標榜

ちょっと考えれば分かることだが、平和を標榜するものは争いの種を蒔き、差別撤廃を掲げるものは差別を助長し、ひとの救済を唱えるものはひとを不幸のどん底に落とし込む。

物事は全て反対に考えた方が良い。

なぜ、そうなるのか。

平和はそもそも状態であって、意図して作れるものではない。平和は平和な中で唱えると争いの元になる。唱えるなら、戦時にやれば良い。それがいかに難しいことか、ウクライナの人々に叫んでみれば良い。きっと頭のおかしい人と思われるであろう。あるいはロシア人にでも語りかけてみれば良い。一発、死ぬほどのパンチを喰らうかも知れない。

自分たちが差別されていると主張するものたちは、自分達が差別する側のものであることに気がついているのだろうか?

差別をされた、と言って抗議をするのは実に弱い立場のものたちへである。そして、真に弱いものたちへの力には決してならない。自分たちだけが特別だと考えているからである。そこにしか神経が通っていないからだ。

そして、ひとを信仰の力で救済しようというものたちに言いたい。

これまでどれだけ多くの人々が信仰によって酷い目に遭ってきたか。

宗教によって戦争が起き、宗教によって差別も生まれ、宗教によって家庭が崩壊し、宗教によって政治は乱された。

宗教はひとを地獄に落とすためのものである。あるいは、最もセルフィッシュで、自分さえ救われれば良いと考える人たちの自己満足を満たすためだけの、最も簡便で効率の良い課金ソフトである。

何度でも言う。ひとを救うのは宗教などではない。

自分自身を救うのは自分自身のうちにある神のみである。その神とは自分自身の親から、そしてさらにはその親からと、連綿と伝えられてきたこの宇宙と同じ歴史をもつものなのである。

わたしは信ずる。その神だけは