奔訳 白牙33

2017/03/18 21:43

これまで彼が経験してきた他の壁とは違い、この壁は彼が近づけば近づくほど後退していくように見えた。柔らかな鼻を使い恐る恐る壁を突いてみようとしても硬いものに当たることはない。壁の材質は恰も光そのものであるかのように通り抜けたり曲げたり出来そうであった。そしてそのとき、かつて壁であったはずのものが彼には泡のように思われ、彼はそれに浴するべく進んだ。

不思議であった。彼は確としたものを揺蕩いながら通り抜けた。すると、光がかつてなく眩しく輝きだした。恐怖が彼を後退りさせようとしたが、成長が逆に彼を後押しする。突如、彼は自分が洞窟の口にいることに気がついた。中にいたときには壁であったものが今、途方もなく遠くへ飛び去ってしまっていた。光は痛いほどに強くなって輝いている。彼はその明るさに眼が眩んだ。同様に、突然の途方もない空間の拡張に眩暈を覚えた。自然に眼は明るさを調整し、焦点をはるか先のものに合わせようとする。最初、壁は彼の視界を飛び越え消えてしまった。彼は今、改めてそれを見ようとしたが、見覚えがないもののように思われた。見た目が変わってしまっていた。それは今、多様に彩られた壁となり、両岸に立ち並ぶ樹々に縁どられた流れや、その樹々の上にのしかかる山や、さらにその上に君臨する空となった。

大きな恐怖が彼を襲った。それはかつて感じたことのないものであった。彼は、洞窟の口にしゃがみこんだまま外の世界を眺めた。とても恐ろしかった。それは見知らぬものであり、自分に敵対するものであったからである。それ故に、彼は背筋に沿って毛を逆立て、唇を後ろに僅か引き下げて凶暴な脅かしの唸り声を上げようとした。自身の小ささや恐ろしさを超えて、彼は世界そのものに歯向かおうとしたのである。

しかし、何も起きなかった。彼はじっと眺めつづけた。それに集中し過ぎて、彼は唸ることを忘れてしまっていた。さらには、恐れることさえ忘れていた。ある時期、恐怖は成長に根差していたのだが、その一方で成長は好奇心の装いを纏っていたのである。彼は近くのものに注意を寄せ始めた。日の光に輝く川の流れ、斜面に立つ枝を広げた松の木、それに斜面そのもので、斜面は彼が今しゃがみ込んでいる洞窟の口から二メートルほど下まで続いている。

これまで灰色の仔はずっと水平な床で暮らしてきた。これまで一度も転落の痛みを味わったことなどなかった。転落が何であるかさえ知らなかった。それで、彼は大胆にも宙に一歩を踏み出した。後足が洞窟の口に引っかかったまま彼は頭から落ちていった。鼻を地面に激しくぶつけて鳴き声を上げた。それから彼は斜面を何度も何度も転がり始めた。転がりながら恐ろしさにパニック状態になっていた。何かに引っかかってようやく止まった。それは彼を乱暴に受け止め、恐るべき苦痛を与えた。成長は今、恐怖に根差し、彼は恐怖に怯える仔犬のような泣き声を上げた。

その見知らぬものは、これまで経験したことのない恐ろしいほどの痛みを与え、彼は吠え、泣き声を上げ続けた。これはまた、未知のものがしゃがんでいるすぐそばに潜んでいるときに感ずる凍りつくような恐ろしさとは別のものであった。今、未知のものは彼をしっかりと保持している。沈黙はことを悪くするだけである。それにこれは、恐れというより心底からの恐怖が彼を震えさせているのである。