奔訳 白牙36

2017/04/09 11:20


しばらくして、ライチョウは静かになった。彼の方は片方の翼に喰らいついたままで、双方は地面に腹ばいになったまま睨みあった。彼は凶暴な唸り声を上げ相手を脅かそうとする。すると、その鼻面を彼女が突っついたので、これまでの突っつかれた傷と相俟って痛みが一層強くなった。彼は顔を顰めたまま、それでもライチョウを離そうとはしなかった。彼女は何度も何度も突っついてくる。彼の顰め面が泣き面に変わった。彼は堪らずライチョウから後ずさって離れようとしたが、彼女を咥えたままでは離れられるわけもなかった。ライチョウの突っつきが雨霰のように鼻を襲った。とたんに闘争心が萎えてしまって、彼はついに獲物を離し尾を翻すと一目散に広い場所を横切って不名誉な撤退へと転じた。

ライチョウを反対側に置いたまま藪のすぐそばの広くなった場所で腹這いになって休みながら、彼は舌を長く伸ばし、はぁはぁ荒い息をし、鼻が絶え間なく痛むので、彼も絶え間なく泣き声を上げ続けた。
しかし、しばらくそこにじっとしていると、ふいに何か危険が差し迫っている予感に襲われた。何か分からぬ恐怖が波のように押し寄せ、彼は本能的に縮こまるようにして藪の中に逃げ込んだ。と同時に、扇風が彼を打ち、そして大きな、翼を持った不気味な何物かが静かに通過していった。それは晴天の霹靂のような鷹の襲来で、彼は辛うじて難を逃れたのであった。

藪の中に身を潜めたまま安堵と共に外を覗いてみると、反対側のスペースでライチョウの母親が荒れ果てた巣から羽ばたいて飛び立とうとしていた。恐らく雛を失った衝撃からであろう、彼女は空からの翼による雷撃を忘れてしまっていた。
しかし灰色の仔は、そのシーンを、鷹がその短い尖った身体を地面すれすれまで急降下させるや否や鋭い鉤爪をライチョウに突き刺し、苦悶と恐怖にライチョウが上げ続ける叫び声と共に青天高く上昇していくのを、自らを戒める警告として見ていた。

それから長らく、灰色の仔は藪の中に隠れていた。彼はすでに多くを学んだ。生き物が肉であること。そしてその味が格別うまいこと。一方、その生き物がずっと大きい場合、逆に自分がやられてしまうかも知れないということ。
ライチョウの雛のように小さな生き物であれば喰うにはちょうど良いが、その親ともなれば大きすぎて手に余るので構わない方が良いということ。
しかしながら、一方この仔には小さな野心が頭を擡げていた。それはライチョウの母親ともう一度闘ってみたいというものであったが、すでに鷹がそれを奪い去ってしまった。残るは同じようなライチョウの母親がいないであろうか、ということであった。そこで彼は、それを探しに出かけることにした。

彼は棚のようになった土手を流れの方に向かって降りていった。彼は一度も水を見たことがなかった。しかしそれは、足を入れれば心地がよさそうである。水面は平らであった。彼は大胆にもその中に入っていき、そして沈んで、何か訳の分からぬものに覆い包まれている恐怖に泣き声を上げた。それは冷たく、彼は息を呑み、激しい呼吸を繰り返した。水は慣れ親しんだ空気の代わりに彼の肺になだれ込んでくる。息を止められるという体験は死の痛みそのものであった。彼には、それは死の提示と思われた。死についての明白な知識はなかったけれども、野生の生き物であれば誰もが持つように、彼にも死に対する本能はあったのである。

死は巨大な痛みとして捉えられた。それは未知の精髄そのものであり、未知に対する恐怖の総和であり、彼に起こり得る最高にして思考も及ばぬ大破局であり、全く未知の、彼の最も恐れなければならぬものであった。

彼は水面に浮かび上がり、開いた口から甘い空気を吸うことができた。そして再び沈むことはなかった。それは祖先たちから受け継いだ、彼らの長い経験から確立されたもので、彼はすぐに四肢のすべてを使って泳ぎ始めたのである。近くの岸までは1メートル足らずであったが、彼はそこに背中を向けていたので、目に映るのは反対側の岸で、彼はそこを目指して泳ぎ始めた。川は小さなものであったが、淀んで広くなったところでは幅が6メートルほどもあった。

淀みの中ほどで、流れが灰色の仔を捉え下流へと導いて行った。彼は淀みの下で小さな激流に捕まってしまった。そこではほとんど泳ぐこともできなかった。静かだった水が俄かに激しく怒り出した。ときに彼は沈み、ときに浮かび上がった。しかし常に荒々しく揺すぶられ、ひっくり返されたり廻されたり、また岩にぶつけられたりした。そして、岩に当たるたびに彼は悲鳴を上げた。彼の川下りは悲鳴の連続であり、その悲鳴の数から彼が激突した岩の数を数えることもできたであろう。