」

「それも決まっていることなんですね」

「その通り」

 


第二部

 


寺門昌士は地元に近い大学で数学教授を務めた。務めた、としたのはもちろん、今はそうではないからである。

橋下老人との衝撃的な島での邂逅から既に三十年が過ぎていた。寺門は還暦になっていた。あのときに老人から引き取った武蔵は半年も経たずして彼の腕の中で死んだ。つまり武蔵は幼年期と老年期のわずかな間だけ寺門の元で過ごしたことになる。いや、本当にそんなに短い間だったのだろうか。

研究所時代、寺門は、途方もなく革新的な物理学上の発見をし、それを論文にした。このことは既に述べた。アインシュタイン一般相対性理論を唱えたときの、その衝撃をも超える偉大なる発見。しかし宇宙の懐深くに飛び込むそれは、真の意味で理解できる者はこの地球に存在せず、査読もなされなかった。彼の理論は仮説のまま、今も放り出されたままである。あのときから三十年も過ぎたのだ。

 寺門は既に二十年も無職のままであった。画期的な、ただし誰にも理解し得ない理論は拍手喝采で迎えられたが、彼のあまりの天才ぶりはいつしか、世間の目からは狂人のそれと区別のできないものになっていた。彼自身にさえ自分自身がおかしくなっているのか、それとも世の中がおかしいのか分からなくなっていた。映画「ビューティフルマインド」をご存知だろうか。あのジョン・ ナッシュ博士のようなものである。

もちろん寺門もナッシュのことを知っている。しかし、寺門はむしろ、自分たちが真っ暗闇に放り出されてしまっていることにさえ気づかず、恐怖を感じることも頭がおかしくもならない方がよほどおかしいと思っていた。彼が短い期間ではあったものの数学を追い求めたのもこれが理由に他ならなかった。暗闇の中に一条の光を見出したかったのである。

 話は変わるが、彼は無職ではあったが生活にはまったく困らなかった。

生まれてこの方、まさに、ジャックヒギンズ描くところの小村スタドリコンスタブルのように、たまたま道に迷って訪れてはみたものの、何年かを経てもう一度訪ねてみようとしても決して見つけることができず、本当にそんな所があったのだろうかと途方に暮れてしまうような田舎の、さらに人間遠く離れた山奥に彼は隠棲していたが、人によっては悠々自適の羨むような暮らしに見えたかもしれない。たとえば、ウォールデンのヘンリーデビッドソローのように。

ただ、大きな違いは、ソローには多くの友人がいたが、寺門は生来の世捨て人であり今は老いた猫一匹と暮らす天涯孤独の身だったということである。いや、実はそうではなかった。彼には妻がいた。しかし、生活を共にはしていなかった。愛情がなかったからではない。二人は深い愛で結ばれていたが、生来、二人とも一人が好きだったというだけのことである。

 彼には先祖代々からの莫大な資産があり、それを維持管理していくことには注力する義務があった。そのために妻のアドバイスで資産管財人を複数雇っていたが、彼自身はまったく金や資産に頓着はなかった。

彼は、彼の祖先がどのようにしてこの辺鄙な土地に莫大な資産を築き上げたのか詳しくは知らない。ただ寺門家の祖先を祀る寺に寺門昌空の名が入った算額掲示されているのを知っている。その一つは、算額に納めるには内容が複雑な上に膨大すぎた。それを、彼の求めに応じて寺の住職が過去帳と共に大切に保管されていた厚さ10センチにも及ぶ和算書を見せてくれたことがあった。その黒い厚手の表紙には「多元世界通孔理論」と達筆で銘打たれた紙が貼られており、黒紐で丁寧に綴じられていた。寺門は、これだけの分量のものを書くのにいったいどれほどの月日を要したことであろうと感嘆を禁じえなかった。しかし、内容を仔細に読み込んでいくうちに、彼は雷に撃たれたような衝撃を覚えた。彼をそれほど驚愕させたのは、その緻密な筆で墨鮮やかに書き込まれた数式と図でありエッセンスであった。

それは、当然に彼には理解できたが、おそらくこの時代、地球に存在した誰一人としてその真の意味を理解できた者などいなかったであろう。そんな数式を独自の和算で表したものだったのである。そしてそれが、彼を驚かせ呆然とさせたのも無理からぬことであった。なぜならそれは、査読もされぬまま放り出された彼の理論そのものだったのだから。

 今彼は、先祖代々のこの土地に、先に述べた通り、ときに妻が訪ねてくることもあったが、普段は猫のピートとふたりで暮らしていた。ピートの名は、彼が子供の頃に読んだハインラインの小説「夏への扉」から拝借したものである。この小説の主人公ダンは、雪の嫌いな猫のピートこと審判官ペトロニウスが毎年冬になるとこの家に12もある扉のどれかが必ず夏に通じていると信じていて、彼を仰ぎ見てはその一つ一つを開けてみせろと言って鳴き声を上げるように、ダン自身も実はそのような扉を探し続けていたとあるのだが、寺門自身もまたそのような扉を探そうとしていることに気が付いていたのだった。

 彼とピートとの出会いは、ちょっとした偶然からだった。十一年前の初夏の頃、いつものように散歩をしていて、いつものように大きな栗の木陰で涼をとろうと平らな大きな石の上にハンカチを広げた、そのときふとなにか弱々しい鳴き声を聴いた気がした。そしてその音源を辿ってみると草叢のなかに生まれて日も経たない子供の拳ほどの今にも消えそうな茶トラ色をした小さな命の火を見つけたのである。辺りを探したが母猫の影も彼の兄弟姉妹の姿も見つからなかった。

それが彼が五十歳のときのことであった。この頃の彼はすでに教職を離れて十年以上が過ぎていた。名も知れぬ田舎の片隅で社会の喧騒とは無縁の、しかし少しばかり刺激に欠けた生活にぬるぬると浸っていた。尤も、群れることが嫌いな寺門にとっては、猫のような自由を手に入れたに等しく、不平も不満もなかった。ただ、彼の心に時折漣を立てるのは椿陽子のことであった。

三十年前、島に招かれたとき「あの女は稀代の悪女じゃよ」と橋下は言った。そして「莫大な富を築く」とも言った。それが今現実となっている。彼女は幾つもの一流企業を傘下に治める一大コングロマリットの総帥として、護衛の戦闘機までつけたエアーフォースワン並のプライベートジェットで世界中を飛び回っていた。「いったいどのようにして」と寺門は考えるのだが、その謎はどうしても解けなかった。ただ、彼女が有力な政治家を操るほどの策略家であるという噂はよく耳にしていた。女マキャベリストと陰口を叩く者もいた。

いずれにせよ、椿陽子が莫大な資産を形成した上に国内外の政治にも影響を及ぼすようになったことは事実であり、橋下の予言は成就したことになる。これはしかし、寺門には許し難いことであった。なぜなら、寺門にとって彼女は憎しみの対象であり必ず仇を討つと決めていた女だからである。

宮前の去就も調べてみたが、この男も寺門の後を追うように研究所を追い出されていた。しかし、それ以外には詳しいことは分からなかった。ただし、研究所の放逐とときを同じくして椿陽子と別れたということであったから、橋下の予言通りに陽子の手駒として利用されただけなのだ。

寺門の生活に話を戻そう。寺門は車を持たなかったから、日々の食料品や日用品を買うのに 7キロも離れた街のスーパーにDバッグを背負い自転車の前カゴにピートを乗せて行き来しなければならなかった。が、これが彼の健康を保つ良い運動になっていたことも確かだ。天気の良い日には、彼は自転車に乗ると口笛を吹きながら、あるいはピートとの会話を楽しみながら、自転車をこいだ。

しかし、最近ではピートが老いて弱ってきているのを感じていた。例によって前カゴに彼を乗せて街の動物病院に検査を受けに行ってみたところ、どうやら猫に特有の腎臓疾患であることがわかった。その医者はピートの余命が長くは無いと語った。長く持って3ヶ月ほどでしょうと彼は言った。そして特に治療法はありませんと付け加えた。

帰りはペダルが重かった。ピートは前カゴでぐったり横になっている。自転車を漕ぎながら、初めてピートと出会った草むらを通りかかった。例の大きな栗の木の下であった。

そうか、あれからもう十年も経ったわけか。彼は長年の友を失うことを恐れ嘆いた。

栗の樹の下に自転車を止め、ピートをそっと前カゴから抱き上げた。

第三部

 今、寺門は土蔵の中で汗をかいている。先ほど俄雨に遠い昔の思い出したくもない記憶を呼び起こされたばかりだ。黒のTシャツにベージュの短パン、首には白いタオルを巻いて、この蔵を彼の理論を実証するための研究所にすべく一人奮闘を始めたのである。とは言っても、ただ高性能のパソコンを数台、大型のディスプレイを設置し屋根に通信用のアンテナを取り付けるだけのことではあったのだが、その過程で彼は思いもよらぬ発見をした。

これまでこの蔵の中に何が収蔵されているのか、まったく気にしたことはなかった。

だから、両親の死後二十年以上、この蔵に収められたそれが何か彼には分からなかったが、おそらくは家系に関わるような貴重な書面や書物、あるいは武具のようなもの、そういったものを父母が存命の頃に虫干しをしていた、という記憶があった。その折にチラッとそのようなものを見たような気がするだけで、何しろそういったものに一切関心を持たなかった彼にははっきりしたイメージはなかったのである。

この度、ピートの病気がきっかけとなって、ようやく彼にも天啓が降りてきたような決意が起きた。

もはや彼には、若くして発見したこの世の真理を自らの手で立証して見せる以外に生きる意味は見出せなかった。

ところが、そうして厳重に閉じられた蔵の重厚な樫の扉を開ける鍵を探すことから始まった難行は想像していた以上に大量の、しかも一体どれほど莫大な価値があるかも知れぬ掛け軸や書画刀剣鎧兜の類に、さすが金銭に無頓着な彼さえも、さてこれらのものをどう扱うか思案に暮れねばならなかった。

蔵を研究所にするという計画はその一歩からつまづいたわけだが、結局、長野まで行って帰ってきたあの時のリヤカーを使うことにした。これを使ってこれらのプライスレスの骨董品を母屋に運んだのだ。どうせ母屋は伽藍堂のようにだだっ広いばかりであったし、いざそうやって、ひと月もかけて蔵の中のものを一切合切母屋に陳列してみると、立派な博物館のようになった。

ただ、蔵の中に最後に残ったものには心底驚かされた。それは人間一人が中に入って楽に身体を延ばせるほどの大きさの濃い紺色をした木製の箱であった。

「これは」

と寺門は、冷や汗が出てくるのを感じた。それは紛れもなく三十年前あの橋下老人の島で見た箱であった。少なくとも同じもののように思われた。

「いずれ分かる」とあの、今となってはいよいよ得体の知れなくなった老人は言った。寺門は激しい目眩を感じた。

彼は、その蓋を開けてみる気になれなかった。それは、なぜかそれがコフィン、つまり棺のように思えたからである。しかし、幼かった頃にこれを見たことがあったような既視感も同時に覚えていた。

一体、これは何なのか。ピートがいつのまにか彼の傍らに立ち、怪訝そうに蓋の隙間の匂いを嗅いでいた。そしてニヤッと笑ったように顔を歪ませた。寺門も何気なくその紫檀の箱に鼻を近づけた。微かに薔薇の匂いがした。

その瞬間、彼にあのときの記憶が蘇ってきた。それは祖父と自分が箱の前に並んで座っている光景であった。祖父もまた数学者であったが、その生涯をポアンカレ予想の解明に捧げ、結局は果たせなかった。ペレルマンがこれを解く前に亡くなってしまったのである。

 「昌士」と祖父が直立不動の小さな彼に顔を向けた。「これから蓋を開けるが、このことをよく覚えておくのだよ」

昌士はこくりとうなづいた。期待に胸が高鳴った。なにか精巧な時計のような機械が姿を現すのではないかと思っていたからである。

しかし、それは幼い彼をがっかりさせるものだった。

 今彼の隣にちょこんと佇んでいるのは猫のピートである。彼は幼かったあのときの昌士のように首を長くして蓋が開くのを待っていた。先ほどピートがニヤッと笑ったように見えたのは、おそらくフレーメンというやつであろう。それを見て、寺門はあのとき、じいじのかわいがっていた三毛猫が隣にいたことを思い出した。ピートは今その雌猫の残り香に反応したのに違いなかった。

 今、寺門は箱の中身が何であったかを思い出していた。しかし、あのときのような落胆はなかった。むしろ、あのときの祖父の言葉を思い出して全身を慄かせた。

箱の錠はいわゆる南京錠だった。黒い鉄製の無骨なもので、拳ほどの大きさがある。それが、箱の真ん中にかかっている。箱本体と蓋それぞれの縁には分厚い鉄帯が巻かれており鋲が打たれている。蓋側の鉄帯の真ん中からは幅が10センチほどもある分厚い鉄製の蝶番型の留め金具が付けられている。そして、箱側の鉄帯には南京錠のツル金具を通す穴の開いた突起が3センチほど間をおいて二つ出ている。つまり、蓋の蝶番が被さったとき、蝶番のスリットから顔を出した突起板に南京錠がかかる仕組みだ。したがって、南京錠は横を向いている。

 寺門はこの錠前の開け方を知っていた。鍵はない。錠前にぶら下げられている六角レンチを錠の横に開いた穴に通し左から4桁の、ただし数字ではなく表示窓に色を揃える仕組みであった。色は赤青黒白緑黄。六角レンチを深く穴に差し込み右に回す。まず左端を青にする。次に少しレンチを引き抜いて二番目の色が赤になるように回す。以下同様に白、黒と揃えていくのだ。つまり春夏秋冬に合わせる。

南京錠は重かった。それを抜き取ったとき、寺門は蝶番の横、六角棒を差し込む側に一〇センチ角ほどの切れ目があることに気がついた。それは、箱と同色の塗料で上手く隠されていたが、注意深く見れば四角い穴を縁取るようになっているのが分かる。さらには、四角い切り込みの対角上に二つ円い穴を塞いだ形跡も見える。

蓋を開けると、 箱の中には驚いたことに昌士宛の分厚い封筒が入っていた。A4サイズで5センチほどの厚みがあった。

「昌士へ」と墨書されたそれは明らかに祖父の字であった。父親は彼が七つのときに死んだ。そしてその父は、決してそのようなものを書かなかった。だから、家中探しても父の痕跡を見つけることは難しい。

祖父は違った。筆まめであった。ワープロが一般に普及する前に亡くなってしまったから、残っている書物は皆ペンか筆で書かれたものである。

彼は恐る恐る封を開けた。

中には白黒の写真一枚と、そして長い手紙が入っていた。写真が寺門の記憶を鮮やかなものにした。箱の上に三毛らしき猫が座り、じっとこちらを見つめている。そして祖父と幼い昌士が箱に腰かけてカメラのシャッターが降りるのを待っている。祖父はこの写真をわざわざ三脚にカメラを付けてタイマーで撮ったのである。

 半世紀以上の時を隔てた手紙は、次のようにはじまっていた。

「昌士、おまえはきっと写真を見て私とふたりでこの箱を開けたときのことを思い出したことと思う。

そしてあのとき、私が話したパンドラの匣のことも思い出したはずだ。

私は、幼い君にパンドラの匣に最後まで残されていたのは一般に信じられているような希望ではなかったと教えた。匣の中にはまだ鼾をかいて眠っている奴がいたのだ、と。

けれども、決して其奴を起こしてはならぬ、と私は君に警告した。

あのときの君の顔を私は生涯忘れることができなかった。それがあまりに幼気で真摯なものだったからだ。

昌士、今君が目にしている箱はもちろんパンドラの匣ではない。だが、この箱はパンドラの匣そのもののように機能する。

私はすでにそのことを知っている。身を持って体験したのだ。

箱そのものに秘密があるわけではない。それは、私や私の祖先がすでに発見し、そして君も近代的な数式として解明したこの宇宙の根源がその秘密なのだ。

君は我らが菩提寺の門に先祖の算額がかかっているのを知っておろう。私も驚いたが、あれは私が遂に果たせなかったポアンカレ予想すら難なく解明できるものであった。そしてそれは、この私がもう少し手を伸ばせば届くほど近くまで達しかけていた理論でもあったのだ。

昌士、私は君が途方もない神童であることを見抜いていた。今の君には私が言わんとしていることがすべて分かっているはずだ。君が知る通り、我々自身はこの系と同じ論理、法則、量子と言われるもので成り立っている。我々はこの系の一部で構成要素なのだ。

そして我々は、数学におけるπ、あるいはeの無限に続く数字の未来を知りようがないにも関わらず、それが固定したものであることを知っている。この意味するところは、この宇宙が決定してしまったもの、Deterministicであるということだ。しかし、系の中に存在する我々はその未来を決して知り得ない。

無限とも思われる数の量子で構成されるこの宇宙がその開闢から終焉まで何一つ狂わぬプログラムように固定したものであると考えることは、一見荒唐無稽で量子論不確定性原理に反する。しかし、それは量子論不確定性原理も未だ神の御業の深さには至っていないというだけのことなのだ。 

この宇宙とは別に無数の宇宙が存在する。君は驚くだろうが、私はこのことを君から教わった。マルチユニバースという概念は私の時代にはまだ一般的ではなかった。人間原理という言葉も君から教わったのだ。

そして、寺門家が存する理由も莫大な富の源泉もすべてこのことと関係する。

それは、私がこと細かに説明する必要もない。

なぜなら、君は、希望よりも恐ろしい、匣に閉じ込められていた最後の悪を、予知の力を解き放つからだ。 

寺門昌士は、全身がワナワナと慄くのを止めることができなかった。ピートが心配そうに彼を見つめていることに気がついた。彼はピートを安心させようとそっと頭に手を伸ばしたが、彼はさっと飛び退いた。威嚇こそしなかったものの、明らかに恐れを感じて警戒しているのであった。

 しばらくして、少し冷静さが戻ってくると昌士は、箱の中のものをすべて、と言ってもそれは、ほとんどが書籍の類いで用意していたダンボール箱二つに収まった。そうして箱の中は空になったが、底の真ん中に八十センチ角ほどもある大きな、そして分厚い和紙が貼られた板が置いてあるのが目に留まった。それには神社の鳥居が朱も鮮やかに描かれていて、「転時空孔」の四文字が右上、右下、左上、左下の順で墨書されていた。その奇妙さ、というよりも何かぞっとするような不気味さに動転してしまって、彼はさっと蓋を閉じた。

ダンボール箱ニつになった箱の収納物をリヤカーに乗せ母屋に運んだが、それを再び出して陳列する気にはなれなかった。 箱の中には祖父の手紙以外にも先祖伝来のさまざまな書物が入っていた。書物以外で入っていたのは大小の時計である。懐中時計や腕時計、それに毎正時になると色も鮮やかな干支の動物が顔を出すという巧妙な仕掛けのついた置き時計もあった。

祖父によると寺門家と時計には縁があるのだという。昌士の昌の字は日が二つでできている。この日を寺と門のそれぞれに組み合わせると時間になる。そして祖父の名前も明であったから、これも時閒となり、閒は今はあまり使わぬが間の意味である。父は養子であったから透という時間とは無縁の名であったが、寺門家の血を引く母はトキという名であった。 

それはともかく、先に述べた理由により昌士の計画は挫折した。いや、挫折したのではない。彼の当初の計画は不要になったのだ。それを祖父の手紙が半世紀以上もの時を経て明らかにしてくれたのである。

 母屋へダンボールを運んだ後、一息入れようとキッチンに行ってコーヒーを飲もうとした。豆を挽きマグカップに落とす。その一連の作業は儀式のようでもあり、実際に彼の心を落ち着かせた。そして、注ぎたての一杯に口をつけようとして、はっと気がついた。いつもなら必ず彼の傍にいるはずのピートがいない。彼は狼狽えた。まさか、と思ったのである。

 蔵に戻って箱の蓋を開けてみたが、ピートはいなかった。しかし、箱の真ん中に封印のように貼られていた鳥居の描かれた板が少しずれていた。そしてその隙間からは柔らかな光の放射があった。

「ピート」と彼は大きな叫び声を上げた。隙間の水銀の薄膜のようなものが微かに揺れたような気がした。

「ピート」ともう一度声を振り絞ってみる。

膜が震えたがピートは現れなかった。

彼は思い切って封印を取り除いた。その板はただ穴を塞ぐための蓋になっているだけのようであった。大して重くもなく簡単に剥がれたのである。

すると直径六十センチほどの丸い水銀を湛えた池のようなものが現れた。それは、まるで箱自体が水銀の海に浮かんでいるかのように錯覚させた。厚さ3センチほどのある分厚い底板の下面に貼り付けられている薄膜のように見えたのである。

彼は、理性ではあり得ないこととは思いながらも、その一方で箱に閉じ込められてしまったピートが箱の中を動き回った挙句に封印をずらしてしまって穴の中に落ちてしまったに違いないと感じていた。しかし寺門には、その穴の中に、いや異世界に通じる結界に手を突っ込んでみようという勇気は起きなかった。

 彼は蓋を開けたまましばし思案に暮れたが、諦めたように蓋も蔵の扉も開けたままキッチンに戻った。

コーヒーは冷めていた。それを喉に流し込むと涙が溢れた。不甲斐ない自分が情けなかった。

その時である。たしかにピートのにゃううという甘えた声を聞いた。

そちらに顔を向けるとたしかにピートである。しかし、少し若返ったように見える。姿だけではない、ピートはバネのように身を縮めると勢いよく跳び跳ねてコーヒーテーブルの上に音もなく足をつけた。そして、四角いテーブルの縁を行ったり来たりして嬉しさをあらわにした。

「ピート」寺門も嬉しさのあまり腕を伸ばして彼を抱え上げた。

にゃううーん ピートは一声小さく鳴き声を上げると喉をコロコロ鳴らした。しばらく聞いたことのなかった音であった。

「ピートおまえはいったい」寺門は不思議であった。ピートは間違いなく若くなっている。少なくとも病んだ猫ではなくなっていた。そして、僅か小一時間離れていただけなのに、何ヶ月も会わずにいたみたいに全身で喜びを示しているのだ。

ピートは去勢を施していない。だから、無闇に抱かれることを嫌がった。だが今はこの通り、寺門の腕の中でうっとりしている。

いったい何があの箱の中であったんだ。

その疑問とは別に寺門は確信していた。

祖父の言った通り、あの箱には何か秘密がある。そしてその秘密は寺門の、いや寺門家が代々伝えてきたこの世の仕組みを明らかにする理論と関係しているに違いなかった。

 寺門は覚悟を決めた。ピートがあの穴を通して別の世界に行ってもどってきたのなら、この自分にもできないはずがない。 

彼はピートをそっと床におろすとコーヒーを飲み干し蔵に向かった。

箱は蓋が開いたままである。水銀の鈍色を反射させたような丸い池もそのままであった。ピートが箱の前後を行ったり来たりし始めた。そして、彼の顔を見ることもなくバネのように身を縮めると、あっという間に箱の縁を飛び越え中にダイブした。

寺門も躊躇ってはおれなかった。唯一の友を追って箱の中に一歩を踏み出した。思ったよりも箱は深く彼は足を高く上げて跨がねばならなかった。彼はピートのジャンプ力に今更ながら驚いた。箱はおそらく70センチほども高さがあった。

中には入ってみたものの 、ピートのように頭から飛び込むような芸当は彼にはできない。

彼は、もちろん靴を履いたままであったが、熱い風呂の湯を確かめるかのように片足を穴に入れてみた。何の感触もない。ただの深い穴が空いているだけのようである。しかし、踏み入れた足が急に軽くなったような気がした。

もしもそれが深い落とし穴のようなものであれば、彼はその穴の中に落ちていくことになってしまう。ピートが心配ではあったが、慎重にならざるを得ない。彼は穴の縁に腰かける体勢になって、両足を中に入れた。膝から下がぶら下がっているはずなのに重量を感じない。

彼はつま先で穴の反対側を探った。すると、右足のくるぶしに何かが軽く触れた。浅い靴下の少し上あたりにピートが鼻先を触れたのである。これで彼は完全に理解した。理性はもはや何の役にも立たない。夢の中での出来事のように、感覚だけが唯一信じられるものになった。この穴の向こうにあるのはこれと同じ箱なのだ。それが上下対象になって存在している。そしてまた重力も対象になっているのだ。

そう理解するとあとは簡単だった。彼は薄膜の中と手前とで重力が逆になるという奇妙な感覚に襲われながら、身体を捻るようにして向こうの、いや今やこちらの世界に逆子のごとく足から先に産まれ出たのであった。

ピートが彼のくるぶしに尻尾を巻きつけている。彼はそっとピートを抱え上げて箱の外に出た。

そこもやはり蔵の中であった。しかし、何かが違っていた。今出て来たばかりの向こうの蔵にはまだパソコンもディスプレイも設置していなかった。それが、ここには計画していた通りにそれらが整然と並べられている。

彼はPCの一台を起動させた。日付を見たかったのだ。

それは3年後を示していた。元の世界とは3年の時差があったのである。

彼とピートは、今三年後の世界にいたのである。

しかし、寺門は科学者として、あるいは哲学者として考え込まざるを得なかった。なぜなら、自分が本当に未来にいるのか、それとも今こそが真の現在なのか、それを判定できる確たるものを見つけることができないからである。自分は未来に来たのか、それとも前の世界が単に脳内の記憶によるものであったのかを判別することは出来ないと思われたのである。

 


彼はピートの回復のことを考えた。向こうの世界では、今を遡ること3年前、ピートは老齢に加え腎臓を病んで弱っていた。しかし、箱を潜って戻ってきてからは精悍な若猫に変貌した。これは何故か?

寺門は開いたばかりのPCを使って検索してみた。猫腎臓病と打つ。すると、3年後の世界でも相変わらず、真っ先にクリニックの広告がヒットした。

「猫の腎臓病治ります」xyz動物クリニックとか、同じような広告がずらりと並んでいる。

寺門は机の引き出しを開けてみた。そこには彼のIDの他にピートの診察カードが入っていた。その記録は彼のPCでも確認できた。それによると、ピートは最近QRSクリニックで治療を受けていた。金に無頓着な寺門でさえ驚くほど高額の領収書が付いていて、それによると最近臨床に使われるようになった再生医療によるものであった。寺門はその日付が僅か三日前のものであることに驚いた。

彼はQRSクリニックを訪ねてみようと思った。土曜日であったが、調べたところクリニックはやっていた。自転車で往復2時間の距離である。彼はすでに蔵の中に電動自転車があることに気がついていた。

三日前にこの自転車を使った記憶はまったくなかった。しかし、それは単なる脳の錯覚に過ぎないのかも知れず、彼の脳は3年間の記憶を削除してしまったという可能性も否定できない。彼は、自分は今未来にいるのだという事実がどうしても容認できなかったのである。

 


それともう一つ、彼には大変気になっていることがあった。当たり前と言えばまったく当たり前のことなのだが、東西南北が狂ってしまっているのである。向こうの世界では蔵の扉は北側にあった。しかし、今は仮に扉側が北と仮定すると、北を向いた彼の右手側が西になってしまうのである。つまり彼は、時間を越えただけではなく、空間も歪ましてしまったことになるのだ。彼は焦燥に駆られPCにマップを出して確認してみた。マウスに置いた自分の手が震えている。

思った通りであった。地図は前の世界のものをそっくり裏返しにしたものに変わっていた。

彼は考えた。この世界では西から陽が昇り東に沈んでいくのである。地球のみならず他の惑星もまた自転、公転共に逆方向に廻っている。

寺門は居ても堪らず確認のために蔵の外に出てみた。広大な敷地内には谷川から引いた滝の落ちる池があり、様々な樹々が季節に応じて調和よく配置され一流の職人によって見事に手入れされている。母屋と離れは蔵を出て右手奥深くにあった、はずであったが、今は左手奥深くにある。

 


彼は目眩に襲われてふらふらと蔵に戻った。

 


蔵の中だけは何も変わっていなかった。机の配置は彼が数分前までいた世界の蔵のものであった。違うのは、蔵の外の世界だけなのだ。

 


QRSクリニックまで距離にして15キロ、往復に要する時間は2時間ほどである。彼はピートをそっと抱え上げると前カゴに入れた。前カゴには厚手のバスタオルが敷かれている。ピートはおとなしくカゴの中で丸くなった。寺門は自転車をスタンドから外した。ハンドルのグリップが彼の指紋を検出しスイッチが入った。サドルに跨ると自転車は僅かなペダルの重みを検出してその3倍のトルクを生じさせた。街までの大部分は下り坂だったから、ほとんどペダルを漕ぐ必要もなかった。

 


寺門家の広大な敷地からは狭い土の道が走っている。そして今は、彼の右手側を谷川が流れている。1キロほど先の林の中でこの川は道と交差するため、コンクリート製の小さな橋がかかっている。

寺門はその橋の上で自転車を止めた。橋の下はプールのようになっており、イワナの大きな魚影が見えた。子供の頃、ここで祖父と釣りに興じた記憶がある。祖父はルアーの名手だった。川岸の熊笹を掻き分けてその隙間から竿を振った。そして短時間のうちに何匹もイワナを釣り上げた。寺門は川辺の枯れ木や枯れ草を集めて来て火を起こした。火が風で消えないよう石で囲った。祖父が竹串に通して焼いてくれたイワナは本当にうまかった。

しかし、今はそんな思い出に耽ってはおれない。

魚影はあの頃と少しも変わらないように見えたが、魚の動きも水の流れも逆であった。魚は後ろに動いている。水は上に流れている。

寺門は左手のグランドセイコーを見た。秒針は左に、つまり逆に廻っている。

狂気の感覚に見舞われながらも彼は自転車に跨った。

橋を過ぎると道は舗装された立派なものに変わった。さらに3キロ走ると県道へ出た。車がちらほらと走っているが皆後ろ向きである。

寺門はすでに気がついていたことであるが、自分たちには実体がなかったのである。彼自身もピートも自転車もこの世界では幽霊なのだ。いや、幽霊でさえなかった。なぜなら、姿も声も匂いもなかったから、存在は無そのものだったである。故に車と衝突することはなかった。

 


QRSクリニックが目に入ってきた。自転車を駐輪場に止め、すやすや眠っているピートを起こさぬようそっとカゴから出して胸に抱える。

ピートは半ば目覚めているのだが、安心しきっていて寺門の腕の中でもう少し眠ることに決めたようであった。

クリニックに入って驚いたのは、すでに寺門自身とピートとが施術室にいたことである。そして先客の寺門が緑色の手術着姿の医師と会話をしている。ピートはすでに施術台の上で眠っている。寺門は医師と話をしている。

「最近臨床に使われるようになった腎臓の再生医療はすでに数万の猫の命を救っているという実績があります。それとこれから施術する若返りの再生治療はまだ人間には適用されていませんが、一週間も経てばピート君は見違えるように元気になっていると保証しますよ」

「先生、ありがとうございます」

寺門は、その声を自分の口が発し、自分の耳がそれを聞いたことに一瞬戸惑いを覚えた。腕に抱えていたはずのピートはいつのまにか施術台の上で眠っていた。

未来の自分とピートは、たった今現実の自分とピートとに一体化したのだ。

施術台には小さな点滴のパックが装着されており、数秒に一滴の間隔で透明な液体が落ちている。点滴が終わるまでに三十分を要した。

「無事終わりました」と医師が告げた。「ピート君の目が覚めるまでもう少し時間がかかりますが、連れて帰ってもらっていいですよ。食事、遊び、これまで通りで構いません。一週間で効果が出ます。食欲も旺盛になり、動きも活発になります」

医者の言葉通り、ピートは一週間で見違えるほどになった。とても十年生きた猫とは思えない。寺門の不安は解消した。

 

 

 

しかし、寺門には解決すべき謎がまだまだ幾つも残されていた。それが自分自身の唱えた数学理論に深く関係していることは直感的に分かっていたが、なぜ、あの箱が謂わばキーになっているのかが理解できなかった。

だから、彼が真っ先に確認しようと思ったのは箱の仕組みについてであった。といっても、箱そのものに何らかの機構があるとはまったく考えてはいなかった。彼は、なぜ自分は3年後に来てしまったのであろう、と不思議に思ったのである。

しかし、その謎は解こうと思って解けるものではなかった。

寺門の中では常識になっている「この世はデターミネーションされた、つまり最初から最後まで、開闢から終焉まで決定されてしまっている世界なのだ。

エッカーマンによると、ゲーテは「今目の前の蟻を踏み潰してしまうか、それとも踏み潰さないでおくか、によって世界は変わってしまうだろうか」と問うた。

ゲーテの問いの意図はともかく、寺門は、蟻を踏み潰してしまうか否かまですでに決定されてしまっており、世界に自由意思など存在しないと考えている。

例えば、πやネイピア数と呼ばれるeは規則性の不明な数字が無限に続くが、今スパコンが導き出した最新の数字の次の数字は誰にも分からない。πやeが固定した、言い換えるならデターミネーションされたものであるにも関わらずである。同様に自由意志なるものは存在しない。それは、今雄鶏が一羽庭先で土を蹴爪で掘っては虫を探して喰っている。さて今、その土の中からたまたま団子虫と毛虫が同時に出てきた。この雄鶏の小さな脳はどちらを先に選択するだろうか。一方、その雄鶏のはるか頭上では急に空が暗くなり雷が鳴りはじめた。さて、この雷は近くにあるゴルフ場でたった今ゴルファーが振り上げたアイアンに落ちるだろうか、それとも近くに植えられた赤松に落ちるだろうか。両者の選択にはなんら違いはない。鶏の脳が下す決断と雷の意思は本質的に同じものである。

 


寺門は、おそらくこの箱は象徴的なものであって、この世界と他の世界、マルチユニバースとの結界は無限にあり(何しろそれが彼が唱えている理論の根幹をなすものなのだから)、この世界と他を接続しているのは心にあると信じていた。心とは単に人間的な感情ではなく、例えば重力がそうである。重力は最も基本的な心の要素である、と彼は感じている。そして時間、これもそうである。次元。極めて単純であるが故に、理解が至難な要素。それがこの宇宙を構成している。

 


この箱の底に開いた穴。それは無限に重なった他の世界とつながっている。そこは、3年後の世界であったり、あるいは300年以上も前のこの箱が作られた時代の世界であったりするのだ。

πの中の数字の連続の中で、今スパコンが読み取った最新の数字、それが現時点であるとするなら、そこからはるか何十桁も前の数字の連続がこの箱が作られた時代を表す。彼はそう考えていた。

 


今彼は祖父の言葉を思い出している。パンドラの匣に最後まで残っていたのは希望ではなかった、というあの話である。

 


「あの匣の中には、まだ鼾をかいて寝ている奴がいるんじゃよ」

 


寺門は、箱の前にしゃがんで、そっと耳を付けた。箱の蓋は閉じられている。祖父は譬え話をしていたのではない。彼には確信があった。

そして確かに今、彼は鼾を聞いた。箱がエコーチャンバーとなって、それは拡大されて響いてくる。

彼は勇気を振り絞って蓋を開いた。何も入ってはいなかった。ただ、今は見慣れた丸い鏡のような膜が箱の向こうからの鼾に共鳴して震えている。

寺門は決心した。もはや迷いはなかった。彼は、箱に入って横になると中から蓋を閉めた。

暗闇の中、彼は仰向けのまま膝から下を穴の中に落とし込んだ。重量が無くなりぷらんとなるはずであるのに、脚を上に挙げたときのように逆に重くなった。さらに身体を捻らせながら腰、背中と向こうの世界に自分自身を送り込んでいく。ようやく両手を万歳する形で頭まで穴の中に入れ込んだ。そして、全身が箱の中で仰向けになっていることにハッと気がつく。と同時に大きな鼾をかいていたのが自分自身であったことに気がついた。

 


蓋を足でそっと押し上げて開ける。蓋は何らかの機構により、緩やかに向こうに倒れた。だがその重みによる僅かな軋みが寺門の身体にも伝わってきた。

眩い光に無意識に腕で目を塞ぐ。そして目が明るさに順応してくると、ゆっくりと上半身を起こした。

 


蔵の中は、すっかりと姿を変えていた。

いや、そこは蔵ではなかったのだ。

彼には見覚えがあった。懐かしささえ感じた。そして武蔵がいた。怪訝そうな顔で彼を見ていた。ここは間違いなくあの橋下老人の島にあったシェルターの中だった。

寺門は洗面に行き鏡を見た。これはまるで、オスカーワイルドのドリアングレイではないか。そこにはあのときの老人が、白髪が滝のようにこぼれ落ちる橋下武蔵と名乗った老人の顔が映し出されていた。

「これはいったい」と恐怖を感じる一方で理性はこれを当然のことと受け止めていた。

 


問題は、なぜ彼がこのような島を入手し、莫大な金をかけてシェルターを構築したかであった。橋下となった寺門は記憶を呼び起こした。それは、彼の頭にまざまざと浮かんできた。その記憶は確かなものであり、脳が勝手に作り上げた幻想などでは断じてなかった。彼は、つい今しがたまで、どういうわけか箱の中で鼾をかきながら居眠りをしていた。しかし決して夢を見ていたわけではないのだ。

 


彼は思い出していた。未来のことを。そして過去のことを。

 


彼は、自分が自分に会ったあの日のことを思い出した。今の自分が橋下武蔵として若き寺門昌士に会いアドバイスをしたときのことを。それは、とても不思議な感覚であった。若き日の自分は確かにリヤカーを引いて旅をし、その旅の終わりに奇妙な老人と出会い数学や物理や宇宙について話をした記憶がある。そして、今の自分自身にも彼、寺門昌士と会い話をした記憶がある。しかもそれはごく最近のことだ。

そしてまた、この島に彼を呼び寄せた記憶も鮮明であった。

自分が行った、経験した行為であるにも関わらず、彼にはそれが夢の中での出来事であったような気がしてならなかった。

だが、断じて夢などではない。今の自分は現実であり、その自分は現実を現実たらしめるために箱を使い、過去へ、そして未来へ転送したのだ。

πの数字の連続は変えることができない。それは固定したものだからである。しかし、過去に、そして未来へ行き来しすることが、その円周率の中に書き込まれていたとしたら? 現実が改変されたわけではない。現実を現実たらしめるためにフィードバック制御が働いただけなのだ。

 


ふと、ピートのことが頭に浮かんだ。彼は今、ひとりぼっちになって、元気になったは良いが三年後の世界に取り残されている。

しかし、と彼は安堵した。なぜなら、あのとき自分は、元気になって戻ってきたピートを見て喜んだではないか。そしてピートもまた、久々に自分と再会したかのように喜んだではないか。ピートはきっと、自ら箱に入って元の世界に戻ったのだ。

 


そう確信して、寺門は再び箱に入った。自分は、あのときの若き寺門昌士に会わねばならない。

そしてまた、椿陽子に裏切られ絶望の淵に立たされていた自分自身を救わねばならなかった。

 


夜。寺門家の蔵から出た橋下武蔵こと古老寺門昌士は、月明かりを頼りに街に向かった。

蔵の中に置かれた匣から出るのは簡単であった。なにしろ、例えるなら寺門は、ドアを開けっぱなしにして家を出て行ったのだから。

しかし、橋下は匣から出ると用意してきた電動工具で閂を切って取り外した。さらに蔵の外に出るとここの閂も取り外して自分の生体認証で開くオートロックに改造してしまった。橋下イコール寺門なのだから、法的にも倫理上も何の問題もない。しかも、これらに要した時間はわずか30分。すべてが計画通りであった。

橋下武蔵こと古老寺門昌士は、月明かりの下、計画を実行すべく街に出た。

 


公園で夜明けを待ち、駅に向かう。赤いキャップに黒いDパックを背負い、釣り用の迷彩パーカーを着ている。ズボンも迷彩である。傍目にはどう見てもホームレスである。身分証もない。ただ、Dパックの中とヒップバッグには十グラムの金のナゲットが十個入っている。つまり百グラムである。それとこの時代に通用するキャッシュが百万円ほどある。

 


駅に着いた。目的地は東京。例の橋の下であったが、その前にリヤカーを入手しなければならない。もちろん宛はあった。全てはプログラム、いやπの無限に続く数字の一部なのだ。

 


東京駅に着いた。九時だった。ホームレスのような姿もこの都会では咎める者はいない。

京浜線に乗り換え上野に行く。ここから常磐線であの橋の最寄り駅まで行くのだ。

 


計画通り、いやプログラム通り、橋の下にあの男がいた。もちろん、あの男にとって自分は見知らぬ他人である。

「よう」と、それにもかかわらず親しげに声をかける。リヤカーを引く準備をしていた小柄のホームレスははっと一瞬持ち手を下ろして目を細めた。

「金は出すから」と言って一万円札一枚と金のナゲット一枚を見せる。「大変、失礼なこととは思うが、あんたのリヤカーを今夜一晩だけ貸してはもらえないだろうか」

ホームレスは狼狽えている。自分と同じホームレスのような男が一万円の他に本物であればその何倍も価値のある金の薄板をくれると言っているのだ。しかも、リヤカーを一晩貸してやるだけで。このホームレスは、こうして落ちぶれる前は一流企業の職員だったから、もちろん、こんな話には何かよからぬ裏があるに違いないと考えた。

「悪いことに手を貸すつもりはありませんよ」

その手はすでに持ち手にかかっている。この男はこれから空き缶集めに精を出すつもりだったのだ。アルミ缶を集めてリサイクルに渡す。百個で二百円ほどになる。大した金額ではないが、その日を暮らしていくだけにはなる。

 


「あんたが疑うのも無理はない」橋下は笑いながら言う。「じゃがのぅ、リヤカーを一晩借りてどれほどの悪事が働けるとお前さんは考えるのかね。しかもお前さんはリヤカーを貸しただけで何の罪にも問われない」

「しかし」と男は食い下がる。「何でそんな大金を」

「こう見えてわしには資産がある。実は、今晩一人の若者がリヤカーを引いてここに現れる。わしの息子じゃ。その倅を驚かせてやろうと言うのがわしの企みじゃ。そして今夜は流星群の美しい夜なんじゃ。ここでふたり酒を酌み交わすつもりなんじゃよ」

「それはまた、作り話にしても悪くはない」と男はリヤカーをそこに置いてひとつ手を打った。

橋下老は金とナゲットを渡すと、「あんたの家財道具も一式借りるが良いかね」と聞く。

「ああ、かまいませんよ」男はナゲットを珍しそうに掌の上で表にしたり裏にしたりしている。

「身分証がなきゃ、正規のところでは換金してくれんだろうが、あんたなら宛てはあるだろう」

「ご明察。アルミ缶を買ってもらっている業者に頼んでみますよ」

「余計なお世話かも知れんが足元を見られんようにな。相場の七割はもらった方がいい。それ以下なら他を当たってみることだな」

「ありがとう。ガッテン承知之助よ」

そんなやり取りの後、ホームレスは嬉々とした足取りで駅の方に消えていった。

 


夕刻、星が一つ流れた。と思うと、二つ、三つと増えていく。光害もなく空は暗い。金星が輝いている。

やがて、リヤカーを引いて若い寺門昌士が現れた。

橋下ははっと驚いた。全ては計画通り、この宇宙系がプログラムした通りであったにもかかわらず、やはり若かりし頃の自分自身に会うというのは衝撃だったのだ。そして、若いときの自分は実にいい男だったのだなぁ、と変な感心をする。

若い寺門も驚いている。それは自分自身が経験したことであったから、橋下には彼の驚きがよくわかる。彼の驚きは至って単純であった。それは、自分が野宿をしようと立ち寄った場所に、自分と同じように、リヤカーに世帯道具一式を乗せたホームレスのような先客がいた、というだけの驚きである。

 


いずれにしろ、こうして二人は宇宙に仕組まれた邂逅をしたのであった。

 


しかし、橋下の計画は、実はこれだけに止まらなかった。

翌朝、というよりお昼近くになってリヤカーを借りたホームレスが帰ってきた。最初、彼を目にしたとき、分かってはいたことだったが別人かと思った。それほどこざっぱりしていたからである。髪を切り、髭を剃り、着ているものもサマーセーターにチノパンとカジュアルだが皆おニューである。

「ヤァ」と彼は一声発した。とても機嫌が良さそうである。

「あんたか。見間違えたよ」橋下は思った通りのことを言った。

「あんたのくれた金は七万円にもなった。それでこの通り、下着や服を買い、風呂に行き、散髪もして、そしてちょっといいところで酒も飲んだ、というわけさ」

男は親しげに近づいて来た。確かに悪臭は消えていた。

「それはよかった」と橋下。

「で、あんたの方は」

「わしの方も、お陰様で倅と最高の一晩を過ごせた。何より流星が素晴らしかった」

ホームレスは、リヤカーの無事を確認するように見ると、中から折り畳み椅子を一つ取り出し、それに座るよう橋下に促した。そして自分はコンテナを降ろしてクッションを敷き座った。昨夜、ふたりの寺門もこうして話をしたのだった。

「つまりウィンウィンだったと」とホームレス。

「その通り」と橋下。「しかし、あんたはこれからもその格好でリヤカーを引くつもりかね」

「馬子にも衣装と言いますが、こんなおしゃれな格好をしていてもホームレスはホームレスですからね」

「なるほど馬子にも衣装とは馬いことを言う」

「洒落ですね」ホームレスはすぐに気がついたようで、橋下はこの男は使えると確信を強めた。

このときの橋下こと寺門昌士には極めて重要で壮大な計画があったのである。

 


「あんたは最初私があんさんを悪事に巻き込もうとしていると思っていたようだが、わしは別に悪人ではない。しかも金は唸るようにあるから、そんなものを欲しいとは思わん」

「ははーん」と男は声を上げた。「これから私を本当の詐欺か何かの片棒を担がせようというわけですか」

「いや、そうではない」と寺門は男を見る。そこには怯えた犬のような目があった。

寺門は、この男の素性の一切合切を知っていた。この男の名前は江波戸稔治という。また、彼は先に一流企業の社員と述べたが、実は元日銀の上級職員であったのだ。それが、ある不祥事に巻き込まれ、上役の奸計により組織を庇うためのスケープゴートにされた。上役は事件が大きくなる前に彼をトラップに嵌め、弱みを握られた彼はこの男の言うがまま偽計横領罪で刑務所に三年入ることになったのである。

「江波戸さん」寺門は怯える彼の目を見据えたまま呼びかけた。江波戸は驚愕の表情を浮かべた。が、言葉が出てこないようだった。

「いや、驚かせて大変に申し訳ない。じゃが、わしは、あんたを悪に導く気は毛頭ない。これは信じてほしい。わしは実は、あんたのことをよく調べた。あんたが日銀にいたことも、なぜ刑務所に入ったかも承知している。あるいは、あんた以上にあの事件のことも知っているかも知れん」

「あ、あなたはいったい、何者なんですか」

「それを説明するのには少し時間がかかる。ただ、何度も言う通り、わしには莫大な資産がある。だから、金には一才興味がない。わしが今一番果たしたいのは復讐なんじゃよ。これは、あんたと共通する関心事ではないかな」

江波戸は、狼狽から立ち直れずにいた。

「私の復讐をあなたがやってくれるという意味ですか」

「あんたの復讐とわし自身の復讐を同時にじゃ」

「まったく、どういうことか、さっぱり分かりません」

「あんたを嵌めた上司は菊地と言ったな」

「そんなことまで」

「そして、わしが復讐を果たすべき仇は椿陽子という女狐じゃ」

「はあ」と江波戸は狐につままれたような顔である。

「この二人は、直接的には何の関係もない」

「はあ」

「しかし、菊地は椿の奸計に嵌まった総裁の救済のために、あんたを利用したのだ。あんたはスケープゴートにされたんじゃ」

そう言って、寺門は持っていた黒い手帳を見せた。「あんたは絶対に信じんじゃろうが、ここには今後四十年に渡るあんたの行動の主要なポイントが記されている」寺門はその手帳を江波戸に渡した。

江波戸は狐につままれた顔で受け取ったその手帳を見ている。手帳は革表紙の立派なものである。厚さは一センチと厚くはない。

江波戸は顔を上げて寺門を見た。

「これから私は馬券を買うんですか」

「今日は日曜日、そしてわしはギャンブルをやらんが、競馬のG1というのが開催される。あんたは競馬好きに付け込まれて菊地の罠に嵌ったのではなかったかな」

「しかし、今から馬券を買うには少し時間が」

「馬券はすでに買っておる。たった一枚だけな。それをこれからあんたに渡す。それであんたは120万円を我がものにする」

「いったい、どういうカラクリなんですか。それとも俺は夢でも見ているんですか」

「あんたはいつもラジオで競馬情報を聞いているんじゃろ。アルミ缶を売って稼いだなけなしの金を注ぎ込んで、たまには大当たりもあるが大抵は外れて素寒貧に戻る。今日、珍しく馬券を買わなかったのは、まさに天の配剤というやつじゃ。代わりにわしが買っておいた。万馬券というやつじゃが、あんたを儲けさせるためではない。むしろ、これを機にあんたは一才賭け事から足を洗うことになる」

「早速、ラジオをつけてみます」江波戸はリヤカーに積んだ衣装ケースの蓋を開けて小さなラジオを取り出した。普段はイヤホンで聞いているのだが、今回はスピーカーにしたようだ。

スイッチを入れると、早速実況中継が始まった。

「慌てなさんな。馬券の馬の出走まではまだ時間がある」

「はい。でも気が気でなくて」

「無理もないがのぅ。手帳のこれからのことも読んで見たか」

「いえ、これからです。しかし、なんでこんなことが」

「それを言ったところであんたはすぐには信じんじゃろう。しかし、今後あんたの人生は好転する。それを自分自身で確認することじゃ」

 

 

 

第四部

 


江波戸稔治は、競馬で120万円をせしめた。久々の快挙であった。さらに、黒皮の手帳の指示によりアパートを借りた。半年分の家賃を前払いで払わされたが、銀行時代の友人が家主と交渉してくれたおかげで快適な住まいを確保できた。そこは、理学研究所にほど近く、これから彼は手帳の指示に従い、この研究所の電気や空調設備のメンテナンスを行なっている会社の社員として勤めることになるのだ。

ここでも友人の助力が必要だったが、社長は彼の経歴を一切問わず受け入れてくれた。そして、なんと、このことさえ手帳には記載されていたのだ。

恰幅の良い河野というこの社長の眼光は鋭かったが、ふっくらした顔貌には慈愛も宿っているようであった。

「江波戸さん、過去は一切忘れて励みなさいよ」採用を決めた後、この社長は別れ際に彼の肩を軽く叩いて笑った。

「ありがとうございます」江波戸は深々と腰を折って応えた。こうして彼の二度目の会社勤めは始まった。

 


この頃のR理学研究所にはまだ椿の姿はない。彼女はこれから十年も後にここに入ってくるのである。江波戸は、今では橋下老のことも手帳の内容も完全に信じていて、手帳には黒表紙の上に特注のカバーまで着けて大切にしていた。さらに紛失も考えて、拾得した者には大金を与える旨の文言さえ記していた。もっとも、手帳自体には紛失のふの字さえ書かれてはいなかったのだが。

いずれにせよ、新しい生活について江波戸に不満はなかった。仕事は、良い同僚、上司にも恵まれて順調であった。別れた妻子とも連絡が取れた。もっとも妻は再婚して子供を一人儲けていたが、とやかく言える立場ではなかった。

しかし、彼の本来の仕事は別にあった。そして彼は、いつも本物のスパイになったような高揚した気持ちだったのである。

彼は、来るべき目的に備えて職場内ならず、研究所の職員たちとも良好な関係を築くことに尽力した。

その手始めが宮前亨だった。この頃の宮前はまだ一介の研究員に過ぎなかったが、出世街道をまっしぐらという勢いで椿が入ってくる一年前に室長に昇格するはずだった。それが手帳にはちゃんと記載されているのだ。

最初の彼との接触は、入社してひと月が過ぎたある酷暑日の夜九時過ぎのことだった。たまたま、というより手帳によると、予定通り、江波戸は職場に残って宮前とは別の部所からの「空調が効いていなくて汗だくだ」とのクレームを受け、これの対処中だった。これ自体は、すぐに室外機と室内機の通信不良が原因であることが分かって、ものの十分で無事に解決したのだが、その後、宮前から室内が停電したとの連絡が入った。

原因は漏電によるブレーカーのトリップという単純なものであったが、漏電している機器を特定するのに少し時間がかかった。

 


理研究室に入ったとき、これまでに見たこともない巨大な分厚いアクリルでできた水槽が設置されていた。そしてそこには、金色をした小さな鯉がじっと佇んでいた。

「この大きな水槽は何のためのものですか」江波戸は好奇心も露わに、いつもにこやかに笑っているかのような風貌の宮前に尋ねた。

「ああ、これね」と宮前は気さくに応える。「数理研究室になぜこんなものがあるのか、不思議に思ったんでしょう」

「ええ、私も技術者の端くれですからね」

「ああ、そうなんですね」と、宮前も江波戸に若干の興味を覚えたらしい。

「これは、あの円盤から」と、長細い水槽の端に設置された円い金属板を指で示す。「振動を発信させて、対象の形や距離を映像化させる、いわばエコーのようなものです。ソナーと言っても良いでしょう。我々は、その解析の数理モデルを構築しているところなんです」そう言って、宮前はPCの画面を開いて江波戸に来るように手招きした。見ると、ディスプレイには水槽内の鯉が写っている。画像は白黒ではあったが鰭の動きまで正確で立体的に見える。

「なるほど」とは言ったものの、江波戸にはそれのどこがキモなのかがよく分からない。ソナーや医療用のエコーならすでに実用になっているではないか。だが、そんな疑問は決して口にはしない。「その水槽の装置が原因である可能性が高いと思われますので、ちょっと調べさせてください」そう言って、宮前が頷くのを見るとメガテスターで絶縁を計る。電源プラグを抜いてスイッチを入れ測定すると、針はゼロを指した。

「思った通り、この装置が原因です」そう言いつつ発信板に繋がっているケーブルをよく観察してみると、水面ギリギリのところに傷を見つけた。

「この傷がおそらく原因でしょう。傷口に接着剤を塗って補修をして、水面を少し低くしてやればしばらくは実験が可能と思います」

宮前は喜んだ。

「ありがとうございます。

 

 

 

潜水艦 FRB

 

 

 

椿陽子は、院生になるとすぐに寺門昌士に接近し、関係をもった。彼はすでに数学会の寵児であったから、彼女のような狩人的性質の者にとっては、いわゆるトロフィーハンティングの獲物として申し分なかったのである。彼を仕留めてマスコットか高級ブランド品のように扱うことは彼女の虚栄心を満たすのに十分過ぎた。しかし、そのある意味「計算ずく」の恋愛の一方で、これまでの男には感じなかった畏敬のような、ある種の魅力を寺門に感じていたことも事実である。

 


椿は白金台の自宅マンションで学部生時代から酒宴を繰り広げていた。

さまざまな機会にパーティーと銘打って教授や財界、政界の名士と会い、自ら彼らを毒牙にかけることもあれば、悪友を使って、言わゆるハニートラップにかけることもあった。

その悪友の一人が多田和江である。

多田は、椿がタイに留学していた時に知り合った。多田は椿と同様に資産家の娘で、親がその素行の悪さを見かねて留学させたのだが、この点でも二人には共通項があり親和性が強かった。

タイの一流と言われる大学には親のコネとカネで入った。学業の方は、地頭がよい割にはまるっきしダメだった。そもそも勉強など端からやる気がなかったのである。

 


二人は二年時に示し合わせて帰国すると、寺門と同じ国立大に編入した。ここでも親の威光が光を放ったのは言うまでもない。

帰国すると、とにかく二人は遊びまくった。これはタイ時代と何ら変わらない。とは言ってもホスト遊びなど馬鹿なことには関心がなかった。もっぱら、大物を籠絡することのみに専念したのである。

多田は、ターゲットを日銀に据えていた。とは言ってもこの頃の目的は、ただ大物を釣り上げること、それだけではあったのだが、これが将来の展望に必ずつながるという確信があった。その深慮遠謀は超一流の起業家、あるいは政治家を想起させる大したものだった。

 


「ねぇ、陽子。うちの知り合いに銀行の頭取がいるんやけど、今度会ってみん?」それは、パーティーが終わって、和江と二人きりになった陽子のマンションでの会話である。その夜、二人はパーティーを開いた。というより、いつものどんちゃん騒ぎである。名士と言われるような、上級国民たちのときとは違って知り合いの学生たちを呼んで一晩遊びまくるのである。パーティーは、呼ばれた方の学生たちにとっては竜宮城での一晩であったかも知れないが、二人はいい加減辟易していた。要するに同年代の学生たちは青臭くて詰まらなくなっていたのである。

「いいよ」陽子は少し眠そうな眼を輝かせた。パーティーが引けたのは朝方三時である。十人ほど集まった学生のうち八人が男で二人の女学生は参加した男二人とのカップルであったが、二人はこの女学生の彼氏を奪ってやろうという魂胆だった。が、流石にこれはうまくいかなかった。カップルは、その企みに気づいていたようなのである。この二組の男女は電車がなくなるとの理由をつけて日にちが変わる前にそそくさと帰ってしまったのだ。

多田と椿の熱が冷めてしまったのは言うまでもない。他の男子学生たちも敏感にそれを感じとって早目に帰っていった。

 


有名なカップ麺に赤い狐と緑の狸というのがある。彼女たちをよく思わぬ学生たちの間では、これに因んで陽子は緑、和江は赤と符牒で呼ばれていた。つまりは陽子が狸で和江が狐である。ときには、これが形を変えて陽子をマミ、和江をコンと呼ぶ者も現れた。マミは狸穴のマミである。が、このような二人に対する悪評は学内だけに止まっていた。なぜなら、二人もこのような悪口には気がついていて、そのこと自体には、児戯のようなものと腹を立てることもなかったのだが、これが世間に、とりわけ自分たちが籠絡しようとしている所謂上級国民たちに知られることは、どうしても阻止しなければならなかった。この二人は、こんな呼び方をしたり、陰口を叩いている者の情報を得ると、それが男であろうと女であろうと徹底的に制裁を加えることにしたのである。しかもそれは極めて陰湿なやり方で、すでに弱みを握っている者たちを使って集団でイジメるのである。このために退学を余儀なくされた学生は何人もいた。

 


ところで、多田和江が大手地銀の磯山頭取と懇ろというのは本当のことである。実は、和江の父親はこの地銀をメインバンクにしている大企業の社長であり、磯山とも親しかった。その関係で、和江は磯山に近づくことができた。

多田勇一郎は、これまで娘の悪行を数知れず見てきて、その後始末に非常な金と労力を使ってきたのだが、流石に娘がT銀行の頭取とそのような関係になっているとは思いもしなかった。しかし、和江はこの男を足がかりにさらに大物を釣り上げようと虎視眈々としているところだったのである。

「そりゃぁ、面白そうな話だけど、勝算はあるわけ?」ツインのベッドに裸でうつ伏せになったまま陽子は尋ねた。手にはゲームのプラットフォームを持っている。

「多田はシャワーを浴びて戻ってきたばかりでバスローブを巻いている。

「なるほど」と陽子は、多田のグラマラスなボディーを尻目に思う。「こりゃぁ、男が放っておかないわけだ」

「イソちゃんはどうなの。もう飽きちゃった?」

「飽きるも何も、うちは最初からあんなハゲに興味なんてないし」

「そりゃぁ、分かってるけど、あっちの方はどうなのよ。あのおっさん、精力抜群の感じじゃん」

「ああ、そっちの方は確かにそうやね。ものすごーにしつこうて、うち一晩に5回もやられたこともあるんよ。しかも、変態なんよ。ハイヒールで踏みつけてやったり、濡れたタオルで思いっきりぶってやると悲鳴を上げて喜ぶんよ。ビデオに撮ってあるから、いつか見せてあげるよ」多田は、バスローブを脱ぎ捨てると素っ裸で陽子の隣に飛び込んだ。

そして二人は舌を絡めた濃厚なキスをはじめる。

この狐と狸にとって男などたわいのないくだらない生き物でしかない。しかし、この二人は根っからのレズビアンではない。二人とも男と交わることも大好きなのだ。ただ、こうして二人愛し合うことは絆を深め強くするという潜在意識下の目的もあった。

「ねぇ、タダァー」ひとしきり愛し合った後、陽子は気だるそうな声で言う。「今の日銀総裁ってどんな奴だっけ」

「なかなかいい男だったと思うよ。赤松とか言ったかなぁ。あんたの好みに合ってる。きっとあんた気にいるよ」

 


陽子は「ただっち」の秘密を知っていた。それは多田が自ら陽子に話してくれたことであった。

「うち、17のとき父親にやられたんよ。あいつ、本当はうちの本当の親やあらへん。うちが三歳の時、ほんとの父親から母を奪ったんよ。それでほんとの父親はそれがもとで死んだんや。多分自殺やったと思う」

ただっちは、間違いなく多田勇一郎を憎んでいる。彼女の行動の動機の全てはこれがベースになっているのだ。ただっち自身もちろんこれに気がついている。ただ、愛憎とはよく言ったもので、それは同じカードの表と裏の顔なのだ。

「おそらく」と奸計に長けた陽子は思う。「勇一郎にしてもそれは同じであろう。遺伝的に繋がりがないとはいえ、この男がやったことはインセストに他ならない。しかし、そこには必ず愛という、陽子からすれば決して美しくもない生物的生存欲求に根差した感情がある。

このことは、いずれ自分にとっての良い札になるであろう」

陽子は今、多田のプランに乗ってみようと決意した。きっと面白いことになるだろう、と。

 


将を討つにはまずその馬を射よ。これが多田の賢いところだった。いきなり赤松に近づいても警戒されるだけで躓きの元になってしまう。

幸い手段はいくらでもある。全ての道はローマに通じているというわけだ。

そういう意味で日銀もT銀行も同じ銀行である。しかもT銀は地方銀行とはいえ五指に入るほど規模が大きい。

多田は磯山のコネを使って赤松に若い娘がいることを探り当てた。彼女は何と赤松が四十五のときの子であった。ただ、赤松姓は名乗っていないようで、それはおそらくセキュリティ上の配慮によるものであった。鮫島という母方の姓を名乗っていた。鮫島淑子がその名前である。

 


鮫島淑子は、根っからのお嬢様であった。幼稚園から大学まで一貫した学校で学び、美貌の上、成績も極めて優秀。そして、今は同じ大学に通う好青年とお付き合いしていた。この青年もまた日銀職員の息子で黒崎國士といった。大学を出て、既定路線となっている日銀への就職が決まると、彼は淑子と結婚する約束をしていた。そのために塾のバイトで貯めた金でエンゲージリングを買い彼女の左手薬指に自ら嵌めた。そのときの彼女の純真な笑顔を黒崎は終生忘れないであろう。しかし、このリングを淑子は普段は外していた。二人だけの約束は双方の親には内緒だったのである。

 


淑子は大学入学の年に母を難病で亡くしていた。

その悲嘆に暮れているときに白馬の騎士のごとく現れたのが黒崎だったのである。黒崎は子供の頃から空手をやっていて、体格も百八十五センチ九十キロという巨漢であった。その上、性格も真面目で誰に対しても丁寧で優しかったから、この二人は他人も羨むような理想的なカップルとなるはずであった。

 


淑子には、これは彼女も黒崎も知らなかったのだが、赤松が総裁になったときからずっとボディーガードが付いていた。彼女は、大学に入るとすぐに独身の叔母、鮫島敦子の家に住まわせてもらっていたのだが、そのときあたりから、隣の敷地に建つマンションの3階に夫婦が引っ越してきて住みはじめた。それが実は赤松が雇った護衛だったのである。このための費用は全て赤松の私費であったが、彼の収入の大部分がこれに消えていった。それほどにこの父親は娘を大切に思っていたのである。

ガードマン二人は、鮫島家を見張ることのできる北側の一室をわざわざ選び、夫婦で常に彼女の行動を観察していた。

しかし、その目的は彼女の身の安全の確保のためであり、絶対に彼女に怪しまれないこととその私 生活に一才干渉しないことが至上命題とされている。これは赤松からの強い要請だった。

したがって、この夫妻は淑子が黒崎と交際していることも承知していたが、それを敢えて赤松に報告はしなかった。ただ、会社の情報分析室に報告するだけである。

 


椿と多田が目をつけたのは黒崎であった。黒崎を落とし、彼を操り日銀の奥深くまで入り込む。ただ、今はその先に確とした目的があるわけではない。このときはまだ、手段そのものが目的だったのである。

SNSもない時代であったから、彼女たちが鮫島淑子と黒崎國士のことを知ったのは、今風に言うならヒューミントによるものだった。彼女ら二人は、この頃すでに膨大な情報網を築き上げていたのである。それはパーティーなどの折に集めた情報の詳細な記録をとり、これをもとに二人で分析するというプロのような手の込んだものだった。

 


鮫島淑子と黒崎國士は、言ってみれば女郎蜘蛛の巣に絡め取られてしまった蝶のようなものである。

多田の狙いは黒崎であった。彼が自分好みのいい男だったからであり、同時に鮫島淑子の幸福が憎かったからである。愛と憎しみという、多田の心の奥底に根付いてしまったアンビバレンツな感情が彼女を突き動かす原動力であり、計画を完遂するにこれほど強力な武器はなかった。

鮫島と黒崎は常に二人で行動していたから、まずはこれを何らかの方法で切り離さなければならない。

多田の計画はこうだった。鮫島淑子と黒崎國士を切り離すために、まずは淑子を椿のパーティーに参加させる。パーティーとはいってもいつもの男女入り交えての乱痴気騒ぎではない。女子だけのパーティー、つまりは女子会を開くのだ。アルコールは一切出さない。簡単な食事を楽しみ、お茶を飲みながら、色々とお話しをするわけである。

しかし問題は、鮫島は椿を知らなかったし、大学も違ったから知人の伝手を使うしかない。しかしここで、蓄積したデータの中から、ある発見をした。淑子の叔母である鮫島篤子が親しくしている女友達の娘が椿と同じ大学の同級生だったのである。

この娘は山口温子といって、椿もよく知っていた。部活でテニスをやっており、全国大会レベルの実力者だった。インカレのシングルスで準優勝したこともある。

椿も実は小学生からテニス、乗馬をやってきていて、その腕前はプロ並みであったが、彼女の中では、それは趣味の一つに過ぎず、自慢にも値しないと考えていた。しかし、世間は狭いものである。これで、山口に近づく糸口が見つかった。

椿は、学内でテニスをやらなかったが、上流社会との接点を維持していくために、テニスクラブに所属して月に一度か二度汗を流していた。そんなとき、彼女と初めて対戦した相手はその上手さ、強さに大抵驚愕するのであった。

 


椿は、学食で山口が女友達と二人で食事をし始めたのを見届けると、偶然を装って彼女に声をかけた。

「すみません」と彼女一流の屈託のない笑顔を向ける。カレーライスを乗せたトレイを持ったままである。「山口さんですよね。インカレでのご活躍見ていました」と、これは嘘である。

「はい。ありがとうございます」と温子も笑顔を向ける。友人の方もなんだか含み笑い気味に笑っている。

「今、ちょうどその話をしていたところなんです」と温子。

友人も頷く。

「あら、なんか話の流れに添えそうな気がしてきたわ」と、椿陽子はトレイを開いてる席に置こうかどうか迷っている素振りを見せながら言った。

「あの」と温子が遠慮がちに言う。「よろしければ、一緒に食事をしませんか」

「待ってました」と陽子が冗談ぽく笑いながら応える。「いえ、本当に冗談ではなくお話をしたかったんです」

 


このような経緯、と言うよりも陽子の仕組んだ計画により、温子はいとも簡単に彼女の駒にされてしまった。陽子は、ぜひ今度部活にオブザーバーとして参加させて欲しいと頼んだのである。

あわよくば、温子と軽く練習試合をして、温子を驚かせたいと考えていた。

 


そして当日、陽子は愛用のラケット三本をラケバに入れ意気揚々とテニスコートに現れた。

オブザーバーとは言ったものの、温子が陽子の言葉の端々から自分と対戦したがっていることを感じ取って、ぜひ一度対戦してみたいと、自ら提案してくれたのである。

陽子は十分にストレッチとランニングをしてウォームアップを済ませると、温子が待ちかねていたように基礎打ちの相手をしてくれた。

もちろん、その前にメンバーの前で陽子の紹介をしてくれた。陽子はあまり日焼けをしていない。クリームを塗ったり、ときには日傘を差して陽に焼けることを避けている。だから、サンタンでいい焼き加減のトースト色に染まった部員たちからは、最初は「なにあのひと」という目で見られていた。とても経験の長い選手には見えなかったのだ。

温子にしても、最初は軽くテニスの奥深さを味あわせてやる、くらいの気持ちで彼女を迎え入れたのである。

ところが、基礎打ちの段階で彼女は自分の判断ミスに気がついた。陽子のストロークの一つ一つが彼女の技量がプロ並みであることを示唆していた。

温子は狼狽していた。このまま練習とはいえ、ゲームをやればこっ酷く叩きのめされるであろうと感じとっていたのである。

逃げるわけにもいかず、温子と陽子の練習試合は始まった。1セットオンリーの短いものである。

陽子のサーブで開始された。ゲームはセミアドで、デュースの場合、一度だけアドバンテージがコールされる。

第一ゲーム。陽子の第一サーブは遠慮のない強烈なものであった。男子並みのスピードでセンターラインギリギリに入った。温子は一歩も動けなかった。

サイドが変わって左から右への陽子のファーストサーブ。今度はあまり勢いがなく、しかも大きくラインを割った。温子は陽子がわざと手を抜いたと感じとった。部員たちの中でも一部の一流のプレイヤーは同じことを思った。故意ではないか、と。もしもそれが本当のことであったなら、温子はとんでもない女を相手にしているのではないか。

セカンドサーブは無難、というよりも力を抜いて温子が打ちやすいセンターに放った。

温子はそれを陽子のフォアの奥にストレートで返す。陽子のフットワークはそれを見越した素晴らしく俊敏なものであった。彼女はそれを反対のサイド、つまり温子のフォアにクロスで返したのである。温子はこれを見送らざるを得なかった。凡庸な部員たちにもようやく陽子の非凡さが分かった瞬間であった。

しかし、試合自体は、意外にも温子が勝利した。もちろん、温子は本気では喜べなかった。明らかに陽子は手を抜いてイージーミスを何度も繰り返した。おそらくそれは、温子への配慮であったのだろうが、まるで自分が子供扱いされているような気持ちであった。

「びっくりしました」握手の時、温子は自分から手を差し伸べながら笑顔を作った。「まるでプロですね」

「いえ、プロのコーチには子供の頃から中学生のときまで指導を受けていましたが、今は健康管理のために時々やっているだけなんです。でも、今日はおかげさまで久々にいい汗が流せました。見事に負けてしまいましたが、いつかまた雪辱戦をお願いできればと思います。

 


このようなわけで、陽子と温子の間には信頼が、いや温子の一方的な陽子に対する尊敬が築かれた。

次のステップは、テニスをやらない鮫島淑子と如何にして知り合いになるかであった。しかし、これについても陽子の中ではすでに計画は進行していた。鮫島淑子は乗馬をやる。しかもかなりの腕前である。乗馬競技では常連の顔であった。また、陽子も乗馬についても一流だった。幼い頃から、父に連れられて馬場巡りをした。だから、馬の扱いについてはペットの犬猫くらいに熟知している。

ただ、目的を間違えてはいけない。乗馬も陽子の楽しみの一つではあったが、淑子との交流の中で趣味に没頭してしまわないよう自分自身に言い聞かせていた。

淑子と知り合うにはまず山口温子の仲介を得なければならない。温子と淑子の母親同士がイギリス文学の同好会を通じて親しい仲であることは知っていた。しかし、本人同士がどうかというと、それはまだ把握できていなかった。

 


そこで、また学食である。あの試合の後、温子の目が明らかに尊敬を帯びたものに変わっている。陽子はたびたびそういう経験をしてきていたので、自分の美貌を鼻にかけないのと同じように、ほとんど気にすることがなくなっていた。

「この間はどうもありがとうございました」トレイを持ったまま、そう話しかける。温子はこの前と同じ女友達と刺し迎えになって食事をしている。二人とも皿にはとんかつが乗っている。陽子はカレーライスに半熟卵を落としたもので、今回はグレープフルーツジュース付きである。

「陽子さん、一週間ぶりですかね。この間は本当にびっくりさせられました」温子は

そう言いながら、自分の向かいの席に掌を伸べて座るよう促す。

こうしてひとしきりテニス談義に花を咲かせた後、陽子は乗馬に話題を変えた。

「私のテニスもまだまだ未熟なのですが、私は乗馬もやっておりまして、最近は、こちらの方に少し本腰を入れてみようかなと考えているんですよ」

陽子は、温子の反応を観察した。

「あら、椿さんはなんでもこなされるんですね」温子の言葉にはなんの皮肉も険もない。純粋に感心し褒めているのだ。

「温子さんのお知り合いに乗馬をやる方っていらっしゃらないかしら」

「それなら、一人、心当たりの方がいます。私の母のお友達の姪御さんなのですが、あるお嬢様大学の乗馬クラブでご活躍されていると聞いています」

「よろしければ、ご紹介していただけないでしょうか」

「ええ、その方のお名前は鮫島淑子さんといいます。私は何度か会って話をしただけなんですが、今夜にでも母に頼んでみようと思います。陽子さんの電話番号を教えていただいてよろしいですか」

 


このようなことがあって、その日の八時頃陽子のマンションの電話が鳴った。鮫島篤子からであった。一度、お話を聞いてみたい。自宅にお越し願えないだろうか、という主旨のものであった。

 


翌土曜日。午後四時五分前、陽子はタクシーを鮫島家から少し離れた小さな商店の前で止めた。

今日の陽子は淑やかであった。清楚とさえ言えた。薄青のワンピースに同色の帽子。サンダルもこれに似た色のものにした。セカンドバッグは白。

すでに手土産は用意してあった。日本橋の一流店で買った洋菓子のセットである。ここで運転手に一万円を渡し一時間後にここに来てくれるよう頼んだ。お釣りは心付けだと言って受け取らなかった。

運転手は礼を述べ、一時間後に必ずここで待っている、と言って車を出した。

陽子は周りをよく観察した。鮫島家の南には道路を挟んで8階建ての大きなビルが建っている。この季節、陽が高くて日陰にはなっていないようだが、冬場はきっと昼でも薄暗くなってしまうことであろう。鮫島家にとっては決してありがたくない話であったはずだ。

それにしても鮫島家の敷地は広大だった。ざっと見る限り一千平米はある。歩道との境界は石を低く積み上げた上にクレオソートで防虫処理した板の塀で囲い、その内側を生垣にしている。門は棟門で、歴史を感じさせる趣がある。右の門柱にインターホンが付いていた。

陽子がボタンを押して来訪を告げると、使用人らしき女性が出た。「椿様、お待ちしておりました。これから、お迎えに参りますので少々お待ちください」という丁寧なものであった。

ものの一分と待たず、ごく普通の身なりの中年女性が駆けつけてきた。門扉を開けて、弾む息を殺すようにして丁寧に腰を折ると、「どうぞ中へ」と玄関へと歩き始めた。息も弾むはずである。そこまで石畳の道が十メートルほど続いていた。

 


「お待ちしておりました」とにこやかに陽子を迎えたのは篤子と淑子ふたり並んでのことであった。二人は普段着であったが、そこはかとなく上品さを感じさせる着こなしである。

「突然のわがままなお願いを受け入れていただきまして、大変感謝しております。ありがとうございます」

「いえいえ、山口さんのお母様から電話をいただきまして、淑子に話しましたところ、このように大変喜んでおります」

「温子さんから聞いております。陽子さんは大変なルネッサンスウーマンなんですってね」

「まぁ、そんなことを。でも、大変ありがたいことです」

このタイミングで、陽子は篤子に菓子折りを差し出した。「ほんの心ばかりのものですが、どうぞお納めください」

「あら、まぁ」と篤子が声を上げる。「あなたはまだ学生の身なのに、お気を使わせて申し訳ないわ」そう言いながら両手で丁寧に受け取ると、お手伝いさんにそっと手渡す。

「これから、アフタヌーンティーを頂こうかと用意をしていたところなのよ」と、淑子を見る。

「はい、陽子さんからいろいろとお話をお聞きしたいわ」

「ありがとうございます」と陽子は頭を下げる。

「いただいたお菓子を早速いただいてよろしいでしょうか」と、篤子は手土産の中身をすでに見抜いているようであった。

日本橋三越さんの包み紙を見て、すぐに分かりましたわ。きっとお馬さんに関係のあるお菓子じゃないかと」

図星であった。鞍掛饅頭を選んだのは、話の種になるとの閃きからだったのである。

「見抜かれていましたか」陽子は篤子の勘の良さに心底感心した。下手をするとこの女に自分の魂胆を見抜かれてしまうのではないかという思いが頭をよぎった。

お茶会は鮫島家の立派な食堂で始まった。食卓として使っているのであろうテーブルには白いクロスが敷かれ、慎ましやかに夏の花が何本か飾られている。鬼灯、オレンジ色のマリーゴールド、白丁花と、みな庭の植栽に使われているものであろう。

三人は篤子から見て右に陽子、左に淑子という配置である。

陽子は篤子が彼女の挙措のひとつひとつを見るともなく良く観察していることを知っていた。しかし、陽子の身についているそれは誰が見ても完璧で、非の打ち所がないないものであった。

そのせいで、話も弾んだ。篤子も陽子を淑子の友人にするに相応しいと判断したようであった。

 


結局、陽子は淑子との合宿に参加する約束を取り付けた。それは、淑子主催のプライベートなもので、長野の志賀高原で夏休みを利用して二泊三日の予定で乗馬を楽しむというものだった。宿泊は、淑子の父、赤松日銀総裁の別荘である。女性ばかり五人が参加した。

このため、この三日間は、黒崎國士は淑子と離れ離れにならざるを得なかった。

 


ところで、隣のマンションの三階では、SP夫婦はきっちりと自分たちの職務を果たしていた。

「15:55  訪問者あり 若い女性一人 17:00  同女性退居」これに写真が数十枚添えられて、バイクでやって来た別の社員に本部まで届けられた。

彼らは望遠レンズを使って陽子の写真を撮っていた。窓を少し開け、観葉植物を盾にカメラはカモフラージュして外から気が付かれないよう細心の注意を払っていた。

さすがに陽子もこれには気が付かなかった。

 


しかし、これで計画通り多田和江の出番となった。多田は、これまで黒崎ほどのいい男に出会ったことはなかった。どうしてもモノにしてやろうと考えていた。そのために計画は慎重を極めた。なんと言っても、黒崎には相思相愛の婚約者がいる。この壁は高くて分厚い。だが、黒崎も所詮は男である。多田は、男がどういうものかをよく知っていた。

据え膳食わぬは男の恥、とはよく言ったもので、本当にいい男というのは本質的に色好みなのだ。そこには、なるべく多く自分の遺伝子を残したいという根源的な欲求がある。そして男なら、何十人と子供を作ることができる。例えば、カステロは、何人子供がいますか、と聞かれた時、

とトライブと答えたという。しかし女はそうはいかない。自ずと肉体的限界がある。

だから、と多田は考えるのだ。黒崎は必ず落とせる。いや、落としてみせる、と。

 


面識のない黒崎をパーティーに呼ぶために、多田は磯山を利用した。T銀行の職員に黒崎の先輩がいたのだ。二人は年齢が離れており面識もなかったが、この男は人事部長ということで、実際に良い人材を求めていたので、まさに適材適所の人物だったのである。

 


こういうわけで、ある日、黒崎の自宅に電話がかかってきた。これを黒崎本人が直接受けた。

「T銀行人事部のもので一色と申します。突然の電話で大変恐縮しております。実は当銀行では来年の新規採用に向けまして、優秀な方に入行していただきたく、いろいろと伝手を頼りに、このように電話をさせていただいております」

と、このような挨拶から始まって、結局自分から東京に出向くからぜひ会って話だけでも聞いてくれ、という内容のものであった。聞くと、一色は黒崎と同じ大学の先輩である。無碍に断ることもできず、話だけは聞くという約束をした。その場所というのは、T銀行東京支店の食堂である。

約束の日。その日は金曜日で淑子と陽子は長野へ合宿に行っている。

黒崎は教えてもらった通りの住所に向かった。そこはこじんまりした5階建てのビルだった。T銀行の赤いロゴの入った袖看板が見える。

5階の食堂にはすでに一色らしきスーツ姿の男と職員らしき背の高い女性が待っていた。二人は黒崎の姿を見ると椅子から立ち上がって、軽く会釈した。

時刻は十五時。食堂は閑散としていて、静かである。

「人事部長の一色です。お越し頂きありがとうございます」そう言って頭を下げる。

「私は、一色のアシスタントを務めております多田と申します」と、女性職員も軽く腰を折った。大柄な上に美人である。身長は170センチほどあって、一色とあまり変わらない。一色は年齢50というところで、日焼けしており髪も黒くて太い。それをきちんと七三に分けている。

「どうぞ、お座りください」と一色が手を差し伸べる。テーブルの上には何もない。

「お茶かコーヒーをお持ちしますが、どちらがよろしいでしょうか」

「それではお茶をいただけますか」黒崎は軽く頭を下げて言う。

「多田さん。私もお茶をお願いできますか」一色も軽く頭を下げた。黒崎は、ここで少し違和感を覚えた。このひとは使い慣れた部下にもこうして頭を都度下げるのか、と。

だが、話の方は多田の気の利いた喋りのおかげでよく弾み、しかもスムースに流れて、黒崎にもこの銀行で将来頭取になるのも悪くはないと感じさせた。が、その効果の何割かは多田の魅力によるものであったことに黒崎の意識は及ばなかった。

多田は、計画通り銀座の一流ホステスのように機能したというわけである。

 


この面接とも言えぬ面接で、黒崎は、採用は自身の意思一つという内定を得た。これまで日銀しか頭になかった黒崎に一つ選択肢が増えたわけである。悪くはない、と黒崎は自身に言い聞かせた。

悪くはない。しかし、と引っかかるものも感じていた。

それは、帰りがけに多田からこんな誘いを受けたことによって強い疑心暗鬼に変わった。

「黒崎さんは大変将棋がお強いそうですね。実は私も将棋は小さい頃からやっておりまして、こう見えて有段者なんですよ」

「ああ、そうなんですか」

「はい。それで、実は私、将棋の同好会を主催しておりまして、明日の夜、私の女友達の家で将棋をしながらのパーティーをやりますので、黒崎さんにもぜひご参加いただければ大変嬉しいのですが」

黒崎は、即座にOKした。少し違和感を覚えながらも、多田の魅惑的な雰囲気にのまれてしまって、断る理由がないと自身に言い聞かせたのである。淑子の寂しそうな顔が頭を掠めたのも事実であったが、自分は将棋をしに行くんだ、と淑子の幻影と自身に告げた。

 


迎えた翌日午後五時。場所は白金台の豪勢な陽子のマンション。集まったのは二人を含めて男女9名。女は多田の他に二人で、両人とも男の学生の彼女で、将棋はルールも知らない。彼女たちは、ただ供される食べ物と酒、そして東京タワーの見えるステンドグラスのような夜景が目当てなのだ。

その通り、まだ陽は高かったが、薄曇りの空の下、東京の夜の帷が降りつつあった。

「すごい」女性の一人が感激の声を上げた。「私、東京タワーをこんな高いところで見るのは初めてだわ。ほんとにすごい眺め」

東京タワーのインターナショナルオレンジと白のツートンは、確かに見応えのあるものであった。

二つのテーブルにはすでにサンドイッチやソーセージ、チーズ、サラダなどがビュッフェ形式で盛り付けされていた。もう一つのテーブルにはアイスバケットの中にワインのボトルやビールなどが用意されている。

「まず、軽く乾杯しましょうか」多田がにこやかに言う。「あっ、その前に本日は賓客に無理を言ってお越しいただいています。みなさんご存知の学生王座で活躍されました黒崎さんです。黒崎さん、一言お願いできますか?」

黒崎は、予期していたことであったので、思っていたことを正直に話した。

「みなさん、黒崎です。一言だけお願いされましたので、ほんとに一言だけ。将棋のプロとアマ、全く違います。まったく歯が立ちませんでした」

そう言って、軽く頭を下げた。

大抵の者が、なるほどという顔をして、拍手をした。

「黒崎さん、ありがとうございます」と多田は言ってビールの入ったグラスを掲げた。「いつか、プロと対戦する日を目指して乾杯しましょう。かーんぱい」飲めない女性はウーロン茶を飲み干した。

皆が拍手をする。

「さぁ、こんばんは大いに楽しみましょう。でも、その前に一つ、私はホスト役の役得で特別に黒崎さんと一局、対戦させていただきたく思いますが」と言って黒崎の目を見つめる。黒崎は一瞬どきっとした。その目があまりに妖艶に思えたからだ。

「光栄です」と言った自分の声が震えていることにさらに狼狽えた。

「もちろん、私と黒崎さんでは対等な対局になりませんから、飛車角落ちのハンデ戦でお願いします。それと、負けた方がワインを一杯飲むという趣向でどうかしら」

「いいですよ」と黒崎は余裕を見せる。「むしろ、僕は負けて美味しいワインをいただけるなら、その方を選びたいくらいですね」

多田は、腹の中でほくそ笑んでいた。黒崎があまりアルコールに強くないことは承知の上なのだ。

「では、ぜひみなさんもサンドイッチ片手にお酒を飲みながら、私の負けっぷりをご覧くださいな」

しかし、ここのメンバーの皆が彼女の本当の実力をよく知っていたから、飛車角落ちなら、彼女が勝つのではないかとさえ思っていた。

そして、対局が始まった。黒崎は飛車と角を箱に納める。そして定跡通り、玉を銀で囲う。多田も定跡通り、角道を開けた。序盤は定跡通りのあまり面白くもない展開が続く。

しかし、中盤に入ると、多田は奇策を仕掛けてきた。定跡にはない手である。一見すると悪手とも思える手であったが、これが終盤に効いてきた。

黒崎に焦りが見え始めた。長考はできない。一分というルールが課せられている。黒崎は焦りから手を間違えてしまった。このままでは飛車成り歩打ちで詰まされてしまう。しかし、相手も打ち歩で詰ますことはできない。ところが多田はそこを飛車成らずとした。つまり、歩を打っても詰まないようにしたのである。

いずれにしても、これで第一局は多田が圧勝した。黒崎は面目丸潰れである。しかし、負けても美味しいワインをいただけるなら、と言ってしまった手前、如何にも美味そうにワインを飲まなければならない。彼にとっては文字通りの痛飲というやつである。

多田に対しては、周りは「お見事」と大賛辞である。

もちろん、多田の真の目的は将棋ではない。彼女と陽子の深慮遠謀は驚くほど先を見据えたものであった。彼女らは、黒崎を将来の日銀を背負う人物に仕立て上げ、その成果を自分たちのものにするつもりであった。

いま、その第一ステップが成功しようとしているのである。

「嬉しい」と、多田は言いながら、ワイングラスに並々と高級ワインを注いで、グラスのボール部分を持つと、そっと黒崎の右手に渡す。黒崎はステムを持つと、一気に喉に流し込んだ。

「お見事」と、今度は多田が黒崎に賛辞を送る。「私はまだ、本当にあなたに勝てたという気にはなれないわ」

「いえ、あなたは本当にお強い」黒崎は正直に感想を述べた。「軽く見ていたというわけではありませんが、プロと対局した時のことを思い出しましたよ」

「まぁ、お上手ね」と、黒崎の前では普段は使わない東京弁が出てしまう。「でも、今度は角落ちでもう一局お願いしたいわ。どうかしら」

「わかりました。雪辱戦といきましょう」

多田の計画通り、二局目が始まった。二人の周りを七人の観戦者が各々、グラスとクラッカーやサンドイッチを片手に取り囲んだ。将棋を指さない女性二人も男たちの熱気に煽られて興奮している。何せ、どのような世界でも女が男をコテンパンにやっつけるなどというシーンは滅多にお目にかかれない。

そして、彼女たちのヒロイン多田和江は、二局目も勝利を掴んだ。

彼女たちは喜びを露わにした。

「すごいすごいすごい」一人の女の子はお酒が入っているのか、手を打ちながら舞い始めた。そのリズムに合わせて他の学生たちも手を打ち始めた。

「すごいすごいすごい」コールである。

「さて」と多田が頭の上で手を打った。「黒崎さんには約束通り、二杯目の」と、ここで一度言葉を切る。「二杯目の杯は敗北の敗ではありません」

黒崎の顔が赤いのはアルコールのせいばかりではなかった。黒崎は屈辱と怒りで赤くなっていたのだ。まさか、この女は俺を辱めるためにここに俺を呼んだのか。そもそも、この女は本当にT銀の職員なのか? 怒りと屈辱感の中でも黒崎は冷静に頭を回していた。何か、この女は企んでいる。それは、T銀行が企てているものなのか、それともこの女個人のものなのであろうか? だが、その冷静な分析もアルコールのせいで鈍くなりつつあった。そして普通であれば、手強い相手とはいえ、自分よりは棋力の劣る彼女に負けるはずのない第三局の平手戦でも敗北を喫してしまった。完璧に彼女の仕掛けた罠に嵌ってしまったのである。二杯のワインは、彼女の言葉を借りれば惨敗につながってしまったのである。

 


しかし、多田の計画はもちろん、これに留まらない。屈辱とアルコールで酩酊してしまった黒崎をソファに寝かせると、靴を脱がせ、酔い醒ましに白湯を口に含ませた。しばらくすると、黒崎はすっかりソファで寝入ってしまった。

 


十時を過ぎると、学生たちは徐に礼を言いながら帰っていった。残ったのは、黒崎と多田だけである。もちろん、これこそが多田の狙いであった。白湯には軽い睡眠導入剤を入れていたのだ。午前0時、黒崎は目を覚ました。ソファの上で丸裸になっていることに気がつく。そして、多田は、と見ると、彼女も一糸纏わぬ姿で椅子に掛け、ワイングラスを片手に黒崎に笑みを送っているではないか。黒崎は、夢を見ているのではないか、と思った。こんなことが現実であるはずがない。

しかし、黒崎は男であった。下半身は正直だったのである。多田は、それを見て笑った。

「あら、お二人ともお目覚めのようやわ」

お二人とは、もちろん黒崎の屹立している部分を指してのことである。

黒崎は立ち上がった。将棋での屈辱が彼の征服欲を増強したのだ。この女を組み敷いてヒィーヒィー言わせてやる。そう考えると、屹立していたものはさらに巨大になった。

多田は、少し驚いた。驚き、そして声を上げて笑った。「光栄やわぁ。黒崎さんのお眼鏡に適って」

黒崎は何も言わず多田を抱き上げる。

「あら、ちょっと待ってって。ワインが溢れちゃうやん」そう言いながら、手を伸ばしてグラスをテーブルにそっと置く。

 


黒崎は強かった。夜が明けるまで二人は睦みあい、黒崎も多田もお互いすっかり惚れあう仲になってしまったのである。

しかし、多田は決して目的を忘れてはいなかった。なんとしてもこの男を金融界の、あるいは政界の大物に仕立て上げてみせる。

「ところで、黒さん。あらごめん、つい気安く呼んでしもうたけど、構へん?」

「いや、構わないけど、なんでしょうか」

「あんたほどいい男やったら、きっとええ彼女がいてはるんやろうね。でも、うちはそれでもちっとも構へんよ」

もちろん多田は、鮫島淑子のことを知っていたから、知りたかったのは、果たして黒崎がどのように応えるかであった。

「いますよ」ぶっきらぼうともとれる口調で黒崎は答えた。「でも」と言って裸のままの多田に手を伸ばす。「こんないい女を知ってしまったからには、もう彼女とはうまくいかないかも知れないな」

これは黒崎の内心の吐露に違いなかった。

多田は嬉しく思う一方で、計画が頓挫しかねないと危惧した。

「ほんとにうちは構へんのやから。あんたを好きになったのはほんまのことやけど、あんたの彼女を不幸にしとうはないもの。そやさかい、当分はこのままでええやん。ここはうちの友だちのマンションで今は彼女を紹介でけへんけど、そのうちきっと会わせたげるわ」

 


多田は実際、逢引きのための巣を郊外に用意していた。自宅マンションとは別である。自宅には磯山が来ることがあったから、偶然の鉢合わせを避けたのである。もちろん、磯山はこのことを全く知らない。自分が都合よく使われていることにさえまったく気がついていない、多田に言わせれば抜作なのである。

「そいでうちは、ちょくちょくあんたに会いたいし、千葉の田舎に家を一軒借りたんよ。あら、気を回さんといて。これでもうち、資産家の娘でお金に不自由したことないの。たぶんあんたもお金持ちのお坊ちゃんだとは思うけど、あんたの家に私が押しかけるわけにはいかへんやん」

 


黒崎の中では煩悶が広がっていた。自分は欲望にいとも容易く飲み込まれてしまった。いったい、淑子にどんな顔をして会えるというのだ。いっそ、正直に今回のことを告白してしまおうかとも思ったが、淑子と和江の二者択一を迫られたとき、淑子を選ぶという自信がなかった。

 


黒崎は、鮫島淑子と和江の二股膏薬にならざるを得なくなったのだ。

ただ、罪悪感から淑子に会って愛し合う回数は減った。必然的に淑子はそれを感じ取って彼を詰るようになってきた。多田和江には淑子のことは婚約していることも含めて話している。喜ぶべきか憂うべきか、多田は本当にこのことを気にもかけていないようであった。

「うちはね、もともと愛人タイプやと思てる。そやから、あんたが淑子さんを奥さんに迎えても、うちはずっとあんたとの関係を続けていけるなら、それでええんよ」と多田は、何かの折に言ったことがある。黒崎は、このとき大きな罪悪感を覚えた。そして、この気持ちうちこれからもずっと生涯消えることなく引きずっていくであろうと思うと、自分の背負ってしまったものの重さに愕然としてしまうのだった。

 


一方、陽子の方も淑子とすっかり仲が良くなって、今後、多田、黒崎、鮫島、そして自分の関係が明らかになったときのことを考えると、黒崎と同じような罪悪感を覚えてしまうのだった。

 


案の定、淑子は黒崎との接触を絶った。そればかりか音信不通となって、彼女が失踪したとの噂が出回るようになった。

黒崎は強い罪悪感に苛まれる日々を過ごしたが、和江の、

「女は、あんたが思うほど弱くはないんよ。きっとあのひとはどっかでええひと見つけて幸せになっとるのに違いあらへん。それが証拠に赤松総裁は元気そうやん。ついこの間、ニュースで会見しとるん見たわ。にこにこして元気そうやったわ」

黒崎は、和江のこの言葉に救われた。

 


いずれにせよ、このようなひとりひとりの個人的センチメントとは別に、椿と多田の計画は思った以上に順調に進んでいった。多田の思い通り、これでおそらく将来の日銀とのつながりは確保できた。黒崎は、将来の日本を背負って立つに違いないほどの男である。そのときには、自分はこの男を陰で牛耳ってやるのだ。

 


話は変わるが、この頃の江波戸稔治は日銀の職員で、まだ不祥事にも巻き込まれてもおらず、橋下武蔵を名乗る奇妙な老人とも会ってはいなかった。

しかし、彼が事件のスケープゴートにされるのは、まったくの偶然ではあったのだが、黒崎が多田と椿の罠に嵌められた頃と時期を同じくしていた。

ただ、その不祥事というのは、世間に流布されているものとはその規模も巧妙さも異なっている。

世間はただ、テレビ、新聞の伝えることを疑いもせず、へーぇと受け入れている。それはSNSの現代でもなんら変わらない。大衆とは、いつの時代であれそういうものだからだ。

新聞などが報じた事件のあらましというのは、ギャンブルにどっぷりとハマった日銀職員の立場を利用しての巧妙な横領というものであった。

実はあの日、日銀本店は突然の停電に見舞われた。停電は構内のなんらかの電気的トラブルとされているが、詳らかにはなっておらず、また非常用の発電機も回らなかった。さらには非常照明も点灯しなかった。真っ暗闇となった中、さらに運の悪いことには、いや、これも計画の内だったと思われるのだが、大金庫室の金庫扉が開いていた。よって、この事件は一大サボタージュと呼んでもよいほど非常に大掛かり、かつ緻密に計画されたもので、銀行内部、外部の者が多数関与していたものと考えられていた。

 


日銀内では当然、内部の者の犯行を疑い極秘の調査が行われたが、計画は周到に準備されており、犯人を特定でき得る痕跡は何も発見できなかった。

しかし、行内の誰かをスケープゴートにする必要が生じた。こうして巨額窃盗事件は横領事件に姿形を変えてしまったのである。

江波戸は、この事件のとき、管財課の電気係の責任者であったから、このような計画的犯行をやってのけるのに最も近い立場にあった。さらに、彼はギャンブルのぬかるみに全身はまりこんで、質の悪い巨額の借金を抱えており、まさに全身泥まみれ状態であったから、日銀にとって渡りに船の格好のターゲットだったのである。

結局彼は、上層部から強要されて、やりもしない横領を働いたことにさせられてしまったのである。もっとも、一方的な話ではなかった。罪を被ることと引き換えに、彼が抱えていた莫大な借金は、出所不明の金が動いてチャラになった。また、事件について一切公言しないことを条件に、彼の出所後にも多額の金が支払われた。

彼は出所するとすぐに、その金の大部分を元の家族に与えたが、残余が消えてなくなったのはあっという間のことであった。世の常識として、ギャンブル、酒、女と三拍子揃えば、たちまち金には羽が生え、舞い上がって飛んでいってしまう。彼はこれを実践で示したのだ。

そうして、江波戸稔治は出所して一年も経たないうちにホームレスとなってしまったのである

 


彼は、自分をこんな目に合わせた上役をずっと恨んでいた。しかし、さすがに鈍感な彼もこの事件にはもっともっと大きな裏があると考えるようになった。これにはきっと日銀上層部からの、いやもっと上からの大きな力が働いており、自分には最初から白羽の矢が立てられていたのだ、と確信するようになった。だが、もうこの運命は、絶対に変えることはできない。彼は金融犯罪史上稀に見る巨額の横領犯として世間の目を避けて生きて行かねばならなくなったのだ。

 


しかし、やがてすぐに人生の一大転機が訪れる。江波戸からすれば途方もない、「自分は、本当は神に選ばれたのではないか」と思うような幸運が降って湧いてきたのである。

それが橋下武蔵老人との邂逅であり、そのときに受け取った黒皮の手帳だったのである。

 


さて、話を十年後に進めよう。

 


江波戸の人生は、劇的に変わった。彼は、ホームレスからごく普通のサラリーマンになり、生活態度も健全なものに変わった。ギャンブルを一切やらなくなり、酒も飲まず女も買わないという健全だが、面白くもない生活をずっと続けたのである。だが、面白くもない、というのは彼の生活ぶりを客観視しただけのもので、江波戸自身の中では、人生は非常に豊かで充実したものになっていた。それは偏に黒い手帳のお陰であった。なぜなら、そこに具に書かれているのは、これからの彼の人生がいかにドラマチックで素晴らしいものになるかであったからである。

 


その彼は今、数理研究室長の宮前と親しくなり、仕事でもプライベートでも共に行動することが多くなった。宮前からしてみれば、江波戸は仕事上色々と役に立ってくれるありがたい存在であったし、またケミカルが合うというのか、相性の良さを感じていた。これは、江波戸にしてみれば、ある意味当然のことで、手帳の通りに行動していればこのような関係に自然となっていっただけ、というのに過ぎなかった。

、こうして準備万端、アンブッシュさながらに彼は、寺門昌士と椿陽子が入所するのを待ち構えていたのである。

 


そうして待つこと10年、手帳に記された通りに寺門と椿が入ってきた。宮前は、傍目にも少し浮き足立っているように見えた。なにしろ、寺門というのは途方もない天才で、高校生のときに独自の数論を確立しており、その正しさは数学会ではすでに証明されていた。しかし、問題はこれが物理学上どういう意味を持つのか、物理学者の誰もが理解しえなかったことである。

数学というものは、単に学問というにとどまらない。それは必ず現実に、物理学上の事象に繋がっているからである。例えば幾何学で4πr^2は球の表面積を表す。そして、物理における重力の強さは、m/4πr^2に比例する。質量mに比例し、距離rの二乗に反比例するのである。つまり、数理は物理、物理は数理なのだ。

 


江波戸は宮前に劣らず、自身が興奮していることを感じていた。寺門がどういう男なのか、ミーハーな気持ちで心待ちにしていたのである。

だが、彼らが揃って入所してきて、宮前がわざわざ江波戸を二人に紹介してくれたとき、宮前に対する感謝の念とともに覚えたのは椿の美貌に対する驚きであった。背が高く色も白く、そして引き締まったアスリートの身体をしていた。そして豊かな黒髪を後ろで三つ編みにしてこじんまりと丸めて纏めている。

ほう、と江波戸は嘆息した。これがこれからカメリアと呼ばれるようになる当研究所きっての才媛にして毒婦なのだ。

これから彼女は、同期の寺門を裏切り、宮前とわずかな間だけ結婚し、やがて世界を相手にビジネスとポリテックスを支配していくのだ。そう手帳には手短かに記されている。

しかし、手帳の記述はそこまでで、30年後以降のこととなると江波戸にも全く分からなかった。椿が莫大な資産を築き上げること、世界の政治まで操るようになること。そこまでは手帳に記されている。だが、その後については全く記されておらず、それが非常に意味深かつ不気味に思えてならなかった。

また、もう一つ江波戸にとって不思議に思えたのは、寺門についてもほとんど記述がないことであった。

挨拶の時、寺門は江波戸に深々と頭を下げた。それが寺門に対する彼の印象をとても良いものにした。そして、その後、江波戸が彼のことを注意深く観察するきっかけとなったのである。

江波戸の鋭い観察眼は、ただ手帳に記された予知によるものだけではなかった。彼は、陽子と寺門の関係に気がついていたばかりではなく、入所してしばらくすると、陽子が宮前に急接近していく様子も具に見ていた。しかし、あれほど天才と持て囃されている寺門本人はこれに全く気がついていないようで、江波戸にはその辺の齟齬がどうしても理解できず、寺門に好印象を持っているだけに焦ったい気持ちになってしまうのだった。

 


やがて、寺門の唱えた数学上の大発見が学会を喧々諤々の大論争に巻き込んだ末に、数学会は、長い査読の末にこれの正しさを認めた。

しかし、意外にも彼をコペンハーゲンでの講演に招待したのは欧州物理学会であった。

江波戸はこのことに関して、独自の見解をもっていた。それは、初心な寺門は気付いていないようであったが、椿の企みによるものではなかったかというものであった。江波戸の中では、これは確信になっていたが、もちろん彼はこれを寺門に話すことはなかった。寺門を一層傷つけるだけだったからである。

 


その後の寺門の経過は先に述べたとおりで、手帳にも記されたとおりである。

江波戸は、その後も研究所に残り、宮前研究室に足繁く通って、二人を具に観察し続けた。

それは手帳にも記された通りであったが、このことが、あのときに一見ホームレスのように見える資産家の老人が言った復讐、特に自分自身の復讐となぜ、どのように結びつくのかがまったく分からなかった。そもそも、あの事件は、とうの昔、椿がまだ学生だったときのことである。椿陽子と結びつきようがなく思えたのである。

しかし、そのうちにある手がかりが見えてきた。それが寺門家に古くから伝わる匣の話であった。寺門は江波戸にそのような話をしたことがなかった。江波戸がこれを知ったのは、あの老人からの電話によるものであった。

「やぁ。元気かね」管理事務所に突然かかってきたそれは、やけに親しくぶっきらぼうなもので、

江波戸は最初間違いか、いたずら電話に違いないと思った。しかし、途中でハッと気がついた。この声、このような話し方は、あの老人以外にはなかった。

「あのときの」と言って、次の言葉を探したが見つからない。

「匣の話をしておきたい」江波戸の次の言葉を遮るように橋下が言う。

「ハコですか」

「その通り。パンドラの匣の話じゃ」

「ああ、その話ならあたしもよく知ってますよ。なにしろあたしの専攻はギリシャ哲学でしたから」

「おまえさんは経済学ではなかったかな」

「はい、嘘でした。しかしよくご存知で」と江波戸は感心してみせる。「しかし、そのパンドラの匣の話というのなら、このあたしでも少しは知っていますがねぇ」

「その匣が実在すると言ったら、お前さんは信じるかね」

「いえ、俄には」と少し声を落とす。

「それが、お前さんのすぐ近くに、というよりも親しかった人物の家の蔵の中に存在する」

「誰ですかねそれは」

「寺門昌士」

「えっ」

「驚くことはない。そこを辞めて出ていった寺門の家の古い蔵の中にその匣はあるのじゃ」

「ええ。今じゃあたしは、確かにあんたのおっしゃることに嘘はない、インチキでも詐欺でもないと信じるようになりましたが、また今回は驚きを通りこして煙に巻かれたような話でございますね」

「それで、お前さんはその匣を寺門から少しばかり拝借して、宮前の研究室に持ち込むことになる」

「それは手帳にも書いちゃありませんが、決まっちゃってることなんですね」

「その通り。そして、お前さんと宮前は、この匣を通してわしと強い絆を築くことになる。これも決まっていたことじゃ」

「絆」と江波戸は驚いたような声を出す。「絆といえば、あたしはあなたとあれ以来お会いすることもありませんでしたが、いただいた手帳を通じてそのようなものは強く感じておりました。絆と言いますか、なんか縁のようなものですかね」

「おまえさんは勘の鋭い男じゃからのぅ」橋下は感じていたとおりのことを口にした。「それで匣の件じゃが、わしがすべてを整えておく。お前さんはただ、寺門を訪ねてお茶でも馳走になっておればよい。ただし、大きな匣じゃから、お前さんは研究所のバンに乗ってくる必要がある。寺門家は大きな屋敷で蔵は奥まったところにある。じゃが、蔵の前まで車を乗り入れても怪しまれることはあるまい。わし、いや寺門は、そういうことにはまったく無頓着な男だ。それはお前さんもよく知っておろう」

「はい、たしかにそれは感じておりましたよ。

天才と言われるわりには、かなりこの男は抜けてるんじゃなかろうかと」

「・・・」橋下は珍しく言葉に詰まったようであった。

「で、あたしは、その後どうすればよろしいんで?」

「何もせずともよい。ただし、わしが匣を載せる都合上、バンのハッチは施錠しないこと。それと、匣はかなりの重量があるから、摩擦の少ない滑り板も必要じゃ」

「わかりました。すべて用意しておきます。それで、決行日は?」

「明後日の日曜、15時10分前にバンを蔵の扉前に、横づけにではなくバックでつけること。寺門は車を持たぬが、蔵の前はちょうどよい駐車スペースになっておって、タクシーなどもよくここに駐車するから怪しまれることはない」

「なるほど。わかりました。あたしは、早速この後、彼に近況伺いの電話をしてみます。実際のところ、彼にはあたしも心惹かれるところがありまして、もう一度会って話をしてみたいと思っていたところだったんです。ひょっとして、それもお見通しだったでしょうか?」

「いや。じゃが、寺門が聞けばきっと喜んだであろうよ」

「はい。それなら大変ありがたいことです」

「それでは日曜に会うとしよう」

 


こういうやりとりがあって、寺門は江波戸の訪問を喜んで受け入れた。

そして当日、天気は穏やかに晴れて気持ちのよい初秋の風の吹く日曜の午後、一台の紺色のバンが山道を走ることになった。バンはやがて小さなコンクリート製の橋を渡り舗装路から草の生える土の道に入った。林を抜け、ようやく寺門家の広大な敷地が見えてきた。広大な、植林に囲まれた要塞のような造りである。平屋の和風家屋の他に洋館も建っていて、こちらは3階建である。

門扉の横は鉄製のスライド式のゲートで、遠隔で開閉ができた。

そのゲート前に車を停めると、バンのスピーカーから「江波戸さん。お待ちしていました。どうぞお入りください」と寺門の声がして、ゲートが開いた。

 


江波戸は、橋下老の指示通り蔵の前でバンをバックにして停めると、中からハッチのロックを解除した。

後のことは、すべて橋下老がやってくれるはずである。

江波戸は、半ば緊張し半ばウキウキした気分で母屋の入り口に立った。古風なすべり戸が開いて、寺門が顔を出した。少しやつれた面持ちは否めない。しかし、「やぁ」というその声は元気で嬉しそうであった。「本当にこんな山の中にまでよく来てくれました」

「いやぁ、あまりに立派なお屋敷なので驚きましたよ。あたしは寺門さんからは、1Kの貧乏暮らしの話しか聞かなかったから、こんな広々した、滝や池まである邸宅にお住まいだったとは想像もしませんでした」

「いえ、まぁ、どうぞ」と寺門は江波戸を座敷に上がらせ、広いが少し古臭くもある板敷の居間に案内した。

そこにはすでに茶道具が一式揃っており、イギリス式の紅茶が供されるようになっていた。しかし、と江波戸は少し首を傾げざるを得なかった。このような広い屋敷に本当に一人暮らしとは、この人は真にハーミット、厭世家なのかも知れない。

だが、それにしては、あのような仕打ちを受けた後にも関わらず、彼は終始にこやかで、話は各分野に渡って弾んだ。江波戸は時間が経つのが非常に惜しく思われた。ああ、この人となら、一日中でもこうして話しておれる。そう思わせたのである。

しかし、時は、特に楽しい時というのは経つのが早いものである。一時間はあっという間に過ぎ、江波戸は暇乞いをしなければならなかった。何より、本来の目的である箱の、橋下老の言葉によれば一時的拝借を、江波戸の言葉ではそれに「無断」がついた借用をしなければならない。

橋下老は痺れを切らして待っているはずである。

江波戸は名残惜しい別れを告げ、バンに向かった。寺門が見送ってくれようとしたが、それを「名残惜しくなるばかりですから」と言って押し留めた。

「それでは」江波戸が敬意を込めた敬礼を送る。寺門が上官のように答礼する。

このときの二人は、これが本当に今生の別れだと思っていたかも知れない。

 


江波戸はバンの運転席に乗り込んだ。チラッと後ろを見ると、確かに大きな濃い紺色をした長い箱が載せられていた。しかし、橋下老の姿はない。まさか、箱の中? と考えたがその蓋を開けてみる気にはなれなかった。蔵の扉は閂が閉まって黒くて大きな南京錠が掛かっており、いったいどうやってあれを開け閉めしたのかも謎であった。

 


いずれにせよ、江波戸が都内の研究所にバンを乗り入れたときには、とっぷり日は暮れていた。

彼は、匣を研究室に持ち込まねばならなかった。それが橋下老の指示だったからである。彼は、日曜の当直の技術員二人を呼んで匣を台車に立てて乗せ、エレベータで研究室のある5階まで上げた。

研究室は無人であったが、予め宮前にはこのことを伝えて、扉を開けることができるカードを借りる書類を書いてもらっていた。そのカードで扉を開け、匣をまた三人がかりで静かに横にして中に入れた。そして室長室の広々とした床の上に置くと、技術員二人にありがとうと言って、カンコーヒーを一つづつ渡して返した。

跳び上がるほど驚いたのは、宮前の立派な椅子に座ってコーヒーのプルトップを開けたときのことである。なんと、そのプチっという小さな音と同期するように匣の蓋が静かに開き始めたのである。蓋を押し上げているのは、スニーカーを履いた足であった。それが音もたてずに120度くらいの角度で開き終えると、匣の中から「さぁてと」という橋下老の声がした。と同時に、彼の上半身が現れた。「どうやら、うまくいったようじゃ」

江波戸は恐怖のあまりコーヒーをカンごと落としそうになったが、辛うじて手に留めた。しかし、ベージュ色のズボンに茶色い染みを残してしまった。

「いったい、どうやって」

「それが、これをここまで持ってきた理由なんじゃよ」

「どういうことですか。ここまで運んだとき、あなたが入っているような重量ではなかった」

「もちろんじゃ。こんな息苦しいところには1分たりとも入っていとうはないわ」

「それでは、どんな手品を使って・・・」

橋下は匣から出ると、江波戸を睨みつけるようにして、対面の椅子に腰を降ろした。

「わしは手品などに興味はない」

「はぁ。でも、どうやって」

「それを、これから実演して見せようというわけじゃ。これからお前さんをわしの住処に招待する。そこで飯を食いながら歓談するのじゃ。文句はあるまいな」

「そりゃあ、もちろんありません」

「そして、明日からはあの雌狸は欧州の研究所巡りをする予定だったな」

「はい。その通りです」

「宮前は、結婚して間がないというのに、またしばらくは一人暮らしというわけだな」

「はい。ちょうど一月の間、そういうことになりますが、先生はむしろ嬉しそうでしたよ」

「そうだろうとも」と言って頷くと、橋下は椅子をころがし蓋が開いたままの匣を覗き込むような仕草をした。そして、「ここへ来てみたまえ」と江波戸を見る。

「はい。ぜひ手品のカラクリを」そう半分おちゃらけたものの、江波戸の内心は好奇心と恐怖が入り混じった感情で一杯で理性が働く余裕もなかった。

匣のそばに寄って中を覗いて見ると、匣の真ん中辺りに大きな円い穴が開いていて、そこには銀色をした薄膜があってプルプルと漣がたったように震えている。

「これからわしとお前さんはその穴を通ってわしの住処に移動する。なにも心配することはない」

橋下老のそういう言葉をどこか遠くで聞きながら、江波戸はこの匣にいったいどんな秘密があるのだろうと考えていた。

「お前さんは、量子もつれという言葉を聞いたことがあるかな」橋下は、江波戸の動揺を鎮めるかのように落ち着いたゆっくりした調子で尋ねる。

「はい。聞いたことはありますが、正直なにがなにやらさっぱり理解ができませんでした」

「この匣は、いわば表の量子Aじゃ。そしてこの匣の裏に全く同じ匣がある。それが量子Bじゃな。それがわしの住処に、これと同じように置いてある。この穴を通じて、謂わば箱抜けをするというわけじゃ。さて、野暮な説明は後にして、これからわしが実演をして見せよう」

橋下は、そう言い終わらぬうちに匣の中に片足を入れた。そして、穴の縁に腰を降ろすと、両足を穴の中に入れた。それから、穴の中で脚をまっすぐ伸ばしているらしく、両腕を使って少しづつ下半身から上半身と身体を押し込んでゆく。そして、とうとう頭と両腕を残して老人の身体は消えてしまった。

「どうじゃ、だいたい理屈は分かったであろう。わしの肉体の大部分は今、わしの住処にある」仰向けになったまま、そう言い残すと、遂に橋下老の肉体のすべては消えてしまった。

後に残された江波戸は、強烈な寂しさを感じた。世界にただ自分だけが生き残ったかのような、頭がおかしくなりそうな寂寥感である。

この寂しさが恐怖に打ち勝った。彼も老人に倣って匣に入った。

そして穴の縁に腰を降ろし、両足を穴の中に入れる。彼もまた、はっとした。足の重さがなくなったのである。しかし、それも気にせずどんどんと身体を押し込んでいく。向こうで橋下老が両足首を持って引き入れてくれた。

そして無事向こうで、橋下老の住処でまたあいまみえることになった。

 


橋下は、寺門をここに招待したときのように江波戸をもてなした。

「長い運転で疲れたであろう。心ばかりのわしの手料理じゃ。遠慮せずに食ってくれ」そう言って、赤ワインのコルクを抜き、江波戸のワイングラスに並々と注いでやる。そして、自分のグラスにも注ぐと、

「我らの復讐のために」と、グラスを上げた。

「復讐のために」

江波戸もグラスを目の高さまで上げる。が彼にはまだ、その復讐の対象さえ分かってはいなかった。

それは置くとしても、老人の手料理は、非常に手が込んでいて、とても美味かった。

スープに始まり、サラダ、ヒラメのムニエル、刺身に炒飯と和洋中入り混じっていたが、どれも絶品で文句のつけようもない。

江波戸はすべて堪能し満腹した。

両手を合わせて「ご馳走様でした。ありがとうございました」と礼を言う。

「なに、たいしたことはしとらん。それより、明日はおまえさんと宮前にぜひ見せたいものがある。世界広しと言えど、ここでしか、また明日にしか見ることができん。それを目にしたらおまえさんたちの世界観が変わること間違いなしじゃ」

「それはこの」と言って、肌身離さず持っている黒皮の手帳を左後ろのポケットから取り出す。

「それはもう、この時点で不要になった。捨ててしまえばよい」

「はい。ところで、宮前先生はどのようにお呼びすればよろしいんでしょうか?」

「それは、明日のことじゃ。今晩はここでゆっくり休むがよい。明日の朝、宮前は9時に出勤してくる。その5分前に向こうに行けばよい」

「分かりました。そして、あなたがやってみせてくれたことをそのまま宮前先生に実演してみせる、と」

「そう。そのとおり」

 


江波戸は、その夜は与えられた寝室でぐっすりと寝た。しかし、明け方に奇妙な夢をみた。それは空にいくつもの月が現れるというものであった。彼は、それが巨大なUFOに姿を変えるのに驚いたところで目が覚めた。時計を見ると、まだ5時であった。しかし、もう一度寝る気にはならず、30分ほどベッドで煩悶としていたが、跳ね起きてシャワーを浴び、髪を洗って乾かし橋下老の用意してくれた清潔で快適な下着に履き替えた。

そして服を着て部屋のドアを開ける。匣のある居間へ向かったのだが、そこにはすでに橋下老の姿があった。驚いたことに側に茶トラの猫が伏せっている。

「こいつはピートといって、わしの若い頃からの愛猫じゃ。ほれ、ピート、江波戸氏に挨拶をしなさい」

古老の言葉を理解したのかピートはゆっくり立ち上がって舌の先まで伸びをすると、江波戸に近づいて足の臭いを嗅いだ。そして、満足したのか、再び橋下老の足元で伏せった。

「どうやら、お前さんが気に入ったらしい」そう言って、下に手を伸ばして耳の付け根に軽く指を這わす。ピートは嬉しそうに喉を鳴らしている。

「まだ、ちと夜明けには早いがのう、ここの夜明けは荘厳なものじゃぞ。今生の思い出に見ておいた方が良い」

そして、5時30分。コーヒーを飲み終えると、二人は居間を出て、例の貯蔵庫に向かった。橋下がピートを肩に乗せ木の階段を降りる。江波戸がそれに続いた。

あのトンネルを使うのではなかった。貯蔵庫からトンネルへ出る扉の反対側にダンボール箱がいっぱい載った棚があるのだが、それが大掛かりな仕掛けになっていて、橋下の声を感知して軽いモーター音とともに後ろへ少し下がると、今度は左にスライドして、壁と平行になった。

橋下はその開口に入っていく。広い空間の中心は円くて太い柱になっており、その柱のコアの部分が小さなエレベーターになっているようであった。柱にはエレベーターのドアを設けるために大きな窪みがあり、その窪んだコンクリートの壁の右側に三角形のボタンがひとつ付いている。

橋下がそれを押すと、オレンジ色の扉が上にスライドした。カゴは二人がやっと乗れるくらいの広さしかない。二人は背中合わせになってカゴに乗った。扉がゆっくりと下降して、完全に床に着いた。カゴがゆっくりと上昇しはじめた。徐々に速度を上げ今度は徐々に速度を落としたと感じたとき、エレベーターは停止した。外に出ると、江波戸の目に薔薇色の光に縁取られた水平線が飛び込んできた。

「これは」と絶句する。

「もっと良い展望台がある」橋下はそう言って、エレベーターのシャフトになっている円柱を一周するコンクリート製の細い螺旋階段を上りはじめた。見上げると、円柱は10mほども高さがある。そしてその上部は、円柱に被さるように直径7mほどの円盤が載っている。そしてその中心には白く塗られた鉄製の高さが30mほどもあるポールが立っている。そのポールを支えるように四方から鋼管素材が伸びていて、鋼管は互いに水平材と斜材で補強されている。外観上、完全な鉄塔になっているのだ。

江波戸は、その展望台まで上がると息が切れた。橋下老は、と膝に両手を当てて見たが平然としている。しかし、それよりも江波戸を感動させたのは、空が白いピンクから薔薇色へと移ろい、さらにオレンジから黄金色へと変わった瞬間、赫奕たる太陽が、アポロンが姿を現しはじめたことだった。

江波戸は、漁師の孫である。父は漁師を嫌い銀行員になったが、子どもの頃には祖父の船に乗せられてはるか沖まで出たことがある。眠い目を擦りながら、初めて見た日の出の光景は今でも忘れない。

だが、今ここで見るそれは、荘厳を通り越して、悲しみさえ覚えさせるものであった。涙が両頬に伝わり落ちた。

「最後となると、何事も悲しいものよのぅ」

江波戸の涙を見てか見ずしてか、展望台に据えられた背の高いボックスから双眼鏡を取り出しながら、橋下はそう声を上げた。

「残念なことに宮前はこれを見ることができなんだ」

「それは、どういう意味ですか」

江波戸は両手で涙を拭いながら言った。橋下は双眼鏡を覗いている。

この年寄りの言葉はいつも謎を含んでいる。しかし常に正しい。

「今日、これからあたしは先生をここにお連れするんじゃなかったのですか」

「つまり間に合わんかったわけじゃ」

「でも、また明日も」

カルペディエム今日の花は今日摘めじゃ」

「はい。分かったような分からないような」

「それは午後には分かる」

 


江波戸は匣の前に立っている。ピートがそのそばで行ったり来たりを繰り返している。

「彼も一緒に行きたいようじゃ。連れて行ってやってくれ。キャツは旅慣れておる」

江波戸は橋下のそれがシャレと分かっていたが無視してキャツを掬い上げた。そしてそっと匣に入れた。

にゃうん、は、おそらく感謝の言葉であったのであろう。ピートは慣れた身のこなしで頭から穴に入ると途中で身を反転させた。そしてあっという間に消えてしまった。

江波戸は少しピートを羨ましく思いながら、「行ってまいります」と一声告げて、ゴモゴモと穴の中に入っていった。途中でふくらはぎのあたりをピートが前足で叩くのを感じた。

「もっと早くせぬか。この不器用者」と言われている気がして少しペースを上げる。

ようやくピートと合流できた。

みゃーぁ

ピートが「よくやった」と褒めてくれた。

その彼を匣からそっと出してやる。彼はしっぽを立てたまま少し徘徊していたが、すぐに宮前の椅子に跳び乗り、さらに机の上にジャンプして乗った。

江波戸も匣の横板を跨いで外に出る。

そして、宮前の立派な両袖の机を前に腰をおろした。机はローズウッドを使っていて、その木目が美しい。椅子も肘掛けの付いた立派なものである。

ピートは宮前の閉じられたPCの上が気に入ったらしく、そこで丸くなった。そのPCは最高性能のものであったが、蓋はキリスト教徒の宮前らしく、エルグレコの「十字架のキリスト」の絵がプリントされている。ピートはそのキリストの上に腹這いになっているのだ。

 


Ελι ελι λεμα σαβαχθανι

 


神よ、神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか

 


そこにはキリスト最後の言葉まで記されている。

 


そして、8:55。ドアのロックがカチッと鳴って、宮前の丸い顔が現れた。彼は、予め知っていたはずだったが、反りの合わぬ妻からの開放感で忘れてしまっていたのであろう。江波戸とパソコンの上で寝そべっている猫を見てギョッとした表情を浮かべた。

ピートは片目だけ開けたが、江波戸を見てあとは知らんぷりである。

「先生、おはようございます」江波戸は笑いながら挨拶する。それで、宮前は思い出したようだ。

「そうだったね。すっかり忘れてしまっていた。ところで、その猫は君のマスコットか何かかね」

宮前がカバンを持ってやって来るのを見て、江波戸は立ち上がって、反対側の椅子に回った。彼が宮前と談笑するときの定席である。金曜もこうして、匣の話をしたのだった。もっとも、宮前は数学者らしく、そんな話は何らかのプランク、あるいは自分をからかってみせるためのプラクティカルジョークと思っていたようで、話には気安く乗ってくれたものの端から信じてはいなかった。

 


おまけに彼は、ピートをぬいぐるみと思っていたようで、椅子を静かに引いて大きく突き出た腹を天板の下に潜らせると、無用心にもピートの頭を撫でようとした。ピートは驚いて、シャーと威嚇の声を上げた。驚いたのは宮前も江波戸も同じであった。宮前は椅子からひっくり返りそうになった。江波戸はピートを捕まえて宥めようとしたが逆に手ひどく引っ掻かれた。

ひと騒動がおさまると、宮前が救急箱を持ってきて、バンドエイドを貼ってくれた。大きめのものが三枚も必要だった。ピートの興奮は治まっていたが、猫とは快適を求める生き物である。この場所が気に食わぬと思ったらしく、大きくジャンプすると匣の中に飛び込んだ。そしてあっという間に消えてしまった。

びっくりしたのは宮前である。彼は救急箱を両手に持ったまま呆然としている。

しかし、学者らしくすぐに落ち着きを取り戻すと、救急箱を机に置いて、匣を覗き込んだ。

「いつ、こんな穴を開けたのかね」しかしさすがの彼も、その銀色の幕の中に手を入れてみる勇気はなさそうであった。

彼は現実的なトリックの仕組みを考えているようで、まず床が嵩上げされていないかを調べた。と言っても簡単なことで、ドアの前後に段差がないか、ドアを開けて観察したのである。もちろん段差などない。次は、匣が二重底になっているのではないか、という疑いである。しかしこれもコンベを使って匣の外と内の高さを比べることですぐに解決した。匣の高さは700mmちょうど。内側は670mmちょうどであった。これでは、いくら流体と言われる猫でも身を隠すことはできない。

宮前の狼狽は深まった。最後まで残った疑いは、やはり床に穴を開けた、であったが、これは案外ありうる悪戯の手法かも知れなかった。なぜなら、床は深さ600mmのフリーアクセスフロアーで、そこには電源ケーブルや通信線、LANケーブルなどがダクトに入れられて縦横無尽に走っていたからである。

実際、宮前の机の下からも電源ケーブルや通信線が立ち上がっている。

宮前は笑みを浮かべ、江波戸に匣を動かすのを手伝うよう言った。

江波戸は最初その意味が分からなかった。しかし、匣に手をかけたときになって、ようやく気がついた。

「先生、穴など開けちゃいませんぜ」

「それはすぐに分かる」

言い草はあの老人と一緒だったが、橋下老と違って100%間違っている。

「ノージンジャーですなぁ」と言いながら、宮前の動かそうとする方向に匣を移動させる。そうしながらも、この先生、結婚前はもう少し痩せていたなぁと思う。今の宮前は半袖シャツにすでに汗で染みがついている。スーツのズボンはサスペンダーで吊り上げねばならなくなった。幸せ太りというのがあるが、先生の場合は間違いなくストレス太りである。金曜は毎週のようにここで江波戸と酒を酌み交わし、それを呼び水に夜の街に繰り出して何軒も梯子をしていると聞く。

おそらく、それを毎日のように繰り返しているのだ。

匣はちょうど幅の広さ分だけ横にずらされた。もちろん、床に穴などない。

 


「先生」と江波戸は立って腰を後ろに伸ばしながら言った。「ご満足いただけましたか」

これはもちろん、宮前には嫌味そのものである。しかし、「先生」は反論もできないでいた。

「分かったよ。解説をしてくれ」

「ところが先生。このあっしにも仕組みがさっぱり分からないんです。でもね、先生。あっしとピートが、あっ、ピートはさっきあっしを引っ掻いた猫のことなんですがね、ある太平洋に浮かぶ島から、それは荘厳な日の出を見て、それからそこにあったこれと同じような匣の穴を潜ってここにやって来た、というわけなんですわ」

「でも、君確か昨日この匣をここに運んできたのじゃなかったかね」宮前の目つきは鋭い。

「話は長くなるんですがね。あっしは、これをここに運んだ後、その島に連れて行かれたんです」

「連れて行かれた?」

「信じられない話とは承知していますが、嘘ではありません。すべては匣をここに持ってくるよう頼んだある老人が仕組んだことなんですわ」

「それで、その島というのは太平洋のどこにあるんだい」

「さぁ、それもあっしには分かりません」

「君が日の出を見たという正確な時刻は?」

「ああ、それならよく覚えていますよ。5:33分でした」

宮前はそれを聞くと机に向かって行きPCを開いた。

そしてすぐに島の位置を割り出したようだった。

「確かに、その位置に無人島が一つある。調べると、国交省国防省に購入に関する手続き申請が出されているが、まだ実現していない。申請者の名前ももちろん分からない。だが、君の話が本当だとすると、その老人は無許可のまま専有していることになる」

「そうですか。でも、論より証拠。一緒に匣の穴に潜ってみましょうよ。何も恐れることはありません。あっしも最初は怖かったですけど、いざ潜ってみると、まったくの別世界がそこにはあるんですから、楽しいこと間違いなしです」

「分かった。君の言葉を信じよう」

「それでは、まずあっしが先に入りますから、先生は同じようにして穴に潜ってください」

江波戸は慣れた様子で匣を跨いで中に入った。そしてあっという間に穴を潜って消えてしまった。宮前は呆気にとられて見ていたが、決心して匣に入った。高さ70センチの匣を跨ぐのは宮前には至難の技で、そのために彼は踏み台を持ってきて匣のそばに付けた。そして、その上に一旦腰をおろし、それから身体を回して膝から下を匣の中に入れ、それから両手を踏み台の端について、身体を滑らせるようにして、ようやく中に入った。

そして、江波戸がやったようにまず穴の縁に腰をおろし、両膝を穴に入れる。すると、重量感の消えた足を誰かが引っ張り始めた。引っ張られて尻の辺りまで中に入ると、今度は下半身が捻じられるのを感じた。宮前は、その捻る力に身を委ねて、自分は顔や顎を穴の縁にぶつけて傷つけぬよう手で防護する体勢をとった。

そして無事に向こうの匣に移ることができた。

拍手で迎えてくれたのは江波戸であった。その隣には白い髭と髪で顔を覆った老人がコーヒーのカップを片手に立っている。

「はじめまして」宮前は、動揺を隠せないままに老人に挨拶をした。挨拶をしながら、何か演技でもしているような、ここが実は舞台のセットであり、自分がまったく現実感のない会話をしているような気がしていた。

「とにかく、そこから出なさい。宮前先生」老人が高さ60センチのアルミ製脚立を中に入れた。そして、匣の外にキャリーケースのようなアルミの箱を横にして置いてやる。

宮前は汗を拭いながら外に出た。アルミケースから床に降りるとき、よろめいて橋下が支えてやらねばならなかった。「宮前先生」と橋下は声をかけた。「私は、実は先生のことをよく存じ上げておるんですよ。そして先生の連れ合いの方のことも。でも、今日はそんなことよりもずっと重大なことをお見せしたくて、お二人をここに招待させて頂いたのです」

江波戸は、なにか違和感を覚えた。老人の宮前に対する口調が丁寧な、まるで自分の上司にでも話すようなものに変わったからである。

ふとピートはと探すと、彼は食器棚の上に腹這いになって、宮前の動きをじっと観察している。

「ピートに嫌われてしまったようですな」橋下が素っ気なく口にする。

「さて、もう10時近くになる。ピートはあそこに上げといて、コーヒーでもご馳走しましょうか」

橋下は、自分のマグカップをテーブルに置くと、キッチンに行って挽きたての豆をパーコレーターに入れ沸かしたばかりの湯を注いだ。江波戸が気を利かせてカップを二つ食器棚から取り出してテーブルの上に乗せる。橋下は軽い足取りで蓋の付いたサーバーを持ってくると、宮前のカップに注いだ。次に江波戸のものにも注いでやる。

そうして、自分の席に腰を降ろすと、飲みかけのコーヒーに口をつけた。そして、「江波戸さん」と初めて名を呼んだ。江波戸は驚きながらも耳を傾ける。

「はい。なんでしょうか」

「いや、大したことではない。冷蔵庫の中にクラッカーとショートケーキが入っているから、持ってきてほしい」

「それだけですか」

「それだけじゃ」

そうして、三人が鼎談の体制に入ると、ピートは疎外感からかそわそわしだした。降りようか降りまいか迷っている様子である。

「ピート、降りておいで」と橋下が優しく言うと、決心したようで、身体を思いきり下に伸ばして食器棚の下の段に前足から落ちると、そのまま丸くなって後足で段を蹴り音もなく床に着地した。そしてすぐ下の宮前を避けて橋下の足元で行儀よくお座りをした。橋下がその耳の後ろを撫でてやると、にゃぁ、と小さく鳴いて自ら頭をその手に擦り付けようとした。

「こいつは、時々、思い出したように、匣の中からわしのところに来よるんじゃよ。こやつにとっては表敬訪問といったところなのかのぅ」

「何歳なんですか?」

「さぁて、十は超えているとでも言っておこうか」

「そうですか。おふたりともお元気ですねェ」江波戸は本当に感心しているのだ。ピートの年齢は今聞いたばかりだが、老人の若々しさは具に見てきている。

「いや、科学の力を借りれば誰でも元気は保てる時代になったというだけのことさ」

「科学の力、ですか」と疑問の声を上げたのは宮前である。「今の医学にまだそのような

力があるとは思えませんが」

「医学も日進月歩している。先生もそのうちその恩恵を受けられるようになりますよ」と言ってから少し厳しい表情になった。

「しかし、その科学の力も自ら破壊してしまうようじゃ、恩恵に与るも何もあったもんじゃありませんがね。実は、そのことをご自分たちの目で見ていただきたいと思い、ここにお越しいただいたというわけです」

「何か恐ろしいことが起こるということですか」江波戸の声は予感に震えている。

「しかも、われわれの身近にいた人物のせいで」

「まさか」宮前の声も震えた。

橋下は、それには答えず壁の時計を見た。10:11:30と表示していた。そして、江波戸が不気味に感じたことに、その下に小さくカウントダウンらしき時間が表示されていたのである。宮前は、まったく時計を見なかった。彼の位置からでは首を真後ろ回さねばならなかったからである。もちろん、その数字は短くなってきている。1:48:20、19、18と。すると、橋下のいう何か恐ろしいことが起きるのは正午ということになる。

 


「この島はわたしの所有物ですが」と、橋下が続ける。「防衛省とも秘密裡に協定を結んでいます。それがここを購入するための条件でした」

「その条件というのは?」と宮前が身を乗り出す。

「一つは潜水艦に対する哨戒です。この島の周囲には多くのブイが敷設されています。また、市ヶ谷とも常に衛星通信が確保されています。これは米国、中国、ロシアもみな承知です。たまに彼らが訪問してくることもあります。一人二人といった少人数ですがね。なにしろこんな離島ではヘリも使えませんから。しかし、彼らはここの重要性を我が国以上に理解しているかもしれません。ある武官などは、ここの電源システムについてしつこく訊いてきたこともあったほどです」

「それで、その電源はどのように確保されているんですか」と宮前。

防衛省が調達した国産の超小型原子炉によってです。これは小型の無人潜水艦用としてM社が開発した画期的なもので、タービンを回すのに特殊なガスを使っています」

「原子炉ですか。50年くらいは使えそうですね」

「それを海面下50mの岩盤に固定して、この下のシェルターエリアにチタン鎧装のケーブルで通しています」

「しかし、なぜそのようなことを」

「それに答える前に、話は少し飛びますが、あなたは因果ということをどのようにお考えですか」

「お尋ねの趣旨は、おそらく物理学的な意味で、ということと思いますが」

「その通りです」

「因と果は、私の考えでは、ごくありきたりの認識ではありますが、時系列的なもので因が先、果が後で、先後が逆になることはない、と考えます」

「そうですか。わたしは、因果は一つの塊と考えています。因と果はコインの表と裏でコインの姿は最初から決まっている。わたしが、なぜあなたのご質問に直接答えなかったかは、このことにあります。わたしには未来が見える。そして、その未来は、これからご自分の目でお確かめになる通りの絶望的なものです。わたしは、この島を手に入れ防衛省にも協力して絶望の未来を救おうと考えた。しかし、先ほど言ったように因果は一枚のコインであって固定したものなのです。ただ、もしも救いがあるとするなら、寺門昌士が唱えた理論がそれかもしれない。現にあなた方は、あそこの匣に開いた穴という現時点と交錯する無限の系の一つであるここに来られた。だからこの後、元の系に戻ったときには、あなたの伴侶である陽子さんの行いから目を離さず、江波戸氏と協力して未来を変えてほしいと考えるのです」

 


宮前は煙に包まれていた。陽子がなぜ絶望的な未来と関係するのか、見当もつかなかったからである。もちろん彼は、ごく近い将来に自分と彼女が別れることになることさえ知らなかった。想像だにしていなかっのである。

しかし、江波戸の場合は、少し違っていた。彼は椿の本性を黒い手帳と実際の振る舞いを見て知っていたし、彼女のそれが強烈な征服欲によるものであることも見抜いていた。

だが、なぜ彼女が世界を滅ぼす原因になるのか、ということになると、宮前同様、皆目分からなかった。

「さてと」と、橋下は少し間を置いてから言葉を繋ぐ。「イベントまでまだ一時間以上ある。少し中を案内いたしましょうかね」

江波戸は橋下の冷静さ、何事にも動じぬ態度に慄然とした。彼のいうイベントとは、自分の勘違いでなければ、世界の終わりである。それを一時間後に控えての様子にはとても思えない。たとえこれが映画撮影のようなものだとしても、役者はきっと動揺を感じるであろう。優れた演者ほどそうなるはずである。自身がその人物になりきるからだ。

橋下は、階下のシェルターに二人を案内した。江波戸は今日二回目となるが、よくよくシェルターであるという目で見ると、その合理性が理解できた。まず食料品は缶詰やレトルト、パックのご飯と皆んなレンジでチンのものばかりであったが、上のキッチンには鍋やコンロもあって煮炊きもできた。さらに、棚をスライドさせた向こうのエレベーターのある広い空間には大きな冷蔵庫や冷凍庫まであるのだ。橋下は、その冷蔵庫を開けてみせた。冷蔵庫というより、それは一つの部屋でありずらっと並んだ棚の上には魚や肉、野菜が整然と並べられている。室内は4℃に保たれている。それはインジケータに赤く表示されている。しかし、その中に入るのは躊躇われたし、橋下もまた二人を中まで入れるつもりはないらしかった。

だが、その広い空間には受変電設備があって、超小型と橋下老の言った原子炉からの電力が送られてきているらしかった。

「合計で800kWの電力容量になりますが、これだけあれば、この島全ての需要を満たせます。ブイによる検知からコンピュータの電力、通信に必要な電力、冷暖房、それにここにある冷凍庫や冷蔵庫の電力を合わせても最大で600kWあれば足ります。問題は、万が一原子炉が破損してしまった場合ですが、この場合は、島の維持は大変難しくなります。ディーゼル発電機の燃料備蓄は3ヶ月しかないからです。しかも、最大出力は300kWですから、島の国防機能はほとんど失われます。私が生存するだけでいっぱいいっぱいになるでしょう」

江波戸は、その原子炉破損が起きるのかどうかを訊きたかったが、それはこの後に起きる「イベント」に関わっていることと思われ、橋下によれば、「それは、すでに決まっている」ことであったので、訊いてもそのような答えしか返ってこないであろうと考え押し留めた。つまり、訊かずとも橋下の言葉が聞こえたのである。

「さてと」と、橋下が宮前の身体をチラッと見た。「そろそろ時刻です。上に行ってみましょうか」

そう言ってボタンを押す。オレンジ色のドアが上にスライドした。

「わたしと江波戸さんが先に上りますから、先生は後からお願いします」

 


「すごい景観ですねぇ」

宮前がエレベーターを出るなり感嘆の声を上げた。アポロンは絶頂にあり、海はまさに紺碧。鴎らしき鳥が何羽も宙を舞っている。橋下と江波戸は展望台の錆びた手摺りにもたれて岩礁を見ている。そこには青鷺が二羽と、そしてこれから飛び立とうと羽根を羽ばたいて訓練真っ最中の若鳥数羽が見えた。岩礁の上は芝のように蒼く岩礁に打ち寄せる波が作る白い泡とほどよいコントラストを作っている。

「のどかですネェ」と宮前が嬉しそうに言う。その言葉が、江波戸には非常にマヌケで苛立たしく感じられた。確かに風も穏やかで白波も立たず陽の光は暖かい。

しかし、この後には橋下のいう大惨事が待ち構えているのだ。

「宮前先生は」と手摺りに手をかけて岩礁の方を見ていた橋下が宮前に向き直り腰を手摺りにもたせかけて言った。「先生はCLムーアのヴィンテージシーズンというSF作品をご存知ですか」

「ああ、知ってますよ。グランドツアーの邦題で映画化されましたよね」

「はい、その通りです。そして、われわれは、まさにそのグランドツアーの大惨事の目撃者になろうとしているのですよ」

「隕石でも落ちるんでしょうか?」宮前の声は震えている。

いまさらかよ、と江波戸は思う。これまでの状況を考えてみれば、こんなマヌケな問いはないはずだ。それとも先生、恐慌を起こしてしまっているのだろうか。

「違います。何が起きるかを、あなたのその眼でしっかりと確かめてほしいのです」

そう言って、橋下は時計を見た。

「後5分です」

 


岩礁の鳥たちの動きが慌ただしくなった。彼らには予知の能力があるのだ。若鳥たちは風に乗って浮かぶことを覚えた。12時少し前、その風が急に強くなった。宮前の長い髪が風に靡き、橋下はキャップを飛ばされないよう、右手でツバを押さえている。青鷺が大きな叫びを上げた。二羽、三羽、全部で七羽が飛び立って、風下に反転し島の方に、展望台の方に向かってくる。

「来るぞ!」

双眼鏡を覗いていた橋下が叫んだ。

見ると、はるか向こうで海面が膨れ上がっている。水平線の形が台形のように盛り上がっている。

江波戸の頭の上を青鷺が一羽掠めて反対側に降りた。そしてまた一羽。青鷺の一家全員がこの展望台に降り立ったのだった。

巨大な津波が戦闘機のような速さで押し寄せてきて、一瞬にして岩礁を飲み込み、たちまち島は、三分の一ほどの大きさになってしまった。

江波戸も宮前も声を上げて逃げる間もなかった。すべてが一瞬だったのである。

「いったい何が起こったんですか」

「まだ起こっちゃいませんよ。今のは予兆に過ぎません。これから本当の地震、そして津波が起こります。そろそろ下に降りましょう。今ならエレベーターも動きます。宮前先生が先に降りてください。わたしたちは後から参ります」

橋下に従い、宮前はエレベーターのボタンを押した。扉が上り宮前が乗り込む。そして扉が降りて、エレベーターは下降していった。

「今の津波地震によるものではなかったのですか?」

「核じゃ。しかもギガトン級の水爆で、日本海溝会合三重点で爆発した。どこの仕業と思う?」

「中国ですか? それともロシア」

「合衆国、アメリカじゃ」

「えっ、なぜ」

「今それを話している時間はない。エレベーターが来た。降りよう」

 


三人が居間に集まった時に揺れが起きた。それは凄まじいもので、立つことはおろか座っていることさえできない。三人は皆、床に寝転ぶ形になった。ピートが橋下の庇護を求めるかのようにその胸に飛び乗った。震度というものは7までしかないが、揺れは間違いなくそれ以上のものであった。橋下は、シチュエーションルームのモニターをつけっぱなしにしていたが、放送という放送はどこも途絶していた。唯一市ヶ谷との通信が活きていて、双方のやり取りができた。橋下はピートを抱き抱えたまま、横向きになってシチュエーションルームまで這っていく。そして、モニター前の卓に片手を伸ばし立ち上がって床に固定された椅子に座る。

防衛省、こちらは中之鳥島。核魚雷の爆発に誘発され南海トラフ地震が発生。推定マグニチュードは9.3〜9.5。本島における震度は7。核による津波は30mに及び、これに加えて本地震による津波の高さは20mと推察されます。本土の状況を知らされたし」

「こちらは防衛省」という声はおそらくAIによるものであろう。「重要な情報、ありがとうございます。本土は津波により南海トラフ想定水域のほとんどが壊滅状態。なお、中国が同盟国日本に対する米国の攻撃を宣戦布告と看做しその報復としてSLBMを発射。これにより米国本土、ハワイ、グアムに多大なる損害が発生したことを衛星による動画にて確認。 合衆国も直ちにICBM及びSLBMを発射したとの衛星からの情報あり。もはやMADセオリーは意味を持たず。各地で戦略核が爆発し、もはや人類そのものの壊滅が危惧される状況にあり。なおたった今、合衆国からのICBMマーブが首都東京に向けて発射されました。到達まで30分しかありません。防衛省職員はこれより、地下シェルターに一時退避します。貴官におかれても御身の安全を最優先されたし」

 


揺れは3分でようやく治ったが、今後も大きな余震が続くものと思われた。

「さあ」と橋下が落ち着いた声で言う。すべてが茶番であったかのような落ち着きようである。「あなたたちは、もうここに長くいる必要はない。ここでの体験をしっかり心に刻んだ上、元の世界に戻ってほしい」

「分かりました」と江波戸が応じる。「長居はしたくありません。しかし、あなたは、これからどうされるおつもりですか? 日本は、いや世界が滅んでしまったようなことを言ってましたよね」

「わしのことなら心配いらん。すべてを見越して備えがしてある。それより、まず宮前先生、匣に入ってください。もうすぐ大きな余震が来ますよ」

「これは、いったい何年後に起こることなんですか」宮前は、それを最後の言葉のように残すとコンテナを踏み台にして転がり落ちるように匣の中に入った。そして、今度は要領よく頭から先に入って、あっという間に消えていった。

「さすが、宮前先生。いざとなったら、頭から先に飛び込んでいった。もう、要領を習得されていたんだ」

「そうよのう。おそらくは、穴に飛び込む恐怖に地震の恐怖が打ち勝った、というところであろう。が、あれがピートもやる通りもっとも理にかなったやり方であろう」と橋下も頷く。「ところで、宮前先生の問に対する答えじゃが、椿陽子がそのような政治的力を持ったとき、と言っておこう」

「そうすると、まだ30年は先のことですね」

「30年などあっという間じゃ」

「確かに、あっという間に30年を飛び越えてここにいるわけですからね」

「もう時間がないぞ。お前さんもさっさと匣に入れ」橋下が大きな声で言う。

「来るんですね。また大きなのが」江波戸はそう言いながら匣に入ると、宮前がやったように頭から見事にダイブした。上半身と下半身の重量バランスが取れたところで、うまく手をついて向こうに移ったのであろう。それこそ、あっという間に姿が消えてしまった。

 


寺門には一抹の寂しさが訪れた。余震の揺れなどよりもその方がよほど心を動揺させた。

今自分がいるのは果たして現在なのだろうか、という根源的な疑念がまたふつふつと湧き起こった。

匣の力によって、このように多元、多時間を行き来するようになると現在の意義が曖昧になってしまうのだ。

揺れの途中で停電が起きた。が、すぐに非常用発電機が立ち上がって電気を供給し始めた。停電は原子炉が破損したからではない。そんな甘い設計はしていない。原子炉は予定通り無人の潜水艦となって、送電を切り離しただけなのだ。

超小型の潜水艦は、少し島を離れるが津波が治って、海面、海中が安定を取り戻した後に浮上して再び島の近くまでやってくる予定である。寺門はその間、この島で、のんびりとはいかないが、情報収集をしていれば良い。

海は治っても地上はそんなわけにはいかないであろう。世界のすべての国と地域で生存を賭けた略奪、暴行、戦闘が行われているはずである。日本国内など、諸外国から火事場泥棒のように軍人や犯罪者が押し寄せ草刈場の様相を呈しているであろう。自衛隊は国を守れるのだろうか。同盟国中国は、国内の各所で大きな動乱が起き、共産党は有名無実になっている。中共軍は細かく分裂して山賊、海賊と何ら変わらない。日本は彼らの格好の餌食となってしまうことであろう。自衛隊では国を守れまい。彼らは自分たちが生存するのでいっぱいのはずである。

 


世界は壊滅の一歩手前である。核は打ち尽くされたわけではない。これを得るために軍もテロリストも犯罪者集団も今血眼になっている。しかし、歯止めの効かない核は、もはや何の効力も持たない。撃たれれば撃ち返すだけだからだ。MADという幻想が脆くも崩れてしまった以上、核は無制限に放たれるであろう。現に今も水爆が爆発している。それは、ここにいても地震波となって分析できる。衛星からの映像も届く。ロシアは壊滅してしまった。アメリカも中国の報復を受けて酷い惨状である。

寺門は、今自分が人類滅亡という災厄をひとり安全なところにいて、あたかもヴィンテージ・シーズンの未来からの訪問者のように傍観していることに忸怩たる思いであった。しかしこれも、最初から決まっていたことなのである。この匣に開いた穴は無限に交錯する系との結節点であるにしても、他の系へと無制限に繋がっているわけではない。一つの系とよく似た系との過去と未来を繋いで往き来しているだけなのだ。

 

 

 

寺門は島でひと月を無為に過ごした。まったく何もなさなかったわけではない。しかし、そのほとんどが情報の収集であった。人類の99.99%が死に絶えた。僅か数百万の人間が生き延びたが、それもすでに訪れている核の冬が厳しさを増すことによって数年のうちに滅び去るであろう。

 


モニターが原潜の浮上接近を伝えてきた。海の中にもさまざまな人類の構築物の残骸が沈澱していったが、それがようやく落ち着いてきたのであろう。大型の船舶や航空機、衛星や核により吹き飛ばされた海岸沿いの建築物の瓦礫などである。

外は雪が降っている。風が強く舞い散る雪で視界が効かない。しかし、よく見ると、海も空も暗いグレイ一色の中にオレンジ色の点滅が確認できる。

超小型の原子力潜水艦ウォーターベアが寺門の搭乗を待ってくれているのだ。

寺門はこれから最後のオペレーションを実行しなければならなかった。それが成功して初めて壮大なループが完成する。円環が閉じるのだ。

彼は、匣を用意していたロープ付きのコンパネに乗せると、ゆっくりと慎重に階段を滑り降ろさせた。

 


一方、江波戸と宮前は、思いもしなかった事態に直面していた。江波戸が意気揚々と匣から猫のように飛び出したとき、目の前にいたのは宮前ではなく、欧州へ出張しているはずの椿陽子であった。さすがの彼女も恐怖に顔をひきつらせている。

「どうだ。言った通りだろう」椿の後ろに隠れる格好になった宮前が肘掛け椅子から勝ち誇ったように陽子に言う。「これは、寺門昌士の唱えた理論の正しさを実証するものなのだよ」

「二人で私を担いでいるわけじゃないわよね」陽子は、その目でしかと見たはずなのに信じようとはしなかった。

無理もないと江波戸も思う。自分だって、橋下老が匣の中に消えたときは、いったいどんなトリックを使ったのだろうと疑ったのだ。

「トリックではない。少なくとも私たちは仕組んではいない。ただ、詳しくは言えないが、この匣と対蹠する匣が未来に、あるいは過去にあって、その両者を往き来できるのだ」

「それを信じるとして、あんたたちはどこへ行ってきたというの」

「それは、あまりに恐ろしい未来であったとしか言えない」宮前が答える。

「あら、そう」と椿はすでに落ち着きを取り戻している。「ところで、私はあんたに大事な用があって急遽、昨夜のうちに帰国していたのよ。分かってるでしょ。離婚するのよ、私たちは」

慌てたのは宮前だ。まったくの寝耳に水の話であった。文字通り、椅子から転げ落ちそうになった。しばらく言葉が出せないでいる。

「離婚!」ようやく声になった。「いったい、どういうことなんだ」

「どうもこうもないわ。私たちは最初からダメだったのよ。何も面倒なことはないわ。これに署名してくれればいいのよ」と、緑色の文字の書かれた紙をひらひらさせて見せる。

宮前は、あのときのことを思い浮かべた。ニモホテルでの寺門の講演会である。あれは、陽子が仕組んだものであった。寺門に物理学会で講演させ、その後に自分たちの結婚式を挙げる。単に費用の節約を狙ったものであろうと軽い気持ちで諾なってしまったが、後で聞くと、椿と寺門はその頃、深い付き合いをしていたというではないか。今まさに自分は、あのときの寺門と同じ状況にあるのだ。

宮前は怒りを鎮めると、陽子の手から紙を奪い取って、机の上でサインをした。離婚などというものは、沈着冷静なものであっても、怒りに任せたものであっても、紙切れ一枚で決着がついてしまう。恐ろしいものなのだな、と思いながら。

「そう、それでいいのよ。私は英国で将来有望な若い男を見つけたの。彼も一緒に日本まで来てくれたわ。すぐにでも結婚するつもりよ」

「そうかい。それはよかったじゃないか」宮前の声には一片の憤怒もなかった。内心、彼も良かったと胸を撫でおろしているのだ。江波戸も宮前にとって椿は降ってわいた災難だと思っていたので、これはめでたいことと喜んだ。

「で、お前さんには資産がたんまりあるし、俺から掠めとるなんてことはないよな」

椿はフンと鼻を鳴らすと部屋を出ていった。

「誰でしょうね。そのイギリス人というのは」

「さあね。知ったことじゃないね」

「ええ。確かにねぇ」

 


そんなことがあった翌週の月曜日、宮前が出勤してみると、あの黒い匣が跡形もなく消えていた。宮前は、慌てて江波戸を内線で呼び出した。

「えっ」江波戸が大きな驚きの声を上げた。これで、彼がどこかにやったのではないことが分かった。そうすると、考えられるのは陽子しかない。

江波戸が部屋に飛び込んできた。他の研究員たちも何事かと驚きの顔をしている。

「彼女でしょう。間違いありませんよ」江波戸が宮前の目を見て言う。

「俺もそう思う。他にはいない。確認する必要さえない」

「しかし、あれを使って何をするつもりなんでしょう」

「さぁ。あの爺さんなら知っていたのかもな」

「ええ。でも教えてはくれなかった。そこにきっと意味があるんでしょう」

「そう言えば、あの女が世界を滅ぼしてしまう、というようなことを言っていたな」

「ええ、そうでした」

「すると、あの爺さんの力をもってしてもあいつを止めることはできなかったということなのか」

「いえ。あの爺さん曰く、我々はすでに決まっていることをトレースしているだけなのだそうです」

「しかし、あんなものをあんな女が手に入れてしまったら・・・」

 

 

 

椿陽子は多田を自宅に呼び寄せていた。イギリス人のボーイフレンドの話は、宮前と離婚するための口実に過ぎなかった。計画通り、面白くもない男とキレイに別れることができた上に、信じられないほどの幸運が訪れた。

 


「これ、いったい何だと思う」

陽子は大きな匣を前にして好奇心に目を輝かせているタダッチに訊ねる。

「電話じゃ、あんた、魔法の箱とか言うとらんかった?」

「まぁ、いいから、蓋を開けてみなさいよ」

多田は、言われた通りに蓋を開けた。重量のある蓋は直立した位置から120度まで倒れる時に、どういう機構なのか、ゆっくりと速度を落とし、匣全体を少し揺らせて静止した。

「なんやのん、これ」そう言って、多田は転時空孔と書かれた板を外した。銀色の膜が現れ、多田は板を戻そうとしたが、陽子が「そのまま」と声を上げる。

「な、なにぃ、この気味の悪い穴は」

「あんたと私はこの穴を通って10年前に戻るのよ。なぜだかは分からないけど、この穴は10年前のこことつながってるのよ。それは、私がすでに体験済みよ」

「あんた、まさかこの箱がタイムマシンやとでも言うてんの?」

「私も最初は信じられなかったわ。でも、勇気を奮って穴の中に潜り込んでみたのよ。そしたら、なんと、向こうもこの私のマンションで、これと同じ箱があって、そこに私は出てきたというわけ」

「陽子。あんた、うちをなんかの罠に嵌めようとしてるんとちゃう?」

「あんたが疑うのも無理ないわ。だから、私が先に中に入って見せる。私が消えていなくなったら、今度はあんたが私と同じようにして入ってくるといい。10年前の世界であんたを待ってるわ」

そう言い残すと、陽子は身軽にスッと穴に頭から入っていき、あっという間に消えていってしまった。

多田は茫然自失に陥った。思考が停止してしまったのである。気が遠くなったような感覚に襲われた。それでも、ようやく1分後、気を取り直してジーパンの長い脚で跨いで匣に入ると陽子の真似をしてみた。とは言っても、陽子のように決然とはいかない。まず恐る恐る足の先を入れてみる。その瞬間、スニーカーの重みも足の重みも消えて、逆に反発力を受けた。

「これは、いったい」陽子の言ったことが多田和江の中で俄に真実味を帯びてきた。神を信じなかった無神論者が奇跡を目の当たりにして、信心深い信徒に豹変したかのように、彼女もまた突如としてこの匣が奇跡の箱であることを信じるようになったのである。

 


匣の向こうでは陽子が笑顔で待っていてくれた。

「ようこそ、10年前の我が家に」

「うち、まだ信じられへんわ。ほんまにうちらは10年前の世界に転送してしもうたの? まるでターミネーターの話やんか」

「そう。まさにその通りなのよ」

「その通りって、何やの。うちらは、誰かを抹殺しに10年前に転送させられたの?」

「当たらずとも遠からずってやつよ。あんたの計画が前倒しになりそうなのよ」

「うちの計画って、日銀を支配するやつのこと?」

「ビンゴ!。これは、昨日天啓のように閃いたのよ。これ昨日の朝刊よ」

そう言って多田に新聞を渡す。

「日銀で不祥事」多田は、声を上げて一面の見出しを読む。「十億円が消失。なにこれ。10年前というと、うちらが院生の頃のことじゃん。あの時代にこんな事件あったけ」

「さぁ。単に私たちは興味がなかっただけかもしれない」

「でも、その十億円は一つ桁が違うという話もあるらしいのよ。つまり百億円が一夜にして消えてしまったのではないか、と」

 


「へぇー。でも、それとこのおかしな箱とはどぉいう関係があんのよ」

「実は、私はとんでもないことを発見してしまったの。この日銀事件の犯人は私たちじゃないかって」

「えっ、どぉいうことなんよ。ますます訳が分からなくなってきてしもうたわ」

「その前に、あんた黒ちゃんとはどうなの。もちろん、うまくいってるんでしょ」

「いってるよ。もう、これ以上ないくらい。でも、それとこれとどぉいう関係があるん?」

「いい、よく聞いて。ここがこの話のキモなんだから」

「いいよ。早く説明してくれる。うち、もうたまらんくらい興奮してきたわ」

「私たちは、これから現在に戻って、黒ちゃんにこの匣の日銀へに移送を頼む。今の彼、なんて言ったっけ? あの歳で日銀の重要な地位についてんでしょ」

「彼を犯罪に巻き込むのはやめといて。彼はまだまだこれから使い道があるんだから」

「それはもちろん、私も承知しているわ。でも、ほんとはあんた、彼にゾッコンなんでしょ!これからも使い道があることは、私もそう思うけど、あんたは愛しい男を綺麗なままにしておきたい、それがホントの気持ちじゃないの」

「そうやね。ホンマその通りなのかも知れへんわ。そしたら、彼を巻き込まないという条件付きで、うちもあんたに付き合ってあげるわ」

「オーケー。じゃあ、早速元の世界に戻って計画を実行するとしましょ」

 


陽子の計画は、次のようなものだった。

 


10年前の朝刊に書かれていた事件のあらましによると、当時間帯に大金庫は開いており、この時に停電が発生した。発電機は回らず。非常照明も点灯しなかった。ただし、金庫扉はUPSによりモーターが稼動し自動的に閉鎖した。職員が一人中に閉じ込められたが、大金個室には非常用の小さな穴が二箇所あり、これには潜水艦のハッチのような円い扉が付いている。緊急時にはこれを開けて空気や水、食料を供給する。金庫室内には簡易トイレもある。

新聞によると、この停電の間に十億円が忽然と金庫から消えてしまった。実際には百億円とも言われている。

 


陽子は、この記事を見て計画を考えたというのだ。おそらく彼女は、短い期間ではあったが寺門と深い関係にあったことから、橋下老の言う因果は表裏の関係にあり一つの塊であるという理論を真に理解していたといえるのかも知れない。

つまり彼女は、過去の日銀事件を自分たちが実行犯であったことを知らずして、新聞記事が書いたままに実行することによって因と果を結びつけようとしていたことになる。結局のところ、成功は、結論づけられていたのだ。

 


実際には、陽子は多田をうまく説得して、黒崎の荷物を匣に入れて日銀に送り込むことに成功した。トロイの木馬の逆バージョンである。木馬の中身より木馬そのものを送り込みたかったわけである。

それは思った以上に簡単なことであった。もちろんのこと、それは黒崎という今や日銀の枢要な人物あってのことであった。さらに、多田は今では黒崎の夫人と見做されていたから、彼女が本店に入って、見学の名を借りてあちこち重要な設備を見て回ることも容認された。彼女は、特に電気設備について熱心に、詳しく見たり聞いたりして、技術者たちをその豊富な知識で驚かせた。

51というのは、電気設備の中でも過負荷という電気の使いすぎを検知する保護装置に付けられる番号で、彼女はこれについて案内してくれた電気技術者に質問をした。この技術者は、よもやの質問にしどろもどろになってしまった。もっとも、彼が困惑したのには他の理由もあった。

彼の名は椙山と言って、10年前の事件のときも電気の技術者として在籍していて、この事件にここの特高電気設備が関与していることをよく知っていたのである。だから、彼の中では、多田がこのような質問をすること自体が気にいらなかった。しかも、51というのは、ど真ん中の直球であった。

椙山は、内心「この女は油断ができん」と思った。

 


「あら、詳しいことは別にいいんよ。うちが知りたいんは、どれがその装置なのか、マルチリレーってやつかってことだけ」

「ちょっと待ってくださいね。今この図面で調べますから」椙山は、焦っていた。なぜ、このように若くて美しい女があの事件に深く関わっている過電流要素などについて訊いてくるのだ。この女は、内調か何かなのだろうか? いずれにせよ、あの事件については強い箝口令が敷かれている。迂闊なことは言えない。

ところで、椙山が見ているお図面というのは、A1サイズの大きさのアルミ製フレームに納められた、いわゆる単結図でアクリルの透明なカバーがかけられている。様々な電気機器の細かい部分までが書き込まれていて、椙山は図面を見るまでもなくそのマルチリレーの場所を熟知していたが、わざと時間をかけて、自分が事件に関与していないことを示そうとした。そして椙山は図面を見ながら、やっとマルチリレーの場所が分かったようなリアクションを示すと、多田をそこまで連れて行った。それは、二つあるトランスのそれぞれ二次側の遮断器に使われていた。つまり2カ所に設置されているのである。

 


多田は、ひとりでこの辺の技術的なことを学んでいた。受変電システムについての専門書を読み漁ったのである。2週間これを続けて、先ほどのように電気の技術者を困惑させるくらいの知識を身につけた。元々地頭が良かったから、その気になりさえすれば、それがなんであれ一流になれる素質を持っていたのだ。

多田は、このマルチリレーの設定を変えて、ある程度電気の負荷が増えた時に、このまま過電流継電器と呼ばれるこのリレーがトランスの過負荷を検知して遮断器をトリップさせるつもりであった。そこまでのことは新聞や週刊誌には書かれていなかったが、研究を続けるうちにこの結論に至ったのである。そして、その成功は、自ずと「約束されている」のである。

だが、彼女にはもう一つやらねばならないことがあった。それは、発電機である。新聞によると、停電しても発電機は運転しなかったということだ。これの意味するところは、自分が発電機が運転しないよう何か仕掛けをしたのである。そして、それは成功した。成功したから現在がある。このことは、陽子が最近ことあるごとに口にする言葉であった。

多田は、椙山に発電機室を見せてほしいと頼んだ。

椙山は、内心ますます不審を募らせていた。

「なんなんだ、この女は」という思いである。「あのとき」と彼は10年前の事件を思い起こしていた。「発電機が運転しなかったのは何故か」と、彼自身も彼の同僚らも、そして会計課電気係長であった江波戸さんも詰問された。結果的にはタービン発電機の燃料バルブが閉められていたことが原因であったと判明したが、このバルブが閉められることはまずあり得なかった。しかも2機ある発電機の2機ともがである。サボタージュであることは間違い無いと椙山には思われたが、組織としての結論は、電気係の「怠慢」と「過失」であった。江波戸係長は、椙山も尊敬する明るくて有能な人であったが、難癖をつけられて降格させられ、果ては刑務所にまで送られてしまった。「彼は、今頃どうしているのだろう」と、椙山はふと江波戸の顔を思い浮かべた。「そういえば、彼の後任の係長が江波戸と懇意だったことから、彼に頼まれて、彼の勤め先の保証人になったと話したことがあったなぁ」

 


「ちょっと、電気屋さん」

椙山は、はっと我に返った。多田は、怒っている様子はない。軽い笑いを含んだ叱責であった。

「発電機室というのがあるんでしょ」

「そうでした。つい、ぼんやりしてしまって」

「あら、やっぱ、そうやったんや。なんか考え事をしてはるような様子やったさかい、ちょっとばかり大きな声になってしもうたわ。堪忍してな」

「いえいえ、こちらこそすみません。発電機室は隣ですから、すぐにご案内できます」

 


椙山は、ポケットからカールコードに付けた鍵のセットを取り出すと、マスターらしき鍵の一本で電気室隣にある発電機室の、発電機など大型機器の入搬出時に使う大きなタイトドアに付けられた小扉を開けた。

だだっ広い部屋の中に巨大な箱が二つ並んで据え付けられている。それがガスタービン発電機であった。

 


「中をご覧になりますか?」

「そうやね、なんや、おもしろそうやから、ちょっと覗かせてもらうわ」

椙山は、どこからかハンドルキーを持ってくると、発電機のケーシングについた扉を開けた。

すぐに照明が発電機のタービンと減速機を照らし出した。タービンは三つがパラレルになっていて、椙山が言うには三流一軸という形になっている。

「へぇー。すごい。うち、こんなん初めて見たわ」

「そうですか。でも、電力会社の発電所などで使われているものと比べましたら、全然小さいんですけどね」

「そりゃ、そうでしょ」多田の発した言葉には幾分侮蔑が含まれていた。

「それで、燃料は何を使ってるの。ガスタービンといってもガスを使っているわけじゃないんでしょ」

「その通りです。ここでは軽油を使っています。重油を使っているところもあります」

「どんな風にその軽油がタービンに入ってくるのか知りたいわ」

椙山はまたギョッとした。「何故この女は、こんな質問をしてくるのだ。まるで、10年も前のあの事件を掘り起こそうとしているかのようではないか」

だが、椙山は冷静さを失わなかった。彼は建物の外にストレージタンクというものが地中に3基据えられていて、その容量が7万リットルで、合計21万リットルになること、そして、およそ1週間の間、停電が続いても業務が継続できることなどを説明した。

「ああ、そうなの」と、懇切丁寧に説明してやったにも関わらず、多田の反応はそっけないものだった。

「うちは、それよりも燃料の系統を、つまりやね、配管が知りたいのよ」

椙山の心臓はひとつおかしな脈を打った。

「この女は、本当に怪しい。いったいどこのスパイなんだ」彼は、このことを上司に話すべきか考えた。そして、自分一人の胸の中にしまっておく必要がないと決心した。

それはさておき、彼は多田に配管とそれに付随するバルブを示してみせた。

バルブは、発電機に近い床下のトラフに収まっており、配管経路に沿って幅30センチ程の鉄の蓋が被せられている。

「このバルブを閉めてしまえば、発電機は運転することはできません」椙山は、そう言って多田の表情を観察した。

「そりゃ、そうよね」と応じる彼女の言葉も椙山の言葉の意図を探っているように思えた。

そしてつぎに多田が椙山に要求したのは、

非常照明用のバッテリー設備であった。このとき椙山技術員は、これは絶対に上司に報告すべきだと決心した。あまりにあの事件のときに行われたサボタージュの実態をトレースするかのような要求ばかりだったからである。

それでもこの椙山は不信感を表情に出すこともなく、多田をまた特高室に連れて行き、そのバッテリーの入ったキュービクルを見せた。

「あらぁー」と多田はすっとんきょうな声を出す。

「これが停電で真っ暗になったときに最低限の照明を確保するためのバッテリーなんやね」

「その通りです。消防法で設置が義務付けられていて、万一、停電と火災が連続して起きたときには、避難するための最低限の照度を30分以上確保できる電源容量をもっています」

 


ともかく、こうして多田の準備は成功裡に終わった。陽子は、それを聞いて次にステップにも入った。

「ねぇ、ただぁn」と、いつも多田を宥めすかすときの甘い声音で言う。「いよいよ、黒ちゃんの出番なんだけど、彼、今度偉いさんになるって言うんで、本店内で引越しをするんでしょ。そのときに、この匣に本やら花瓶やら絵画やらを入れて送ることにしてほしいのよ。これ、どう見ても、そんな風に使うのに便利なだけのただの箱でしょ」

「あと、棺桶とかね」

「まぁ、それもありね、と今は言っとくわ」

「分かった。クニにはよく話をしとくわ。で、いつやる」

「明日の日曜日。車は、私が手配するわ」

 


陽子の計画は単純なものであった。黒崎が本店内で局長に昇進するということで、それに伴い、部屋のレイアウト変更や簡単な模様替えが行われた。黒崎自身も家から経済書など愛用の書籍などを搬入したかったので、多田からの提案はまさに渡りに船と好都合だったのである。

 


結局、月曜の午前中に匣は黒崎の執務室に運び込まれた。黒崎は、匣の出処などについて特に訝しがることもなかった。

多田は、今や黒崎の事実上の妻の地位にいたから、公然と彼の執務室に入り、匣から書籍や絵画の類、それに高価な花瓶などを取り出して、最も良い配置になるよう、黒崎の部下である職員に指図をした。しかも、それは誰が見ても好感の持てるやり方であったから、指示をされる職員もテキパキと笑顔で対応してくれた。黒崎は、椅子にどっかりと座って本を読んでいたが、それとなく妻の動きを観察していた。

「彼女は、本当にいい妻になってくれた。俺は、結局鮫島淑子を裏切ってしまったが、淑子もいい伴侶を見つけて今は幸せだと言うし、運命というものはまさに塞翁が馬で、何が災いし、何が福をもたらすか分からない」

そう嘆息とも安堵ともつかぬ感情に浸っていた。

「この立派な箱はどういたしましょうか」

多田の指図のままにすっかりと部屋を整え終えると、応接のソファに腰を沈めると、多田の用意した煎茶を飲みながら、職員が尋ねた。

「そうやね、実は、その箱はうちの友だちからの借り物なんよ。今日は一日ここに置いといて、明日の午後、その友だちが大きなバンで近くまで来てくれるから、うちとこの秘書さんで台車に乗せてもっていくということにしたいんやけど、あんた、それでええ?」と言って黒崎を見る。

「ああ、ええで」黒崎も笑って承知する。

結局、匣は一時的に執務室内のクローゼットに横にして置かれた。

 


その日の夜。多田は、黒崎には陽子の家に泊まるからと言って、黒崎を先に帰宅させ彼の執務室でぐずぐずしていた。

そして、黒崎が出ていくのを見送ると、部屋をロックした。それから、彼女は匣をクローゼットから引き出すと素早く中に入った。

10年前、黒崎の現在の執務室にあたるところは、会議室であったようだ。大きな部屋の真ん中に楕円形をした立派な木製の卓があった。十人くらいが会議に参加できる大きさである。

時刻は午後8時。彼女は匣を出ると、あらかじめ用意していた電気室の鍵の複製をペンダントにしたものを首から外した。

いよいよサボタージュの開始である。

特高室に入り、目指す変圧器一次側遮断器用の三菱製マルチリレーを操作する。手順を何度もシミュレートし、指先に覚えさせた。ハードロックキーも密かに入手していたから、ものの1分で設定をし終えた。一つ終えると、もう一つのマルチリレーはさらに短時間で設定をし終えた。

そして、非常照明用バッテリー装置に向かう。これは、盤の鍵を使って扉を開ける。タキゲンの200というありふれた鍵である。扉を開けると、中にブレーカーがぎっしりと並んでいる。それぞれに名称が付いており、フロアー毎、区画毎に分けられている。多田は、大金庫室の区画に相当するブレーカーを切った。

次は発電機室である。これは、燃料バルブを閉めるだけの操作であったから、手袋をしてただ右に回すだけのことである。これを発電機2台分行う。

サボタージュと言っても、やったことはただこれだけである。

「仕事」を終えると、多田は急いで黒崎の執務室に戻った。監視カメラが彼女を捉えていることは承知の上である。今頃はモニターに不審人物を発見した警備員が捜索に出ているかも知れない。しかし彼女は、10年後の未来からこの世界にやって来たのだ。いくらITVが鮮明にその姿を捉えていたとしても、まったく正体不明の人物で終わってしまうことは間違いなかった。いったい何処の誰が、画像に映った女が10年先の未来からやって来てサボタージュをやったなどと想像できるであろう。多田は当前、これを計算に入れていた。さらに、彼女の自信を深めていたのは「結果として」この計画が「成功していた」事実である。

 


残る問題は、停電が起きるタイミングであった。保護継電器の51はトランスにある程度の負荷がかかったときに発生するようかなり低めに設定をした。おそらく、大金庫室が開く頃が可能性として一番高い。

停電になった瞬間から数分以内にキャスターに乗せた匣を大金庫室に滑り込ませる。その匣には陽子が入っている。匣を金庫室に押し入れるのは多田の役目だ。

 


多田は匣に入った。黒崎の執務室に戻って陽子に電話する。

「上手くいったで。これからタクシーであんたのとこに行くから待っといて?」

 


陽子のマンションの地下駐車場にタクシーを乗り入れる。そして、昂る気持ちを抑えながらエレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。

 


陽子はワインを用意して待ってくれていた。

「お帰り」多田を久しぶりに家出から帰ってきた愛猫のように笑顔で迎える。そして熱いハグ。

「おおきに」多田も笑いながら応える。

「さて、祝杯は少し後にして熱いシャワーでも浴びてリラックスしてきて。それから計画を確認するとしましょ」

 


ワインではなく、それは冷えたシャンパンであった。しかも最高級の。多田はバスローブのままそれを受け取った。立ったままである。

「乾杯」と発声する陽子も立ったまま。

「乾杯」多田も朗らかにそう言って口に少しだけ含む。陽子も同様。これは二人だけの儀式なのだ。陽子は、グラスをテーブルに置くと、ワンピースの肩紐を解く。すっと床に落ちた黒い烏貝の上に真珠色したヴィーナスの誕生である。多田もグラスをテーブルに置きバスローブを脱いだ。そして陽子に抱きつき、シャンパンを含んだ唇を固く結んだまま、同じく固く結んだ陽子の唇に合わせる。互いの口中でシャンパンは混じり合い、それをお互いが呑み込むと舌を絡ませ合った。

そして、そのままゆっくりとベッドになだれ込んで行く。

陽子は「道具」まで用意していた。それを多田の中に挿入すると、多田はあっという間にアクメに達した。

「あんたのいくところ、ほんとにやらしいわね。黒ちゃんがほっとかないのがよく分かるわ」

「うちの感度がええんは、散々親父に仕込まれたからや。さぁ、今度はあんたの番や」多田は、自分に挿入されたお道具を外して陽子の中に突き入れる。「あっ」と声を上げて陽子もしばらくするとエクスタシーに達する。

 


そうしてしばらく睦みあった後、陽子は今後の計画について切り出した。

 


「いい? 計画の確認をするわよ。今は午前3時」と腕時計に目をやる。「5、6時間は睡眠が取れるわ。10時に私はバンを運転して日銀に行く。そして匣を回収してここに持ち帰る。そして私とあんたは向こうに転送する。そして匣にこのキャスターをあてがう」陽子は両手でスケボーのようなものを持っている。それは匣の幅に合わせた長さが80センチ、幅が30センチ、厚さ10mmほどの板で小さな車輪が二つ付いている。計画では、この板二枚を向こうに持って行き、匣の前後にベルクロで貼り付けるのだ。「向こうに行ったら、匣は大金庫室に近いゴミ庫に一時隠しておく。そのために、自分たちは日銀の清掃員のユニホームを着用する」

実は、陽子はすでにこれを二人分用意していた。清掃会社名を突き止め、日銀で働く女性と言葉巧みに接触していたのだ。しかし、さすがに彼女からユニホームを奪うわけにはいかないから、そのユニホームのデザインと色を写真に撮った。

それを元に二人のサイズにあったほとんど見分けのつかないズボンと半袖のシャツを知り合いに頼んで作らせていたのである。上下とも薄い黄色で一目で清掃員と分かるようなデザインである。

しかし、なにしろ10年も昔のユニホームであるから、今は当然日銀内では使用されていない。だから、頼んだ仕立屋にも、それがいったい何のユニホームであるのか見当もつかなかったはずである。

「私たちは、匣をゴミ庫に置いた後、一旦またここに戻ってくる。そして、停電の発生する時刻、13時を目途に再度向こうに転送する。そして、私を匣に入れたまま、あんたはなに食わぬ顔で、匣を大金庫室に向けて転がす。途中で停電になるわけだけど、あんたは暗視装置付きのこのメガネをかけているから、」と陽子は、テーブルの上に置いた最新鋭のARグラスを手に取った。もちろん、あの時代では、これは暗視装置以外には何の役にも立たないけど、それだけで十分よ。実際に試してみたけど、驚くほど鮮明に見えるわ。もちろん、カラーじゃないけど」

多田はメガネを取った。そしてかけてみる。

「軽い」と驚きの声を上げる。「ちょっと、電気を消してみて」

陽子が扉のそばまで行って言われた通りにスイッチを切った。

この時刻には、大都会の灯りはほとんど消えている。部屋は、裸眼では何も見えないくらいに暗くなった。

「キャ」と陽子が叫び声を上げた。多田が背後から彼女の両方の乳首を掴んだのだ。

それからは、またお決まりのように二人の痴戯が始まった。

「計画は必ず成功するんやろ。ほな、何の心配もいらへんやん。うちはもう一回あんたを味わいとうなってしもうたわ。な、やろやろ。うちは、ほんまにあんたが好きなんよ」

「それを聞いて、私も本当に嬉しいけど、あんたには黒ちゃんが居るでしょ。ホントはどっちが好きなの」

「それは、うちにもよう分からん。せやけど、あんたが好きなんは、嘘やない」

 


まぐわいは、二人のベッドでの痴戯は、これからの大仕事への興奮と相まって凄まじいほどのものになった。シーツは二人の体液でびしょ濡れになった。

そうして、ようやく二人が眠りについたのは五時を回ってからであった。

 


しかし、九時には二人揃って眼を覚ました。そして二人でシャワーを浴び、お互いをボディーソープと海綿を使って「隅々」まで綺麗にする。

それから身支度を整えて、地下駐車場に停めたレンタカーのバンに乗り込む。

日銀本店にも難なく入れた。黒崎の手回しのお陰である。執務室では、黒崎はきちんとネクタイを締めた姿でソファに腰を沈め秘書の男と何やら打ち合わせをしているところであった。

女性秘書がそこに二人を案内してくれた。彼女たちが来ることを予め伝えていたのであろう。扉は最初から開いており、ノックの必要もなかった。秘書はただ「お二人がお見えになりました」と声をかけただけである。

「どうぞ」という黒崎の快活な声がして、その声の通り明るい黒崎の笑顔が二人を迎えた。

多田は、さっとソファまで歩を進めると黒崎の隣に腰を降ろした。そして、笑顔から驚きの表情に変わった彼に抱きつき熱いキスをし始めた。

「見ちゃいられないわ」陽子は軽い怒りと嫉妬のこもった声を上げる。そして、椅子に座ったまま驚いて立つこともできない秘書の肩を軽く叩いた。

「ほっといて、さっさと仕事に移りましょ」

「はい」秘書は、それでも目が離せないようで中腰のまま生返事をする。

「早く」陽子の語気が強まる。

それでようやく、目が覚めたように秘書は立ち上がって匣を納めたクローゼットまで進んだ。二つ折りになった左右の扉を開くと、青みを帯びた黒い紫檀の匣が神々しく鎮座している。と言っても、神々しく見えたのは陽子だけで、秘書には厄介な重い箱としか写らなかった。

それにしても、長いキスであった。陽子は、多田が自分にヤキモチを起こさせるためにワザとやっているのだと思う一方、実際にヤキモチを焼いてしまっている自分に腹を立てていた。しかも、そのヤキモチの対象がタダッチなのか黒崎なのかも判然としないことが尚更怒りを増長させた。

「ちょっとタダッチ、いい加減にして、あんたもこっちを手伝いなさいよ」

その声に反応したのは、黒崎の方であった。

「いや、すみません」

抱いていた愛猫をそっと突き放すように多田の顔を両手で包んで優しく離すと、唾でてかった口を開いた。

「陽子、あんた妬いてんのとちゃう」多田は、手の甲で口を拭うとわざとらしく怒ったように言う。

「はいはい」陽子は冷静さを取り戻していた。「あなたたちの夫婦愛はしかと拝見いたしました。嫉妬を覚えるくらいでありました」

「和ちゃん」黒崎が多田の肩を軽く押した。「二人を手伝ってあげて」

「うん。そうやったわ。つい、あんたにひさしぶりに会うたような気になってしもうた。ほな、また続きは今夜ということにしよか」

そう言って、黒崎の頬に軽くキスして立ち上がる。

陽子も秘書の男も内心嵐が去った後のように憮然としていたが、気を取りなおして運搬作業に取り掛かった。

匣は、台車に乗せるには長すぎた。結局、黒崎がキャスター付きの椅子を二つ用意してくれて、それに乗せて運ぶことにした。

 


そうして、匣と二人の女は車中少しばかり諍いはあったものの、マンションに戻るとすっかり仲良くなってまた熱い抱擁を交わした。

しばらくキスの余韻に耽った後陽子が言う。

「あんた、本当にキスが上手いわ。黒ちゃんが夢中になるのもよく分かるわ」

「なにせ、すけべな親父仕込みやからねぇ。ほんま、この点では礼を言っとかとあかんわ」

「あんた、本当は義理の親父さんが好きなんじゃない? 本当に嫌いだったのはお母さんの方だったんでしょ」

「痛い指摘やなぁ、ほんま」多田の顔は不快そうである。「でも、うちも薄々は気がついとったんよ」

 


「さぁ」と陽子が話に区切りをつけようとして言った。「これから計画に必要な道具類の確認をしましょ」

 


彼女の言う道具とは以下のものであった。

布袋が100枚。大きさは90リットル。これに1億円を入れて10年前の日銀大金庫室からここに転送させる。重量にして10kgを100回、二人の女の手で移動させるのである。かなりの重労働ではあったが、多田も陽子も体力の点では一流のアスリートに劣らなかったから、楽ではないにしても可能であると信じていた。

それにバッテリー式の電動ハンドソー。小型の充電式掃除機、そしてユニホーム。布袋は転送させ易いように20枚を5つずつロールにして分け荷造り紐で縛っている。

 


「準備万端やん」多田が言う。「あんたは、ほんまにやることが早いし正確やわ」

「お褒めにあずかって光栄やわ」陽子は笑みを浮かべて言う。

しかし、すぐに真剣な顔に変わって言う。「いい? 確認よ。決行は5時。それまでは自由に過ごしていいわ。なんなら、家に帰って黒ちゃんに抱かれてくればいい。でも、いい。必ず今夜10時にはここに戻ること」

「分かっとる、分かっとる」多田は、ちょっと不満そうである。最近、陽子は少し自分に対してボッシィになっていると感じていた。

それでも多田は、陽子とハグをし頬にキスをして出て行った。

それを見送った後、陽子はひとりごつ。「彼女にはまだまだ使い道がある」と。

陽子は多田の不機嫌を敏感に把握していた。自分たちのような、ある意味傑物が二人同時に並び立つことなどできはしない。それは、陽子の確信であり、核心でもあった。将来、自分は必ず彼女を切る。ただし、黒崎をこの国を動かす政治家に仕立て上げた後のことだ。それまでは、決して自分の腹の内を知られるようなことになってはならない。

 


部屋の壁時計が、21時55分を指した。

ほぼ同時に多田が姿を現した。

ジーンズにポロシャツの簡素な姿である。靴もスニーカーであった。

「あんた、本当に黒ちゃんと一戦交えてきたみたいね」陽子はしゃがんでくんくんと多田の下半身の匂いを嗅ぎながら言った。

「一戦じゃないわ。お言葉に甘えて三回戦やってきたわ。彼、本当にすごくて」

「あら、あら。ご馳走様でございます」

そう言って陽子は自分のベッドに向かう。

「あんたは、もう十分満足したでしょうから、今夜は別々のベッドにしましょ。客室にみんな整えてあるわ。アラームも5時10分前にセットしておいた。起きたら、すぐ匣の前に来て」

「ラジャー」多田は応えて、客室に向かう。しかし身体はまだ黒崎とのまぐわいの余韻に火照っている。本音を言えば、陽子とも交わりたかったのだが、流石にそれは口にできなかった。

 


二人の女は、それぞれ違う理由から寝付けなかった。陽子は明日の仕事のため。多田は身体の火照りのため、である。

 


しかし、5時10分前、目が覚めた時には二人とも熟睡した後のように心身共にリフレッシュしていた。

二人は、ユニフォームに着替えた。そして、お互いをチェックする。名札はまったくの偽造であったが、誰も疑わないほど本物そっくりに作ってある。

「こんな若くて美人の清掃員が今どきいるかしら」多田が軽口を叩く。

「そうね。その点はちょっと気になるところね」陽子も多田に合わせる。確かに気になる点ではあったが、二人とも姿を見られないことが前提なのだ。そしてそれは、間違いなく確かなことなのだ。

 


5時になった。

二人は双子の姉妹のように匣から次々に10年前の日銀会議室に生まれ出た。陽子が姉で先である。

彼女は頭から穴に飛び込み、向こうの匣から上半身だけ出たところで両手をついて全身を引き出した。その彼女に、多田がキャスター付きの板を穴のこちらからあちらへ送る。そして多田は自分自身を穴に送り込んだが、彼女の場合は少し難産であった。多田は、逆子のように足から先に穴に入った。陽子が脚を引っ張ってくれたので、身体を捻りながら楽に転送することができた。

 


二人は無言でキャスターの取り付け作業に入る。二人で匣を横向けにし、糊の付いたベルクロを前後に貼り付ける。そしてすでにベルクロを貼っておいたキャスター付きの板をくっ付けた。貼り終わると匣を戻して完了である。ものの5分とかからなかった。陽子がその匣を前後に押したり引いたりさせた。動きは音もなくスムースである。

「さて」と陽子が口を開いた。「これから、いよいよこれをゴミ庫に運ぶわよ。ゴミ庫は地下一階。ここは2階だからエレベーターを使うけど、あんたは先にエレベーターまで行ってボタンを押して待機させておいて。私は匣を押してあんたの後を追いかけるわ」

 


こうして、匣のゴミ庫への移動は難なく終わった。これでステップ1は完了である。移動し終わると、二人はまた現在の陽子のマンションに戻った。

「どうってことなかったわね」と陽子。

「ほんま、気が抜けてしもうたわ」

「でも、次こそがメインイベントだからね。気を入れ直して頑張りましょ」

「そうやね。いよいよ、本番かぁ。なんか、うち緊張してきたわ」

「でも、成功は100パーセント保証されているんだから、緊張することはないわ」

「まぁ、その通りなんやけどね」

「停電は11時11分。まだ5時間以上あるわ。少し休んで、気持ちを鎮めましょ」

 


そして11時ちょうど、二人は再び匣に入った。

匣は変わらずゴミ庫にあった。

予め貼り紙をしておいたせいで、誰も不審に思わず、移動されることもなかった。 

貼り紙にはこう記されていた。

「近々処分予定につき、移動を禁止する」

ただこれだけであったが効果はあったようだ。この時刻までには清掃員が何人も出入りしているはずであったが、誰も不審物とは考えなかったのである。

二人は匣を出ると、すぐに準備にかかった。と言っても、停電時刻に合わせてゆっくりと匣を移動させるだけである。大金庫室までは距離にして50m。1分もあれば到着する。しかし、問題は途中に二つあるセキュリティガードである。二つとも自動ドアなのだが、専用のカードがなければ入ることはできない。しかし、彼女たちは最初からそのようなものは持っていない。

しかし、そのドアが突然開いた。同時にサイレンのようなものが聞こえた。

多田は、このために発電機室に仕掛けをしていたのである。それは、火災報知器を作動させることであった。彼女は発煙筒を3つ束ねたものを発電機室内に設置し、タイマーによって発火するようにしていたのである。それが停電時刻の1分前であった。つまり、10時10分にタイマーが入り、発煙等から煙が出て煙感知器が作動し、火災報知器が警報とアナウンスを流す。そして自動的に消防署に通報される。

自動ドアはセキュリティよりも避難が優先されるので無条件で開放になるのだ。

二人が二つ目の自動ドアを通過した時に停電が起きた。多田はすでにARグラスを装着している。暗闇の中、大金庫室の扉が閉じようとしているのが見えた。

「急がんとあかん」多田は陽子を促して猛スピードで閉まろうとする扉をすり抜けた。誰も二人の女が金庫に入ったことに気がつかなかった。

金庫の巨大な扉が閉まった。

「ギリギリセーフや」多田が思わず漏らす。

「私は向こうに戻って袋とカッターをこちらに送るから、あんたは急いで札を袋に詰めて」陽子の声は落ち着いている。

そう言い残し、あっという間に穴に飛び込んだ。多田は猫のような、そのしなやかで美しいジャンプにしばし呆気に取られていたが、すぐに直径50センチの筒状になった布袋が穴から飛び出てきた。多田は匣に入ってさっとそれを両手で受け取ると、外に放り出した。これを5回繰り返すと、次に電動カッターが持ち手から先に穴から差し出された。多田はそれを受け取り匣の脇にそっと置いた。そしてすぐにロールの紐を解いた。

ダンスホールのように広い金庫室の一隅を何千とも何万とも知れぬ数のコンテナが場所を占めている。

これから彼女は、その一つずつを取り、中に収められた一億円の札束を袋に入れるという作業を続ける。そして入れ終わると口を縛って穴の中に落とし込む。袋は一つ10キログラムにもなったから、落とし込むとは言っても大変な重労働である。これを100回も繰り返すのだ、と考えると気が滅入りそうになる。しかし、百億円の魅力が大量のアドレナリンを血中に放出させ、多田を奮い立たせた。多田は床に下ろしたコンテナの端に広げた袋を被せ、上手にコンテナを傾けて、帯封のされた100万円×100個の塊を袋の中に崩れ落させた。そしてそれを軽く縛ってから匣の穴に落とし込むのだ。

匣の裏側、つまり10年先の匣の中で待ち構える陽子は袋の底から先に出てきた1億円を軽々と匣の外に放り投げる。これから100袋もの金が部屋を満たすことになる。しかもそれは成功が約束されているのだ。そう考えると、次から次へと多田が送り込んでくる袋はその重さも半分の5キログラムしかないようにさえ思えた。

作業は計算通り、1時間で終わった。最後に多田が穴から出てきた。彼女は部屋一杯になった袋の山に感嘆の声を上げた。「100億円。めっちゃすごい量やん」

「あんたはまだ仕事が残ってるでしょ。すぐに戻って、匣を処分して」

そう言いながら、陽子は山となった袋を台車に乗せている。台車に五つづつ乗せて、予め空にしておいた客室に運ぶのだ。

日銀の金庫室に戻った多田はARをかけたままハンドカッターを手に取ると、手順通り、慣れた手つきで匣を解体し始めた。カッターは鋭い音を立てて匣を切断していく。最初はサイドの二箇所に切れ目を入れ、次に四隅に切れ目を入れる。そして、今度は縦の2箇所と順調に匣は切断された。多田は次に匣を横に寝かせる。そして、横板の底の部分を切断していく。途中でバッテリーが上がってしまったが、それも計算の範囲であった。すぐに予備のものに装着し終えると再び、解体を始める。こうして20分かけて匣を小さな板切れにまで切り終えると穴の部分だけが残った。この穴に板切れと屑をいくつかの袋にまとめて全て放り込む。そして最後に自分とカッターと小さな掃除機を穴に放り込んだ。

陽子のマンションに出てくると、匣の穴を封印する。例の時空転孔と墨書された紙が貼られた薄い板である。これで、彼女たちの犯罪は完璧に封印されてしまったのである。

日銀の大金庫室にはなんら犯罪の痕跡は残っていない。ただ、100億もの金が忽然と消えてしまったという事実だけが残された。

 

 

 

陽子と多田は客室に運び込んで山のように積み上がった札の入った袋を前にして改めて自分たちの「偉業」に感嘆の声を上げた。

「とうとうやったわ」と陽子が満面の笑みを浮かべて言った。

「うちらがやったことが歴史に残らないことだけが残念やわ」と多田がやはり笑みを浮かべて言う。

「歴史はいつも影の力によって動くってことなのよね」と陽子が応える。「でも、祝杯を上げるのはもう少し後にして、この宝の山を整理したいわね」

「そうやけど、これだけの量のものをいつまでもここに置いとくわけにもいかんのとちゃう。まぁ、あんたのことやからその辺のことも計算済みやはと思うけど」

「黒ちゃんに役に立ってもらうわ」

「えっ」多田が青ざめた。「あんた、なーに言ってんの。黒ちゃんには一切関わらせないと、うちと約束したやないの」

「黒ちゃんには政治家になってもらう。そのためには選挙費用や宣伝費や、なんやかやと莫大な金が必要になってくるわ」

「でも、今必要なのはこの大量の現金をどうするか、ということやないの」

「そのために、黒ちゃんには一肌脱いでもらう必要があるの」

「結局、あんたは彼を利用しようとしているんやないの」

「まぁ、そう怒らずに聞いて」陽子は、

そう言うと冷蔵庫に向かった。冷えたシャンパンとグラスを二つ持ってきて、リビングのテーブルに置いた。そして、再び大きな冷蔵庫の観音開きになった扉の両方を開けると、中から大きな銀のトレイを両手を広げて取り出した。見ると、それには様々な料理が一杯に盛り付けられている。サラダやサンドイッチ、様々なチーズ、フルーツなどでカラフル、かつボリュームいっぱいである。

唖然としている多田に構わず、冷蔵庫の扉を足で閉める。

そしてテーブルの真ん中にそれを置いた。

「祝杯は後にしようかと思ったけど間違いだったわ。今私たちに必要なのは、栄養と休養よ。まず、二人の前途が揚々なのは最初から決まっているけど、とりあえず、それに乾杯しましょ」そう言って、コルク抜きで栓を抜き多田のグラスに注いでやる。続いて自分のグラスにも注ぐと、なにを思ったか、多田の肩にそっと手を置き、シャンパンのボトルを持ったまま二人で百億の札束で一杯のゲストルームに進む。空けっぱなしの扉の向こうにベージュ色した袋の山が見える。陽子は、多田にボトルを持たせ、

「いい。これは二人の門出の崇高なる儀式よ。二人でボトルを振ってシャンパンをあの宝の山に吹きかけるの。いい、指で口をしっかり押さえてから思いっきり瓶を振るの。そしてお宝と自分たちにもかけるのよ」

多田は、最初は気乗りがしない様子だったが、崇高な儀式だと言われると、しないわけにはいかなかった。二人でゲストルームに入ると、言われた通りに瓶の口を左手の親指でしっかりと押さえ、そして右腕に抱えるようにして大きなシャンパンボトルを盛大に振った。

炭酸ガスの圧力により、琥珀色の液体が吹き出した。多田は、それを宝の山にかけ、続いて陽子にかける。しかし、陽子は叫びもしなければ手で顔や髪を覆うでもなかった。平然としているが、顔だけは笑みを浮かべている。多田はそれに少し驚きながらも最後に自分自身の頭上にも噴射させてそのシャワーを浴びた。そしてその冷たさにきゃっと小さく悲鳴をあげた。しかし多田は、冷たいシャンパンが額から鼻の両脇を通って口元まで落ちてくるのを唇で受け、舌で口内に誘導した。

「これってビクトリーシャワーって奴やん。うちF1レースでこれをやってんの一回だけ見たことあるわ。うちら、ほんまにすごいことやったんやわ」

「あなたには、これからももっともっとすごいことがたくさん起きるはずよ」陽子は多田の機嫌が回復したのを確認すると、彼女の肩を押して二人でリビングに戻った。

「さあ、改めて乾杯よ。二人の栄光ある未来に」

「うちらの栄光ある未来に」多田も嬉しそうな顔をする。

陽子は、この辺が彼女のまだまだガキの部分だなと思う。が、すぐにグラスを目の高さまで上げると、

「乾杯」と朗らかに声を上げた。

「かーんぱい」と多田も唱和する。

シャンパンを飲み干し、グラスをテーブルに置くと、お決まりのように二人は拍手する。

「さて、あんたの気が少し変わってくれているといいんだけど」と陽子が笑顔を作って多田を見る。

「分かった。計画だけでも聞かせてくれへん」

陽子は、彼女の長大な計画の要点を話した。

 


それは、まず100億円を50億ずつ二人に分けること。そして、二人は共に父親の会社の取締役で財務を担当しているので、会社に金庫室を作り、ここにその50億を移送させる。そのために、ジュラルミンコンテナを10個制作させ、一個につき5億、およそ50kgを詰め込みバンに乗せて運ぶのである。これには人手が必要になるが、これに黒崎を使う。つまり、この時点で黒崎を自分たちの一味にするのである。ここは、多田が最も気に入らないところであったが、黒崎は将来日本を背負って立つ人物である。これくらいのことは今からでもやれないはずはない、との陽子の説得によって、

多田は覚悟を決めたように頷いた。

「分かったわ。こうなったら、うちらはみんな一蓮托生ちゅうやっちゃね」

「あとは、あんたがクロちゃんを上手く説得してほしい。あんたが今言ったように、私たちは一蓮托生になるんだから、私も一緒に説得してもいい。その場合、彼も大いに野心を持った男だから、この国を動かす政治家に必ずさせるというところがキーワードになるはずよ」

「分かったわ。前から思うとったけど、あんたはほんまに策士やなぁ。マキャベリストやわ」

「おおきに。気に入ったわ、そのマキャベリストってやつ」

陽子の計画では、黒崎にはもう一つ役割があった。それは、T銀行に100億の融資を行うというものである。尤も、T銀行の磯山を使って陽子と多田の会社が50億の金を借りたいと言っているので、現金が必要だという理由をつけてのことである。磯山は多田和江に弱みを握られているので、この話を断るわけにいかず、自ら決裁をしてそれぞれに50億融資を行った。

 


計画はとんとん拍子に進んだ。結果的に、陽子も多田も50億の現金と50億の当座預金を手にしたわけである。

陽子の父親は、既に経営から身を引き会長として君臨するのみの存在となっていた。今は陽子が実質の経営者として、社名もサンカメリア貿易会社と改め、中国との貿易に軸足を移そうとしている。このため、中国共産党の要人と強い関係を築き、今や彼の家族の一員のような待遇を受けるようにさえなっていた。

一方多田は、黒崎が近い将来、政界に打って出ることができるようにあらゆる工作を行った。パーティーを開き、何名もの政界の重鎮とコネクションを築いた。このために億単位で金が出ていったが、彼女にとっては、ローリスクハイリターンの投資であり、何ら痛痒を感じなかった。

なにしろ、彼女も今や父親から陽子同様に会社の実権を譲渡されていたから、金庫の中でただ大金を眠らせておくようなことはしなかった。

多田のこのような努力も勿論大きかったが、黒崎の名は、日銀内部にとどまらず金融界隈で知らぬ者がないほどになっていたから、彼を売り出すことは多田自身が拍子抜けしてしまうほどスムースに進んだ。

また、彼は弁が立つ上にその志も並の政治家では太刀打ちができぬほど理論に裏打ちされたものであったから、出馬宣言をした時点で衆議院議員当確は間違いなしとなった。

こうして、赤いキツネと緑のタヌキの計画は二つの大きな車輪となって回り始めたのである。

 


そうして10年が過ぎた。サンカメリアは巨大貿易会社となり、黒崎は総理になっていた。しかし、ファーストレディとなるべき多田の姿は、そこにはなかった。

多田和江は自宅の浴槽で溺死していたのである。黒崎が首相に選ばれた直後のことであった。黒崎には世界中から同情の声が集まった。

 


ところで、陽子のマンションに残された匣に話を戻すと、陽子はもちろん、これを手放したくはなかった。しかし、宮前から脅されて返さざるを得なくなったのである。
それは100億を盗み出した翌々日の早朝のことであった。電話がずっと鳴り続けるので、こんな早くに非常識な、と思いながら出ると宮前であった。

「今、俺はここのマンションの駐車場にいる。匣を返してもらいたい。さもないと、直ちに警察に踏み込ませる」

陽子は、状況をすぐに飲み込んだ。宮前は、かけてきた時刻、それになにより声音からして本気である。しかも、江波戸も一緒だ。

陽子は、直ぐに決断した。ここは、返すしかない。

しかし、二人を中に入れるわけにはいかず、彼女は匣を引きずってドアの前まで持ってくると、ロックを解除したまま、奥に引っ込んだ。

二人の男は、無言のまま匣を持ち上げると、用意してきた台車に立てて乗せ、ストリングで強く固定した。エレベーターを使って地下駐車場まで降ろし、停めていた青いバンに載せた。

江波戸は運転席に座ると、緊張が解けたのか、助手席の宮前にはじめて声をかけた。

「案外でしたね」

「そりゃぁねぇ」と宮前がハンカチで顔の汗を拭いながら言う。「流石の彼女も100億の現金が見つかったら、どういうことになるかくらいは分かってるだろうからね」

「でも、我々がその金のことを知ってることを、彼女は知ってたんでしょうか」

「いや、それはないと思うね。もしそうなら、我々は今頃この世にいなかったと思うよ」

「そんなに恐ろしい女だったんですか、あの女は」

「そうでなきゃ」と言いながら宮前はエアコンの温度を目一杯下げる。画面は18℃を表示した。「あんなだいそれたことができるわけがない」

「たしかに」と江波戸が頷く。そしてバンをスタートさせた。

 


こうして匣は、そのまま寺門家の蔵に戻された。もちろん、寺門には予め訪問は伝えてあった。ここでも、再び橋下の力を借りて蔵の扉を開け閉めしなければならなかった。彼は、バンが蔵の前に着いた頃には既に匣から出てきていた。

そして、扉の錠を開け、自らも手伝って匣を蔵の中に元通りに収納すると、再び匣に入って島に帰っていった。

 


多田を失った黒崎総理だが、その喪が明けないうちから椿陽子と様々な席に姿を現すようになっていた。尤も、世間が知らなかっただけで、多田和江の存命中から二人の仲は知る者ぞ知るという関係にあったのである。

和江の死は、これを苦にしたものであったという噂もあった。また、陽子の指示で誰かにインスリンを打たれて浴槽に放置されたのだという話もまことしやかに囁かれていた。

 


結局、多田の死は司法解剖の結果、事故死と結論づけられた。いずれにせよ、この後は陽子の思うままにことは進んだ。彼女は、自らの貿易業拡大のために中共の首脳と度々密談を行った。また、世論を親中に傾けるために、ありとあらゆる工作を行い、ついには黒崎を動かして日中同盟まで締結させるにまで至ったのである。当然、日米同盟は破棄された。

もちろん、ここに至るまでアメリカは手を拱いていたわけではないが、緑のタヌキが一枚も二枚も上手だったのである。アメリカには、もはや二正面、三正面作戦を遂行できる力はない。にもかかわらず、彼の国は他国の紛争や戦争に関わって事態を悪化させているだけである。この時季を逃して日米同盟から日中同盟へとスイッチさせる機会はない。陽子はそう考えていた。

日本国政府は、中共の意を汲み、その第一弾としてFRBに預けている金の回収を企図しアメリカへ通達した。これはアメリカへの嫌がらせで児戯のようなお粗末なものであった。しかし、その第二弾として米国債を中国へ売却すると宣言したとき、両者の決裂は明らかとなった。両者は親友から敵へと見事に変貌したのである。

アメリカの怒りは凄まじく、今直ぐにでも日本を攻撃しかねない勢いであったが、後ろに巨大化した中共が腰に手を当て凄んでいるのが見える以上、簡単には手出しができなかった。

 


このような世界情勢の中にあって、寺門もようやく蟄居から目覚めるときがきたと感じるようになっていた。

彼は、自分が橋下であることを自覚するようになっていたのである。

「遅きに失したわけではない」彼は独りごつ。

そして、リース会社からユンボを借り出した。

それを一人で操作し、蔵の前の土を掘り返し始めた。

 


一方、島からウォーターベアで脱出した橋下は、一路東京湾を目指した。と言っても、航路はAIに全て任せている。海底の地形は、あの地震により全く変わってしまい、さらに船や航空機の残骸に衝突する恐れが高い。従来の地形図に頼って航行するわけにはいかないのだ。AIは安全を優先して水深20mを10ノットの低速度で進んだ。

モニターで見ると、水温や海流、気象といったすべてのデータが大きく変わってしまっている。

 


東京湾も散々たる有様であった。浮上したウォーターベアからデッキに上がって、橋下は双眼鏡を構えた。摩天楼と呼ばれるような光景はどこにも見当たらず、曇天の下に広がるのは真っ白な雪原であった。ちらほらと雪が舞い始めた。

橋下はウェットスーツに身を包んでいたが、頬に冷気を感じた。

スカイツリーもなければ東京タワーもない。全てはあの女のせいで。

もはや怒りはなかった。彼に残ったのは虚無の二文字であった。そして、底の知れぬ深淵を覗いているような恐怖。

だが、彼はその虚無と恐怖を乗り越えねばならなかった。そのために、俺は今ここにいるのだ。

しばらくすると、日の出埠頭上空に花火が上がった。グレイの空を背景にそれは見事な金色の菊の花弁を広げた。

生きていてくれたか。

橋下は、それが「解っていた」ことながら、ある種の感激を覚えた。

10年前、橋下は寺門を説得し家宝ではあったが寺門には猫に小判であった骨董品を全て処分して、古巣の研究所に寄付するよう働きかけた。その寄付金によって、研究所地下深くに核シェルターを作らせたのである。

宮前と江波戸は、その意味をよく理解していたから、計画は直ぐに実行に移され立派なシェルターが完成した。研究所の職員全員が1週間生活できるだけの食糧と水、トイレ、空気清浄装置や毛布などが用意されていた。

しかし、ほとんどの研究員はシェルターの意義を

理解していないどころか、その存在さえ知らない者も多くいた。

橋下は、手にしていた信号ピストルを空に向け引き金を引いた。向こうと同様に金色の菊が花開いた。それを見届けると、橋下は船内に戻り、Cyappyと名付けたAIに埠頭近くで浮上して「匣」を収納したユニットを切り離すよう指示した。

Cyappyは「アイ」と応えて指示通り、最も安全で最短の航路を進んだ。

 


埠頭は見る影もなく、ただぶ厚く積もった雪に埋もれていたが、そこには黄色く塗られたブルドーザーのようなものが待機していた。その横で手を振っているのは宮前と江波戸であった。

ウォーターベアが船腹のハッチを開け、ユニットを排出させた。ユニットは、カプセル状になっていて、その中に緩衝材に保護されて収められているのは匣であった。

特別に改造された重機からロケットのようなものが海面に発射された。その飛翔体はワイヤーを引っ張りながら海面近くを緩やかな弧を描いて100mほど飛んで着水すると水面を何度か跳ねた後、円筒形をした赤いゴム製フロートを膨らませた。

匣を入れたユニットは、すぐにそのフロートを目指して進み始めた。フロートの先には直径300mmの強力な磁石が組み込まれている。それがユニットの先にくっついた。ユニットは、ただ磁力によってくっついたのではない。ユニット先端のラッチ機構が働いて強固にワイヤーと連結したのである。

重機が青い煙を噴出させた。電動ウィンチによってユニットを引っ張り込もうとしているのである。やがて、ユニットは、埠頭際の重機近くまで引き寄せられた。ブルドーザーのウィンチはジブの先に付いている。それを江波戸が外から操作して3メートルほど伸ばし、垂直に近い角度でゆっくりとウィンチを巻き上げ始めた。ユニットは白く塗装されているがFRP製で重量は匣を含めても200キロほどである。

ユニットはそうして高く釣り上げられて、ジブはそのまま後方に回転しバケットの中に降ろされた。

橋下はゴムボートにエアーを注入しながら、その様子を見届けていたが、ボートが膨れ上がるとそれに乗り込んで海面に滑り落とした。埠頭まで50メートルの距離まで既に近づいていたから、ボートを漕ぐのにも大した労力を要さなかった。

埠頭に着くと、宮前がナイロンスリングの一端を下ろして橋下に渡してくれた。彼がそれを脇の下に巻き付けると次にフックの付いたロープが降ろされた。橋下はそれをスリングのアイを通してロープに引っ掛けた。ジブは今、橋下を釣り上げるために旋回している。江波戸の操作によって橋下は真っ黒なアザラシのように釣り上げられた。スリングの青が際立って見える。

無事雪の地上に降りると二人が大喜びで迎えてくれた。

「橋下さん。お元気で何よりです」と宮下。

「本当にお懐かしゅうございます。本当にいつまで経っても若々しい」江波戸の発言に橋下はちょっと首を傾げた。

「あれ以来、わしには時はほとんど流れてはおらんぞ」

「ああ、確かにそうでした」と彼は少し顔を赤らめた。

橋下はユニットがしっかりバケットに固定されていることを確認すると、慣れた身のこなしで特殊に改造された重機に乗り込んだ。他の二人も皮のブルゾンを脱いで、暖房の効いた操縦席に乗り込んだ。この機械は重機をこのために改造したもので、前後に二人ずつ計4人まで乗れる設計になっていた。

橋下は、匣の中に衣類などを詰め込んでいたが、今はウェットスーツの上をはだけて上半身裸になっていた。中は暖房がよく効いていて暑いほどだったのである。

「向かう先は既にプログラムしてあります」宮前が言う。「しかし、驚きましたよ、本当に。まさか、こういうことになるとは」

「これは壮大なループを完成させるための最も重要なパートになる。寺門家の全てがこれによって完結するのじゃ」

 


重機はゆっくりした速度で目的地に向かって、雪を後方に吹き飛ばしながらゆっくりと前進し始めた。GPSなどは使用できない。しかし、Chappyはここでも活躍していた。東京は道路という道路が全て瓦礫と損壊して鉄屑になった車で埋め尽くされている。そしてそれらは深い雪に埋もれているのである。それを見越して、橋下たちの重機には特殊な装備がされている。その一つがジェットタービンによる除雪装置である。またChappyは、道路の状態をジブの先に付けられたソナーで探りながら進んでいる。故に、走行は簡単なものではなかった。日の出埠頭から東京駅まで2時間もかかった。除雪をしながらの、そしてユニットの中の匣を傷つけないよう細心の注意を払っての走行だったからである。

それはまさに無人の荒野を行く旅であった。途中、一切人にも他の生き物にも会わなかった。

人類も大型の哺乳類もほぼ絶滅してしまったのである。

「研究所のシェルターはどんな具合かね」

この橋下の問いに二人はしばし黙り込んだ。

「私たち以外には、犬が二匹と猫が多数、それに小さな男の子と女の子が一人ずついます。これで全部です」江波戸が重い口を開いた。

「職員は誰もシェルターには入らなかったのじゃな」橋下は初めから承知のことであったのだが、確認の意味で聞いたのだ。

「その通りです。地震の後の津波があまりに巨大すぎて、シェルターに避難できる余裕はありませんでした。職員たちには文書やSNSで巨大地震と大津波について知らせる努力はしていたのですが、信じる者はほとんどいませんでした。シェルターの建設時には、そんなものに何の意味があるのかと反対する者ばかりでしたからね」

「小さな男の子と女の子と言ったが、誰の子供なんだね」

「それがよく分からないんですが、近くで遊んでいるときに地震に遭って、運良く研究所内に逃げ込むことができたようです。しかも、職員たちが津波を恐れて上に逃げようとするところを、逆に地下に駆け降りてきた。それを私が見つけて保護したというわけです」と江波戸が言う。

「それで、今その子たちは?」

「今頃は人工太陽光の下で犬や猫たちと元気に遊んでいるはずです。私たちは大事な仕事があって、二日ほど留守をするが、寂しがらずに元気に遊んでいなさい、と言って出てきましたが、早く帰ってきてねと手を振って送り出してくれましたよ。あれを見ると、どうしても早く

帰ってやらねばという気になってしまいますね」

江波戸の言葉に宮前も大きく頷いた。

「ところで」とその宮前が後ろに首を回し、席をリクライニングにし目を閉じている橋下に訊ねた。「あの女はどうなったんでしょうか」

アメリカが核魚雷を爆発させる前、黒崎に警告があった。しかし、陽子がこれを無視するよう黒崎を説得した。自分たちには日中連盟があるから、決してアメリカは日本を攻撃しない、とな。言った。しかし、アメリカは同盟を破棄された上に、基地の撤退、FRBに預託している金の回収、さらには国債の中国への売却など、煮え湯を飲まされ続けてきた。みな、あの女の差金じゃ。米国の危機感は大東亜戦争時の日本のようなものじゃった。そこで、大統領は、異例中の異例じゃが、専用機で来日し緊急の首脳会談を持った。もちろんアメリカは、黒崎の後ろに椿がおり、その背後には中共がいることなど承知していた。彼らの真の目的は、黒崎と椿を拘束しアメリカに移送し犯罪者として逮捕、勾留するというものじゃった。会談が不調に終わることは最初から分かっておったが、真の目的は、駐日大使館と軍を使って二人を確保することであった。そして大統領がエアフォースワンで帰国するときには、なぜか黒崎と椿も同乗していたというわけじゃ」

「信じられないような話ですね」宮前が言った。「しかし、アメリカも壊滅の状態じゃ、彼女たちも生きてはおらんでしょ」

「もちろん、生きてはおらん。しかし、その前にアメリカが大統領が下した制裁は、いや制裁というより拷問じゃな、それは凄まじいものじゃった」

「拷問?」江波戸が俄然興味を示して聞いた。

「二人揃って猿にされたんじゃ」

「えっ」江波戸と宮前の声はシンクロした。

アメリカは最新テクノロジーの実験台に日本の総理大臣とその愛人、いや実質上の妻を使った。アメリカの怒りがいかに凄まじいものであったかが分かろうというものじゃろう」

「それで、猿にされたというのは、具体的にはどういうことですか」と江波戸が訊いた。宮前も首を後ろに回したまま興味津々の顔である。しかし、橋下老は目を瞑ったままだった。

アメリカのある動物園では日本猿が一時大評判になった。一時と言ったのは、ひと月もせぬうちに終末戦争が起きたからじゃ」

「なぜ、評判になったんですか」と宮前が後ろに身を乗り出して言う。

橋下は目を閉じたまま、口を開いた。

「その猿二匹は文字が読めたからじゃ。それに、猿の口の構造上正確ではなかったが、人語を解し、喋ることもできた。英語と日本語、それにマンダリンじゃ。そして、観客の命令する通りに喋ったり、行動したりする様子が動画にも収められている。下品な話ではあるが、観客が交尾しろというと、しばらく躊躇を見せたものの、突然棒にでも叩かれたようなショックを受けたようになって交尾を始めたというものもある。これは削除もされず、世の中がこんなことになってしまう前までは、知る者ぞ知るという状態じゃった」

「へぇー。それは知りませんでした。しかし、そのテクノロジーというのはどういうものだったんですか」

「正直に言おうか。あれはすべて、わしの進言によるものじゃった。米国のある研究所で、二人は特殊な液体の入った水槽の中で深海魚のように生き続けた。いや、生かされ続けたというべきか。身体は厳密にモニタリングされ、酸素や必要なアミノ酸ブドウ糖などは全て水槽に満たされた液体から彼らの肺を通して供給された。ただ、彼らの首から下は外科手術によって神経が切断されていた。そして彼らの脳には量子チップが埋め込まれ、日本猿の脳に埋め込まれた量子チップとリンクされた。この結果、二人の脳は猿の肉体と繋がった。つまり、猿にされてしまったというわけじゃ」

「進言された、と仰いましたが」

「わしはアメリカとは常に連絡を取り合っておった。二人の一挙手一頭足まで逃さず、彼らにあげていた。中共との結びつきはアメリカのみならず、日本も含め世界中を壊滅に結びつける危険があったからのう。変だと思うかも知れん。なにせ、わしには、結果が分かっておったからのぅ。まさにジレンマじゃった」

そういう話をしているうちに、重機は目的地についた。常盤橋の交差点があった辺りを過ぎ、日銀の本店についた。

辺りは、すべて雪のベールで覆い隠されていたが、ここでは凄まじい戦闘があったのだ。大金庫室のお宝をめぐっての争い、争奪戦であった。中共自衛隊、米軍、それにゲリラやヤクザが戦闘を繰り広げた。しかし、核の冬がすべてを蹴散らした。食糧が手に入らず、寒さと降る雪に邪魔をされて、さらには金などもはや何の役にも立たなくなってしまった現実にようやく気がついた彼らは、日銀を離れ自らの生存のために食糧の強奪や棲家を求めて散らばっていった。弾薬も消耗が懸念されたし、なにより食糧と燃料の確保が深刻な喫緊の問題だったからである。

結局、これらの戦闘も3年と続かなかった。飢えと寒さで兵士も一般のひとびとも次々と死んでいった。

今、橋下の前に広がるのは白皚々たる広場であった。その、国中を覆い尽くす途方もなく広いシーツの下には装甲車やその他の車両の残骸が隠されていた。そのためにシーツには緩やかに皺が寄り青みがかった陰影ができていた。

重機のジブ先端に付けられたソナーと磁気センサーは、その陰影の下に何があるのかを映像化してモニター画面に表示している。今、江波戸が目にしているそこには、はっきりと装甲車の形が映し出されている。そしてその上には戦闘員の遺骸らしきものも認められる。重機は、自動的にそれを避け、雪を後方に吹き飛ばしながら進んだ。このタービンブロワーのために大量の燃料を必要としたが、それも計算済みのことで、途中のガソリンスタンドではタンクを掘り起こし、タンクに穴を開けて軽油を頂戴した。

重機は旧館の玄関についた。兵士やギャングが欲しがったのは紙の金ではない。本物の金がいつのまにか旧館の大金庫室に格納されていたのだ。100トンの純金は、核が落とされる前の世界であれば、1000億円はくだらなかったであろうが、今となっては紙幣と同様、何ら価値を見出せなかった。生き残った者がいれば、1キロの金よりも1キロの米を欲しがったであろう。

黒崎と陽子は、その真の理由が何であったにせよ、結果的にはアメリカへの嫌がらせでFRBから金を回収した。それをここに収納させたのである。その総量は500トン。容積にして10立米。これが大金庫室の奥で眠っている。

 


重機は車路を下り、その大金庫室の前へ到着した。

 


その金庫の前は、室温が零下を下回っているにも関わらず鼠の死骸の臭いが立ち込めていた。鼠だけではない。無数の兵士やゲリラだったと思しき者たちがユニフォームとヘルメット、そしてブーツだけを残して、鼠に喰い尽くされていたのである。

 


大金庫の扉は閉じていた。結局、戦闘は無計画に行われ、誰も扉を開ける術を知らなかったのである。おそらく職員を脅かして開けさせようと試みたのであろうが、その職員すら開け方を知らなかった。それが証拠に、扉の前には民間人らしき男の遺体と女の遺体が一体、兵士たち同様に鼠に食い尽くされたまま放置されていた。

おそらく、ここではいくつかの勢力がこの金庫を開けようとして戦闘を繰り広げた。結局、ものには出来ず、仲間を捨てたまま散り散りに逃亡したのである。

 


扉を開ける電源は外部から供給しなければならない。これは重機から供給されるよう最初から計算していた。重機からケーブルを伸ばし、操作室内にある電源盤に接続した。

問題は、信号線である。開閉の制御はコントロール盤から出来るが、実際に扉を開閉するモーターとデッドボルトなどの制御装置は扉の内側に付けられている。その20桁もあるキーコードは、予め扉側からコントロール盤に不定期に送られてくる。それを操作員は都度、紙に書き留めておかねばならない。そして、そのキーコードをコントロール盤に打ち込むと、コントロール盤は自らの内部キーコードと組み合わせて新たなコードを作成する。これが金庫を開くためのコードになるのだが、それは操作員が聞いても教えてはくれない。コントロール盤にアクセスできる権限が彼らにはないからである。その権限を持つものが生体認証(実際には網膜)によって行われるからである。つまり、操作員を脅かして権限を持つものに生体認証をさせなければならないわけだが、平常時であれば、この時点で警察なりに通報されることになり不可能である。

今回のような非常時には、電源もなく、おそらく職員も無理やり拉致されてきたに違いないが、生体認証しようにもインフラがそもそもダメであるからできなかったに違いないし、電源等を確保したとしても当の権限者が死亡していた可能性が高い。

 


いずれにせよ、今、大金庫室の扉は未だ開かれず目の前で固くその口を閉じていた。

 


宮前と江波戸が上手く電源の接続を終えたようだ。監視室の照明も点灯した。金庫の制御装置も活きたようである。

「制御装置に異常はないようです。なんら損傷はありません」江波戸が橋下に伝える。

橋下はただ「よし」とだけ応え、端末装置に対し何か作業を行なっている。

SSDを取り外し、それを持参した特殊なボードに載せ替え、そこに保存されているコード化された生体認証を探し出すのだ。

わずか数分でそのコードは抽出された。後はSSDを元に戻し、抽出したコードをボードから端末に送るだけだ。しかし、待たねばならない。金庫は不定期にコードを送ってくる。それを一度紙に書き留め、再度端末に入力するという手順を踏むように設計されているのだ。つまり、必ずオペレータの手を介さないと開けることができないという、謂わばフェイルセーフが適用されている。

電源回復から1時間過ぎたとき、そのコードが送られてきた。橋下はそれを書き留めた。20桁もある意味のない記号と数字と漢字の羅列である。

コードは1分で消えた。

橋下は素早くコードを端末に打ち込む。そして、次に持参したボードを操作して生体認証コードを送信する。

上手くいったようで、端末の横にあるコンソールに埋め込まれた金庫開閉用の操作スイッチが点灯した。赤と緑、そしてキノコ型の赤と緑のボタンがある。赤いスイッチは扉開、緑が閉、そしてボタンが緊急用で赤が緊急閉鎖、緑が緊急開放である。

橋下が赤いスイッチを押した。江波戸と宮前はすでに扉の前で扉が軽いモーター音をたてて開く様子を感動した様子で見ていた。確かにそれは見ものであった。扉の厚さは1mほどもあって、その重量はおそらく何トンもあるであろう。それが外側にゆっくりと開いていくのである。そして、その金庫室の広さも驚きであった。不思議なことに、いや、単に二人にとっては不思議に思えたのだが、その金庫室には途方もない量の札束が残されていたのである。この大金庫室は、本来見学者向けの展示場になっていたはずであり、本物の紙幣があるはずではなかった。

あの大地震によって、コンテナごと崩れ落ち、札束が散乱していたが、確かにそれは正真正銘の日本銀行券であった。宮前が真っ先に走っていって、その札束を手に取った。江波戸も中に入っていく。それを尻目に橋下は重機の運転席に腰を降ろすとバケットに載せたカプセル型のユニットを降ろした。そして、重機を降りると、札束を手にして子供のように喜んでいる二人の男に声をかけた。

「匣を中に入れるぞ」

二人は我に帰ったように扉まで走って来ると、手にしていた札束をコンテナの方に向かって水平に放り投げた。二つの札束はフリスビーのように回転しながら遠くまで飛び、床の上を滑ってコンテナまで辿り着いた。

「見事」橋下が手を打った。「さて、こちらも見事にあの奥まで運んでもらいたい」

二人は口を横にしたバケットで横になったカプセルを見る。

「なるほど」と宮前。「あそこまで転がして行けばよいと」

「その通り」と橋下。

二人はカプセルの両端に立ち、「せぇーの」の掛け声と共にカプセルを横に転がして外に出した。

 

 

 

二人はそのままカプセルを転がしながら金庫室の中に入っていく。

 


金塊もやはり崩れ落ちていた。それを積み直す余裕もないうちに東京は核の洗礼を受けてしまった。

核はスカイツリー上空、高度1000mで爆発した。人々を殺戮し後を乗っ取ろうという計画であったため、数キロトン級のいわゆる中性子爆弾が使われた。

しかし、今となっては中共の仕業であったのか、それとも米国によるものであったのか誰にも分からない。なぜなら、誰も東京を奪うことができなかったからである。

 


その、誰もいなくなったはずの東京の中心で、今三人の男たちがカプセルを開き、発泡スチロールでくるまれた匣を取り出した。

橋下は匣の蓋を開けて衣類を取り出す。下着から夏用のセーター、ベージュのズボン、赤いキャップ、それにブルゾン。なにか季節感が不揃いであったが、橋下の表情は変わらない。

彼は、ウェットスーツを脱いで傍に放り投げた。そして、大きなウェットティッシュで身体を拭き取ると、新しい下着に替えズボンを履き、直にセーターを着た。赤いキャップを被るととても傘寿の老人には見えない。

二人は内心驚きながらその様子を見ないふりをしながら見ていた。「本当にこのひとは年寄りなのだろうか」というのが二人に共通する感慨であった。

 


「さて、これからが大仕事じゃ」ブルゾンを羽織りながら橋下が発破をかける。「まずは、向こうの世界に行かねばならぬ」

「向こう?」江波戸が首を傾げる。

「ここの金が役に立つところへじゃ。ヒントをやろう。お前さんの苗字から波を取ったところじゃ」

「江戸ですか。江戸時代に転送するのですか」

「その通り。これにより、巨大なループは閉じる」

「ここの金をその時代に送ろうというのですか」

「すでに送られているとでもいうべきかな」

「つまり、因果は一つの塊である、と」

「それは、お前さんたちは目の当たりにすることになる」

空になった匣の中に橋下が入った。「向こうは暑いぞ。ここで上物は脱いでいった方が良い」そう言って、封印の板を外すと、頭を穴に潜らせ、片手で向こうの匣の蓋を開けているような動きを見せた。しかし、その後すぐに頭から中に飛び込んでいった。宮前と江波戸は、それを見届けると、言われた通り軽装になった。脱いだものは軽く折りたたんで匣の脇に置く。

そして、先に宮前が、続いて江波戸が穴に飛び込んだ。

 


江戸の世界とは言っても、そこは寺門の昔の家である。この時代すでに寺門家は、この辺り一体の地主であり菩提寺である鷲原寺の有力な門徒であったから、母屋は萱葺きではあったが、その萱は年毎に葺き替え、庭も広く、蔵も現在と余り変わらぬ姿で存在していた。

宮前と江波戸の二人が匣から出てきたとき、橋下老は一人の髷を結った利発そうな十二、三歳ほどの少年と話をしていた。少年は、目の前の匣から男が次々に出て来るのを見ても、好奇心は示したものの驚いた様子はない。少年は匣の前に座布団を敷き、たった今まで匣の上に書籍を広げていたのだ。

「紹介しよう」と橋下が少年を指して言った。「この少年はわしの祖先に当たる。名を昌空という」

そう紹介されても少年は眉ひとつ顰めない。思うに、橋下はすでに何度もここを訪れ、この神童と思しき少年とは匣についての深い話をしているのだ。おそらく、老人は彼をあの島にも連れて行ったのであろう。

橋下は少年に二人を紹介した。

「お二人のことは」そう言って、少年は一呼吸おいた。私の子孫であるこの方から聞いております。こうしてお眼にかかれて大変光栄でございます」

そう言って、丁寧にお辞儀をされたので、二人とも深く腰を折った。

「さて、進捗のほどはどうかのう」

「ご覧になってください。順調に進んでおります」

少年は開け放った蔵から外に出た。橋下が続き、その後を二人が追う。

 


二人には驚くべき光景であった。

褌姿の人夫が十数人、ちょうど池のあった辺りの土を掘って大きな穴を掘っているのである。穴の上には雨除けの大きな屋根までついている。そして、穴の外には大きな丸太が整然と積み重ねられている。穴を掘る人夫もいれば、丸太を鑿で彫ってほぞを作っている者もいる。辺りは大賑わいであったが、一人静かに腕組みをして、差配をしている男がいた。おそらく少年の父であろう。彼は着物の裾をからげ、文字通り片肌を脱いでいる。

その男が倅と共にいる三人を認めて呼び掛けた。

「お暑い中、ようおいでなさった。昌空、御三方を母屋に案内してお茶を召し上がってもらいなさい。わしもすぐにいくでのぅ」

 


昌空少年は母親らしき美人の女性に声をかけた。

「母上。お客様がいらっしゃいました」

「あら」と言って、母親は三人に深く礼をした。そして「よくいらっしゃいました。大したおもてなしもできませんが、今お茶を淹れますので、どうぞごゆっくりしていってください」

母親は楚々としたおもゆきのひとで、柔らかな笑顔に思わず目が吸い寄せられてしまうようだ。

着ているものも質素であったが、上品であった。

昌空が手伝ってお膳の上にお茶が並べられた。

そこに、手水で身体を清めた当主の寺門が入ってきた。

「遅くなってしもうて、あいすみません」そう言って、大きな御膳の端に席を占める。「仕事は順調に進んでおります。ご安心ください」

江波戸は、その仕事が何のためのものか聞きたかったが、それをぐっと呑み込んだ。それは、聞くまでもないこととも思われたからである。

働き手も多額の給金をいただいて、喜んでおります。

実は、橋下はこの当主に小判100両を渡していた。慶長小判といわれるもので金の含有率が最も高いとされている。

「あの人たちは」と宮前が聞く。「私たちのことを特に珍しそうな眼で見ませんでしたが、なぜでしょうか」

「それは、しっかり言い聞かせてあります。彼らのほとんどは一部の石工や大工を除いてこの近隣の住人なのですが、この仕事については一切口外無用、またあなた方のことについても異邦の方達で詮索するなと厳命しております」

宮前は、これでこの男も息子と同様、橋下の島に招かれたことを悟った。この当主も、橋下が自分たちの遠い未来の子孫であり、その未来に世界が壊滅することも知ってしまったのだ。その狐に摘まれたような話を信じざるを得ない証拠を見せつけられたのである。

「ありがとうございます」茶を飲み終えた橋下が礼を述べて立ち上がった。「御内儀様、ご馳走様でございました。大変美味しゅうございました」

宮前と江波戸の二人も立ち上がった。この美しい母親は、匣の秘密を知っているのだろうか、と訝りながら。

 


「いやぁ」最後に匣から大金庫に戻った江波戸が声を上げる。「夢を見ていたような気分ですよ」

「まったく」と宮前も同意する。

「詳しくは系図を追ってみないと分からぬが、あの昌空がわしの15代ほど前のご先祖様じゃ」

「はぁ」江波戸は、ただ息を吐き出すほかなかった。

「例の算額の主ですか」と宮前。

「彼は、わしの理論をすぐに理解した。そして、わずか数日でそれを和算にして完成させた」

「しかし、あの匣は」

「彼は、わしの話を聞く前から自分なりに理論を完成させていた。そして、この世界と他の世界をつなぐ、いわゆる結界が心にあると考えた。今で言うなら、脳こそが量子コンピュータということじゃな」

「それであの匣を作ったと」

「その通りじゃが、ただ匣というハードのみではなにも起きぬ。彼は、神主を呼んであの匣にある文言を唱えてもらった」

「それは」と宮前。

「数式じゃ。彼は世界が多次元かつ無限に存在していることを理解しその理論体系を構築した。あの年齢でじゃ。そして、それを匣の中にお経のように唱えた。すると、匣にあの結界が、つまり穴が現れた。そして、その穴から声が聞こえてきた。その声は、今すぐ、この穴を塞げ。さもないと、お前は恐ろしいものを見ることになる。こう言っていた

「それで」と江波戸が好奇心に目をきらきらさせながら訊ねる。

「お前さんの想像通りじゃ。昌空は、その声を無視して、わしのところにやってきた。わしが禁じたにも関わらず、じゃ」

「禁ずれば、返って彼のような冒険心の強い少年は反発して穴を潜る。そして島にやってきたと」

「ご明察じゃ」橋下は嬉しそうに言った。わしが彼の血を引いておるのは間違いないのぅ」

「そして、天才も」と宮前。彼にも橋下がかつての部下であった寺門昌士であることが分かっていたようだ。

「ところで、我々がたった今帰ってきたあの時にはいったい何が行われていたのですか」

「それは、すぐに分かる」橋下は金の延棒を二つ手に取り、匣の中にそっと置いた。一つが10キロもあるから、片手に一つはかなりの負担である。

江波戸と宮前も橋下に倣って延棒を運びはじめた。そうして十個ほど中に入れると、橋下は匣に入り「わしにこれを渡してくれ」と言い残して穴の中に消えていった。

江波戸が匣に入り、穴に延棒をそっと差し伸べる。宮前は山積みになった延棒を運ぶ役だが、すぐ汗だくでよろよろになってしまったから、二十個ほど運んだ時点で江波戸と交代せざるを得なかった。宮前は箱の中にしゃがみ込み、江波戸が渡してくれる延棒を穴に入れて橋下に渡す。

しかしそれも50個、500キロも行うと手が痺れてきた。すると、橋下が向こうから顔を出してきて休憩を告げた。

「よく疲れませんね」宮前が汗を吹きながら言う。「昌空とその父上が手伝ってくれておるのじゃ。江波戸君、わしの替わりに向こうに行ってみるがよい。向こうでは握り飯を作ってくれたようじゃから、こちらにもお裾分けを頼むぞ」

 


結局、10日かけて50トンの金の移送が完了した。大金庫室に収められている総量の1割である。

五人全員が大量の金を納めた地下の収蔵庫に集まった。収蔵庫には太くて硬い栗の丸柱が八十一本林立している。その間隔は1m。天井までの高さは2m。まさに森の中にいるようなもので、照明は、菜種油を使ったランプが柱と柱の間に計六十四個吊るされており、板を何枚も重ねて置かれた床に直に積み上げられた純金は神々しい光をはね返している。延棒は総数5120個。延棒のサイズはおよそ50*40*125mmである。これが柱と柱の間に80個置かれている。5個ずつ積み重ねられ、つまり高さが200mm。それが8列(400mm)、2行(250mm)である。これが64セット。総数で5120個となる。

収蔵庫の天井は、その上を池にして隠蔽を図ったため、緩い傾斜を持たせた上に屋根瓦を敷いている。さらにその上に栗石を敷き土で固めた。壁の防水も漆喰で固め、さらに板で囲っている。それでも浸水は避けられないため、壁の際に溝を掘り角の1箇所に釜場を掘って、水車を動力源にスパイラルのポンプで常時排水を行っていた。

 


こうして全くの秘密裏に収蔵庫の建設と金の収納が行われたが、近隣住民の口は固く、また中に何が収められているのか知る者はいなかった。

 


収蔵庫は蔵の床と繋がっており、深さ5mのそこに降りるには丈夫な木の階段を使うが、金の移送時にはここに木製の長いトラフを置いて滑り落とさせたのである。

ここは慶長の大地震でも何ら被害を受けなかったし、その後の地震や災害の影響を受けることもなかった。

いずれにせよ、代々寺門家は金を、今でいうマネーロンダリングして少しずつ富を築いていった。周辺の土地は全て入手し、豪族となった。大名とも縁を結び、さまざまな事業を成功させ、不作のときには慈善事業を行い米を供出し飢饉を防いだ。

こうして一大富豪になったものの、生活は常に質素そのもので慎ましやかであった。

そして、そのうちに金のことは、寺門家内でも固く封印され、蔵の土間は閉ざされた。

だから、寺門昌士は、ある時点までは、そのようなものが自宅の池の下にあるなどとは知る由もなかったのである。

 


しかし、橋下からこれを聞かされ、蔵の土間に機械を入れ削ったところ、言われた通りに四角い鉄のハッチが現れた。

そして、ほとんど手がつかないままの黄金の山を発見したのである。

 


その後、寺門は椿と黒崎総理を巧みに利用して政府中枢と接触し、さらにはアメリカとも接触してあの島の取得と情報基地化を行ったのである。

もちろん、このために収蔵金は一旦溶解させ形を変えたインゴットにした。これを人を介してサンカメリアに譲渡した。そして陽子に黒崎を動かさせた。

黒崎は国交省防衛省に働きかけてあの島を橋下の所有にさせたのである。

 


世の中はすべて金次第である。こうして一つの大きな連環が形成された。

 


大仕事を終えた三人は、今大金庫室にいる。江波戸にも宮前にもこの大きな連環の姿が見えはじめていた。

「さて、私たちはこれからシェルターに戻りますが、あなたはやはり、島にお戻りになるおつもりですか」宮前が訊ねる。

「その前に、君たちにももう一度島にきてもらいたい。ぜひ紹介したい者がいるのじゃ」

橋下がいつになく神妙な面持ちで言った。

「この、滅びてしまった世界の話ですか」と江波戸が怪訝な顔で訊ねる。

「そう、あそこは健在じゃ。びくともしとらん。ウォーターベアは自動的に帰島して、今は発電機として機能しておる」

「そうですか。ぜひお邪魔したいものです。子供たちのことも気になりますが、彼らも元気で犬や猫たちとイタズラを繰り広げていることと思います」

「よし、善は急げじゃ」橋下はそう言い終わらぬうちから匣に入ると、すぐに穴の中に消えてしまった。

江波戸、宮前と後に続く。大金庫室の堅固な扉は閉じられ、今やここへの出入り口は匣以外にはなくなった。

江波戸と宮前が匣から出たとき、二人をにこやかに迎えてくれたのは、齢六十ほどの美しい女性であった。

「紹介するよ。家内だ」橋下の口調は明らかに変わっている。「名を淑子という。彼女については余り君たちに話したことがなかったが、かつては黒崎総理のフィアンセであった」

「あなた」と淑子が橋下、いや寺門を制した。「お茶を淹れましたから、その話はそこでゆっくりといたしましょう」

「そうだったね」と寺門が頷く。

 


それから淑子の入れてくれた美味しいお茶と茶菓子をいただきながら二人に話したことは、驚くべきものであった。

淑子は、黒崎との関係がおかしくなりはじめた頃、精神的に不安定になった。

そのようなときに、淑子を警護していたマンションの3階に住む夫婦は橋下の訪問を受けた。というより、彼らのマンション1階にある喫茶店に入ろうとしたところを彼に呼び止められたのである。

最初、小汚い老人の姿を見て、彼らはホームレスか何らかの犯罪者ではないかと訝った。

しかし、次に彼の口から出た言葉に二人は息を呑んだ。

「鮫島淑子さんは今とても悩んでおられます」

これだけの発言であったが、二人が驚愕したのは当然であった。

「いったい何の話でしょうか」と、夫が惚けたが、

「彼女は黒崎氏との婚約を解消しようか、迷っています」

これが決定打であった。妻が夫のスーツの袖を引いて、

「中でお話を伺いましょう」と言って橋下に喫茶店に入るよう促したのである。

 


そこで橋下がこの夫婦に話したことは、何ら嘘も誇張もない淡々たる事実であった。

黒崎が今、多田和江と夫婦同然の生活をしていること。さらにこの件には椿陽子が関係していて、全ては黒崎を籠絡するために綿密に仕組まれた計画であったことなどを証拠を突きつけて説明したのである。

そして、その計画の最終目的は黒崎を日本の指導者にして自分たちが恣に彼を操作することであると説いた。

夫婦は最初こそ疑心暗鬼の面持ちであったが、自分たち以上に橋下が淑子やその関係者の情報を知っていることから、やがて橋下の言葉を信じるようになった。そして、それを会社を通じて赤松総裁に報告したのである。

赤松は即座に動いた。警備会社の詳細な報告書を淑子に見せて、黒崎と多田和江がどういう関係にあるかを教えたのである。淑子は、当然ながら大きなショックを受けた。食事も受け付けず、部屋で塞ぎ込む日が続いた。

心配した赤松は、鮫島温子に頼んで淑子をイタリアに留学させた。これが実は淑子失踪の真相だったのである。

三年の遊学の後、淑子は見違えるほど元気になって帰国した。そして退任した赤松と暮らすようになったが、このときに寺門と知り合ったのである。

それは、裏切られた者同士の不思議な邂逅であった。というよりは、橋下によって、いや結果的には寺門昌士自身によって運命づけられていたのだ。

赤松は、警備会社から不思議な老人のことを聞いて、ぜひ一度その人物に会いたいと強く要望していた。しかし、警備会社は連絡方法を知らなかった。ところが、淑子が帰国するとすぐに橋下から電話があった。会って話をしたいというものであった。

面会場所は寺門家である。そして、よく晴れたある秋の日の午後、1台の護衛付きの車が寺門家の蔵の前に停まった。

出迎えたのは、橋下と寺門昌士、それに一匹の猫であった。

こうして、赤松は寺門を知ることになった。そして、橋下からは奇妙奇天烈な話も聞いた。

しかし、それが夢でも幻でもなく、ごく近い未来において、この世界が核戦争によって滅びてしまうことを実際に匣に入って体験させられた。彼は、せめて愛娘の淑子を生き残らせたいと考えた。そのためには、寺門昌士と一緒にさせるのが良いと考えた。

こうして寺門と淑子の交際が始まったのである。二人はすぐに親密になり、寺門の家と赤松の家を行き来するようになった。

淑子は、すぐに寺門家の匣の秘密を知らされたが、古い屋敷と太平洋に浮かぶ秘密基地との行き来は単調な暮らしにアクセントを加えてくれる楽しいものとなった。

 


さて、これが寺門と淑子が一緒になった経緯である。

 


宮前と江波戸は茶を啜りながら、神妙な面持ちで話を聞いていた。

「ループの中のループですか」と宮前が独り言のように呟く。

「というより、未来からの意思ですかな」と寺門。「わたしはここにいて、すべてを見渡すことができた。分かるでしょ? 過去という荒野です。その荒野の中に一羽の傷ついた鶴を見つけた。わたしは、その鶴に強く惹きつけられた、ということです」

「まぁ」と淑子が少し怒ったように言う。「わたしは傷ついた鶴でしたの」

「比喩ですよ、比喩」と寺門が慌てて言葉を添える。「つまり、わたしは最初からあなたを狙っていた」

「そんな話、今、初めてお聞きしましたわ」淑子が少し赤くなったように思われた。

ゴホンとここで宮前が咳をしてみせる。

「ご馳走様でした」と言い、「いえ、美味しいお茶のことでございます」とわざとらしく付け加える。

「そろそろお暇しなくては、さすがにあの子たちのことが気になってきました」江波戸が言う。

 

「あの子供たちのことについても話しておかねばなるまい」寺門が重い口調で言った。「彼らは多田和江の子供たちだ。といっても、黒崎との間の子ではない。二人とも彼女の義理の父親との子供だ。彼女は黒崎の子が欲しかったが、黒崎はヘルニアの手術が原因で不妊であった。和江は病院に通い、そのことを知っていたが黒崎には伝えなかった。その代わりに彼女は、黒崎と一緒になった後も関係の続いていた父親に請うて子を作った。彼女は、自分でも気がついていたかどうか分からぬが、黒崎よりも実はこの義理の父親を愛していた。もちろん、法的に問題のある行為ではあったが、子供たちに罪はない。黒崎は仕事の忙しさもあってこれにはまったく気が付かなかった。自分の子だと思っていたのだ。

しかし、この事実を知っていた陽子が彼の総理就任を機に秘密を漏らした。

そして、あの悲劇が起きた。和江はインスリンを打ち、風呂に入って自死したのだ。

 

二人の子供は、多田雄一郎の妹に預けられた。しかし、余り歓迎はされていなかったようだ。

 

結局、事情を知っていた淑子が二人を養子にしようとわたしに頼んできた。そこで、あの大地震のとき、二人が研究所を見学するように手を回しておいたのだ。そして、後は知っての通りだ」

「でも、なぜそんな手の込んだことを」と江波戸。

「他に良い手がなかったからと言えば言い訳に聞こえるであろうが、これは最初から決まっていたことだったのだ」

「彼らを養子にする合理的な理由が他にはなかったから、と」

「その通り。もうすぐ世界が終わるから二人を養子にして救いたい、などと言っていったい誰が信じるかね」

「そりゃ、その通りですね」と江波戸。「しかし、私たちはあの子達をどうすればよろしいのですか」

「ここへ連れてきてほしい。そして君たちもここでわたしたちと一緒に暮らすのだ」

 

世界は終わってしまった。

 

いや、本当に終わってしまったわけではない。

太平洋に浮かぶある島で六人の老若男女と犬、猫が未だか細い命の火を絶やさずにいる。そして、その火を科学の力を使って次々に繋いでいこうとしている。

ある日、鉛板で覆われたような空の一部に亀裂が生じた。そして、そこからは一条の金色の光が差し込んで広がっていった。

寺門昌士は、展望台に上がった一同に対し、匣を通して見えた明るい未来の姿を語った。

じきに冬は、終わる。やがて春が訪れ、多くの命が復活する。

 

だから、この物語は永遠に終わらない、のだと。

 


Atavism


Old longings nomadic leap,


Chafing at custom's chain;


Again from its brumal sleep


Wakens the ferine strain.


By John Myers O’hara