と思ったことはないだろうか?
その通り。世界は、いや世界と言おうが宇宙と言おうが、今あんさんの生きているこの世はすぐに、手品のように消してしまうことができる。
その通りだ。
あんさんが死ねばいいだけのことだ。
いやしかし、と疑問を唱える者は世界のなんたるかを知らないだけなのだ。
世界は実は「世界」を認識できるものの数だけあるのだ。
だから、あんさんの「世界」を消したければあんさんが死ねばいいだけのこと。
ただ、わたしが言いたいのは、そういうことではない。今、生きとし生けるもの全てが、いやもっと極端に言うなら、地球そのものが太陽に飲み込まれて消滅したとしても、この宇宙が消えるわけではないと考える人に対してである。
わたしは、そんな宇宙には何の意味もないと考える。
わたしやあんさんが生まれる前、世界はあっただろうか。
あった。だからわたしやあんさんが生まれることができた。
しかしである。もしも、わたしやあんさんが生まれなかったとしたらどうだろう。
世界は永遠に存在しなかった。違うだろうか。
いや、「わたし」が生まれなくとも世界は存在した、と言うひとに問いたい。あんさんは「生まれた」から、そう言えるのだ、と。
今、世界は存在している。なぜなら、わたしもあんさんも生きているから、である。
今、世界は存在している。
なぜなら、この世界はわたしやあんさんが生まれることを最初から予定していたからである。わたしやあんさんが生まれない世界など最初から存在しなかったのだ。
わたしやあんさんはこの世界と一体のものであり、世界の従属物ではない。
わたしやあんさんだけではない。今朝、散歩中に見かけた秋田犬も、昨日コンビニの外の椅子に座って齧りかけのパンのかけらを与えたヒヨドリも、今朝の雨後の朝焼けも、みんなみんな予定されていたものなのである。
現象のすべて、シュレディンガーの猫もアインシュタインの相対性理論も、量子もつれもスマホの登場もすべてが決まっていたことなのだ。
そんな世界もやがて消えてなくなる。わたしもあんさんもいずれ死ぬからである。
そしてそれもこの世界が予定していたことなのである。