変身 あるいは時間と空間についての考察

2009/12/03 13:42


昨夜はすっかり飲みすぎてしまって、日記を書こうとしたのだが、さっぱり頭が回らず、代わりに目の方が回ってしまって、結局書くのをあきらめて寝てしまった。飲んだのは、アーリータイムスというケンタッキー生まれのバーボンだが、家に帰り着いたのもたしかに随分と早い時間だった。何を書こうとしていたかと言うと、時間と空間についてという実に崇高なテーマについてである。道理で目が回ったはずだ。

 わたしはほんの小さな子供の頃から眠るのがとても怖かった。おそらくそれは、この歳になっても・・・というか、この歳になってなおのこと感じるようになった本能的な死への恐怖によるものだったと思われる。誰かが言ったように、「眠りは一瞬の死であり、死は永遠の眠りである」から、たとえ一瞬であったとしても、やはりそれは恐ろしいのだ。

 しかし、いくら寝るのが怖いといっても、決して睡魔には勝てない。まして幼児が死への恐れから睡眠不足になるなんてことはあり得ない。結局は、ぐずぐずとぐずりながらもすやすや眠ってしまうのである。
 そうして、寝て目が覚めて不思議に思うことが二つほどあった。その一が、「あっという間に朝になっていた」ということである。そして、その二が、「空間は歪んでいるのではないか」という世紀の大発見につながったかも知れない驚きである。なにせ寝たときと起きたときとでは身体の向きが180度変っているのである。――今でもこの驚きは、わたしの中にしっかりと温存されていて、人がそれを軽蔑も露に方向音痴と呼ぶことも知っている。

 実はこの二つがわたしを今日のような屁理屈を捏ねる人間にしてしまったのではないかと考えている。三つ子の魂百までというように、幼時における体験はその人の一生をさえ左右するのである。

 本題に入る。わたしたちは3次元の空間に存在し、時間という名の決して逆流しない川の流れに身を委ねている。この川が向うのは遥か先のエントロピー無限大という海である。
 空間を形成する物質はやがて熱死を迎える。量子さえも終には熱に変り、宇宙はのっぺらぼうになってしまうだろう。そうなってしまった先に何かあるかどうかは不可識の領域である。

宇宙開闢より150億年。今、この宇宙は地球というこの星に多くの生命を宿らせた。しかし、いずれその生命を生み育んできた宇宙の法則も変り、生命が存在する余地はまったくなくなってしまうだろう。これから100億年後の宇宙の姿がどのようなものか、わたしには想像もつかない。だが、生命がそこまで存在するだけの生命力をもっているかというと100%無理だろうとは容易に想像がつく。

しかし、もしもこの星に生を得た人類が真に神に選ばれし者であったとしたら・・・、進化の生物学的限界を越え、新たな無機の生命を創造し自らの生物的DNAを無機のDNAとして遥かな未来にまで伝えていく手段を開発したとしたら・・・、その無機生命体は、あるいは宇宙そのものまで、この宇宙の持つ法則さえ変えてしまう可能性さえあるのではないかと、わたしは見果てぬ夢をみるのである。そして、わたしはその夢に神化という名を与える。わたしの勝手な神化論である。

わたしは、冒頭述べたようにいまでも寝るときに恐怖を覚えることがあるが、子供のときのように、目が覚めてみたら時間は一瞬にして100億年過ぎており、グレゴリー・ザムザじゃないが、「わたし」の記憶を持つ無機生命体に変身していた・・・、なんてことはないだろうかなどと愚かしい夢をみるのである。そして、大した信仰心をもたないわたしは、そうした夢をみることによって、ようやく安らぎを得て眠りにつくことができるのである。