奔訳 白牙48

2017/12/06 00:19

その点においては、彼らは白牙となんら変わるところはなかった。しかし人間という獣は無謬の、逃れることのできない神なのだ。彼の母、キッチェが名前を呼ばれたその瞬間から彼らに忠誠を示したように、白牙もまた彼らに忠義心を抱き始めていた。彼はまず彼らへの全幅の信頼を示した。彼らが歩けば道を開けた。彼らに名を呼ばれれば歩み寄った。彼らが脅せば身を縮こませ地に伏せた。彼らがどけと命ずれば慌てて飛び退いた。彼らの意志の裏にあるのはその意志を実行するに足る力であり、その力とは痛みであり、それは拳と棍棒によって、あるいは飛翔する石や肉に食い込む鞭の一撃によって達成されるのであった。
彼は、他の犬たちと同じく彼らの所有物であった。彼の一挙手一投足は彼らの命令そのものだったのである。彼の肉体は、彼らに痛めつけられ、踏みつけられても、じっと耐えねばならなかった。こういったことは、直に彼の肉体に染みつき慣れさせられていった。それを受け入れるのは容易いことではなく、生来の反抗心が抗えと叫んでいたが、実際にそうすることはできなかった。そのような試練には嫌悪を抱いたが、それもしばらくすると彼自身も気付かぬうちに嫌いではなくなっていった。それは、自らの運命を他者の手に委ねるということであり、生存権の委譲であった。しかし、それ自体が代償行為であり、独りで生きるよりは他者に頼っていた方が常に安楽なのである。
しかし、このような、身も心も人間という獣の意のままというのは四六時中というわけではなかった。彼には祖先から受け継いできた凶暴さを、そして野生から学んだ経験をすぐに放棄はできなかったのである。彼はときに森の縁までそっと忍び寄っては遙か彼方から自分を呼ぶ何者かの声に耳を傾けた。そして、すぐにまた落ち着きを失った、心の癒されぬ、憂いを帯びた微かな泣き声を上げながらキッチェの傍にまで戻ってくると彼女の顔を熱心に、なぜとでも問いたげに舐めるのであった。

白牙は、キャンプの生活習慣を瞬く間に習得していった。彼は、肉や魚が餌として放り投げられるときに年季の入った犬たちが見せる不公平さや貪欲さを具に見せつけられた。彼は男たちが幾分公平であり、子供たちが残酷であり、女たちが幾分自分たちに優しく肉や骨を投げ与えてくれるということを学習した。それに、子育て中の母犬にうっかり近づきすぎて何度か痛い目に会ったことから、仔を連れた母犬には決して近づかず、彼女たちの方から近づいてきた場合には避けるのが賢いやり方であることを学んだ。

しかし、彼が生きていく上でもっとも厄介なのがリップリップであった。彼よりも大きく、齢も上で、喧嘩も強いリップリップは彼をイジメの対象に選んだのである。白牙も喧嘩は望むところであったが、しかし相手が一枚上であった。敵は強大過ぎた。リップリップは白牙にとって悪夢となった。
彼が母を離れて出かけるとき、いつもチャンスとばかりにイジメを始め、彼の後を追い回しては唸り声で挑発し、苛めようとして機会を伺い、近くに人間がいない時を見計らっては襲い掛かって喧嘩を吹っ掛けた。リップリップはいつも全戦全勝なのだが、それがひどく愉快でたまらないらしいのだ。それが彼の人生一番の楽しみになりつつあり、逆にそれは白牙にとっての人生一番の苦悩になっていった。
しかし、そんなことで白牙は怯まなかった。いつもやられっぱなしで痛い思いをする一方なのだが精神は決して折れなかった。ただ、別の意味で影響が及んでいた。彼は性格が悪く気難しくなっていったのである。生まれつきの残虐さがこのいつ終わるとも知れぬイジメにより一層残虐になっていったのである。温和で悪戯っ気のある仔犬っぽい面が見えなくなってしまった。彼はキャンプの仔犬たちとはしゃぎ合ったり遊んだりしなくなってしまった。リップリップがそれを許さなかったのである。白牙が彼らの近くに現れただけで、リップリップは彼に襲い掛かり、苛め、脅かし、喧嘩を吹っ掛けて彼が逃げ出すまで止めなかった。
このような影響は、白牙から仔犬らしさを奪い去り年齢に相応しからぬ特徴を植え付けた。遊びを通してのエネルギー発散の場を失くし、その反動として彼は精神的に発展していった。彼は狡賢くなっていったのである。彼は空いた時間を戦術に費やした。キャンプの犬たちに大量の餌が与えられると、彼は要領よくそれを盗んだ。