雨月物語を読む

2012/03/25 20:33


大枚7百何十円也をはたいて上田秋成雨月物語を購ったが、なんということはない、後でネットで調べ、自炊(自吸い)なるものによってすでに全文がロハで手に入ることを知った。

考えてみれば、上田秋成享保19年6月25日(1734年7月25日)~ 文化6年6月27日( 1809年8月8日)となっているから、著作権なるものの寿命50年を遠に過ぎている。自炊はなんらの咎をも受けないのであった。ああ、損こいた。

さて、その雨月物語を読んでみて感じたことであるが、これは怪異小説に一応のジャンル分けができるとはいうものの、そんな薄べったいエンターテーメントとして剪枝畸人(秋成は幼少の頃に疱瘡にかかり両手の指が不自由であった)、あるいは無腸(蟹のこと。蟹の横歩きというように、秋成さんは、どうも世間を真っ直ぐに歩くことが嫌いだったようである)さんは、書いたわけではあるまい。

というのも、第一巻「白峰」を読んでみれば分かるとおり、これは大変な教養小説である。つまり、和漢古の歴史、書物に通じていなければなかなか読める文章ではない。しかも、上田秋成はただ世のインテリ層を取り込むために、あるいは己の教養をひけらかすためにこれを書いたわけでもなさそうである。

白峰には、他の物語と同様に死者の霊が現れる(なぜ、死者か。死者は雄弁だから、そして何を言っても謗りを受けないから、であろう)。その霊とはなんと崇徳院の怨霊である。そして、その怨霊と語らうは西行法師ときている。

西行法師は諸国を行脚し、あるとき四国は讃岐の国にたどり着いた。そこの白峰というところに新院こと崇徳院の陵があり、西行は新院とは生前縁があった(現にまのあたりに見奉りしは、紫宸清涼の御座に朝政きこしめさせ給ふを、とある)ため、終夜供養したてまつらばやと、御墓の前のたひらなる石の上に座をしめて、經文徐に誦しつゝも、かつ哥よみてたてまつる、のである。

そして、その読んだ歌、

 松山の浪のけしきはかはらじを かたなく君はなりまさりけり

(松山の波の風景は昔とちっとも変わらないけれども、あなた様はすでにかたなく――死んでおしまいになられたのですね)

に、応えて 新院の怨霊が姿を現すのである。

その返歌というのが、

 松山の浪にながれてこし船の やがてむなしくなりにけるかな

であった。

新院は、西行によく来てくれたな、と礼をいい、ここから二人の問答がはじまる。

その問答が実に宗教的、あるいは政治的、哲学的なものであるのだ。

これは、つまりこういうことではないだろうか。

上田秋成そのひとの思想というものがそれとはなくここに注入されている。そして、その思想というのは、ずばりリベラリズム

しかし世はまさに封建時代である。何かものを謂いたくとも口にはしっかりファスナーを締めねばならない時代であった。

それが証拠に、出版物には必ず奥付をしなければならなかった(今の奥付はこの当時の習慣を守っているに過ぎない)。この五巻五冊の書の最後にもちゃんと奥付が記されている。下は野梅堂版とよばれる最初に世に出たものである。

安永五歳丙申孟夏吉旦
寺町通五條上ル町
京都 梅村判兵衛
書肆
高麗橋 壹町目
大坂 野村長兵衛

さて、このような時代に直截的にリベラリズムを唱えることは絶対に不可能であった。だから、リベラリズムを世に問うにはどうしても大胆な変形、偽装が必要だったのである。

白峰の問答は、現代人の目から見れば、実に他愛のないものである。僻地に流され憤死せねばならなかった新院の怨霊が語ったことといえば、生前よりの己の恨みが死してついに天下に大乱を起こさせることになるであろう、という予言である。そして事実、その予言の通り平の重盛亡き後平家は滅亡へと突き進んだ、ということが書かれている。

その話自体は他愛がないが、その問答には西行という僧の立場(宗教家)と天皇(当時は政治家でもあった)の立場であった者との、つまり宗教的見解と政治的見解という、どうしても相容れないものどうしの葛藤が描かれているようにも見えてくる。

 

西行は、応神天皇がその第一子である大鷦鷯(おほさざき)の王(きみ)ではなく、李(すえ)の皇子菟道(うぢ)の王を日嗣の太子となし給ふ、た史実に言及し、新院の怨霊の

「汝聞け、帝位は人の極なり。若人道上より乱す則は、天の命に應じ、民の望に順ふて是を伐。抑永治の昔、犯せる罪もなきに、父帝の命を恐みて、三歳の體仁に代を禅りし心、人慾深きといふべからず。體仁早世ましては、朕皇子の重仁こそ国しらすべきものをと、朕も人も思ひをりしに美福門院が妬みにさへられて。四の宮の雅仁に代を簒はれしは深き怨にあらずや。重仁國しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえらはずも、天が下の事を後宮にかたらひ給ふは父帝の罪なりし。されど世にあらせ給ふほとは孝信をまもりて、勤色にも出さゞりしを、崩させ給ひてはいつまでありなんと、武きこゝろざしを發せしなり。臣として君を伐すら、天に應じ民の望にしたがへば、周八百年の創業となるものを、ましてしるべき位ある身にて、牝鶏の晨する代を取て代らんに、道を失ふといふべからず。汝、家を出て佛に婬し、未來解脱の利慾を願ふ心より、人道をもて因果に引入れ、尭舜のをしへを釈門に混じて朕に説やと、御聲あらゝかに告せ給ふ」

のに応えるのである。

おそらく、この辺は片々なりとも当時のインテリたちの知るところであったであろうから、彼等があたかも講談でも聞くときのように、ときには手で膝を打つなどしながら貪るように読んでいる姿がわたしには見えるような気がしてくる。

さて、わたしはこれを哲学と政治の相争う姿と読んだ。

そして、上田秋成とはリベラリストであり、また唐突なようだが真正のgeekであると見た。皆様は如何様にこれをお読みであろうか。