伽蘿先代萩について

2010/07/11 16:24


歌舞伎や浄瑠璃について格別に知識があるわけではないが、先代萩についてはなぜか心を動かされる。
「千松っちゃんを見てみぃ」と、何か悪さをするたびに昔の子供は親から小言を言われたのではないだろうか。

先代萩は、忠義とそして親孝行の物語である。忠と孝といえば、「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」という平重盛の有名な言葉の通り、夫婦茶碗のようにはなかなかワンセットで与えてもらえぬ代物である。

それにしても、これほど残酷な物語もなかなか見当たらない。例の、パトラッシュとネロの物語は日本でこそ有名だが本国のベルギーでの評判は余り芳しくないそうである。ベルギーの人たちに言わせれば「わたしたちは、親のない子供を飢えさせて平気でいられるような人でなしではない」ということのようだ。
何もかもがハッピーエンドでなければ気がすまないらしいアメリカなどでは、このフランダースの犬の最後もやはり幸福な結末になるらしい。

話を戻そう。先代萩の名場面は、幼い千松が毒と知りながら幼君を守るために自ら饅頭を食うシーンにある。苦しむわが子を尻目に母親である政岡は、幼君鶴千代をその胸にひしと抱きしめて守る。毒を盛った相手は、この政岡の態度を見て、なんと鶴千代が政岡の実の息子であったのかと誤解する。これにより幼君の命は救われるというものである。

このような話を、たとえば上のベルギーの人たちが聞けばどのように思うだろう。おそらく、日本人とは、なんと頭のおかしい人たちであろうと感じるのではないか。いくら忠義や孝行といった日本の道徳の話を聞かせてみても、彼らの違和感は決して拭えないに違いない。いや、このような話は、なにもベルギー人でなくとも、今の大方の日本人にさえ理解不能であろう。
母子の情より上のものなど誰が考えてもあり得ない。それゆえに、政岡の忠義なるものは、現代人の目には非常にグロテスクな、何か奇怪な怪物でも見るように映るに違いない。

しかし、子である千松の行為はどうであろう。
わたしは、どうしても幼い千松に若き特攻隊員の姿を重ねてしまうのである。わたしは、この物語が永く大衆の人気を博して止まない理由は、実はこの幼い子供の死を厭わぬ行為にあるような気がしてならない。なぜなら、千松は、自らの行為によって幼君でありまた自らの友でもある鶴千代と親の二人を同時に救い、またお家そのものをも救ったからである。その幼い命と引き換えに忠と孝の二つを同時に立派に立てて見せたのである。
千松は実に勇者であった。