愚かさと神

頭が良くとも愚かな者はいくらでもいる。頭が良い者ほど愚かと言ってもよいほどだ。

それが証拠に宗教にはまる輩だ。輩というのは侮蔑の言葉である。わたしはそれほどに宗教にはまる奴らが嫌いである。しかも奴らは大人しく自分だけはまっていればよいものの、周囲の者まで巻き添えにするのだ。

いいか、宗教中毒の者たちよ。

神は存在する。だがそれは、己自身だけにしか影響を及ぼさない。神の定義は全能である。が、お前などに神が及ぼすのはお前自身の小さな肉体と薄弱な精神でしかない。全能の神は全宇宙を司るが、その広大な宇宙の卑小な、ゴミにも等しいお前に神がその全能を及ぼすなどと考えるから、お前は愚かなのだ。

動物たちを見よ。あるいは草木を見よ。彼らは分を弁えていて、決して愚かな行いをしない。愚かに見えたとしたら、それはお前の目が節穴だからだ。彼らこそ、神の摂理を知る者たちである。己の中の神を知る者たちである。

標榜

ちょっと考えれば分かることだが、平和を標榜するものは争いの種を蒔き、差別撤廃を掲げるものは差別を助長し、ひとの救済を唱えるものはひとを不幸のどん底に落とし込む。

物事は全て反対に考えた方が良い。

なぜ、そうなるのか。

平和はそもそも状態であって、意図して作れるものではない。平和は平和な中で唱えると争いの元になる。唱えるなら、戦時にやれば良い。それがいかに難しいことか、ウクライナの人々に叫んでみれば良い。きっと頭のおかしい人と思われるであろう。あるいはロシア人にでも語りかけてみれば良い。一発、死ぬほどのパンチを喰らうかも知れない。

自分たちが差別されていると主張するものたちは、自分達が差別する側のものであることに気がついているのだろうか?

差別をされた、と言って抗議をするのは実に弱い立場のものたちへである。そして、真に弱いものたちへの力には決してならない。自分たちだけが特別だと考えているからである。そこにしか神経が通っていないからだ。

そして、ひとを信仰の力で救済しようというものたちに言いたい。

これまでどれだけ多くの人々が信仰によって酷い目に遭ってきたか。

宗教によって戦争が起き、宗教によって差別も生まれ、宗教によって家庭が崩壊し、宗教によって政治は乱された。

宗教はひとを地獄に落とすためのものである。あるいは、最もセルフィッシュで、自分さえ救われれば良いと考える人たちの自己満足を満たすためだけの、最も簡便で効率の良い課金ソフトである。

何度でも言う。ひとを救うのは宗教などではない。

自分自身を救うのは自分自身のうちにある神のみである。その神とは自分自身の親から、そしてさらにはその親からと、連綿と伝えられてきたこの宇宙と同じ歴史をもつものなのである。

わたしは信ずる。その神だけは

 

 

恋と洗脳

前にも書いた通り、宗教は麻薬である。この点は、共産主義者は正しかった。マルクスは宗教の本質を見抜いていた。

ただし、麻薬とは言ってもサブスタンシャルなものではない。おそらく、物質には違いないが、外部から与えられるものではなく、いわゆる脳内麻薬というやつで、既にこの辺りのことは脳学者たちによって研究し尽くされているのではないだろうか。オキシトシンとかエンドルフィンとかいったものが思い浮かぶ。

わたしが思うのは、この点において、宗教は実に質が悪い、ということである。

例えば、誰かがアヘンを持っていて、これを自分の彼女に使えば犯罪である。自分の虜にするためにそのようなことをする輩も少なくはないであろう。

オウム(真理教などとは呼びたくもない)にしろ、この度の統一教会にしろ、どのような方法で信者を洗脳するのか、多分、それは秘中の秘的な技術を用いるのであろうが、脳の機能が比較的優秀なものたちが罹りやすいように思える。

というよりも、そのような、脳が優れたものたちは、一般的には財産もあるであろうし、ターゲットにされやすいということもあるであろう。

つまりは、宗教という名の法律で守られた権利を自由自在に如意棒のように使って人をたぶらかせているのが全ての宗教の共通項であり、その突出したものがオウムであり統一教会であったということなのだ。

タイトルを恋と洗脳としたのは、生き物というのは、植物も含めて皆、ある種の化学物質により、生存のための二大本能を制御していると思われるからである。

人間が恋と呼ぶものも、元をただせば結局は生存本能に基づいたホルモンの成せるワザであり、つまるところ宗教の洗脳と何ら変わらない。

宗教は、自身の生存のために、洗脳という名のホルモンを使わざるを得ないのだ。

 

無常 通常 異常

無常というのは仏教的な言葉である。

物事は常に変わりゆく。

だから、無常というのは通常のことである。

もしも、何も変わらないということがあれば、それは異常と言って良い。

 

この宇宙。一秒前の宇宙とはまったく違う。いや、一秒などというのは物理的に永遠ほど長い。1フェムト秒前の宇宙と今の宇宙はまったく違っている。

宇宙が変わってしまっているのに、わたしたちの身の回りが、いや自分自身でさえ変わっていないはずがない。

わたしも、わたしの周りもなにもかもが変わりいくことが宿命づけられている。

このことを人は皆知っていた。現代に生きるわたしたちも知っている。

そのことを無常と呼んで、人の命の短さを儚んだ。

無常とは人の命の短さをいう。

そして、無常は、あまりにありふれた通常のことなのである。

今後、科学、医学の発展によって、ヒトの寿命は飛躍的に延びるかも知れぬ。

しかし、今を生きるわたしたちや、わたしたちの先達が儚んだ無常が無くなるわけではない。

人が無常を感じることがなくなる日が来るとすれば、それはやはり異常と呼ぶべきであろう。

 

バカタレどもについて

安倍さんが亡くなった。

たったひとりのバカタレによって、と先日、と言ってももう10日以上前に書いた。が、バカタレは一人ではなかった。

彼の母親もバカタレであった。そのバカタレの母親に多額の寄付をさせた旧統一教会もバカタレどもの集まりに違いない。

そもそも宗教などというのは弱者を食い物にする詐欺のような集団である。

ラプチャー(Rapture)という映画を見てみればよい。この映画は、救いがないと分かっていても遂には藁にも縋る思いで教会に逃げる男が描かれている。

男を追い詰めたのは超常的存在であり漠然としていて最後の最後にも姿を現さない。だからこそ、こいつの正体が外部にではなく、人間という存在がその内部に持つ本質的な恐怖であるということがよく分かる。

なぜ人間か?

それは、我々が禁断の知恵の実を食ってしまった唯一の生き物だからである。

動物たちをみよ。我らよりはるかに幼い知能しか持たない彼らは宗教などに頼ることなく果敢にこの残酷な世を生きているではないか。

宗教に縋るなかれ。宗教に救いはない。足元を掬われるだけである。彼らが救おうとするのは金のある者たちだけである。ホームレスを救おうとする宗教。孤児や母子家庭を助けようとする宗教。そんなものがあるとすれば、それはもはや宗教ではなく、慈善事業である。

宗教とは、本来心の救済をするものであり、それはもう心療内科医の手に渡っている。

つまり、もはや宗教などの居場所は現代社会にはないのである。

宗教の時代は終わっている。我々ははっきりとそれを認識すべきなのだ。宗教は人を惑わし不幸にする。自分の神を信ずるのは良い。だが宗教にははまってはいけない。宗教は麻薬であり依存症患者を量産する。

人は我が不幸を友にすべきなのだ。苦しい時にこそ人は輝くのではないか。たまたまの幸運と平和にどっぷりとはまってのほほんと人生を送っている者たちよりも不幸のどん底で、もがき苦しみながらも、それでもそれが我が人生と覚悟を決めて生きていく者の方がどれだけ高貴であることか。

 

仏教と動物

ときどきYouTubeで仏教ものを見たりする、のだが、そんなときに思うのは、仏教の説いていることというのは、これはもう人間の本質であって、人間の本質というのは結局生き物としての本質である、という極めて当たり前のことである。

たとえば、わたしは犬を飼っていたからよく分かるのだが、犬というのはいつまでも恨みつらみを長引かせたりはしない。その時のことはその時のことで、すぐに忘れてしまうということである。そして、それが結局自身の幸福につながるということである。

わたしたち人間というのは、所詮猿の脳が少し発展しただけの動物に過ぎないのに、神に最も近い存在だなどととんでもない勘違いをしているわけで、これほど自惚れの強い生き物は他に例を見ない。

仏教というのは、わたしはよく知りもしないのだが、それでも結局は人間の、というよりも生き物全般にわたって真理を説いているのだな、と思っている。

仏教には物理法則を思わせるようなものもあるが、それは当たり前のことで、わたしたちの肉体も精神も全てこの世の物理法則を支えに成り立っているからである。

仏教とは、わたしたちに今一度原始の姿に帰れと教えてくれているのである。

文明の厚い着物に包まれたわたしたちに、犬や猫を見習いなさいと言っているのである。