Vertigo

2009/12/08 20:28


わたしは小さい頃、風に大きな団栗の木が騒ぐのを見て、はて、あれは風が木を揺らしているのだろうか、それとも木が空気を扇ぐことによって風を起しているのだろうかと思い悩んだことがある。わたしは子供の頃は哲学者だったのだ。
これは、よく言う鶏と卵との関係である。木と風の関係は、大人なら誰が考えても風が原因で木が騒ぐのが結果である。しかし、鶏と卵の場合は? と聞くと、すぐには答えられない大人がコケコッコーといるのだ。

例によって話は飛躍するが、わたしは飛ぶのが好きである。パラグライダーをやっていたころにはなかなか筋が良いと褒められたし、数年前には知人の操縦する単発機で調布から飛んで都心をぐるりと一周遊覧飛行したことがある。いや、実際はその知人の訓練飛行のご相伴に与っただけなのだが。

それはともかく、飛行を終えて、その知人と二人レストランで軽い食事を取りながら、飛行機についての話題で盛り上がった。わたしも昔はパイロットに憧れていた(ただ、わたしの場合は、眼がちょっとと、そして頭の方がかなり悪かったから断念せざるを得なかった)から、飛行機についての知識は多少あった。ベルヌーイの定理やら、アスペクト比やらフェザーリングといった専門的な用語がぽんぽんと弾けるように飛び交う中で、ふとバーティゴという言葉が知人の口をついて出た。わたしは、それが空間認識失調を意味するものであることは知っていた。しかし、それが実際にどのようなものかはよく分らないので、話題は一挙にそこに収斂した。

知人「俺もなったことはないけど、教官の話では上と下が、つまり空と海とがまったく分らなくなってしまうらしい」
わたし「急降下したときなんかにGが0になってしまうせいかなぁ」
知人「Gの影響以外にも視界不良や地形なんかも影響するらしい。とにかく、そういう状態に陥ったら、計器を信用するしかないと教えられた」
わたし「しかし、もしも自分が背面飛行しているという感覚に陥っているときに、そう簡単に自分の感覚を無視して計器を信じることなんかできるかなぁ」
知人「そこがおそらく生死の分かれ目になるんじゃないか」

まぁ、多少の創作もあるが、上がそのバーティゴについての二人の会話である。さて、察しのよい皆さんのこと、わたしが次に何を言おうとしているかだいたい想像がお付になっておられるのではなかろうか。

わたしは、一応地に足がついた生活を送っていながら、実はこのバーティゴのような感覚を覚えることがよくあるのである。第一に、往きと帰りの道をよく間違える。たしか来るときは、ここの五差路をこう斜めに上がっていったから、帰りは逆にこう斜めに下がっていけば・・・、などと考えながら歩いていくと、はっと蜃気楼のような光景が現れる、なんてことがわたしの場合にはちょくちょく起こるのである。しかし、それを人は無遠慮にも方向音痴というから、たぶんその通りバーティゴより格が、いや次元が一つ低い空間認識失調症なのだとわたしも納得するに吝かではない。

もう一つ、これが本題なのだが、わたしを悩ましているバーティゴが存在する。それは、このごろのマスコミの報道と世間の風潮である。
これはいったい、わたしの感覚がおかしくなってしまったせいなのか、それともやはりおかしいのはマスコミの方であり、世間の風潮なのだろうかと真剣に考えこんでしまう。おそらく当会員の中にもわたしに共感を覚えてくださる方がいらっしゃるのではないかと思う。

このマスコミと世間の風潮との関係についてであるが、わたしは冒頭に述べた鶏と卵の関係でいけば、はたしてどちらがどうなのかよく分らなくなってしまう。鶏と卵であれば、何千年、何万年とその先祖を辿っていかずとも鶏の方が先に決まっている。卵が鶏を産むわけがなく鶏が卵を産むのだから。

ところが、マスコミと風潮の関係となると、これはそう簡単にはどちらが鶏でどちらが卵なのか判別ができなくなってしまう。そして、はたと気づくのである。実はそこにこそマスコミの付け入る隙があるのだと。なぜならば、自らが意図してそのような風潮を作っておきながら、いや実は世の中の風潮に合わせて放送をいたしておりますと、卑怯極まりない言い訳が彼らにはできるのである。
腹立たしいことには、これが国民放送といわれるNHKやその他の大多数のマスコミが日常的に行っている手口なのである。

さて、バーティゴに陥ったときには、計器を信用するのが鉄則だそうである。だが、今の世の中に、本当にわたしたちが信用できる確たる計器などあるのだろうか。だれか、わたしに教えていただきたい。