「巌頭の感」に思う

2010/07/09 20:17


「悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす、ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを」


藤村操は、上の言葉を残し華厳の滝から飛び込んだ。
この言葉を見る限り、彼の死は哲学的煩悶の末のいわば形而上的な死とも受け取れる。

彼の死の原因をわたしは究明しようとは思わない。ただ、上のあまりに有名な言葉が深く胸に突き刺さるような気がするから書いてみただけである。
太陽についていくつか駄文をものしたせいもあって、彼のこの言葉の意味は非常によく理解できる。わたし自身、宇宙や永遠について考えると気が狂いそうな思いに至ることがあるのだ。
人間というのはおかしな生き物で、あまりに「死」について考えすぎた結果、ついに自らを死に至らしめてしまうようなところがある。

死は、衣服のように、否応もなく、いつもわたしたちにまとわりついている。それが証拠に、死に関する諺は世界中に溢れかえっている。中には、次のような詭弁にも等しいものまである。
「死などちっとも怖くはない。なぜなら、死を怖いと思っている間はあなたは死んではいないわけだし、ほんとに死んでしまったなら、もはや怖いという感覚もなくなるわけだから」
ほんとに死が怖くなければ、こんな諺が生まれることもなかったであろうに。

人が仮に神によって創造されたとするならば、なぜ神は人を自殺せねばならぬようにお創りになられたのか。それが、藤村操に代わって、わたしが神様にいちばん訊いてみたいことである。

朝、鶯が歌い、鴉がだみ声を上げ、ヒヨドリが囀るのを聞く。彼らは今を精一杯生き、生きていることの喜びを力いっぱいに表している。彼らに比べ、わたしたち人間のなんとひ弱で愚かなことか。与えられた生を満足に生きることさえ出来ず、死に囚われすぎて自ら死を招く。本当にわたしたち人間とは不可解極まりない生き物である。