悲劇の誕生

2010/01/08 22:32

アルベール・カミュじゃないけれども、人というものは本当に不条理で悲しい生き物である。
こんなことを言うのも先日書いた乃木将軍の殉死が頭を離れないからである。

乃木将軍は、西南戦争の折に西郷隆盛側に錦の御旗を奪われたことを終生恥と感じていた。この恥辱を雪ぐために切腹を果たそうとしたが児玉源太郎に厳しく諌められ一度は断念した。しかし、それから35年の後、明治大帝大喪の礼砲を合図に夫人とともに殉死を遂げた。遺書とともに見つかったのが軍旗紛失の折に山縣有朋に送った待罪書であった。

乃木将軍は、萩の乱で士族側についた実弟玉木正誼を失っている。また正誼の養父であり松下村塾の塾頭であった玉木文之進吉田松陰の叔父)は、このことへの引責から切腹している。

乃木将軍の時代は、このように殺伐とした血生臭い空気に包まれていた。このような時代を生きた武人たるもの、その死生観にわずかの揺らぎもなかったであろうと思われる。しかし、乃木将軍が武張った人であったかというと、まったくそれとは正反対の子供に優しい温厚な人物であった。

日本人は悲劇が好きである。これほど悲劇の好きな国民も珍しい。この国に於いては、映画も小説もハッピーエンドで終るより悲劇で終った方がより価値あるものとなる。
しかし、この偉大な人物の生涯を悲劇などという陳腐な言葉で表す気にはわたしは到底なれない。かといって他に適切な言葉も見つからない。

ニーチェは、「重荷に押しつぶされる驢馬は悲劇的であるか」と問うた。
たしかに乃木将軍は軍旗を奪われたことの重荷に耐えかねて死を決意したのかも知れない。あるいは、自分に士族側につくよう説得した弟を戦死させてしまった、そのことが重く心に圧し掛かっていたのかも知れぬ。さらには、殺伐とした時代そのものが耐えられぬほどの重荷であったとも考えられる。

一度は児玉の諫言により思い止めた自刃ではあったが、愛する息子を二人とも戦死させ、漸く旅順攻略に成功し明治大帝の大恩に報いることができると、後は死ぬ機会を待つだけのように思われたに違いない。

わたしは乃木将軍の死に底知れぬ恐怖を覚える。人間というものが本質的に持つ悲劇の重さを感ぜずにはいられないのだ。この人の持つ悲劇的な運命の重さに、わたし自身が押しつぶされそうな気にさえなってくるのである。