奔訳 白牙45

2017/05/23 20:20

両親は、自分と少しばかり違っているというだけであったが、しかし、ここに突然、一見して自分と同じ種と分かる生き物が現れた。そして、一目会った瞬間から、彼らが彼を殺そうとばかりに襲いかかってきたことに、彼は隠然とした怒りを覚えたのである。と同時に彼は、如何にそれが優れた人間たちによるものであるとしても、母親が棒によって拘束されていることが我慢できなかった。そのような拘束は、罠を思い起こさせた。尤も、彼には罠についても拘束についても何も分からなかったのだが。

あちこちを嗅いで周り、あるいは走り回り、自分の意思で横になること、これは祖先伝来の彼が受け継いできた自由であった。しかし今、ここではそれが侵害されている。母の行動範囲は棒の長さによって制限され、同時に棒の長さは、母のそばへ近寄らせない彼への規制ともなっているのである。

彼はそれが気に喰わなかった。それに彼は、小さな人間の子供が棒の片方を持って母を後ろに従えて行進し、その後を自分が歩かされて新たな事態の出来に出喰わす羽目になることにも困惑し、また大いに不安を感じた。

彼らは川の流れに沿って谷を下って行ったが、やがて谷が消え川がマッケンジー川に合流すると白牙は遥か先まで展望が開けるのを見た。そこではカヌーが棒の先に高く吊り下げられ、魚を干すために棚が作られ、キャンプが出来上がっている。白牙はそれを畏敬を込めて見ていた。人間たちの超越性については、まったく何かを目にするたびにその思いを強くさせられる。ここに沢山いる牙の鋭い犬たちを支配しているのも彼ら人間の超越性であった。それは、まさに力の息であった。しかし、この小さな狼の仔にとって、それよりも驚異なのは彼らが生きてはいないものに及ぼす力であり、彼らが動かぬものと意思疎通を図り、彼らの世界の上っ面を変えてしまう力であった。

こういったことは彼に感銘をを与え続けた。柱による骨組みが彼の目を捉えたが、それ自体は彼にとって意味をなさなかったが、これらは棒や石を長い距離飛ばすのと同じ生き物がやっていることなのである。しかし、棒による枠組みが出来上がり布や革で覆ってティピィーが完成すると、白い牙は驚嘆した。それは巨大で彼をびっくりさせるに十分だったのである。それらは、まるで巨大な怪物が息を吹き込まれたように、彼の周りのあちこちに出現し始めた。そして彼の視界をすべて遮ってしまうほどになった。彼はそれが恐ろしかった。それらは彼に覆いかぶさるように、不気味に思われたのである。一陣の風が吹くと、それらは皆一斉に揺れ動き、彼は恐ろしさのあまり縮み上がりながらも弱々しい目をそれに向け、もしもそれらが彼に襲いかかってきたら跳んで逃げようと準備万端怠らなかった。

しかし、しばらくするとそんな不安も消し飛んでしまった。彼は女や子供たちが何の障害もなくそれらを出たり入ったりするのを見たし、また犬たちが中に入ろうと試みる姿を何度も目にし、その度に鋭い怒声を浴びせられたり、あるいは石を投げつけられるのを見たからである。

しばらくして、彼はキッチェの元を離れると間近のティピーの壁に向かって用心深く這い進んだ。彼の中で膨らんでいく好奇心のなせる技であった。これこそが学習や生きる術や行動を促がし、経験となっていくのである。ティピーの壁までのほんの数インチは、痛々しいほどに遅くビクビクしながらのものであった。この日の出来事は、彼にそれと知られず、彼のために、驚くべき、想像もつかぬ方法で現実化するよう用意されていたのであった。


遂に彼の鼻先がキャンバスに触れた。彼はじっと待った。何も起きない。次に彼は、人間の臭いが染みた不思議な繊維を嗅いでみた。彼はそれを歯で捉えると、少しばかり引いてみた。何も起こらなかったが、ティピーの隣部分が動いた。彼はさらに激しく引いた。大きな動揺。嬉しくなった。彼はさらに激しく何度もティピー全体が動くまで引いた。すると中から鋭い女の叫び声が上がり、彼はびっくりしてキッチェの元に逃げ戻った。しかしそれからは、彼はティピーの覆いかぶさるような姿にちっとも驚かなくなった。

しばらくして、彼は再び母親の庇護から離れて辺りをうろつきまわりはじめた。彼女をつないだ棒は地面にペグを使ってつながっており、彼女は彼の後を追うことができないのだ。彼よりも少しばかり大きく月数も彼より少しばかり多いと思しき仔犬が偉そうな、好戦的な態度でゆっくりと近づいてきた。この仔犬の名前は、白牙は後になって彼がそう呼ばれているのを聞いて知ったのだが、リップリップだった。彼は仔犬たちの中では歴戦の強者でいじめ屋として通っていた。

リップリップは白牙と同じ系統であり、仔犬であることから危険には見えなかったので、白牙は友好的な気持ちで彼に接しようとした。しかし、突如彼の足つきが強張り、唇が後ろに引かれて歯が剥き出しになったのを見て、白牙も硬直し、同じように唇を引いて応えた。彼らは半円を描いて回りながら、互いに毛を逆立て唸りあった。これは数分lほど続いたが、白牙はこれを遊びの一種と思って面白がり始めた。しかし突然、驚くべき速さで、リップリップが飛び掛かってきたかと思うと、牙の一閃を浴びせ、そのまま後ろへ飛び下がった。その一閃は、大山猫との闘いで骨にまで達した肩の傷に響いた。驚きと痛みから白牙は叫び声を上げたが、次の瞬間、彼は憤激からリップリップに飛び掛かって行き、激しく牙を浴びせようとした。

しかし、リップリップはずっとインディアンキャンプで生活しており、数々の仔犬同士の喧嘩を経験していた。3回、4回、6回、と彼の鋭い小さな牙は、新参者が恥ずかしげもなく泣き声をあげながら母親の庇護の元へ逃げ帰るまで続いた。

これは彼にとって、リップリップとの間で数え切れぬほど繰り返される喧嘩の初回であったが、この二匹は生まれた時からそのように運命付けられていたのであり、いずれどちらかが殺されるまで終わらないものだったのである。

キッチェが白牙の傷を舌を使って慰めるように舐めてやり、彼女の元に引き止めようとした。しかし、好奇心が彼の内で暴れまわり、数分後には、彼はまた新しい冒険を求めて飛び出していった。

彼は途中で一人の人間に遭遇したが、それはグレイビーバーで、彼はしゃがみこんだまま地面にひろげた何本かの木切れと乾燥させた藻に何かをしようとしているところであった。白牙はその傍までやってくると、じっとその様子を見つめた。グレイビーバーは口の中で何かブツブツ言っていたが、白牙は、それが危険のないものと理解しさらに傍まで近寄った。