車窓より

2012/03/28 12:36


日一日と春らしくなってゆくのが車窓からの風景でよく分かる。

今朝、通勤電車から眺めると、遠くがぼんやりと薄紫に霞んで、スカイツリーの裳裾も霞んで幻想的な妖しい雰囲気を漂わせていた。

一昨日、月曜の朝には富士がくっきりと見えた。スカイツリーの高さと頭の中で比べてみて、ああ富士山というのはあのスカイツリーが6個も積み重なった高さなのだなぁ、と子供のようなことをぼんやりと考えたのだった。

一昨日と比べてみても、今朝は一層春めいてきたという気がする。
ちょっと前までは枯れ草色だった線路下に緑が加わって少しずつ萌えてきているのが分かる。
その萌えるという言葉からの連想で、そうか、萌えるは燃えるに通じるから、草木たちにとっては、今はまさに命に火が着いて燃焼する季節なのだなぁ、とまたぼんやり考えたりする。

車窓からの眺めは、こうして色々と連想を刺激して、毎日毎日のことのはずなのに、なにかとても新鮮なものに感じられてくる。

思えば、通勤電車などというものは、小一時間ほどとはいえ鉄の監獄のようなものである。ただ監獄と違うのは、窓(監獄に窓があるかどうかは知らないが)の外の風景が刻一刻と変わっていくことだ。

田舎の田園地帯を抜け、下町、そして都心へと、狭い箱庭のような日本の中でもそれなりに風景はグラデーションの妙を楽しませてくれる。
都心に近づくと、スカイツリーばかりではなく、改めて鉄塔の多いことに気がつかされる。紅白のツートンに塗られた巨大な鉄塔や灰色の鉄塔。ケーブルが描く長大なカテナリー曲線。いわば、日本の心臓を取り巻く冠状動脈である。

鉄塔ばかりではない、清掃工場のものらしき煙突や発電所や工場の煙突も様々な色に塗られて聳え立っている。

やがて電車は大きな鉄橋を通過する。川は、千切り絵のように空を、そして河岸の木々や人工の造作物を映し出している。

電車は、右手遠くに見えるスカイツリーを中心に大きく弧を描くように走っている。

それにしても朝の通勤客はみな決まって静かだ。電車の軋みや、ディスイズアコミューターラピッドサービストレインバウンドフォアートーキョー、というおなじみの車内アナウンスのほかは、ときおりくしゃみや咳の音、それに新聞を捲る音などがわずかに聞こえてくるだけである。
明らかに帰りの電車の雰囲気とは違っている。

さあ、電車は、その静かな客達を乗せてトンネルに入った。 もうじき、終点である。